岡田慎平
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吉川英治「三国志」 義盟 朗読岡田慎平
41.80
Nov 01, 2017一
桃園へ行ってみると、関羽と張飛のふたりは、近所の男を雇ってきて、園内の中央に、もう祭壇を作っていた。
壇の四方には、笹竹を建て、清縄をめぐらして金紙銀箋の華をつらね、土製の白馬を贄にして天を祭り、烏牛を屠ったことにして、地神を祠った。
「やあ、おはよう」
劉備が声をかけると、
「おお、お目ざめか」
張飛、関羽は、振向いた。
「見事に祭壇ができましたなあ。寝る間はなかったでしょう」
「いや、張飛が、興奮して、寝てから話しかけるので、ちっとも眠る間はありませんでしたよ」
と、関羽は笑った。
張飛は劉備のそばへきて、
「祭壇だけは立派にできたが、酒はあるだろうか」
心配して訊ねた。
「いや、母が何とかしてくれるそうです。今日は、一生一度の祝いだといっていますから」
「そうか、それで安心した。しかし劉兄、いいおっ母さんだな。ゆうべからそばで見ていても、羨しくてならない」
「そうです。自分で自分の母を褒めるのもへんですが、子に優しく世に強い母です」
「気品がある、どこか」
「失礼だが、劉兄には、まだ夫人はないようだな」
「ありません」
「はやくひとり娶らないと、母上がなんでもやっている様子だが、あのお年で、お気の毒ではないか」
「…………」
劉備は、そんなことを訊かれたので、またふと、忘れていた鴻芙蓉の佳麗なすがたを思い出してしまった。
で、つい答えを忘れて、何となく眼をあげると、眼の前へ、白桃の花びらが、霏々と情あるもののように散ってきた。
「劉備や。皆さんも、もうお支度はよろしいのですか」
厨に見えなかった母が、いつの間にか、三名の後ろにきて告げた。
三名が、いつでもと答えると、母はまた、いそいそと厨房のほうへ去った。
近隣の人手を借りてきたのであろう。きのう張飛の姿を見て、きゃっと魂消て逃げた娘も、その娘の恋人の隣家の息子も、ほかの家族も、大勢して手伝いにきた。
やがて、まず一人では持てないような酒瓶が祭壇の莚へ運ばれてきた。
それから豚の仔を丸ごと油で煮たのや、山羊の吸物の鍋や、干菜を牛酪で煮つけた物だの、年数のかかった漬物だの――運ばれてくるごとに、三名は、その豪華な珍味の鉢や大皿に眼を奪われた。
劉備さえ、心のうちで、
「これは一体、どうしたことだろう」と、母の算段を心配していた。
そのうちにまた、村長の家から、花梨の立派な卓と椅子がかつがれてきた。
「大饗宴だな」
張飛は、子どものように、歓喜した。
準備ができると、手伝いの者は皆、母屋へ退がってしまった。
三名は、
「では」
と、眼を見合せて、祭壇の前の蓆へ坐った。そして天地の神へ、
「われらの大望を成就させ給え」
と、祈念しかけると、関羽が、
「ご両所。少し待ってくれ」
と、なにか改まっていった。 -
江戸川乱歩「鏡地獄」岡田慎平朗読
52.17 Aug 21, 2017
「珍らしい話とおっしゃるのですか、それではこんな話はどうでしょう」
ある時、五、六人の者が、怖い話や、珍奇な話を、次々と語り合っていた時、友だちのKは最後にこんなふうにはじめた。ほんとうにあったことか、Kの作り話なのか、その後、尋ねてみたこともないので、私にはわからぬけれど、いろいろ不思議な物語を聞かされたあとだったのと、ちょうどその日の天候が春の終りに近い頃の、いやにドンヨリと曇った日で、空気が、まるで深い水の底のように重おもしく淀んで、話すものも、聞くものも、なんとなく気ちがいめいた気分になっていたからでもあったのか、その話は、異様に私の心をうったのである。話というのは、私に一人の不幸な友だちがあるのです。名前は仮りに彼と申して置きましょうか。その彼にはいつの頃からか世にも不思議な病気が取りついたのです。ひょっとしたら、先祖に何かそんな病気の人があって、それが遺伝したのかもしれませんね。というのは、まんざら根のない話でもないので、いったい彼のうちには、おじいさんか、曾じいさんかが、切支丹の邪宗に帰依していたことがあって、古めかしい横文字の書物や、マリヤさまの像や、基督さまのはりつけの絵などが、葛籠の底に一杯しまってあるのですが、そんなものと一緒に、伊賀越道中双六に出てくるような、一世紀も前の望遠鏡だとか、妙なかっこうの磁石だとか、当時ギヤマンとかビイドロとかいったのでしょうが、美しいガラスの器物だとかが、同じ葛籠にしまいこんであって、彼はまだ小さい時分から、よくそれを出してもらっては遊んでいたものです。
考えてみますと、彼はそんな時分から、物の姿の映る物、たとえばガラスとか、レンズとか、鏡とかいうものに、不思議な嗜好を持っていたようです。それが証拠には、彼のおもちゃといえば、幻灯器械だとか、遠目がねだとか、虫目がねだとか、そのほかそれに類した、将門目がね、万華鏡、眼に当てると人物や道具などが、細長くなったり、平たくなったりする、プリズムのおもちゃだとか、そんなものばかりでした。
それから、やっぱり彼の少年時代なのですが、こんなことがあったのも覚えております。ある日彼の勉強部屋をおとずれますと、机の上に古い桐の箱が出ていて、多分その中にはいっていたのでしょう、彼は手に昔物の金属の鏡を持って、それを日光に当てて、暗い壁に影を映しているのでした。
「どうだ、面白いだろう。あれを見たまえ、こんな平らな鏡が、あすこへ映ると、妙な字ができるだろう」
彼にそう言われて、壁を見ますと、驚いたことには、白い丸形の中に、多少形がくずれてはいましたけれど「寿」という文字が、白金のような強い光で現われているのです。
「不思議だね、一体どうしたんだろう」
なんだか神業とでもいうような気がして、子供の私には、珍らしくもあり、怖くもあったのです。思わずそんなふうに聞き返しました。
「わかるまい。種明かしをしようか。種明かしをしてしまえば、なんでもないことなんだよ。ホラ、ここを見たまえ、この鏡の裏を、ね、寿という字が浮彫りになっているだろう。これが表へすき通るのだよ」
なるほど見れば彼の言う通り、青銅のような色をした鏡の裏には、立派な浮彫りがあるのです。でも、それが、どうして表面まですき通って、あのような影を作るのでしょう。鏡の表は、どの方角からすかして見ても、滑らかな平面で、顔がでこぼこに写るわけでもないのに、それの反射だけが不思議な影を作るのです。まるで魔法みたいな気がするのです。
「これはね、魔法でもなんでもないのだよ」
彼は私のいぶかしげな顔を見て、説明をはじめるのでした。
「おとうさんに聞いたんだがね、金属の鏡というやつは、ガラスと違って、ときどきみがきをかけないと、曇りがきて見えなくなるんだ。この鏡なんか、ずいぶん古くから僕の家に伝わっている品で、何度となく磨きをかけている。でね、その磨きをかけるたびに、裏の浮彫りの所と、そうでない薄い所とでは、金の減り方が眼に見えぬほどずつ違ってくるのだよ。厚い部分は手ごたえが多く、薄い部分はこれが少ないわけだからね。その眼にも見えぬ減り方の違いが、恐ろしいもので、反射させると、あんなに現われるのだそうだ。わかったかい」
その説明を聞きますと、一応は理由がわかったものの、今度は、顔を映してもでこぼこに見えない滑らかな表面が、反射させると明きらかに凹凸が現われるという、このえたいの知れぬ事実が、たとえば顕微鏡で何かを覗いた時に味わう、微細なるものの無気味さ、あれに似た感じで、私をゾッとさせるのでした。青空文庫より -
吉川英治「三国志」 三花一瓶一二 朗読岡田慎平
吉川英治「三国志」 三花一瓶三四 朗読岡田慎平
吉川英治「三国志」 三花一瓶五 六 朗読岡田慎平
一
母と子は、仕事の庭に、きょうも他念なく、蓆機に向って、蓆を織っていた。
がたん……
ことん
がたん
水車の回るような単調な音がくり返されていた。
だが、その音にも、きょうはなんとなく活気があり、歓喜の譜があった。
黙々、仕事に精だしてはいるが、母の胸にも、劉備の心にも、今日この頃の大地のように、希望の芽が生々と息づいていた。
ゆうべ。
劉備は、城内の市から帰ってくると、まっ先に、二つの吉事を告げた。
一人の良き友に出会った事と、かねて手放した家宝の剣が、計らず再び、自分の手へ返ってきた事と。
そう二つの歓びを告げると、彼の母は、
「一陽来復。おまえにも時節が来たらしいね。劉備や……心の支度もよいかえ」
と、かえって静かに声を低め、劉備の覚悟を糺すようにいった。
時節。……そうだ。
長い長い冬を経て、桃園の花もようやく蕾を破っている。土からも草の芽、木々の枝からも緑の芽、生命のあるもので、萌え出ない物はなに一つない。
がたん……
ことん……
蓆機は単調な音をくりかえしているが、劉備の胸は単調でない。こんな春らしい春をおぼえたことはない。
――我は青年なり。
空へ向って言いたいような気持である。いやいや、老いたる母の肩にさえ、どこからか舞ってきた桃花の一片が、紅く点じているではないか。
すると、どこかで、歌う者があった。十二、三歳の少女の声だった。妾ガ髪初メテ額ヲ覆ウ
花ヲ折ッテ門前ニ戯レ
郎ハ竹馬ニ騎シテ来リ
床ヲ繞ッテ青梅ヲ弄ス劉備は、耳を澄ました。
少女の美音は、近づいてきた。……十四君ノ婦ト為ッテ
羞顔未ダ嘗テ開カズ
十五初メテ眉を展ベ
願ワクバ塵ト灰トヲ共ニセン
常ニ抱柱ノ信ヲ存シ
豈上ランヤ望夫台
十六君遠クヘ行ク近所に住む少女であった。早熟な彼女はまだ青い棗みたいに小粒であったが、劉備の家のすぐ墻隣の息子に恋しているらしく、星の晩だの、人気ない折の真昼などうかがっては、墻の外へきて、よく歌をうたっていた。
「…………」
劉備は、木蓮の花に黄金の耳環を通したような、少女の貌を眼にえがいて、隣の息子を、なんとなく羨ましく思った。
そしてふと、自分の心の底からも一人の麗人を思い出していた。それは、三年前の旅行中、古塔の下であの折の老僧にひき合わされた鴻家の息女、鴻芙蓉のその後の消息であった。
――どうしたろう。あれから先。
張飛に訊けば、知っている筈である。こんど張飛に会ったら――など独り考えていた。
すると、墻の外で、しきりに歌をうたっていた少女が、犬にでも噛まれたのか、突然、きゃっと悲鳴をあげて、どこかへ逃げて行った。 -
芥川龍之介「カルメン」西村俊彦 岡田慎平 二宮隆朗読
カルメン
芥川龍之介
革命前だったか、革命後だったか、――いや、あれは革命前ではない。なぜまた革命前ではないかと言えば、僕は当時小耳に挟んだダンチェンコの洒落を覚えているからである。
ある蒸し暑い雨もよいの夜、舞台監督のT君は、帝劇の露台に佇みながら、炭酸水のコップを片手に詩人のダンチェンコと話していた。あの亜麻色の髪の毛をした盲目詩人のダンチェンコとである。
「これもやっぱり時勢ですね。はるばる露西亜のグランド・オペラが日本の東京へやって来ると言うのは。」
「それはボルシェヴィッキはカゲキ派ですから。」
この問答のあったのは確か初日から五日目の晩、――カルメンが舞台へ登った晩である。僕はカルメンに扮するはずのイイナ・ブルスカアヤに夢中になっていた。イイナは目の大きい、小鼻の張った、肉感の強い女である。僕は勿論カルメンに扮するイイナを観ることを楽しみにしていた、が、第一幕が上ったのを見ると、カルメンに扮したのはイイナではない。水色の目をした、鼻の高い、何とか云う貧相な女優である。僕はT君と同じボックスにタキシイドの胸を並べながら、落胆しない訣には行かなかった。
「カルメンは僕等のイイナじゃないね。」
「イイナは今夜は休みだそうだ。その原因がまた頗るロマンティックでね。――」
「どうしたんだ?」
「何とか云う旧帝国の侯爵が一人、イイナのあとを追っかけて来てね、おととい東京へ着いたんだそうだ。ところがイイナはいつのまにか亜米利加人の商人の世話になっている。そいつを見た侯爵は絶望したんだね、ゆうべホテルの自分の部屋で首を縊って死んじまったんだそうだ。」
僕はこの話を聞いているうちに、ある場景を思い出した。それは夜の更けたホテルの一室に大勢の男女に囲まれたまま、トランプを弄んでいるイイナである。黒と赤との着物を着たイイナはジプシイ占いをしていると見え、T君にほほ笑みかけながら、「今度はあなたの運を見て上げましょう」と言った。(あるいは言ったのだと云うことである。ダア以外の露西亜語を知らない僕は勿論十二箇国の言葉に通じたT君に翻訳して貰うほかはない。)それからトランプをまくって見た後、「あなたはあの人よりも幸福ですよ。あなたの愛する人と結婚出来ます」と言った。あの人と云うのはイイナの側に誰かと話していた露西亜人である。僕は不幸にも「あの人」の顔だの服装だのを覚えていない。わずかに僕が覚えているのは胸に挿していた石竹だけである。イイナの愛を失ったために首を縊って死んだと云うのはあの晩の「あの人」ではなかったであろうか?……
「それじゃ今夜は出ないはずだ。」
「好い加減に外へ出て一杯やるか?」
T君も勿論イイナ党である。
「まあ、もう一幕見て行こうじゃないか?」
僕等がダンチェンコと話したりしたのは恐らくはこの幕合いだったのであろう。
次の幕も僕等には退屈だった。しかし僕等が席についてまだ五分とたたないうちに外国人が五六人ちょうど僕等の正面に当る向う側のボックスへはいって来た。しかも彼等のまっ先に立ったのは紛れもないイイナ・ブルスカアヤである。イイナはボックスの一番前に坐り、孔雀の羽根の扇を使いながら、悠々と舞台を眺め出した。のみならず同伴の外国人の男女と(その中には必ず彼女の檀那の亜米利加人も交っていたのであろう。)愉快そうに笑ったり話したりし出した。
「イイナだね。」
「うん、イイナだ。」
僕等はとうとう最後の幕まで、――カルメンの死骸を擁したホセが、「カルメン! カルメン!」と慟哭するまで僕等のボックスを離れなかった。それは勿論舞台よりもイイナ・ブルスカアヤを見ていたためである。この男を殺したことを何とも思っていないらしい露西亜のカルメンを見ていたためである。× × ×
それから二三日たったある晩、僕はあるレストランの隅にT君とテエブルを囲んでいた。
「君はイイナがあの晩以来、確か左の薬指に繃帯していたのに気がついているかい?」
「そう云えば繃帯していたようだね。」
「イイナはあの晩ホテルへ帰ると、……」
「駄目だよ、君、それを飲んじゃ。」
僕はT君に注意した。薄い光のさしたグラスの中にはまだ小さい黄金虫が一匹、仰向けになってもがいていた。T君は白葡萄酒を床へこぼし、妙な顔をしてつけ加えた。
「皿を壁へ叩きつけてね、そのまた欠片をカスタネットの代りにしてね、指から血の出るのもかまわずにね、……」
「カルメンのように踊ったのかい?」
そこへ僕等の興奮とは全然つり合わない顔をした、頭の白い給仕が一人、静に鮭の皿を運んで来た。…… -
岡田慎平朗読『三国志』吉川英治 橋畔風談1,2
橋畔風談「三国志」 吉川英治 岡田慎平朗読蟠桃河の水は紅くなった。両岸の桃園は紅霞をひき、夜は眉のような月が香った。
けれど、その水にも、詩を詠む人を乗せた一艘の舟もないし、杖をひいて逍遥する雅人の影もなかった。
「おっ母さん、行ってきますよ」
「ああ、行っておいで」
「なにか城内からおいしい物でも買ってきましょうかね」
劉備は、家を出た。
沓や蓆をだいぶ納めてある城内の問屋へ行って、価を取ってくる日だった。
午から出ても、用達をすまして陽のあるうちに、らくに帰れる道のりなので、劉備は驢にものらなかった。
いつか羊仙のおいて行った山羊がよく馴れて、劉備の後についてくるのを、母が後ろで呼び返していた。
城内は、埃ッぽい。
雨が久しくなかったので、沓の裏がぽくぽくする。劉備は、問屋から銭を受け取って、脂光りのしている市の軒なみを見て歩いていた。
蓮根の菓子があった。劉備はそれを少し買い求めた。――けれど少し歩いてから、
「蓮根は、母の持病に悪いのじゃないか」と、取換えに戻ろうかと迷っていた。
がやがやと沢山な人が辻に集まっている。いつもそこは、野鴨の丸揚げや餅など売っている場所なので、その混雑かと思うていたが、ふと見ると、大勢の頭の上に、高々と、立札が見えている。
「何だろ?」
彼も、好奇にかられて、人々のあいだから高札を仰いだ。
見ると――遍く天下に義勇の士を募るという布告の文であった。
黄巾の匪、諸州に蜂起してより、年々の害、鬼畜の毒、惨として蒼生に青田なし。
今にして、鬼賊を誅せずんば、天下知るべきのみ。
太守劉焉、遂に、子民の泣哭に奮って討伐の天鼓を鳴らさんとす。故に、隠れたる草廬の君子、野に潜むの義人、旗下に参ぜよ。
欣然、各子の武勇に依って、府に迎えん。郡校尉鄒靖
「なんだね、これは」
「兵隊を募っているのさ」
「ああ、兵隊か」
「どうだ、志願して行って、ひと働きしては」
「おれなどはだめだ。武勇もなにもない。ほかの能もないし」
「誰だって、そう能のある者ばかり集まるものか。こう書かなくては、勇ましくないからだよ」
「なるほど」
「憎い黄匪めを討つんだ、槍の持ち方が分らないうちは、馬の飼糧を刈っても軍の手伝いになる。おれは行く」
ひとりがつぶやいて去ると、そのつぶやきに決心を固めたように、二人去り、三人去り、皆、城門の役所のほうへ力のある足で急いで行った。
「…………」
劉備は、時勢の跫音を聞いた。民心のおもむく潮を見た。
――が。蓮根の菓子を手に持ったまま、いつまでも、考えていた。誰もいなくなるまで、高札と睨み合って考えていた。
「……ああ」
気がついて、間がわるそうに、そこから離れかけた。すると、誰か、楊柳のうしろから、
「若人。待ち給え」
と、呼んだ者があった。 -
岡田慎平朗読「白昼夢」江戸川乱歩
あれは、白昼の悪夢であったか、それとも現実の出来事であったか。
晩春の生暖い風が、オドロオドロと、火照った頬に感ぜられる、蒸し暑い日の午後であった。
用事があって通ったのか、散歩のみちすがらであったのか、それさえぼんやりとして思い出せぬけれど、私は、ある場末の、見る限り何処までも何処までも、真直に続いている、広い埃っぽい大通りを歩いていた。
洗いざらした単衣物の様に白茶けた商家が、黙って軒を並べていた。三尺のショーウインドウに、埃でだんだら染めにした小学生の運動シャツが下っていたり、碁盤の様に仕切った薄っぺらな木箱の中に、赤や黄や白や茶色などの、砂の様な種物を入れたのが、店一杯に並んでいたり、狭い薄暗い家中が、天井からどこから、自転車のフレームやタイヤで充満していたり、そして、それらの殺風景な家々の間に挟まって、細い格子戸の奥にすすけた御神燈の下った二階家が、そんなに両方から押しつけちゃ厭だわという恰好をして、ボロンボロンと猥褻な三味線の音を洩していたりした。
「アップク、チキリキ、アッパッパア……アッパッパア……」
お下げを埃でお化粧した女の子達が、道の真中に輪を作って歌っていた。アッパッパアアアア……という涙ぐましい旋律が、霞んだ春の空へのんびりと蒸発して行った。
男の子等は繩飛びをして遊んでいた。長い繩の弦が、ねばり強く地を叩いては、空に上った。田舎縞の前をはだけた一人の子が、ピョイピョイと飛んでいた。その光景は、高速度撮影機を使った活動写真の様に、如何にも悠長に見えた。
時々、重い荷馬車がゴロゴロと道路や、家々を震動させて私を追い越した。
ふと私は、行手に当って何かが起っているのを知った。十四五人の大人や子供が、道ばたに不規則な半円を描いて立止っていた。
それらの人々の顔には、皆一種の笑いが浮んでいた。喜劇を見ている人の笑いが浮んでいた。ある者は大口を開いてゲラゲラ笑っていた。
好奇心が、私をそこへ近付かせた。
近付に従って、大勢の笑顔と際立った対照を示している一つの真面目くさった顔を発見した。その青ざめた顔は、口をとがらせて、何事か熱心に弁じ立てていた。香具師の口上にしては余りに熱心過ぎた。宗教家の辻説法にしては見物の態度が不謹慎だった。一体、これは何事が始まっているのだ。
私は知らず知らず半円の群集に混って、聴聞者の一人となっていた。
演説者は、青っぽいくすんだ色のセルに、黄色の角帯をキチンと締めた、風采のよい、見た所相当教養もありそうな四十男であった。鬘の様に綺麗に光らせた頭髪の下に、中高の薤形の青ざめた顔、細い眼、立派な口髭で隈どった真赤な脣、その脣が不作法につばきを飛ばしてバクバク動いているのだ。汗をかいた高い鼻、そして、着物の裾からは、砂埃にまみれた跣足の足が覗いていた。 -
吉川英治 岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻 桑の家一 二
吉川英治 岡田慎平朗読,「三国志」桃園の巻 桑の家 三 四
吉川英治 岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻 桑の家五.六
吉川英治 岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻 桑の家 七 八 九
県の楼桑村は、戸数二、三百の小駅であったが、春秋は北から南へ、南から北へと流れる旅人の多くが、この宿場で驢をつなぐので、酒を売る旗亭もあれば、胡弓を弾くひなびた妓などもいて相当に賑わっていた。
この地はまた、太守劉焉の領内で、校尉鄒靖という代官が役所をおいて支配していたが、なにぶん、近年の物情騒然たる黄匪の跳梁に脅かされているので、楼桑村も例にもれず、夕方になると明るいうちから村はずれの城門をかたく閉めて、旅人も居住者も、いっさいの往来は止めてしまった。
城門の鉄扉が閉まる時刻は、大陸の西にまっ赤な太陽が沈みかける頃で、望楼の役人が、六つの鼓を叩くのが合図だった。
だからこの辺の住民は、そこの門のことを、六鼓門と呼んでいたが、今日もまた、赤い夕陽が鉄の扉にさしかける頃、望楼の鼓が、もう二つ三つ四つ……と鳴りかけていた。
「待って下さい。待って下さいっ」
彼方から驢を飛ばしてきたひとりの旅人は、危うく一足ちがいで、一夜を城門の外に明かさなければならない間ぎわだったので、手をあげながら馳けてきた。
最後の鼓の一つが鳴ろうとした時、からくも旅人は、城門へ着いて、
「おねがい致します。通行をおゆるし下さいまし」
と、驢をそこで降りて、型のごとく関門調べを受けた。
役人は、旅人の顔を見ると、「やあ、お前は劉備じゃないか」と、いった。
劉備は、ここ楼桑村の住民なので、誰とも顔見知りだった。
「そうです。今、旅先から帰って参ったところです」
「お前なら、顔が手形だ、何も調べはいらないが、いったい何処へ行ったのだ。こんどの旅はまた、ばかに長かったじゃないか」
「はい、いつもの商用ですが、なにぶん、どこへ行っても近頃は、黄匪の横行で、思うように商いもできなかったものですから」
「そうだろう。関門を通る旅人も、毎日へるばかりだ。さあ、早く通れ」
「ありがとう存じます」
再び驢にのりかけると、
「そうそう、お前の母親だろう、よく関門まで来ては、きょうもまだ息子は帰りませぬか、今日も劉備は通りませぬかと、夕方になると訊ねにきたのが、この頃すがたが見えぬと思ったらわずらって寝ているのだぞ。はやく帰って顔を見せてやるがよい」
「えっ。では母は、留守中に、病気で寝ておりますか」
劉備はにわかに胸さわぎを覚え、驢を急がせて、関門から城内へ馳けた。
久しく見ない町の暮色にも、眼もくれないで彼は驢を家路へ向けた。道幅の狭い、そして短い宿場町はすぐとぎれて、道はふたたび悠長な田園へかかる。
ゆるい小川がある。水田がある。秋なのでもう村の人々は刈入れにかかっていた。そして所々に見える農家のほうへと、田の人影も水牛の影も戻って行く。
「ああ、わが家が見える」
劉備は、驢の上から手をかざした。舂く陽のなかに黒くぽつんと見える一つの屋根と、そして遠方から見ると、まるで大きな車蓋のように見える桑の木。劉備の生れた家なのである。
「どんなに自分をお待ちなされておることやら。……思えば、わしは孝養を励むつもりで、実は不孝ばかり重ねているようなもの。母上、済みません」
彼の心を知るか、驢も足を早めて、やがて懐かしい桑の大樹の下までたどりついた。 -
岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻吉川英治 張飛卒三
岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻吉川英治 張飛卒四三国志
桃園の巻
吉川英治
卒の張飛が、いきなり李朱氾をつまみ上げて、宙へ投げ飛ばしたので、
「やっ、こいつが」と、賊の小方たちは、劉備もそっちのけにして、彼へ総掛りになった。
「やい張卒、なんで貴様は、味方の李小方を投げおったか。また、おれ達のすることを邪魔だてするかっ」
「ゆるさんぞ。ふざけた真似すると」
「党の軍律に照らして、成敗してくれる。それへ直れ」
ひしめき寄ると、張は、
「わははははは。吠えろ吠えろ。胆をつぶした野良犬めらが」
「なに、野良犬だと」
「そうだ。その中に一匹でも、人間らしいのがおるつもりか」
「うぬ。新米の卒の分際で」
喚いた一人が、槍もろとも、躍りかかると、張飛は、団扇のような大きな手で、その横顔をはりつけるや否や、槍を引ッたくって、よろめく尻をしたたかに打ちのめした。
槍の柄は折れ、打たれた賊は、腰骨がくだけたように、ぎゃっともんどり打った。
思わぬ裏切者が出て、賊は狼狽したが、日頃から図抜けた巨漢の鈍物と、小馬鹿にしていた卒なので、その怪力を眼に見ても、まだ張飛の真価を信じられなかった。
張飛は、さながら岩壁のような胸いたをそらして、
「まだ来るか。むだな生命を捨てるより、おとなしく逃げ帰って、鴻家の姫と劉備の身は、先頃、県城を焼かれて鴻家の亡びた時、降参と偽って、黄巾賊の卒にはいっていた張飛という者の手に渡しましたと、有態に報告しておけ」
青空文庫より