朗読カフェSTUDIO、岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻吉川英治黄巾賊三
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ゆるやかに、江を下ってくる船の影は、舂く陽を負って黒く、徐々と眼の前に近づいてきた。ふつうの客船や貨船とちがい、洛陽船はひと目でわかる。無数の紅い龍舌旗を帆ばしらにひるがえし、船楼は五彩に塗ってあった。
「おうーい」
劉備は手を振った。
しかし船は一個の彼に見向きもしなかった。
おもむろに舵を曲げ、スルスルと帆をおろしながら、黄河の流れにまかせて、そこからずっと下流の岸へ着いた。
百戸ばかりの水村がある。
今日、洛陽船を待っていたのは、劉備ひとりではない。岸にはがやがやと沢山な人影がかたまっていた。驢をひいた仲買人の群れだの、鶏車と呼ぶ手押し車に、土地の糸や綿を積んだ百姓だの、獣の肉や果物を籠に入れて待つ物売りだの――すでにそこには、洛陽船を迎えて、市が立とうとしていた。
なにしろ、黄河の上流、洛陽の都には今、後漢の第十二代の帝王、霊帝の居城があるし、珍しい物産や、文化の粋は、ほとんどそこでつくられ、そこから全支那へ行きわたるのである。
幾月かに一度ずつ、文明の製品を積んだ洛陽船が、この地方へも下江してきた。そして沿岸の小都市、村、部落など、市の立つところに船を寄せて、交易した。
朗読カフェSTUDIO、岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻吉川英治 黄巾賊四
四
「持っております」
彼は、懐中の革嚢を取出し、銀や砂金を取りまぜて、相手の両掌へ、惜しげもなくそれを皆あけた。
「ほ……」
洛陽の商人は、掌の上の目量を計りながら、
「あるねえ。しかし、銀があらかたじゃないか。これでは、よい茶はいくらも上げられないが」
「何ほどでも」
「そんなに欲しいのかい」
「母が眼を細めて、よろこぶ顔が見たいので――」
「お前さん、商売は?」
「蓆や簾を作っています」
「じゃあ、失礼だが、これだけの銀をためるにはたいへんだろ」
「二年かかりました。自分の食べたい物も、着たい物も、節約して」
「そう聞くと、断われないな。けれどとても、これだけの銀と替えたんじゃ引合わない。なにかほかにないかね」
「これも添えます」
劉備は、剣の緒にさげている琅の珠を解いて出した。洛陽の商人は琅などは珍しくない顔つきをして見ていたが、
「よろしい。おまえさんの孝心に免じて、茶と交易してやろう」
と、やがて船室の中から、錫の小さい壺を一つ持ってきて、劉備に与えた。
黄河は暗くなりかけていた。西南方に、妖猫の眼みたいな大きな星がまたたいていた。その星の光をよく見ていると虹色の暈がぼっとさしていた。
――世の中がいよいよ乱れる凶兆だ。
と、近頃しきりと、世間の者が怖がっている星である。
「ありがとうございました」
劉備青年は、錫の小壺を、両掌に持って、やがて岸を離れてゆく船の影を拝んでいた。もう瞼に、母のよろこぶ顔がちらちらする。
しかし、ここから故郷の県楼桑村までは、百里の余もあった。幾夜の泊りを重ねなければ帰れないのである。
「今夜は寝て――」と、考えた。
彼方を見ると、水村の灯が二つ三つまたたいている。彼は村の木賃へ眠った。
2015年12月26日
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