2015年11月


  • 全編通し

    その3

    その2

    その1
    朗読カフェSTUDIO 萩柚月 朗読、岡本綺堂「指輪一つ」
    指輪一つ

    岡本綺堂

        一

    「あのときは実に驚きました。もちろん、僕ばかりではない、誰だって驚いたに相違ありませんけれど、僕などはその中でもいっそう強いショックを受けた一人で、一時はまったくぼうとしてしまいました。」と、K君は言った。座中では最も年の若い私立大学生で、大正十二年の震災当時は飛騨ひだの高山たかやまにいたというのである。

     あの年の夏は友人ふたりと三人づれで京都へ遊びに行って、それから大津のあたりにぶらぶらしていて、八月の二十日はつか過ぎに東京へ帰ることになったのです。それから真っ直ぐに帰ってくればよかったのですが、僕は大津にいるあいだに飛騨へ行った人の話を聞かされて、なんだか一種の仙境のような飛騨というところへ一度は踏み込んでみたいような気になって、帰りの途中でそのことを言い出したのですが、ふたりの友人は同意しない。自分ひとりで出かけて行くのも何だか寂しいようにも思われたので、僕も一旦は躊躇したのですが、やっぱり行ってみたいという料簡りょうけんが勝を占めたので、とうとう岐阜で道連れに別れて、一騎駈けて飛騨の高山まで踏み込みました。その道中にも多少のお話がありますが、そんなことを言っていると長くなりますから、途中の話はいっさい抜きにして、手っ取り早く本題に入ることにしましょう。
     僕が震災の報知を初めて聞いたのは、高山に着いてからちょうど一週間目だとおぼえています。僕の宿屋に泊まっていた客は、ほかに四組ありまして、どれも関東方面の人ではないのですが、それでも東京の大震災だというと、みな顔の色を変えておどろきました。町じゅうも引っくり返るような騒ぎです。飛騨の高山――ここらは東京とそれほど密接の関係もなさそうに思っていましたが、実地を踏んでみるとなかなかそうでない。ここらからも関東方面に出ている人がたくさんあるそうで、甲の家からは息子が出ている、乙の家からは娘が嫁に行っている。やれ、叔父がいる、叔母がいる、兄弟がいるというようなわけで、役場へ聞き合せに行く。警察へ駈け付ける。新聞社の前にあつまる。その周章と混乱はまったく予想以上でした。おそらく何処の土地でもそうであったでしょう。
     なにぶんにも交通不便の土地ですから、詳細のことが早く判らないので、町の青年団は岐阜まで出張して、刻々に新しい報告をもたらしてくる。こうして五、六日を過ぎるうちにまず大体の事情も判りました。それを待ちかねて町から続々上京する者がある。僕もどうしようかと考えたのですが、御承知の通り僕の郷里は中国で今度の震災にはほとんど無関係です。東京に親戚が二軒ありますが、いずれも山の手の郊外に住んでいるので、さしたる被害もないようです。してみると、何もそう急ぐにも及ばない。その上に自分はひどく疲労している。なにしろ震災の報知をきいて以来六日ばかりのあいだはほとんど一睡もしない、食い物も旨くない。東京の大部分が一朝にして灰燼に帰したかと思うと、ただむやみに神経が興奮して、まったく居ても立ってもいられないので、町の人たちと一緒になって毎日そこらを駈け廻っていた。その疲労が一度に打って出たとみえて、急にがっかりしてしまったのです。大体の模様もわかって、まず少しはおちついた訳ですけれども、夜はやっぱり眠られない。食慾も進まない。要するに一種の神経衰弱にかかったらしいのです。ついては、この矢さきに早々帰京して、震災直後の惨状を目撃するのは、いよいよ神経を傷つけるおそれがあるので、もう少しここに踏みとどまって、世間もやや静まり、自分の気も静まった頃に帰京する方が無事であろうと思ったので、無理におちついて九月のなかば頃まで飛騨の秋風に吹かれていたのでした。
    青空文庫より


  • 青空文庫名作文学の朗読 朗読カフェSTUDIO 二宮隆朗読 森鴎外「牛鍋」
    牛鍋

    森鴎外

     鍋なべはぐつぐつ煮える。
     牛肉の紅くれないは男のすばしこい箸はしで反かえされる。白くなった方が上になる。
     斜に薄く切られた、ざくと云う名の葱ねぎは、白い処が段々に黄いろくなって、褐色の汁の中へ沈む。
     箸のすばしこい男は、三十前後であろう。晴着らしい印半纏しるしばんてんを着ている。傍そばに折鞄おりかばんが置いてある。
     酒を飲んでは肉を反す。肉を反しては酒を飲む。
     酒を注いで遣やる女がある。
     男と同年位であろう。黒繻子くろじゅすの半衿はんえりの掛かった、縞しまの綿入に、余所行よそゆきの前掛をしている。
     女の目は断えず男の顔に注がれている。永遠に渇しているような目である。
     目の渇かわきは口の渇を忘れさせる。女は酒を飲まないのである。
     箸のすばしこい男は、二三度反した肉の一切れを口に入れた。
     丈夫な白い歯で旨うまそうに噬かんだ。
     永遠に渇している目は動く※(「月+咢」、第3水準1-90-51)あごに注がれている。
     しかしこの※(「月+咢」、第3水準1-90-51)に注がれているのは、この二つの目ばかりではない。目が今二つある。
     今二つの目の主ぬしは七つか八つ位の娘である。無理に上げたようなお煙草たばこぼん盆に、小さい花簪はなかんざしを挿している。
     白い手拭てぬぐいを畳んで膝ひざの上に置いて、割箸を割って、手に持って待っているのである。
     男が肉を三切きれ四切食った頃に、娘が箸を持った手を伸べて、一切れの肉を挟もうとした。男に遠慮がないのではない。そんならと云って男を憚はばかるとも見えない。
    「待ちねえ。そりゃあまだ煮えていねえ。」
     娘はおとなしく箸を持った手を引っ込めて、待っている。
     永遠に渇している目には、娘の箸の空むなしく進んで空しく退いたのを見る程の余裕がない。
     暫しばらくすると、男の箸は一切れの肉を自分の口に運んだ。それはさっき娘の箸の挟もうとした肉であった。
     娘の目はまた男の顔に注がれた。その目の中には怨も怒もない。ただ驚がある。
     永遠に渇している目には、四本の箸の悲しい競争を見る程の余裕がなかった。
     女は最初自分の箸を割って、盃洗はいせんの中の猪口ちょくを挟んで男に遣った。箸はそのまま膳の縁に寄せ掛けてある。永遠に渇している目には、またこの箸を顧みる程の余裕がない。
     娘は驚きの目をいつまで男の顔に注いでいても、食べろとは云って貰もらわれない。もう好い頃だと思って箸を出すと、その度毎に「そりゃあ煮えていねえ」を繰り返される。
     驚の目には怨も怒もない。しかし卵から出たばかりの雛ひなに穀物を啄ついばませ、胎を離れたばかりの赤ん坊を何にでも吸い附かせる生活の本能は、驚の目の主ぬしにも動く。娘は箸を鍋から引かなくなった。
     男のすばしこい箸が肉の一切れを口に運ぶ隙すきに、娘の箸は突然手近い肉の一切れを挟んで口に入れた。もうどの肉も好く煮えているのである。
     少し煮え過ぎている位である。
     男は鋭く切れた二皮目で、死んだ友達の一人娘の顔をちょいと見た。叱しかりはしないのである。
     ただこれからは男のすばしこい箸が一層すばしこくなる。代りの生なまを鍋に運ぶ。運んでは反す。反しては食う。
     しかし娘も黙って箸を動かす。驚の目は、ある目的に向って動く活動の目になって、それが暫らくも鍋を離れない。
    青空文庫より

  • 朗読カフェの二宮隆さんが、志エッセイ朗読コンテスト(国民文化祭)民話朗読部門で、グランプリ、文部科学大臣賞を受賞しました。
    寺田寅彦のエッセイや宮沢賢治の朗読で、おなじみの二宮さんですが、民話部門での優勝、おめでとうございます!
    志エッセイ朗読コンテスト

    朗読 受賞の模様


  • 青空文庫名作文学の朗読
    朗読カフェSTUDIO
    海渡みなみ朗読、
    芥川龍之介「たね子の憂鬱」
    たね子の憂鬱
    芥川龍之介
    たね子はおっとの先輩に当るある実業家の令嬢の結婚披露式ひろうしきの通知を貰った時、ちょうど勤め先へ出かかった夫にこう熱心に話しかけた。
    「あたしも出なければ悪いでしょうか?」
    「それは悪いさ。」
    夫はタイを結びながら、鏡の中のたね子に返事をした。もっともそれは箪笥たんすの上に立てた鏡に映っていた関係上、たね子よりもむしろたね子のまゆに返事をした――のに近いものだった。
    「だって帝国ホテルでやるんでしょう?」
    「帝国ホテル――か?」
    「あら、御存知ごぞんじなかったの?」
    「うん、……おい、チョッキ!」
    たね子は急いでチョッキをとり上げ、もう一度この披露式の話をし出した。
    「帝国ホテルじゃ洋食でしょう?」
    「当り前なことを言っている。」
    「それだからあたしは困ってしまう。」
    「なぜ?」
    「なぜって……あたしは洋食の食べかたを一度も教わったことはないんですもの。」
    「誰でも教わったり何かするものか!……」
    夫は上着うわぎをひっかけるが早いか、無造作むぞうさに春の中折帽なかおれぼうをかぶった。それからちょっと箪笥たんすの上の披露式の通知に目を通し「何だ、四月の十六日じゅうろくんちじゃないか?」と言った。
    「そりゃ十六日だって十七日じゅうしちんちだって……」
    「だからさ、まだ三日みっかもある。そのうちに稽古けいこをしろと言うんだ。」
    「じゃあなた、あしたの日曜にでもきっとどこかへつれて行って下さる!」
    しかし夫はなんとも言わずにさっさと会社へ出て行ってしまった。たね子は夫を見送りながら、ちょっと憂鬱ゆううつにならずにはいられなかった。それは彼女の体の具合ぐあいも手伝っていたことは確かだった。子供のない彼女はひとりになると、長火鉢の前の新聞をとり上げ、何かそう云う記事はないかと一々欄外へも目を通した。が、「今日きょう献立こんだて」はあっても、洋食の食べかたなどと云うものはなかった。洋食の食べかたなどと云うものは?――彼女はふと女学校の教科書にそんなことも書いてあったように感じ、早速用箪笥ようだんす抽斗ひきだしから古い家政読本かせいどくほんを二冊出した。それ等の本はいつのにか手ずれのあとさえすすけていた。のみならずまた争われない過去のにおいを放っていた。たね子は細い膝の上にそれ等の本を開いたまま、どう云う小説を読む時よりも一生懸命に目次を辿たどって行った。
    青空文庫より