萩柚月朗読 銭形平次捕り物控 「迷子札」五 六 七 八 野村胡堂

萩柚月朗読 銭形平次捕り物控 「迷子札5,6 」野村胡堂

萩柚月朗読銭形平次捕り物「控迷子札7.8」野村胡堂

「御免下さいまし」
「誰ぢや」
御徒町の吉田一學、御徒士頭おかちがしらで一千石をむ大身ですが、平次はその御勝手口へ、遠慮もなく入つて行つたのです。
「御用人樣に御目に掛りたう御座いますが」
「お前は何だ」
「左官の伊之助の弟――え、その、平次と申す者で」
「もう遲いぞ、明日出直して參れ」
お勝手に居る爺父おやぢは、恐ろしく威猛高ゐたけだけです。
「さう仰しやらずに、ちよいとお取次を願ひます。御用人樣は、屹度御逢ひ下さいます」
「いやな奴だな、此處を何と心得る」
「へエ、吉田樣のお勝手口で」
どうもこの押し問答は平次の勝です。
やがて通されたのは、内玄關の突當りの小部屋。
「私は用人の後閑武兵衞こがぶへゑぢやが――平次といふのはお前か」
六十年配の穩やかな仁體です。
「へエ、私は左官の伊之助の弟で御座いますが、兄の遺言ゆゐごんで、今晩お伺ひいたしました」
「遺言?」
老用人は一寸眼を見張りました。
「兄の伊之助が心掛けて果し兼ねましたが、一つ見て頂きたいものが御座います。――なアに、つまらない迷子札で、へエ」
平次がさう言ひ乍ら、懷から取出したのは、眞鍮しんちうの迷子札が一枚、後閑こが武兵衞の手の屆きさうもないところへ置いて、上眼使ひに、そつと見上げるのでした。
色の淺黒い、苦み走つた男振りも、わざと狹く着た單衣ひとへもすつかり板に付いて、名優の強請場ゆすりばに見るやうな、一種拔き差しのならぬ凄味さへ加はります。
「それを何うしようと言ふのだ」
「へ、へ、へ、この迷子札に書いてある、甲寅きのえとら四月生れの乙松といふ伜を引渡して頂きたいんで、たゞそれ丈けの事で御座いますよ、御用人樣」
「――」
「何んなもんで御座いませう」
「暫らく待つてくれ」
こまぬいた腕をほどくと、後閑武兵衞、深沈たる顏をして奧に引込みました。
待つこと暫時ざんじ
何處から槍が來るか、何處から鐵砲が來るか、それは全く不安極まる四半刻でしたが、平次は小判形の迷子札と睨めつこをしたまゝ、大した用心をするでもなくひかへて居ります。
「大層待たせたな」
二度目に出て來た時の用人は、何となくニコニコして居りました。
「どういたしまして、どうせ夜が明けるか、斬られて死骸だけ歸るか――それ位の覺悟はいたして參りました」
と平次。
「大層いさぎよい事だが、左樣な心配はあるまい――ところで、その迷子札ぢや。私の一存で、此場で買ひ取らうと思ふ、どうぢや、これ位では」
出したのは、二十五兩包の小判が四つ。
「――」
「不足かな」
「――」
「これつ切り忘れてくれるなら、此倍出してもよいが」
武兵衞は此取引の成功をうたがつても居ない樣子です。
「御用人樣、私は金が欲しくて參つたのぢや御座いません」
「何だと」
平次の言葉の豫想外よさうぐわいさ。
「百兩二百兩はおろか、千兩箱を積んでもこの迷子札は賣りやしません――乙松といふ伜を頂戴して、兄伊之助の後を立てさへすれば、それでよいので」
「それは言ひ掛りと言ふものだらう、平次とやら」
「――」
「私に免じて、我慢をしてくれぬか、この通り」
後閑武兵衞は疊へ手を落すのでした。
「それぢや、一日考へさして下さいまし。めひのお北とも相談をして、明日の晩又參りませう」
平次は目的が達した樣子でした。迷子札を懷へ入れると、丁寧にいとまを告げて、用心深く屋敷の外へ出ました。

青空文庫より

2016年10月29日

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