2016年8月

  • 岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻吉川英治

    どういう悪日とわるい方位をたどってきたものだろうか。
    黄河のほとりから、ここまでの間というものは、劉備は、幾たび死線を彷徨ほうこうしたことか知れない。これでもかこれでもかと、彼を試さんとする百難が、次々に形を変えて待ちかまえているようだった。
    「もうこれまで」
    劉備もついに観念した。避けようもない賊の包囲だ。斬りじにせんものと覚悟をきめた。
    けれど身には寸鉄も帯びていない。少年時代から片時もはなさず持っていた父の遺物かたみの剣も、先に賊将の馬元義にられてしまった。
    劉備は、しかし、
    「ただは死なぬ」と思い、石ころをつかむが早いか、近づく者の顔へ投げつけた。
    見くびっていた賊の一名は、不意を喰らって、
    「あッ」と、鼻ばしらをおさえた。
    劉備は、飛びついて、その槍を奪った。そして大音に、
    「四民を悩ます害虫ども、もはやゆるしはおかぬ。※(「さんずい+(冢-冖)」、第3水準1-86-80)たくけん劉備玄徳りゅうびげんとくが腕のほどを見よや」
    といって、捨身になった。
    賊の小方、李朱氾りしゅはんは笑って、
    「この百姓めが」と半月槍をふるってきた。
    もとより劉備はさして武術の達人ではない。田舎の楼桑村ろうそうそんで、多少の武技の稽古はしたこともあるが、それとて程の知れたものだ。武技を磨いて身を立てることよりも、むしろを織って母を養うことのほうが常に彼の急務であった。
    でも、必死になって、七人の賊を相手に、ややしばらくは、一命をささえていたが、そのうちに、槍を打落され、よろめいて倒れたところを、李朱氾に馬のりに組み敷かれて、李の大剣は、ついに、彼の胸いたに突きつけられた。

     

    張飛卒ちょうひそつ

    白馬は疎林そりんの細道を西北へ向ってまっしぐらに駆けて行った。秋風に舞う木の葉は、鞍上の劉備りゅうび芙蓉ふようの影を、征箭そやのようにかすめた。
    やがてひろい野に出た。
    野に出ても、二人の身をなお、うなりがかすめた。今度のは木の葉のそれではなく、鋭いやじりをもった鉄弓の矢であった。
    「オ。あれへ行くぞ」
    「女をのせて――」
    「では違うのか」
    「いや、やはり劉備だ」
    「どっちでもいい。逃がすな。女も逃がすな」
    賊兵の声々であった。
    疎林の陰を出たとたんに、黄巾賊の一隊は早くも見つけてしまったのである。
    獣群の声が、ときをつくって、白馬の影を追いつめて来た。
    劉備は、振り向いて、
    「しまった!」
    思わずつぶやいたので、彼と白馬の脚とを唯一の頼みにしがみついていた芙蓉は、
    「ああ、もう……」
    消え入るようにおののいた。
    万が一つも、助からぬものとは観念しながらも、劉備は励まして、
    「大丈夫、大丈夫。ただ、振り落されないように、駒のたてがみと、私の帯に、必死でつかまっておいでなさい」と、いって、むち打った。
    芙蓉はもう返事もしない。ぐったりと鬣に顔をうつ伏せている。その容貌かんばせの白さはおののく白芙蓉びゃくふようの花そのままだった。

     

    劉備りゅうびが、眼をくばると、
    「いや、動かぬがよい。しばらくは、かえってここに、じっとしていたほうが……」
    と、老僧が彼の袖をとらえ、そんな危急の中になお、語りつづけた。
    県の城長の娘は、名を芙蓉ふようといい姓はこうということ。また、今夜近くの河畔にきて宿陣している県軍は、きっと先に四散した城長の家臣が、残兵を集めて、黄巾賊へ報復を計っているに違いないということ。
    だから、芙蓉の身を、そこまで届けてくれさえすれば、後は以前の家来たちが守護してくれる――白馬の背へ二人してのって、抜け道から一気に逃げのびて行くように――と、いのるようにいうのだった。

     

     足の先で、短剣を寄せた。そしてようやく、それを手にして、自身の縄目を断ち切ると、劉備は、窓の下に立った。

    (早く。早く)といわんばかりに、無言の縄は外から意志を伝えて、ゆれうごいている。
    劉備は、それにつかまった。石壁に足をかけて、窓から外を見た。
    「……オオ」
    外にたたずんでいたのは、昼間、ただひとりで※(「碌のつくり」、第3水準1-84-27)きょくろくに腰かけていたあの老僧だ。骨と皮ばかりのような彼の細い影であった。
    「――今だよ」
    その手がさしまねく。
    劉備はすぐ地上へ跳びおりた。待っていた老僧は、彼の身を抱えるようにして、物もいわず馳けだした。
    寺の裏に、疎林そりんがあった。樹の間の細道さえ、銀河の秋はほの明るい。
    「老僧、老僧。いったいどっちへ逃げるんですか」
    「まだ、逃げるのじゃない」
    「では、どうするんです」
    「あのとうまで行ってもらうのじゃよ」
    走りながら、老僧は指さした。
    見るとなるほど、疎林の奥に、疎林のこずえよりも、高くそびえている古い塔がある。老僧は、あわただしく古塔のをひらいて中へ隠れた。そしてあんなに急いだのに、なかなか出てこなかった。
    「どうしたのだろう?」
    劉備は気を揉んでいる。そして賊兵が追ってきはしまいかと、あちこち見まわしているとやがて、
    「青年、青年」
    小声で呼びながら、塔の中から老僧は何かひきながら出てきた。
    「おや?」
    劉備は眼をみはった。老僧が引っぱっているのは駒の手綱だった。銀毛のように美しい白馬がひかれだしたのである。

     

    劉備はいましめられて、斎堂さいどうの丸柱にくくりつけられた。
    そこは床に瓦を敷き詰め、太い丸柱と、小さい窓しかない石室だった。
    「やい劉。貴様は、おれの眼をかすめて、逃げようとしたそうだな。察するところ、てめえは官の密偵だろう。いいや違えねえ。きっと県軍のまわし者だ。――今夜、十里ほど先まで、県軍がきて野陣を張っているそうだから、それへ連絡を取るために、け出そうとしたのだろう」
    馬元義と李朱氾は、かわるがわるに来て、彼を拷問ごうもんした。
    「――道理で、貴様の面がまえは、凡者ただものでないはずだ。県軍のまわし者でなければ、洛陽の直属の隠密か。いずれにしても、官人だろうてめえは。――さ、泥を吐け。いわねば、痛い思いをするだけだぞ」
    しまいには、馬と李と、二人がかりで、劉を蹴ってののしった。
    劉は一口も物をいわなかった。こうなったからには、天命にまかせようと観念しているふうだった。
    「こりゃひと筋縄では口をあかんぞ」
    李は、持てあまし気味に、へ向ってこう提議した。

    青空文庫より