2016年12月
-
萩柚月朗読「夜長姫と耳男」その1坂口安吾
萩柚月朗読「夜長姫と耳男」その2坂口安吾
夜長姫と耳男 坂口安吾 その3朗読萩柚月
坂口安吾「夜長姫と耳男」4萩柚月朗読
坂口安吾「夜長姫と耳男5」朗読萩柚月
坂口安吾「夜長姫と耳男」六萩柚月朗読
夜長姫と耳男
坂口安吾
オレの親方はヒダ随一の名人とうたわれたタクミであったが、夜長の長者に招かれたのは、老病で死期の近づいた時だった。親方は身代りにオレをスイセンして、
「これはまだ二十の若者だが、小さいガキのころからオレの膝元に育ち、特に仕込んだわけでもないが、オレが工夫の骨法は大過なく会得している奴です。五十年仕込んでも、ダメの奴はダメのものさ。青笠や古釜にくらべると巧者ではないかも知れぬが、力のこもった仕事をしますよ。宮を造ればツギ手や仕口にオレも気附かぬ工夫を編みだしたこともあるし、仏像を刻めば、これが小僧の作かと訝かしく思われるほど深いイノチを現します。オレが病気のために余儀なく此奴を代理に差出すわけではなくて、青笠や古釜と技を競って劣るまいとオレが見込んで差出すものと心得て下さるように」
きいていてオレが呆れてただ目をまるくせずにいられなかったほどの過分の言葉であった。
オレはそれまで親方にほめられたことは一度もなかった。もっとも、誰をほめたこともない親方ではあったが、それにしても、この突然のホメ言葉はオレをまったく驚愕させた。当のオレがそれほどだから、多くの古い弟子たちが親方はモウロクして途方もないことを口走ってしまったものだと云いふらしたのは、あながち嫉みのせいだけではなかったのである。
夜長の長者の使者アナマロも兄弟子たちの言い分に理があるようだと考えた。そこでオレをひそかに別室へよんで、
「お前の師匠はモウロクしてあんなことを云ったが、まさかお前は長者の招きに進んで応じるほど向う見ずではあるまいな」
こう云われると、オレはムラムラと腹が立った。その時まで親方の言葉を疑ったり、自分の腕に不安を感じていたのが一時に掻き消えて、顔に血がこみあげた。
「オレの腕じゃア不足なほど、夜長の長者は尊い人ですかい。はばかりながら、オレの刻んだ仏像が不足だという寺は天下に一ツもない筈だ」
オレは目もくらみ耳もふさがり、叫びたてるわが姿をトキをつくるのようだと思ったほどだ。アナマロは苦笑した。
「相弟子どもと鎮守のホコラを造るのとはワケがちがうぞ。お前が腕くらべをするのは、お前の師と並んでヒダの三名人とうたわれている青ガサとフル釜だぞ」
「青ガサもフル釜も、親方すらも怖ろしいと思うものか。オレが一心不乱にやれば、オレのイノチがオレの造る寺や仏像に宿るだけだ」
アナマロはあわれんで溜息をもらすような面持であったが、どう思い直してか、オレを親方の代りに長者の邸へ連れていった。
「キサマは仕合せ者だな。キサマの造った品物がオメガネにかなう筈はないが、日本中の男という男がまだ見ぬ恋に胸をこがしている夜長姫サマの御身ちかくで暮すことができるのだからさ。せいぜい仕事を長びかせて、一時も長く逗留の工夫をめぐらすがよい。どうせかなわぬ仕事の工夫はいらぬことだ」
道々、アナマロはこんなことを云ってオレをイラだたせた。
「どうせかなわぬオレを連れて行くことはありますまい」
「そこが虫のカゲンだな。キサマは運のいい奴だ」
オレは旅の途中でアナマロに別れて幾度か立ち帰ろうと思った。しかし、青ガサやフル釜と技を競う名誉がオレを誘惑した。彼らを怖れて逃げたと思われるのが心外であった。オレは自分に云いきかせた。 -
二宮隆朗読「手品師」豊島与志雄
手品師
豊島与志雄
一
昔ペルシャの国に、ハムーチャという手品師がいました。妻も子もない一人者で、村や町をめぐり歩いて、広場に毛布を敷き、その上でいろんな手品を使い、いくらかのお金をもらって、その日その日を暮らしていました。赤と白とのだんだらの服をつけ三角の帽子をかぶって、十二本のナイフを両手で使い分けたり、逆立ちして両足で金の毬を手玉に取ったり、鼻の上に長い棒を立ててその上で皿廻しをしたり、飛び上がりながらくるくるととんぼ返りをしたり、その他いろいろなおもしろい芸をしましたので、あたりに立ち並んでる見物人から、たくさんのお金が毛布の上に投げられました。けれどもハムーチャは、そのお金で酒ばかり飲んでいましたので、いつもひどく貧乏でした。「ああああ、いつになったら、お金がたまることだろう」と嘆息しながらも、ありったけのお金を酒の代にしてしまいました。雨が降って手品が出来ないと、水ばかり飲んでいました。そしてだんだん世の中がつまらなくなりました。
ある日の夕方、ハムーチャは長い街道を歩き疲れて、ぼんやり道ばたに屈み込みました。すると、遠くから来たらしい一人の旅人が通りかかりました。旅人はハムーチャのようすをじろじろ見ていましたが、ふいに立ち止まってたずねました。
「お前さんは奇妙な服装をしているが、一体何をする人かね」
「私ですか」とハムーチャは答えました。「私は手品師ですよ」
「ほほう、どんな手品を使うか一つ見せてもらいたいものだね」
そこでハムーチャは、いくらかの金をもらって、早速得意な手品を使ってみせました。
「なるほど」と旅人は言いました、「お前さんはなかなか器用だ。だが私は、お前さんよりもっと不思議な手品を使う人の話を聞いたことがある。世界にただ一人きりという世にも不思議な手品師だ」
「へえー、どんな手品師ですか」
そこで旅人は、その人のことを話してきかせました。――それは手品師というよりもむしろ立派な坊さんで、善の火の神オルムーズドに仕えてるマージでした。長い間の修行をして、ついに火の神オルムーズドから、どんな物でも煙にしてしまう術を授かりました。何でも北の方の山奥に住んでいて、そこへ行くには、闇の森や火の砂漠や、いろんな怪物が住んでる洞穴など、恐ろしいところを通らなければならないそうです。そのマージの不思議な術を見ようと思って、幾人もの人が出かけましたが、一人として向こうに行きついた者はないそうです。
「本当ですか」とハムーチャはたずねました。
「本当だとも、私は確かな人から聞いたのだ」と旅人は言いました。
「だがお前さんには、とてもそのマージの所まで行けやしない。それよりか、自分の手品の術をせいぜいみがきなさるがよい」
そして旅人は行ってしまいました。
ハムーチャは後に一人残って、じっと考え込みました。――こんな手品なんか使っていたって 一生[#「使っていたって 一生」はママ]つまらなく終わるだけのものだ。それよりはいっそ、その不思議なマージをたずねていってみよう。途中で死んだってかまうものか。もし運よく向こうへ行けて どんな物でも[#「行けて どんな物でも」はママ]煙にしてしまうという術を授かったら、それこそ素敵だ。世間の者はどんなにびっくりすることだろう。
ハムーチャは命がけの決心をしました。マージをたずねて北へ北へとやって行きました。途中でも村や町で手品を使って、もらったお金を旅費にして、酒もあまり飲まないことにいたしました。 -
岡田慎平朗読「白昼夢」江戸川乱歩
あれは、白昼の悪夢であったか、それとも現実の出来事であったか。
晩春の生暖い風が、オドロオドロと、火照った頬に感ぜられる、蒸し暑い日の午後であった。
用事があって通ったのか、散歩のみちすがらであったのか、それさえぼんやりとして思い出せぬけれど、私は、ある場末の、見る限り何処までも何処までも、真直に続いている、広い埃っぽい大通りを歩いていた。
洗いざらした単衣物の様に白茶けた商家が、黙って軒を並べていた。三尺のショーウインドウに、埃でだんだら染めにした小学生の運動シャツが下っていたり、碁盤の様に仕切った薄っぺらな木箱の中に、赤や黄や白や茶色などの、砂の様な種物を入れたのが、店一杯に並んでいたり、狭い薄暗い家中が、天井からどこから、自転車のフレームやタイヤで充満していたり、そして、それらの殺風景な家々の間に挟まって、細い格子戸の奥にすすけた御神燈の下った二階家が、そんなに両方から押しつけちゃ厭だわという恰好をして、ボロンボロンと猥褻な三味線の音を洩していたりした。
「アップク、チキリキ、アッパッパア……アッパッパア……」
お下げを埃でお化粧した女の子達が、道の真中に輪を作って歌っていた。アッパッパアアアア……という涙ぐましい旋律が、霞んだ春の空へのんびりと蒸発して行った。
男の子等は繩飛びをして遊んでいた。長い繩の弦が、ねばり強く地を叩いては、空に上った。田舎縞の前をはだけた一人の子が、ピョイピョイと飛んでいた。その光景は、高速度撮影機を使った活動写真の様に、如何にも悠長に見えた。
時々、重い荷馬車がゴロゴロと道路や、家々を震動させて私を追い越した。
ふと私は、行手に当って何かが起っているのを知った。十四五人の大人や子供が、道ばたに不規則な半円を描いて立止っていた。
それらの人々の顔には、皆一種の笑いが浮んでいた。喜劇を見ている人の笑いが浮んでいた。ある者は大口を開いてゲラゲラ笑っていた。
好奇心が、私をそこへ近付かせた。
近付に従って、大勢の笑顔と際立った対照を示している一つの真面目くさった顔を発見した。その青ざめた顔は、口をとがらせて、何事か熱心に弁じ立てていた。香具師の口上にしては余りに熱心過ぎた。宗教家の辻説法にしては見物の態度が不謹慎だった。一体、これは何事が始まっているのだ。
私は知らず知らず半円の群集に混って、聴聞者の一人となっていた。
演説者は、青っぽいくすんだ色のセルに、黄色の角帯をキチンと締めた、風采のよい、見た所相当教養もありそうな四十男であった。鬘の様に綺麗に光らせた頭髪の下に、中高の薤形の青ざめた顔、細い眼、立派な口髭で隈どった真赤な脣、その脣が不作法につばきを飛ばしてバクバク動いているのだ。汗をかいた高い鼻、そして、着物の裾からは、砂埃にまみれた跣足の足が覗いていた。 -
福山美奈子朗読小川未明「赤い魚と子供」
川の中に、魚がすんでいました。
春になると、いろいろの花が川のほとりに咲きました。木が、枝を川の上に拡げていましたから、こずえに咲いた、真紅な花や、またうす紅の花は、その美しい姿を水の面に映したのであります。
なんのたのしみもない、この川の魚たちは、どんなに上を向いて、水の面に映った花をながめてうれしがったでありましょう。
「なんというきれいな花でしょう。水の上の世界にはあんなに美しいものがたくさんあるのだ。こんどの世には、どうかして私たちは水の上の世界に生まれ変わってきたいものです。」と、魚たちは話し合っていました。
なかにも、魚の子供らは躍り上がって、とどきもしない花に向かって、飛びつこうと騒いだのです。
「お母さん、あのきれいな花がほしいのです。」といいました。
すると、魚の母親は、その子供をいましめて、いいますのには、
「あれは、ただ遠くからながめているものです。けっして、あの花が水の上に落ちてきたとて食べてはなりません。」と教えました。
子供らは、母親のいうことが、なぜだか信じられなかった。
「なぜ、お母さん、あの花びらが落ちてきたら、食べてはなりませんのですか。」と聞きました。
母親は、思案顔をして、子供らを見守りながら、
「昔から、花を食べてはいけないといわれています。あれを食べると、体に変わりができるということです。食べるなというものは、なんでも食べないほうがいいのです。」といいました。
「あんなにきれいな花を、なぜ食べてはいけないのだろう。」と、一ぴきの子供の魚は、頭をかしげました。
「あの花が、この水の上に、みんな落ちてきたら、どんなにきれいだろう。」と、ほかの一ぴきは目を輝かしながらいいました。
そして、子供らは、毎日、水の面を見上げて、花の散る日をたのしみにして待っていました。ひとり、母親だけは、子供らが自分のいましめをきかないのを心配していました。
「どうか、花を私の知らぬまに食べてくれぬといいけれど。」と、独り言をしていました。
木々の咲いた花には、朝から、晩になるまで、ちょうや、はちがきてにぎやかでありましたが、日がたつにつれて、花は開ききってしまいました。そして、ある日のこと、ひとしきり風が吹いたときに、花はこぼれるように水の面にちりかかったのであります。
「ああ、花が降ってきた。」と、川の中の魚は、みんな大騒ぎをしました。
「まあ、なんというりっぱさでしょう。しかし、子供らが、うっかりこの花をのまなければいいが。」と、大きな魚は心配していました。
花は、水の上に浮かんで、流れ流れてゆきました。しかし、後から、後から、花がこぼれて落ちてきました。
「どんなに、おいしかろう。」といって、三びきの魚の子供は、ついに、その花びらをのんでしまいました。
その子供らの母親は、その翌日、我が子の姿を見て、さめざめと泣いたのです。
「あれほど、花びらをたべてはいけないといったのに。」といいました。
黒い子供の体は、いつのまにか、二ひきは、赤い色に、一ぴきは白と赤の斑色になっていたからです。
母親の歎いたのも、無理はありませんでした。この三びきの子供が、川中でいちばん目立って美しく見えたからであります。そして、川の水は、よく澄んでいましたから、上からでものぞけば、この三びきの子供らが遊んでいる姿がよくわかったのであります。
「人間が、おまえらを見つけたら、きっと捕らえるから、けっして水の上へ浮いてはならないぞ。」と、母親は、その子供らをいましめました。
町からは、こんどは、人間の子供たちが毎日川へ遊びにやってきました。
町の子供たちの中で、川にすむ、赤い魚を見つけたものがあります。
「この川の中に、金魚がいるよ。」と、その魚を見た子供がいいました。
「なんで、この川の中に金魚なんかがいるもんか、きっとひごいだろう。」と、ほかの子供がいいました。
「ひごいなんか、なんでこの川中にいるもんか。それはお化けだよ。」と、ほかの子供がいいました。
けれど、子供たちは、どうかして、その赤い魚を捕らえたいばかりに、毎日川のほとりへやってきました。
町では、子供たちの母親が心配いたしました。
「どうして、そう毎日川へばかりゆくのだえ。」と、子供たちをしかりました。
「だって、赤い魚がいるんですもの。」と、子供は答えました。
「ああ、昔から、あの川には赤い魚がいるんですよ。しかし、それを捕らえるとよくないことがあるというから、けっして、川などへいってはいけません。」と、母親はいいました。
子供たちは、母親がいったことをほんとうにしませんでした。どうかして、赤い魚を捕まえたいものだと、毎日、川のふちへきてはうろついていました。
ある日のこと、子供たちは、とうとう赤い魚を三びきとも捕まえてしまいました。そして、家へ持って帰りました。
「お母さん、赤い魚を捕まえてきましたよ。」と、子供たちはいいました。
お母さんは、子供たちの捕まえてきた赤い魚を見ました。
「おお、小さいかわいらしい魚だね! どんなにか、この魚の母親が、いまごろ悲しんでいるでしょう。」と、お母さんはいいました。
「お母さん、この魚にもお母さんがあるのですか?」と、子供たちはききました。
「ありますよ。そして、いまごろ、子供がいなくなったといって心配しているでしょう。」と、お母さんは答えました。
子供たちは、その話をきくとかわいそうになりました。
「この魚を逃がしてやろうか。」と、一人がいいました。
「ああもう、だれも捕まえないように大きな河へ逃がしてやろう。」と、もう一人がいいました。子供たちは、三びきのきれいな魚を町はずれの大きな河へ逃がしてやりました、その後で子供たちは、はじめて気がついていいました。
「あの三びきの赤い魚は、はたして、魚のお母さんにあえるのだろうか?」
しかし、それはだれにもわからなかったのです。子供たちはその後、気にかかるので、いつか三びきの赤い魚を捕まえた川にいってみましたけれど、ついにふたたび赤い魚の姿を見ませんでした。
夏の夕暮れ方、西の空の、ちょうど町のとがった塔の上に、その赤い魚のような雲が、しばしば浮かぶことがありました。子供たちは、それを見ると、なんとなく悲しく思ったのです。 -
海渡みなみ朗読「星あかり」泉鏡花
星あかり
泉鏡花
もとより何故といふ理はないので、墓石の倒れたのを引摺寄せて、二ツばかり重ねて臺にした。
其の上に乘つて、雨戸の引合せの上の方を、ガタ/\動かして見たが、開きさうにもない。雨戸の中は、相州西鎌倉亂橋の妙長寺といふ、法華宗の寺の、本堂に隣つた八疊の、横に長い置床の附いた座敷で、向つて左手に、葛籠、革鞄などを置いた際に、山科といふ醫學生が、四六の借蚊帳を釣つて寢て居るのである。
聲を懸けて、戸を敲いて、開けておくれと言へば、何の造作はないのだけれども、止せ、と留めるのを肯かないで、墓原を夜中に徘徊するのは好心持のものだと、二ツ三ツ言爭つて出た、いまのさき、内で心張棒を構へたのは、自分を閉出したのだと思ふから、我慢にも恃むまい。……
冷い石塔に手を載せたり、濕臭い塔婆を掴んだり、花筒の腐水に星の映るのを覗いたり、漫歩をして居たが、藪が近く、蚊が酷いから、座敷の蚊帳が懷しくなつて、内へ入らうと思つたので、戸を開けようとすると閉出されたことに氣がついた。
それから墓石に乘つて推して見たが、原より然うすれば開くであらうといふ望があつたのではなく、唯居るよりもと、徒らに試みたばかりなのであつた。
何にもならないで、ばたりと力なく墓石から下りて、腕を拱き、差俯向いて、ぢつとして立つて居ると、しつきりなしに蚊が集る。毒蟲が苦しいから、もつと樹立の少い、廣々とした、うるさくない處をと、寺の境内に氣がついたから、歩き出して、卵塔場の開戸から出て、本堂の前に行つた。
然まで大きくもない寺で、和尚と婆さんと二人で住む。門まで僅か三四間、左手は祠の前を一坪ばかり花壇にして、松葉牡丹、鬼百合、夏菊など雜植の繁つた中に、向日葵の花は高く蓮の葉の如く押被さつて、何時の間にか星は隱れた。鼠色の空はどんよりとして、流るゝ雲も何にもない。なか/\氣が晴々しないから、一層海端へ行つて見ようと思つて、さて、ぶら/\。
門の左側に、井戸が一個。飮水ではないので、極めて鹽ツ辛いが、底は淺い、屈んでざぶ/″\、さるぼうで汲み得らるゝ。石疊で穿下した合目には、此のあたりに産する何とかいふ蟹、甲良が黄色で、足の赤い、小さなのが數限なく群つて動いて居る。毎朝此の水で顏を洗ふ、一杯頭から浴びようとしたけれども、あんな蟹は、夜中に何をするか分らぬと思つてやめた。
門を出ると、右左、二畝ばかり慰みに植ゑた青田があつて、向う正面の畦中に、琴彈松といふのがある。一昨日の晩宵の口に、其の松のうらおもてに、ちら/\灯が見えたのを、海濱の別莊で花火を焚くのだといひ、否、狐火だともいつた。其の時は濡れたやうな眞黒な暗夜だつたから、其の灯で松の葉もすら/\と透通るやうに青く見えたが、今は、恰も曇つた一面の銀泥に描いた墨繪のやうだと、熟と見ながら、敷石を蹈んだが、カラリ/\と日和下駄の音の冴えるのが耳に入つて、フと立留つた。
門外の道は、弓形に一條、ほの/″\と白く、比企ヶ谷の山から由井ヶ濱の磯際まで、斜に鵲の橋を渡したやう也。 -
田中智之朗読「黒猫」薄田泣菫
黒猫
薄田泣菫
「奥さん、謝れなら謝りまんが、それぢやお宅の飼猫だすかいな、これ」
荷車曳きの爺さんは、薄ぎたない手拭で、額の汗を拭き拭き、かう言つて、前に立つた婦人の顔を敵意のある眼で見返しました。二人の間には、荷車の轍に轢き倒された真つ黒な小猫が、雑巾のやうに平べつたくなつて横たはつてゐました。
六月のむしむしする日の午後でした。私は大阪のある場末の、小学校裏の寂しい裏町を通りかかつて、ふとこんな光景を見つけました。
「いいえ、宅の猫ぢやありません。うちの猫だつたら、こんなとこに独り歩きなぞさせるもんですか。可哀さうに」
婦人のそばかすだらけの顔は、憎しみでいくらか曲つてゐるやうに見えました。小さな鼻の上には、脂汗が粒々になつて溜つてゐました。間違ヘやうもない、新聞の婦人欄でよく見覚えのある関西婦人――協会の幹事で、こちらの婦人界では顔利きの一人でした。婦人――協会といふのは、鮨万の板場から聞いた東京鮨の拵へ方と、京都大学教授から受売りのアインシユタインの相対性原理の講釈とを、一緒くたにして取り扱ふことのできる所謂有識婦人の集まりでした。
「へえ、お宅の飼猫やないもんを、なんでまたわてがあんさんに謝らんなりまへんのだすか」
爺さんは、小猫が婦人のものでなかつたのを聞くと、急に気強くなつて、反抗的に唇を尖らせました。
「私にあやまれと誰が言ひました」
婦人は強ひて気を落ちつけようとして、袂から手巾を取り出して鼻先の汗を拭きました。
「そんなら誰にあやまるんだす。あやまる相手がないやおまへんか」
爺さんは口論に言ひ勝つたもののやうに、白い歯を見せてせせら笑ひをしました。通りかかつた近所の悪戯つ児が三、四人立ち停つて、二人の顔を見較べてゐました。
「いや、あります」婦人はきつぱりと言ひました。「この小猫にあやまらなくちやなりません」
「猫に」爺さんは思はず声を立てて眼を円くしました。「猫にあやまれなんて、阿呆らしいこと言ひなんな。わてかう見えても人間だつせ」
このとき、死にかかつた小猫は痙攣るやうに後脚をびくびく顫はせて、真つ黒な頭を持ち上げようとしましたが、雑文ばかり流行つて、一向秀れた創作が出ないと言ふ批評家の言葉が耳に入つたものか、それとも小猫にあやまらさうとする婦人の言葉を洩れ聞いて、もしかそんなことにでもなつたなら、一番挨拶に困るのは自分だと思ふにつけて、急に世の中が厭になつたかして、そのままぐつたりとなつて息が絶えてしまひました。
そんなことに頓着のない二人は、哀れな小猫の死骸の上で元気よく喧嘩を続けました。婦人は言ひました -
萩柚朗読銭形平次捕り物控「花見の仇討」野村胡堂一 二
萩柚月朗読 野村胡堂「銭形平次捕り物控」花見の仇討ち三四
萩柚月朗読 銭形平次捕り物控花見の仇討五六野村胡堂
萩柚月朗読 野村胡堂 銭形平次捕り物控,花見の仇討ち七、八「親分」
ガラツ八の八五郎は息せき切つて居りました。續く――大變――といふ言葉も、容易には唇に上りません。
「何だ、八」
飛鳥山の花見歸り、谷中へ拔けようとする道で、錢形平次は後から呼止められたのです。飛鳥山の花見の行樂に、埃と酒にすつかり醉つて、これから夕陽を浴びて家路を急がうといふ時、跡片付けで少し後れたガラツ八が、毛氈を肩に引つ擔いだまゝ、泳ぐやうに飛んで來たのでした。
「親分、――引つ返して下さい。山で敵討がありましたよ」
「何?」
「巡禮姿の若い男が、虚無僧に斬られて、山はえくり返るやうな騷ぎで」
「よし、行つて見よう」
平次は少しばかりの荷物を町内の人達に預けると、獲物を見付けた獵犬のやうに、飛鳥山へ取つて返します。
柔かな夕風につれて、何處からともなく飛んで來る櫻の花片、北の空は紫にたそがれて、妙に感傷をそゝる夕です。
二人が山へ引つ返した時は、全く文字通りの大混亂でした。異常な沈默の裡に、掛り合ひを恐れて逃げ散るもの、好奇心に引ずられて現場を覗くもの、右往左往する人波が、不氣味な動きを、際限もなく續けて居るのです。
「退いた/\」
ガラツ八の聲につれて、人波はサツと割れました。その中には早くも驅け付けた見廻り同心が、配下の手先に指圖をして、斬られた巡禮の死骸を調べて居ります。
「お、平次ぢやないか。丁度宜い、手傳つてくれ」
「樫谷樣、――敵討ださうぢやございませんか」
平次は同心樫谷三七郎の側に差寄つて、踏み荒した櫻の根方に、紅に染んで崩折れた巡禮姿を見やりました。
「それが不思議なんだ、――敵討と言つたところで、花見茶番の敵討だ。竹光を拔き合せたところへ、筋書通り留め女が入つて、用意の酒肴を開かうと言ふ手順だつたといふが、敵の虚無僧になつた男が、巡禮の方を眞刀で斬り殺してしまつたのだよ」
「へエ――」
平次は同心の説明を聽き乍らも、巡禮の死體を丁寧に調べて見ました。笠ははね飛ばされて、月代の青い地頭が出て居りますが、白粉を塗つて、引眉毛、眼張りまで入れ、手甲、脚絆から、笈摺まで、芝居の巡禮をそのまゝ、此上もない念入りの扮裝です。
右手に持つたのは、銀紙貼りの竹光、それは斜つかひに切られて、肩先に薄傷を負はされた上、左の胸のあたりを、したゝかに刺され、蘇芳を浴びたやうになつて、こと切れて居るのでした。
「身元は? 旦那」
平次は樫谷三七郎を見上げました。
「直ぐ解つたよ、馬道の絲屋、出雲屋の若主人宗次郎だ」
「へエ――」
「茶番の仲間が、宗次郎が斬られると直ぐ驅け付けた。これがさうだ」
樫谷三七郎が顎で指すと、少し離れて、虚無僧が一人、留め女が一人、薄寒さうに立つて居るのでした。
そのうちの虚無僧は、巡禮姿の宗次郎を斬つた疑ひを被つたのでせう。特に一人の手先が引き添つて、スワと言はゞ、繩も打ち兼ねまじき氣色を見せて居ります。
次第に銀鼠色に暮れ行く空、散りかけた櫻は妙に白茶けて、興も春色も褪めると見たのも暫し、間もなく山中に灯が入つて、大きな月が靄の中に芝居の拵へ物のやうに昇りました。
陰慘な、そのくせ妙に陽氣な、言ひやうもない不思議な花の山です。
「旦那、少し訊いて見たいと思ひますが――」
平次は樫谷三七郎を顧みました。
「何なりと訊くが宜い」
「では」
平次は茶番の仲間を一とわたり眺めやります。 -
二宮隆朗読「日記帳」江戸川乱歩
ちょうど初七日の夜のことでした。私は死んだ弟の書斎に入って、何かと彼の書き残したものなどを取出しては、ひとり物思いにふけっていました。
まだ、さして夜もふけていないのに、家中は涙にしめって、しんと鎮まり返っています。そこへ持って来て、何だか新派のお芝居めいていますけれど、遠くの方からは、物売りの呼声などが、さも悲しげな調子で響いて来るのです。私は長い間忘れていた、幼い、しみじみした気持になって、ふと、そこにあった弟の日記帳を繰ひろげて見ました。
この日記帳を見るにつけても、私は、恐らく恋も知らないでこの世を去った、はたちの弟をあわれに思わないではいられません。
内気者で、友達も少かった弟は、自然書斎に引こもっている時間が多いのでした。細いペンでこくめいに書かれた日記帳からだけでも、そうした彼の性質は十分うかがうことが出来ます。そこには、人生に対する疑いだとか、信仰に関する煩悶だとか、彼の年頃にはたれでもが経験するところの、いわゆる青春の悩みについて、幼稚ではありますけれど如何にも真摯な文章が書きつづってあるのです。
私は自分自身の過去の姿を眺めるような心持で、一枚一枚とペイジをはぐって行きました。それらのペイジには到るところに、そこに書かれた文章の奥から、あの弟の鳩のような臆病らしい目が、じっと私の方を見つめているのです。
そうして、三月九日のところまで読んで行った時に、感慨に沈んでいた私が、思わず軽い叫声を発した程も、私の目をひいたものがありました。それは、純潔なその日記の文章の中に、始めてポッツリと、はなやかな女の名前が現われたのです。そして「発信欄」と印刷した場所に「北川雪枝(葉書)」と書かれた、その雪枝さんは、私もよく知っている、私達とは遠縁に当る家の、若い美しい娘だったのです。 -
二宮隆朗読「詩と官能」寺田寅彦
詩と官能
寺田寅彦
一
清楚な感じのする食堂で窓から降りそそぐ正午の空の光を浴びながらひとり静かに食事をして最後にサーヴされたコーヒーに砂糖をそっと入れ、さじでゆるやかにかき交ぜておいて一口だけすする。それから上着の右のかくしから一本煙草を出して軽くくわえる。それからチョッキのかくしからライターをぬき出して顔の正面の「明視の距離」に持って来ておいてパチリと火ぶたを切る。すると小さな炎が明るい部屋の陽光にけおされて鈍く透明にともる。その薄明の中に、きわめて細かい星くずのような点々が燦爛として青白く輝く、輝いたかと思った瞬間にはもう消えてしまっている。
この星のような光を見る瞬間に突然不思議な幻覚に襲われることがしばしばある。それはちょっと言葉で表わすことのむつかしい夢のようなものであるが、たとえば、深く降り積もった雪の中に一本大きなクリスマス・トリーが立っていてそれに、無数の蝋燭がともり、それが樅の枝々につるしたいろいろの飾りものに映ってきらめいている。紫紺色に寒々とさえた空には星がいっぱいに銀砂子のように散らばっている。町の音楽隊がセレナーデを奏して通るのを高い窓からグレーチヘンが見おろしている、といったようなきわめて甘いたわいのない子供らしい夢の中からあらゆる具体的な表象を全部抜き去ったときに残るであろうと思われるような、全く形態のない幻想のようなものである。
天気が悪かったり、食堂がきたなかったり、騒がしかったり、また食事がまずいような場合には、同じライターの同じ炎の中に同じような星が輝いても決してこうした幻覚が起こらないから不思議である。
胃の腑の適当な充血と消化液の分泌、それから眼底網膜に映ずる適当な光像の刺激の系列、そんなものの複合作用から生じた一種特別な刺激が大脳に伝わって、そこでこうした特殊の幻覚を起こすのではないかと想像される。「胃の腑」と「詩」との間にはまだだれも知らないような複雑微妙の多様な関係がかくされているのではないかと思われる。 -
萩柚月朗読坂口安吾「行雲流水」
行雲流水
坂口安吾
「和尚さん。大変でございます」
と云って飛びこんできたのは、お寺の向いの漬物屋のオカミサンであった。
「何が大変だ」
「ウチの吾吉の野郎が女に惚れやがったんですよ。その女というのが、お寺の裏のお尻をヒッパタかれたあのパンスケじゃありませんか。情けないことになりやがったもんですよ。私もね、吾吉の野郎のお尻をヒッパタいてくれようかと思いましたけどネ。マア、和尚さんにたのんで、あの野郎に説教していただこうと、こう思いましてネ」
「あの女なら、悪いことはなかろう。キリョウはいゝし、色ッぽいな。すこし頭が足りないようだが、その方が面白くて、アキがこないものだ」
「よして下さいよ。私ゃ、パンスケはキライですよ。いくらなんでも」
「クラシが立たなくては仕方がない。パンスケ、遊女と云って区別をすることはないものだ。吾吉にはそれぐらいで、ちょうど、よいな」
「ウチの宿六とおんなじようなことを言わないで下さいよ。男ッて、どうして、こうなんだろうね。女は身持ちがキレイでなくちゃアいけませんやね。ウチノ宿六の野郎もパンスケだっていゝじゃないか、クラシが立たなくちゃアほかに仕方があるめえ、なんて、アン畜生め、いゝ年してパンスケ買いたいに違いないんだから。覚えていやがれ。和尚さんも、大方、そうでしょうネ。まったく、呆れて物が言えないよ」
「だから拙僧に頼んでもムダだ。私だったら二人を一緒にしてしまうから、そう思いなさい。罪なんだ」
「なにが罪ですか。いゝ加減にしやがれ。オタンコナスめ。けれども、ねえ。お頼みしますよ。吾吉の野郎をよこしますから、本堂かなんかへ引きすえて、仏様の前でコンコンと説教して下さいな」
こういうワケで、和尚は吾吉と話をすることになったのである。
「お前、裏の女の子と交ったかな」
「ハ。すみません」
「夫婦約束をしたのだな」
「イエ。それがどうも、女がイヤだと申しまして、私は気違いになりそうでございます。私があの女にツギこんだお金だけが、もう三十万からになっておりますんで。いッそ、あのアマを叩き斬って、死んでくれようか、と」
「コレコレ、物騒なことを言うもんじゃないよ。ハハア。してみると、お前さん、女を金で買ってみたワケだな」
「そうでござんす。お尻をヒッパタかれたパンスケだと申しますから、あんなに可愛らしくッて、ウブらしいのに、金さえ出しゃ物になる女だな、とこう思いまして、取引してみたら、案の定でさア。けれども知ってみると冷めたくって、情があって、こう、とりのぼせまして、エッヘ。どうも、すみません。頭のシンにからみこんで、寝た間も忘れられたもんじゃ、ないんです。よろしく一つ、御賢察願いまして、仏力をもちまして、おとりもちを願い上げます」
「バカにしちゃア口上がうまいじゃないか。冷めたくって、情があってか。なるほど。ひとつ、仏力によって、とりもって進ぜよう」
ノンキな和尚であった。彼はドブロクづくりと将棋に熱中して、お経を四半分ぐらいに縮めてしまうので名が通っていたが、町内の世話係りで、親切だから、ウケがよかった。
お寺の裏のお尻をヒッパタかれたパンスケというのは、大工の娘で、ソノ子と云った。終戦後父親が肺病でねついてしまって、ソノ子は事務員になって稼いだが、女手一つで、病父や弟妹が養えるものではない。いつとはなく、パンスケをやるようになった。外でやるぶんには、よかったが、時々、家へ男をひきこんでやる。
とうとう病父がたまりかねて、ソノ子をとらえて、押し倒して、お尻をまくりあげて、ピシピシなぐった。なぐりつゝ、吐血し、力絶えて、即死してしまった。ソノ子はオヤジを悶死させた次第であった。