福山美奈子
-
下村千秋「神様の布団」福山美奈子朗読
Sep 09, 2018
むかし、鳥取のある町に、新しく小さな一軒の宿屋が出来ました。この宿屋の主人は、貧乏だったので、いろいろの道具類は、みんな古道具屋から買い入れたのでしたが、きれい好きな主人は、何でもきちんと片づけ、ぴかぴかと磨いて、小ぎれいにさっぱりとしておきました。
この宿屋を開いた最初のお客は、一人の行商人でした。主人は、このお客を、それはそれは親切にもてなしました。主人は何よりも大事な店の評判をよくしたかったからです。
お客はあたたかいお酒をいただき、おいしい御馳走を腹いっぱいに食べました。そうして大満足で、柔らかいふっくらとした布団の中へはいって疲れた手足をのばしました。
お酒を飲み、御馳走をたくさん食べたあとでは、だれでもすぐにぐっすりと寝込むものです。ことに外は寒く、寝床の中だけぽかぽかとあたたかい時はなおさらのことです。ところがこのお客ははじめほんのちょっとの間眠ったと思うと、すぐに人の話し声で目をさまされてしまいました。話し声は子供の声でした。よく聞いてみると、それは二人の子供で、同じことをお互いにきき合っているのでした。
「お前、寒いだろう。」
「いいえ、兄さんが寒いでしょう。」
はじめお客は、どこかの子供たちが暗闇に戸惑いして、この部屋へまぎれ込んだのかも知れないと思いました。それで、
「そこで話をしているのはだれですか?」となるべくやさしい声できいてみました。すると、ちょっとの間しんとしました。が、また少したつと、前と同じ子供の声が耳の近くでするのでした。一つの声が、
「お前、寒いだろう。」といたわるように言うと、
もう一つの声が細い弱々しい声で、
「いいえ、兄さんが寒いでしょう。」というのです。
お客は布団をはねのけ、行灯に灯をともして、部屋の中をぐるりと見回しました。しかしだれもいません。障子も元のままぴったりとしまっています。もしやと思って、押し入れの戸を開けて見ましたが、そこにも何も変わったことはありませんでした。で、お客は少し不気味に思いながら、行灯の灯をともしたままで、また床の中にもぐり込みました。と、しばらくするとまたさっきと同じ声がするのです。それもすぐ枕元で、
「お前、寒いだろう。」
「いいえ、兄さんが寒いでしょう。」
お客は急に体中がぞくぞくとして来ました。もうじっとして寝ていられないような気持ちになりました。でも、しばらくじっと我慢していますと、また同じ子供の声がするのです。
お客はがたがたふるえながら、なおも、聞き耳を立てていますと、また同じ声がします。しかも、その声は、自分のかけている布団の中から出て来るではありませんか。――掛け布団が物を言っているのです。
お客は、いきなり飛び起きると、あわてて着物を引っかけ、荷物をかき集めてはしご段を駆け下りました。そうして、寝ている主人を揺り起こして、これこれこうだと、今あったことを息もつかずに話しました。
しかしあんまり不思議な話なので、主人はそれをどうしても信じることが出来ませんでした。商人はあくまでほんとうだと言い張ります。商人と主人とは、互いに押し問答をしていましたが、とうとうしまいに主人は腹を立てて、
「馬鹿なことをおっしゃるな。初めての大切なお客さまを、わざわざ困らせるようなことをいたすわけがありません。あなたはお酒に酔っておやすみになったので、おおかた、そういう夢でもごらんになったのでしょう。」
と、大きな声で言い返しました。けれどもお客は、いつまでもそんなことを言い合ってはいられないほど、おじ気がついていたので、お金を払うと、とっとと、その宿を出て行ってしまいました。あくる日の晩、また一人のお客が、この宿に泊まりました。このお客も前夜のお客と同じように親切にもてなされて、いい気持ちで寝床につきました。
その夜が更けると、宿の主人はまたもそのお客に起こされました。お客の言うことは、前夜のお客の言ったことと同じでした。このお客は、ゆうべの人のようにお酒を飲んではいませんでしたから、宿の主人も酒のせいにすることは出来ませんでした。で主人は、このお客はきっと、自分の稼業の邪魔しようとしてこんなことを言うのだろうと思いました。で、やっぱり前夜と同じように腹を立てて、大きな声で言い返しました。
「大事なお客様です、喜んでいただこうと思いまして、何から何まで手落ちのないようにいたしました。それだのに縁起でもないことをおっしゃる。そんな評判が立ちましたら私どもの店は立ち行きません。まぁよく考えてからものをおっしゃって下さい。」
そう言われると、お客もたいへん機嫌を悪くして、
「わしはほんとうのことを言っているのです。余計なことを言う前に、自身で調べてみなさるがいい。」と言って、これもお金を払うとすぐに、宿を出て行ってしまいました。
お客が行ってしまってからも、主人は一人でぷりぷり怒っていましたが、とにかく一度その布団を調べてみようと思い、二階のお客の部屋へ上って行きました。
布団のそばにすわってじっと様子をうかがっていると、やがて子供の声がしてきました。それはたしかに一枚の掛け布団からするのでした。あとの布団はみんな黙っています。そこで主人は、これは不思議だと、二人のお客にまでつけつけと言ったことを後悔しながら、その掛け布団だけを自分の部屋へ持って来て、そしてそれを掛けて寝てみました。子供の声はたしかにその掛け布団からするのでした。
「お前、寒いだろう。」
「いいえ、兄さんが寒いでしょう。」
主人は一晩中眠ることが出来ませんでした。
夜の明けるのを待って、主人はその布団を買った古着屋へ行き、その話をくわしくしました。古着屋の主人は、そんな布団のいわれは知らないが、その布団は、出入りの古着商から買ったというのです。そこで宿の主人はその出入りの古着商をたずねて行きますと、その人は、あの布団は、町の場末にあるひどく貧乏な商人から買ったのだと言うのでした。で、宿の主人は布団のいわれを探し出すために、根気よくそれからそれへとたずねて行きました。
やがてとうとう、その布団はもと、ある貧しい家のもので、その家族が住んでいた家の家主の手から、買い取ったものだということがわかりました。そこで宿の主人は、次のような布団の身の上話をきくことが出来ました。その布団の持ち主の住んでいた家の家賃は、その頃ただの六十銭でした。それだけでもどんなにみすぼらしい家かはおわかりでしょう。しかしそれほどの家賃の支払いにも困るほどこの家族は貧乏なのでした。というのも、母親は病気で長い間床についたきりでしたし、そのうえにまだ働くことの出来ない二人の子供――六つの女の子と八つになる男の子があり、父親は体が弱くて思うように働くことが出来なかったからです。またこの家族は、頼るべき親戚や知り合いが鳥取の町中に一人もありませんでした。
ある冬の日のこと、父親は仕事から帰って来て、気分が悪いと言って床についたなり、病は急に重くなって、それきり頭が上がらなくなりました。そして一週間ほど薬ものめずにわずらってとうとう死んでしまいました。二人の子供を残された母親は床の中で毎日泣いていましたが、間もなく病が重くなり、母親もついに亡くなってしまったのです。二人の子供は抱き合って泣いているより外はありませんでした。どちらへ行っても知らぬ他人ばかりで、助けてくれるような人は一人もありません。雪に埋もれた町の中で、子供たちは、働こうにも、何一つ仕事がないのでした。子供たちは、家の中の品物を一つずつ売って暮らしていくより外はなかったのです。
売る物と言っても、もとからの貧乏暮らしですから、そうたくさんあろうはずはありません。死んだ父親と母親の着物、自分たちの着物、布団四、五枚、それから粗末な二つ三つの家具、そういう物を二人は順々に売って、とうとう一枚の掛け布団しか残らないようになってしまいました。そうしてついに何も食べるものがない日が来ました。言うまでもなく、家賃などを支払っているどころではありません。
それは冬でも大寒といういちばん寒い季節でした。この季節になると、この地方は、大人の丈ほどの雪が積もり、それが春の四月頃までとけずにいるのです。二人の子供の食べるものがなくなったその日も朝から雪で、午後からは、ひどい吹雪になりました。二人の子供は外へ出ることも出来ません。空いたお腹を抱えながら二人はたった一枚の布団にくるまって、部屋の隅にちぢこまっていました。あばら家のことですからどこも隙間だらけです。その隙間から吹雪は遠慮なく吹き込んで来ます。二人はぶるぶるふるえながら、しっかりと抱き合って、子供らしい言葉で互いに慰め合うよりしかたがありませんでした。
「お前、寒いだろう。」
「いいえ、兄さんが寒いでしょう。」
二人はそれを互いにくり返して、言い合っていました。
そこへ、家主がやって来たのです。無慈悲な家主は怖い顔をして、荒々しく怒って家賃の催促をしました。二人の子供は驚きと悲しみのあまりものを言うことも出来ませんでした。首をすくめ、目をしばたたいているばかりでした。家主は、家の中を、じろじろ見回していましたが、金目の品物は何一つないのを知ると、らんぼうにも、子供たちがくるまっていた一枚の布団をひったくってしまいました。そのうえ子供たちを家の外へ追い出して、家の戸には錠を下ろしてしまったのです。
追い出された二人の兄妹はもとより行く所はありません。少し離れたお寺の庫裡の窓から暖かそうな灯の光が洩れて見えましたが、雪が子供たちの胸ほども積もっていましたので、そこまでも行くことも出来ません。それに子供たちは一枚の着物しか着ていませんので、体中がこごえてしまって、もう一足も動けそうもありませんでした。
そこで二人は、怖い家主が立ち去ったのを見ると、またもとの家の軒下へこっそりとしのび寄りました。
そうしているうちに二人は、だんだんと眠くなって来ました。長い間あんまりひどい寒さにあっていると、だれでも眠くなるものなのです。兄妹は少しでも暖まろうと、互いにぎっしりと抱き合っていました。そしてそのまま静かな眠りに落ちて行きました。こうして兄妹が眠っている間に、神様は新しい布団――真っ白い、それはそれは美しい、やわらかい布団を、抱き合った兄妹の上にそっと掛けて下さいました。兄妹はもう寒さを感じませんでした。そしてそれから幾日も幾日もそのままで安らかに眠りつづけました。
やがてある雪のやんだ日、近所の人が、雪の中に冷たくなっている二人の兄妹の体を見つけ出しました。兄妹はそうして冷たい体になっても互いにしっかと抱き合っていました。宿屋の主人はこの話を聞いてしまうと、しばらくの間だまって目をつぶって、神様に祈るような風をしていました。それから家へ帰って、ものを言う不思議な布団を持ち出して、二人の兄妹の家の近くのお寺へ行って納めました。そして、そこのお坊さんに頼んで、小さい美しい二人の霊のために、ねんごろにお経をあげてもらいました。
それからその布団は、ものを言うことを止めました。そして宿屋もたいへんに繁昌したということであります。 -
村山籌子「お猫さん」福山美奈子朗読
Sep 01, 2018
お正月が近づいて来たので、お猫さんのお父さんとお母さんはお猫さんをお風呂に入れて、毛皮の手入れをしなくちやならないと考へてをりました。なぜといつて、お猫さんは白猫さんでしたから。
「お父さん、ここに石けんの広告が出て居ますよ。これを使つたらどうかしら。何しろ、お猫さんは大変なおいたで、ふだんから、お風呂がきらひなので、まるで、どぶねづみみたいによごれてゐますからね。」
「どれ、どれ。成程、これなら大丈夫。これにしましよう。」とお父さんは賛成して、お金を下さいました。
その石けんはラツクスといつて、人間でもめつたには使はない上等の石けんですから、お猫さんの家なんかで使ふのは勿体ないぐらゐです。けれども、お猫さんのためなら、お猫さんのお父さんやお母さんはいくら高くてもがまんをいたしました。
石けんを買つて来たお母さんは、お猫さんをお風呂に入れました。長いあひだはいらないものですから、身体中にしみて、お猫さんはがまんが出来なくて泣きました。けれども、お風呂から上つて、毛がかわくと、それはそれは目もまぶしいくらゐに美しく真白になりました。
お父さんもお母さんも自分の子ながら、あんまり美しいので、思はず、嬉し涙を出したくらゐでした。
ところが、お猫さんのおとなりにお黒さんといふ真黒なお猫さんが住んでゐました。お猫さんのお友達です。そのお黒さんが、お風呂から上つたばかりのお猫さんの所へあそびに来ました。お黒さんも、やはりお風呂から上りたてで、それは美しくピカピカと毛を光らせてをりました。
二人は、いや、二匹はお家をとび出して、町の方へ遊びに出かけました。
「あなたは真白でとてもいいわね。ステキよ。」とお黒さんが言ひました。「あなた真黒で、とてもハイカラよ。」とお猫さんが言ひました。二匹は生れついた色がきらひで、他人のものがよく見えて仕方がありません。人間の子供みたいです。
ところが、町の化粧品やさんで、大売出しをやつてゐました。楽隊がプカプカドンドンと鳴つてゐて、それは面白さうでした。二匹はそこへかけつけて行きました。
化粧品やさんでは、「毛皮の染めかへ」薬を売出してゐました。
「さあ、どなたでも、ためしにお染めかへいたします。売出し中はお金はいたゞきません。さあ、どなたでも。どなたでも。」
お猫さんとお黒さんは胸がドキドキして来ました。「どう? そめてもらはない? たゞだつて」
二匹は顔と顔とを見合はせてモジモジしてゐましたら、化粧品やのおぢさんはすぐに「さあ、染めてあげませう。」と言つて、お猫さんを真黒に、お黒さんを真白に染めかへてくれました。
二人はよろこびました。とてもうれしくて、自慢で、早くお父さんやお母さんに見せようと思つてとんでかへりました。
お猫さんのお父さんお母さんは、お黒さんに言ひました。「お猫さんや。」お黒さんのお父さんやお母さんはお猫さんに「お黒さんや。」と言つて、二匹をとりちがへてしまひました。二匹はおどろいて、わけを話しましたが、どうしてもお父さんやお母さんたちはそれが分りません。二匹はかなしくなつて泣きました。
そこへ近所の犬さんが通りかかつて、匂ひでかぎわけてくれたので、お父さんやお母さんたちは、どれが自分の子供だか、やつと分つたさうです。二匹は胸をなで下しました。お猫さんとお黒さんが毛を染めかへて、白い毛のお猫さんが黒くなり、黒いお黒さんが白くなつてしまつたことは一月号でお話しましたね。
それから一月たちました。二匹の毛の色はだん/\染がはげて来て、二匹とも、ねずみ色になつてしまひました。人間からいふと、ねずみ色といふ色も、なか/\よい色ですけれども、猫の世界では、一番いやな色だと思はれてゐます。猫とねずみは一ばん仲がわるいのですからね。
そこで、お猫さんとお黒さんのお父さんやお母さんたちは、二匹を病院にでもつれて行つて、早く毛の色を落してしまひたいと思ひました。けれども、お猫さんも、お黒さんも、なか/\、病院に行くことを承知いたしません。病院といふところは、こわい所だと思ひ込んでゐましたから。
「なぜ、病院へゆくのはいやなの? 早く毛をきれいにしないと、学校へ上れませんよ。」お母さんたちはかうおつしやいました。
「だつて、お昼間、こんななりして外へ出るのはいやだから。」とお猫さんとお黒さんは申しました。病院がこわいなんていふことは言ひません。人間の子供でもさうですが、猫の子供は本当に心配だと思ふことはいはないくせがあります。
そこで、お父さんやお母さんは、夜の病院をさがしました。幸なことに、鳥山夜間病院といふのがみつかりました。院長さんは、ふくろう先生でした。
お猫さんとお黒さんは、そこへ行くことにきまりました。
「本当は、病院に行くのがいやなの」と、泣いてみましたけれども、もう、仕方がありません。二匹は、病院に入院いたしました。ふくろう先生は二匹を、診察いたしました。そして、色のさめるお薬をぬつて下さいました。一日三回づゝ。
それから一週間たちました。お薬はせつせせつせと、ぬりましたが相変らず、色はなか/\さめません。少しはさめたのですが、まるで、むらになつてしまつて二匹とも、ます/\みつともなくなつて来ました。
お猫さんとお黒さんは泣きました。もうお家へ帰りたいと言つて。お父さんやお母さんたちも泣きました。せつかくかはいらしかつた子供たちがこんなにみつともなくなつたと云つて。二月号には、お猫さんの毛が白くならないので、とう/\お猫さんたちと、お父さんやお母さんたちが、泣き出したところまでお話いたしましたね。
みんながそれ/″\に泣き出したので、さすがのふくろう先生もどうしたらよいかと、さんざん工夫いたしましたが、どうしても思ふやうにまゐりません。けれども、さすがは、病院の院長さんだけあつて、大決心をして、お父さんやお母さんたちに言ひました。
「さて、お子さんの毛については、いろ/\苦心いたしましたが、これはもう普通のことではよくなりません。手術をするより外ありません。」
お父さんやお母さんたちはおどろいて目をまはしさうになりましたけれども、仕方がないと思つたので、
「どうか、その手術をお願ひいたします。」と、泣きながら言ひました。
ふくろう先生は、別の部屋で、早速その手術をいたしました。十五分位ですみました。
「さあ、手術はすみました。」とふくろう先生がおつしやいましたので、お父さんやお母さんたちは手術室へ走つて行きますと、お猫さんと、お黒さんの毛を一本ものこさず、かみそりで、すりおとしてありました。
お父さんやお母さんたちはどんなにうれしかつたでせう。血なんぞ一滴も出てゐないのですから。
それから、ふくろう先生は二匹に毛生薬を沢山ぬりつけて、風邪をひかないやうに、暖い毛布で、二匹を包んで下さいました。二匹は目をパチクリさせながら、
「涼しいやうな、暖いやうな気持がするわ。」と言ひましたので、みんな大笑しました。
それから、十日程の間に、お猫さんには真白な、お黒さんには真黒の毛が立派に生えそろひました。二匹はふくろう先生にお礼を言つて退院いたしました。
お父さんやお母さんたちもやつと安心いたしましたが、なか/\お父さんやお母さんといふものは心配が多いものですね。お猫さんとお黒さんは毛がちやんと元通りに生へそろつたので、もう外にあそびに行けるやうになりました。ところが忽ちのうちに、又々お猫さんの町中のうわさになるやうな事件を引きおこしてしまひました。やれやれ。
その日は丁度、お天気がよくて、暖い日が照つてゐました。お猫さんとお黒さんはお家にゐるのがつまらなくなつて、外へ出かけました。
すると、お隣りのお庭に、それは/\きれいな小さいお家が建つてゐるのに気がつきました。
「あら、あんな所にお家が建つてゐるわ。一体、何でせう?」とお猫さんが言ひました。
「あれは、お隣りの犬のベルさんのお家よ。こないだ、こさへてもらつたばかりよ。」とお黒さんはお母さんにでも聞いたのでせう、仲々いろんな事を知つてをります。
お猫さんは言ひました。
「そんな事ない。ベルさんなんかに、あんな美しいお家など、建る人などないわ。いつだつて、泥だらけの足をしてゐるから。」
そして、お猫さんは遠慮なくその小さいお家の中にはいつてゆきました。お黒さんも仕方なくお猫さんについてゆきました。
お家の中には新しいよい匂ひのする藁が一杯しいてありました。風ははいらないし、暖くて、その上静で、お猫さんとお黒さんは思はず、藁の中にもぐり込んで、寝てしまひました。何時間かたちました。
「もし、もし、お猫さん、お黒さん、起きて下さい。こゝは私の家ですから。」といふ声がしたので二匹は目をさましました。二匹は、横になつたまゝ外を見ると、ベルさんが立つてゐました。お黒さんはお猫さんに言ひました。
「お猫さん、矢張りこれはベルさんの家よ。早く帰りませう。」と言ひましたがお猫さんは動きません。ベルさんは外でうなり初めました。お猫さんは仕方なく起き上つて、いきなりベルさんのお鼻を引つかきました。ベルさんのお鼻の先からは血が出ました。
お猫さんとお黒さんは後も見ずに走つてお家へ帰りましたけれども、晩のごはんもろくにのどに通りませんでした。矢張りわるい事をしたのだといふことは分つてゐましたからね。
その晩中に、ベルさんのお鼻をひつかいたことが、街中に知れわたつてしまひました。何故といつて、ベルさんがお薬屋さんへ行つて、
「お猫さんに引つかかれた時につける膏薬」といふ薬を買つたからです。
「もうお外へ行つてはいけません。」とお猫さんとお黒さんのお母さんはおつしやいました。さて、お猫さんとお黒さんは外に出られなくなりました。もちろん学校へも行けません。
「おとなしくお留守をしていらつしやい。今日一日おとなしくしてゐれば、明日から学校に行かせてあげますから。お三時のチヨコレートを戸棚の中に入れておきますよ。」とお母さんはおつしやいました。そして、二匹をお部屋に残して買物にでかけました。
お猫さんとお黒さんはいたづらつ子でしたけれども仲々学校が好きなものですから、今日はほんとにおとなしくしてゐようと思ひました。
もう一週間も学校を休んでゐるのですからね。
初めのうちは日向ぼつこをしたり、本をよんだりしてゐましたけれども、段々たいくつになつて来て、そこにかけてあつた、お父さんの洋服をお猫さんが着ました。お黒さんはお母さんの着物を引きずる程長く着て、おしろいとほゝ紅をつけました。お猫さんは墨で口ひげをかきました。
「とてもよく似合つてゐるわ。」とお猫さんはお黒さんに云ひました。
「とてもよく似合つてゐるわ。」とお黒さんはお猫さんに云ひました。
二人はすつかり大人になつたつもりで部屋中をゐばつて歩きまはりました。
その時、おげんくわんで、「ご免下さい。」といふ声がきこえました。
お猫さんとお黒さんは二匹そろつて、おげんくわんに出て行きました。まるで、お父さんとお母さんのやうに気取つて。
ところが、二匹はお客さまの顔を見ると、
「いらつしやいませ」とも云はず「キヤーツ」と声を出してお部屋へにげてかへりました。何故といつて、それは学校の先生でしたから。そして、二匹は恥かしくて、ポロ/\と涙を流して泣きました。
お三時ものどに通りません。
お母様がおいしいお夕はんを買つて来て下さつたのですが、それも、食べられません。
お母さんが、
「明日から学校ですよ。早くおねなさい。」といつても、眠りません。可哀さうな二匹ですね。そして二匹が泣きながら、
「学校なんていや。行きたくない。」と云ひました。が、明日になれば、どうしても学校へ行かなければなりません。
身から出たさびとはいひながら、仲々、つらいことですね。「今夜はあひるさんのお誕生日ですから、着物をおきかへなさい。お顔も、手も足もきれいに洗ふのですよ。」とお猫さんとお黒さんのお母さんはおつしやいました。
「はい。」と二匹はお返事しました。そして、顔を洗ひましたが、手と足はめんどくさかつたので洗ひませんでした。
それから二匹はあひるさんところへ行きました。
おごちさうが山ほど出て来ました。
「さあ、ごゑんりよなく、沢山めしあがつて下さい。」とあひるさんが言ひました。
お黒さんとお猫さんは大よろこびで、おいしいおごちさうをいたゞかうとしましたが、何分、おめでたい日なので、電燈は三百燭の明るいのをつけてありましたし、テーブル掛は真白だしするものですから、二匹の手の汚く見えるといつたら二匹は他のお客様が横をむいてゐるうちにそつとおごちさうを頂きました。そして、みんなが前をむいてゐる時には、テーブルの下で、手の泥をこすり落しました。けれども、もう間に合ひません。折角のおごち走ものどに通りません。
やがて、主人のあひるさんが立ち上つて言ひました。「皆さん、どうも今夜はわざ/\おいで下さつてありがたう存じました。ところが、さつきから見てゐますと、お猫さんとお黒さんは少しもおごち走をめし上がりません。さあ、どうぞ御遠慮なく。」と申しました。すると、他のお客様までが一緒になつて、
「さあ、どうぞ、どうぞ。」と言つて、おごち走を二匹の前へ集めました。
二匹は顔を見合はせて泣き出しさうにしました。しかし仕方がありません。真赤な顔をして泥だらけの手を出して、おごち走を頂きました、一人のこらずのお客様が見てゐるなかで。
すると一人のお客様が言ひました。
「まあ、お二人のお手のきれいなこと」
すると、お客様はみんな一度に笑ひました。あひるさんは主人だけあつて、すぐにかう言ひました。
「なに、大したことはありませんさ。石けんで洗へばきれいになるんですからね。」と、そして二匹を洗面所へつれてつて、手を洗はせて下さいました。帰つて来るとお客様たちは笑ひながら言ひました。
「まあ、お猫さんとお黒さんのお手のきれいになつたこと」
二匹は赤い顔をしましたが、それからは大ゐばりで沢山おごち走をいたゞきました。大へん暑くなりました。なにしろ、お猫さんやお黒さんは夏だつて毛がはえてゐるのですから、その暑さときたら、とてもたまつたものではありません。二匹はうだつてしまひさうになりました。
ところが、すぐ近いところにプールが出来ました。お猫さんがそれを見つけて来ました。
「お黒さん、誰にも言つちやだめよ。あんまり沢山ゆくと、プールが満員になつてはいれなくなるから。」とお猫さんは言ひました。二匹は早速でかけました。
途中まで来ると、仔犬を十一匹つれた犬さんに会ひました。
「お猫さんとお黒さん、どこへ行くの? 私たちも一緒にそこまで行きませう。おう、暑いこと。」と、犬さんは言ひました。「犬さん、私たち、汽車の通るのを見に行くの。仔犬さんたちがあぶないことよ。」とお猫さんが言ひました。すると犬さんはあわてゝ仔犬さんたちをつれてむかふへ行つてしまひましたのでお猫さんとお黒さんは顔を見合せて喜びました。
もう少しゆくと、今度は仔豚さんを二十匹つれた豚さんに会ひました。豚さんは、
「お猫さんたち、暑いですね。どこか涼しい所へ一緒に行きませう。」といひました。お猫さんはあわてゝ
「私たちとても暑い所へ行くところなんですから御一緒にまゐれません。」といひました。
それから、にはとりさん、ねずみさんなどにあひましたが、みんなうまいこといつてことはりました。そしてやつとのことでプールへつきました。
水泳の先生のあひるさんが、五六羽、プールの中で、それはそれは上手に泳いでゐましたが、お猫さんとお黒さんの外には、誰一人泳ぎに来てをりません。二匹は泳ぎははじめてですから、とても先生ばかりの中へは、はづかしくてはいつて行けません。
「みんな一緒につれて来るといいのにあなたが勝手にことはつてしまうんだもの。」とお黒さんはブツブツおこりました。「だつて、満員になつたら困ると思つたんだもの。」とお猫さんは言ひかへしました。二匹はフクレツ面をして、顔を見合せましたが、顔といはず、身体といはず、汗が滝のやうに流れ出しました。とても暑くてたまらないので、先生たちが、上へあがつて休んでゐる間に、大いそぎで、ジヤブジヤブと水をはねかへして、およぎました。
そこへ、さつきあつた、仔犬さんをつれた犬さん、仔豚さんをつれた豚さん、にはとりさん、ねずみさん、みんなぞろぞろやつて来ました。お猫さんとお黒さんは、どんなに恥しかつたでせう。でも、着物をぬぐ所を教へてあげたり、仔どもたちに水着を着せてあげたりしたので、誰も二匹を悪くは思ひませんでした。
みんなで夕方までおよぎました。それでやつと涼しくなりました。そろそろ学校の初る九月になりました。お猫さんとお黒さんは学校が大へん好きですから、学校が初るのが待ち遠しくて、夜もなか/\ねむれない位でした。
でも、たうとう八月三十一日になりました。八月三十一日は、学校の始る前の日です。
お猫さんとお黒さんは、本も、帳面も、鉛筆も、洋服も、靴も、みんなよくそろへました。そろへてしまふと、がつたりとつかれました。
二匹はベツトの上にならんで横になつて休みました。そして、二匹は、お互ひの顔をつくづくとながめました。二匹のお顔はまるで、エスキモー犬のやうに毛がのびてゐました。お猫さんはいひました。
「あなたのお顔といつたら、まるでくまそみたいね。毛がもぢやもぢやで。」さういはれたお黒さんはおこつていひました。
「あなたこそくまそみたいぢやないの。」二匹はめいめい自分の顔はみえないものですから、自分の顔はまるで、玉子に目鼻をつけたやうにつる/\と美しいのだと思ひ込んでゐるから大変です。今にも、ひつかき合ひがはじまらんばかりの形勢になつて来ました。お母さんがとんできていひました。さあ、けんかはやめて、床やさんへいらつしやい。そして十銭玉を二つづつ下さいました。
二匹は床やさんへでかけました。途中でも、一言も話をしません。二匹ともカンカンになつておこつてゐたからです。
床やさんに行きますと、床やさんは二匹を見て、あんまりよくはえてゐるので、ゲラゲラ笑ひました。二匹は大変恥しくて、顔が赤くなりさうになりましたが平気な顔をして、椅子の上にあがりました。床やさんはそれはそれは上手に刈りました。二匹は生れかはつたやうに可愛らしいお猫さんになつてゆきました。それで、二匹はちよつと顔を見合はせて、ニツコリと笑ひかけましたが、さつきのけんかを思ひ出して、歯をくひしばりました。その時に、鋏を動かしながら、床やさんがきゝました。
「お二人とも、おそろひの型にお切りしませうね。」と、すると、二匹はいきなり顔を横にふつて、「いやです!」といひました。床やさんの鋏は、その時、ガチヤリと下へそれて、二匹の大事な大事なおひげを、チヨツキンと切り落してしまひました。お猫さんとお黒さんは泣きました。床やさんはあわてました。
そして、切り落したおひげを探しましたが、あひにくなことに、扇風機をかけてゐたので、おひげは風にふきとばされてどこへ落ちたのやら。月日のたつのは早いもので、お猫さんとお黒さんのチヨン切られたおひげも、もう立派に生えそろひました。
そこで、遠くの町にゐる伯母さんのところへ二人であそびに出かけることになりました。
伯母さんは洋服やさんでしたから、二匹が一年に一度づゝ遊びに行つた時に、それはそれは美しい洋服を一着づゝ、二匹に下さることになつてゐました。
二匹は、前の日からそれを楽しみにして、夜があけるとすぐに出かけました。御飯も食べないで。
伯母さんのお家についたのが、朝の六時、まだ、お店の戸さへあいてゐません。二匹は仕方なく、お店の入口によつかかつて待つてゐました。
牛乳やさんが通りました。新聞やさんが通りました。おとうふやさんが通りました。それから、お役所や、会社へ行く人が通りました。みんな二匹の方を見て、「おや、おや、迷ひ猫だ。」と言ひました。
お猫さんとお黒さんはそれから二時間もそこにがんばつてゐましたが、段々にお腹がすいて来ました。のどもかわいてゐました。
それから又二時間もたつて、そろそろお昼になるのに、お店の戸があきません。
朝来たおとうふやさんがお昼のおとうふをかついで、歩いて来ました。
そして、二匹を見て云ひました。
「路を迷つたんですか、お家はどこ?」ときゝました。
「伯母さんところへ来たんだけど、お店があくのを待つてるの。」と二人は言ひました。
おとうふやさんは、
「やれやれ気毒な、『今日は出かけますからお休みです。』とそこにはりつけてありますよ。」
二匹はそれを見て、がつかりしました。それと一緒に、土の上にへたばつてしまひました。お腹がペコ/\になつて、足の骨がグラグラしてゐる所へ、びつくりしたのですから。
おとうふやさんはおどろきました。どうしたらよからうかと思ひました。
「仕方がない。こゝへおはいり。」さう言つておとうふやさんは、二匹の首すじをつまんで空いた方のとうふおけへ入れました。
それから、二匹を家へつれて行つてくれることになりましたが、「とーふ、とーふ」と、おとうふをうりながら行くのですから、その時間のかゝることといつたら。それでも、やつとこさお昼の三時頃にお家の門まで帰りつきました。
「まあ、大変なものに乗つかつて。」と、言つて、お母さんと伯母さんがお家の中からとんで来ました。それで、お母さんは一円出しておとうふやさんへ、お礼の代りにおとうふの残りを全部買つてやりました。伯母さんは二匹が出かけないうちにと、朝のうちにとてもいゝ洋服を持つて来て下すつたのでした。伯母さんは早速、二匹に着せようとしましたが、もともと骨のやわらかいところへ、足がぐらついてゐるお猫さんとお黒さんのことですから、まるで、グニヤ/\になつて、どうしても着せられません。伯母さんとお母さんはお腹をかゝへて笑ひました。それからおこりました。
でも、二匹はどうにもなりませんので、ごはんを、おさじでたべさせて、ベツトへねかしました。
まるで、赤ちやんになつたみたいですね。あんまりせつかちだとこんな事になります。グニヤグニヤになつたお猫さんとお黒さんは一晩ぐつすりねむつたので、すつかり元気を取りもどしました。そして、洋服やさんの伯母さんにいただいた洋服を着て、お友達のあひるさん所へ見せびらかしにでかけてゆきました。
あひるさんはお猫さんとお黒さんの洋服を見ると、すぐに、お母さんに言ひました。
「お母さん、私にも、あんな洋服買つてちようだい。」
お母さんはお猫さんとお黒さんの洋服を前から後からよくながめてから
「ほんとに、よく出来たお洋服ね。うちのあひるさんにも、同じ所で買つてやりませう。どこで買つたの? そして、おねだんはいくらなの?」と聞きました。
お猫さんとお黒さんはいひました。
「おばさん、このお洋服は買つたんぢやないの。私たちの伯母さんがこさへて下さつたの。いくらお金を出しても、ほかの人にはこさへては下さらないわ。」
あひるさんはそれをきくと、メチヤクチヤに泣き出しました。
お猫さんとお黒さんはいひました。
「ほんとにしやうのないあひるさんね。ああ、やかましいこと。」
そして、さつさとお家へ帰つて来ました。なかなかいぢわるですね。
ところが、あひるさんは泣いて泣いて泣き通しました。「あんな洋服がほしい。あんな洋服がほしい。」と、むりもありません。まだ子供なんですから。
そこで、仕方なく、あひるさんのお母さんはお猫さんとお黒さんのお家へいつて、二匹のお母さんにお話いたしました。
「どうか、うちのあひるさんにも、同じ洋服をこさへて下さるやうに、おねがひして下さいませんか。ほんとにお気毒ですけれども。」
お猫さんたちのお母さんは申しました。
「どうぞ、どうぞ、御遠慮なく。その家は、洋服やさんなのですから、どんな御注文でも、よろこんでお仕立て申し上げます。」
あひるさんのお母さんは大へんよろこびました。そして、「早速、注文にまゐります。あひるさんをつれて。」といつて、とんでかへりました。
それをきいてゐたお猫さんとお黒さんは顔を見合はせて、がつかりいたしました。
後で二匹はお母さんに大へん叱られました。
「あんないぢのわるい事を言ふもんぢやありません。」と。
二匹の顔は真赤になりました。が、幸なことに、顔中毛だらけでしたから、ひとには分りませんでした。寒い寒い冬になりました。お黒さんと、お猫さんの毛はむくむくあたたかさうに一ぱい生へそろつて来ました。それはそれは、可愛らしくなりました。
そこで、お猫さんのお母さんは、あひるさんのお母さんに手紙を書きました。
「大変おさむくなりまして、皆々様お変りもございませんか。私ども、鳥やけものは、冬になりますと、羽根や、毛がりつぱに生へそろひ、まことに美しくなるやうでございます。お宅のアー太郎さん、ヒー太郎さん、ルー太郎さんも、さぞ、さぞ、美しくおなりのことと思ひます。宅のお猫さんも、お黒さんも、大さう美しくなりました。それで、今晩ぜひとも、アー太郎さん、ヒー太郎さん、ルー太郎さんをおつれになつて、おいて下さいませ。おごちさうをたべながら、子供たちのじまんをいたしたうございます。かしこ。」
この手紙を出してから、お母さんは二匹をお風呂に入れました。襟アカ、足アカ、手アカ、そんなものはすつかりとれてしまひました。そして、お猫さんには白い粉をふりかけました。お黒さんには黒い粉をふりかけました。実に見とれるばかりの美しさになつたので、お母さんは、すつかりよろこびました。
夜になりました。あひるさんのお母さんは、御自まんのアー太郎、ヒー太郎、ルー太郎さんをみがきたててつれて来ました。
「ガー、ガー、ガー、ガー」とあひるさんたちは大へんな声を出して、元気よく、お猫さんのお家へ来ました。
「まあ、まあ、なんて、お立派な」といつて、お猫さんのお母さんがおどろいた程、あひるさんたちはきれいだつたのです。しかし、心の中では、「うちのお猫さんたちの方がもつときれいだ。」と思ひました。
あひるさんたちは、テーブルにすわりました。おごち走が出ました。
ところが、お猫さんとお黒さんはなかなか出て来ません。
「あの、失礼でございますが、お猫さんとお黒さんはどうなさいました。」とあひるさんのお母さんがきゝました。
「お猫さん、お黒さん、早くでて来たまへ。ガー、ガー、ガー、ガー」とあひるさんの子供たちがさわぎ出しました。
お猫さんのお母さんは、おごち走のおこしらへやら、あひるさんたちへの御あいさつやらで、かんじんのお猫さんたちのことはほとんど忘れてしまつてゐたのです。
お母さんは家中、さがしました。けれども二匹は見つかりません。それで、も一度さがしましたら、二匹はおねまきをきて、ベツドにはいつて、グーグーねてしまつて、どうしても起きません。
「どうも、すみませんが、どうしても起きてまゐりません。なにしろ、今日、お風呂に二時間もはいつてたもんですから、つかれてしまつたんでございませう。」とお猫さんのお母さんが申しました。ずゐぶん情なかつたでせう。
ところが、何やら、あたりが静かになつたと思つたら、テーブルについたまま、アー太郎さん、ヒー太郎さん、ルー太郎さん、みんなグーグーねこんでしまひました。
「どうもすみません。なにしろ、今日、お風呂に二時間もはいつてたもんですから。」とあひるさんのお母さんがおつしやいました。
それで、その晩の、「子供自慢会」はお止めになりました。 -
塚原健二郎「海からきた卵」福山美奈子朗読
Aug 05, 2018
+目次ミル爺さんは貧しい船乗りでした。若いときからつぎつぎに外国の旅をつづけてきましたので、もう今では大がいの国は知っているのでした。ところがただ一つ日本を知らなかったのです。いつも、印度を通って支那へやってくる爺さんの船は、上海で用をすますと、そこから故郷のフランスの方へ帰っていってしまうのです。
「日本へ行ってみたいな。そしたら、もう船乗りをやめてもいい。」
爺さんはながい間、海の向うにある桜の咲く小さな島国を、絵のように美しく眼にうかべながら、心につぶやくのでした。
この爺さんが、ある日船長から、今度の航海には日本まで行くことになった、ときかされたときのよろこびようたらありませんでした。
「セルゲイ、お爺さんはね、日本へ行くんだよ、日本へ。おまえには、何をおみやげに買って来てやろうね。」
爺さんは、その晩家へかえると、孫のセルゲイをつかまえて、酔っぱらいのようにいくどもいくどもいうのでした。
「ぼく、大将の着た赤い鎧がほしいなあ、かぶとに竜のとまった。」
セルゲイは言いました。いつか絵本で、日本の大将が、まえだてのついた冑と緋おどしの鎧をきて、戦争に行く勇しい姿をみたことがあったからです。
「よし、よし。」
爺さんはにこにこして言いました。
ミル爺さんは、船が長い波の上の旅をつづけている間も、毎日のように受持の甲板の掃除をしながら、日本の港へついたときのことを考えて、胸をわくわくさせていました。爺さんの船は、印度、支那と過ぎて、やがてようようのことで日本につきました。
爺さんは、船が神戸や横浜の港に泊っている間じゅう、めずらしい日本の町々を見物するために、背の高い体を少し前こごみにして、せっせと歩き廻りました。そして大きな百貨店で、首の動く張子の虎だとか、くちばしで鉦をたたく山雀だとか、いろんなめずらしいものを買い集めて、持っていたお給金を大方つかいはたしました。
ある骨董屋の店先で、セルゲイの言ったのにそっくりの、竜のついた冑と赤い鎧をみつけ出したのは船が出帆しようとする前の日でした。
「やア、セルゲイのほしがっている鎧だ。よしよし買って行ってやろう。」
爺さんは、さっそく店に入っていって、船の中で習い出したばかりのまずい日本語でたずねました。
「これ、いくらですか。」
「百五十円です。」
骨董屋の主人は、じろりと爺さんのみすぼらしい服をみて、ぶあいそうにこたえました。
爺さんは、百五十円ときいて、がっかりしましたが、それでも念のため、
「少し、たかいです。」と、言葉をつづりつづり申しました。
「いくらならよろしいのですか。」
そこで、爺さんは、もういくらも入っていないがま口をしらべました。中には十円紙幣が二枚入っていたきりです。
「二十円に。」
爺さんは一生けんめいに申しました。
主人はあまり値段がちがうので、少し腹を立てたのでしょう、だまって首をふりました。爺さんはそれをみると、今はもうあきらめたように、悲しげなようすで、いくどもこの立派な鎧の方をみいみい、暗くなりかけた表の通りへでて行きかけました。
すると後から、骨董屋の主人が「もしもし。」とよびとめました。主人は、爺さんがあまりこの鎧にみとれていたものですから、ひどく気の毒になったとみえて、棚の上から、その鎧にそっくりなのをつけた一尺ばかりの武者人形をおろしてきて、
「これならお安くねがいます。」と言いました。
爺さんは、その人形を眺めて、なるほどこれはいいと思いました。これならセルゲイもよろこぶだろう、それに船の中に持ち込むのに、小さくって、どんなにらくだか知れない。
まもなく爺さんは、四角な桐の箱に入った武者人形の包みをさげて、港の方へかえって行きました。そして、さもまんぞくそうに、つぶやきました。
「やれやれ、やっとセルゲイとの約束をはたすことができた。わしはもう日本もみたし、今度国へかえったら、これで船乗りはやめよう。」ミル爺さんの船が、印度のさる港へ入ったのは、それから十五日目のことでした。爺さんは、はとばに近い酒場で、好きな椰子酒をのんでいると、そこへ船長が入ってきました。
「爺さん、出帆は今夜の十時だよ。おまえ早くかえって用意をしてくれ。」
船長が申しました。
「船長さん、きっと、ひどいあらしがきますよ。さっき燈台のまわりに、鳥がたくさん飛んでいましたからね。」
爺さんは、長年船にのっていますので、夕方燈台のまわりに鳥がとんでいたり、犬の毛がしめっていたりすると、きっとあらしのくるということをよく知っているのでした。
「なに、大丈夫だよ。外にでてみなさい。とてもたくさん星がでているから。」
船長は平気でした。
その晩、出帆したミル爺さんの船は、印度洋のまん中であらしに会い、いつのまにか航路を過って、暗礁にのり上げてしまったのです。
「ボウトを下ろせ、ボウトを下ろせ。」
船長は叫び立てました。かわいそうにミル爺さんは、せっかく日本から買って来た山雀も張子の虎も捨てて、みんなと一しょにボウトに乗りうつりましたが、それでもセルゲイとの約束の武者人形だけはしっかりかかえていたのです。
次の朝ミル爺さんは気がついてみると、海のまん中にある大きな岩の上に倒れていました。そばにいるのは日頃仲のいいコックのジムです。
「ミル爺さん、気がついたかね。」
「おやジムさん、ぜんたいどうしたんだねわしは。ボウトが恐ろしく高い波の上に放りあげられたのを知っているが、それからあとは夢のようだよ。」
ミル爺さんは、ほんとにまだ夢のつづきではないかと、穴のあくほどジムの顔をみつめました。
「あのときボウトがひっくりかえったのさ。そこでおまえさんをかかえて、わしはやっとここまで泳いできたんだよ、のんきだな、ミル爺さんは。」
ジムは笑い出しました。
爺さんは、はじめて、親切なジムのおかげで命びろいをしたのだと知ると、うれしくって涙がぼろぼろこぼれました。それにしても船の人たちはどうしたろうと、遠い沖の方をみると、船はもうすっかり波につかって、帆柱だけが青い海の上にみえます。せっかく爺さんが日本から買ってきた山雀も、武者人形も、みんなきれいに海の底へ沈んでしまったのです。それでも爺さんは海に沈んだ船長さんはじめ大ぜいの仲間たちのことを考えると、武者人形ぐらいなんでもないと思いました。
ミル爺さんとジムは、まず、お日さまにきものをかわかしながら、どうかして沖を通る船をみつけたいものだなどと、話し合いました。それからお腹がすいてなりませんでしたから、岩の上をあちらこちらと食べものをさがして歩きました。が、ひる頃までかかって、やっと蟹を二匹捕っただけです。二人が岩の一ばん高いところに腰かけて、岩かどに蟹の甲を打ちつけては、少しずつ中身を食べていると、ふいに足元のうろの中から、ばたばたと二三羽の小鳥がとび出しました。
「や、ジム、小鳥の巣があるぜ。」
ミル爺さんは叫び出しました。
「そうだ、きっと中に卵があるよ、どら。」
ジムは蟹のあしをくわえたなりで、いきなりうろの中に手をつっこみました。中は生あたたかくて、たしかに丸いすべっこいものが指の先にふれます。
「や、あるある。」
ジムは、爺さんの前に小さな青い色の卵を三つつかみ出しました。それをみるとミル爺さんは、
「おやおや、きれいな卵だね、ジム。それをわしにおくれよ。そうしたら、この蟹をみんなおまえにやってもいい。」と言いました。爺さんは、このめずらしい小鳥の卵を、せめてものみやげにしようと考えたのです。
「ああいいとも。じゃこの蟹はわしがもらったぜ。」
ろくろくお腹の足しにならない小さな卵と、蟹ととりかえることに不足のあろうはずがありません。ジムは大よろこびで、二つの蟹を平らげてしまいました。
「これで、やっとおみやげができたよ。」
ミル爺さんは、うれしそうに言って、その卵を大切にハンカチにつつんで、上着のポケットにしまいこみました。ミル爺さんとジムは、次の朝、運よく沖を通るイギリスの大きな汽船にすくわれました。そして二週間の後まる二カ月ぶりで故郷の港へ帰ってきました。
ミル爺さんは、家へ帰ると、さっそくテイブルのまわりに三人の家族をよんで、はじめてみた日本のこと、それから、難破してイギリス船に助けられたことを、涙をうかべながら語りました。
「つまんないな。じゃあ、お爺さんのおみやげはみんな海の中へ沈んでしまったんだね。」
セルゲイはつまらなそうに言いました。
「そうだ、日本で買ったおみやげはね。だけど、セルゲイや、お爺さんのおみやげは、ちゃんとあるよ。」
爺さんは、笑いながらポケットに手をつっこみました。
セルゲイは、眼をくるくるさせて、ぜんたいお爺さんのポケットからは、何が出るだろうとみつめています。
すると爺さんは、ハンカチにつつんだれいの卵をとり出しました。
「これさ。これがお爺さんのおみやげさ。」
「なんだ、卵か。つまんないな。」
セルゲイはがっかりしたように言って、ころころとテイブルの上で卵をころがしています。
「ああ、これを割ってビスケットにぬって食べるとそりゃおいしいよ。わたしは子どものとき、市長さんのとこのお誕生日に食べさせてもらったことがあったっけ。」
お婆さんは、そばからセルゲイの心をひくように言いました。
「そうだ、婆さんや。早くお茶を入れてビスケットにぬっておやり。」
爺さんは言いました。しかしミル爺さんは、せっかく遠くから大切にして持ってきたのに、今割ってしまうのは惜しいと思いました。
「婆さんや、今度の航海の記念に、せめてこの卵のからだけでもしまっておきたいから、上手に割っておくれ。」
爺さんは言いました。するとセルゲイが、
「ぼく、とてもいいことを考えた。」と言いながら立っていって、戸棚からお皿をもってきて、その上に卵をのせ、針で両はしに穴をあけました。そして上の穴に口をあてて、頬ぺたをふくらましてプープー吹き出しました。中身はだんだんお皿の上に流れ出しました。
これをみてミル爺さんもお婆さんも、お腹をかかえて笑いこけました。
セルゲイは、三つの卵がすっかりからになると、それに糸を通して、お窓につるしました。それはなんともいえない美しい窓かざりでした。お日さまの光があたるたびに、青いからがすきとおって、宝石よりもずっとずっときれいです。
「これはいい思いつきだ。こんな窓かざりは、市長さんの家にだってありやしない。」
爺さんは、子どものように手を打ってよろこびました。ミル爺さんは、それきり船にのることをやめました。そして、よく窓に立って、ぼんやりこのめずらしい窓かざりをながめました。こんなとき、爺さんの顔は、晴れ晴れといかにも幸福そうにかがやきました。
爺さんはある日セルゲイに、こんなことをいいました。
「セルゲイや、わしはこれをみていると、海の上でみたお星さまを思い出すよ。いつも北の方に光っていた、北極星のことをね。そうだ、おまえが大きくなってから、どんないいものをお爺さんにおくってくれたとしても、きっと、これには及ばないだろうよ。 -
新美南吉「花のき村と盗人たち」福山美奈子朗読
36.65
May 02, 2018むかし、花のき村に、五人組の盗人がやって来ました。
それは、若竹が、あちこちの空に、かぼそく、ういういしい緑色の芽をのばしている初夏のひるで、松林では松蝉が、ジイジイジイイと鳴いていました。
盗人たちは、北から川に沿ってやって来ました。花のき村の入り口のあたりは、すかんぽやうまごやしの生えた緑の野原で、子供や牛が遊んでおりました。これだけを見ても、この村が平和な村であることが、盗人たちにはわかりました。そして、こんな村には、お金やいい着物を持った家があるに違いないと、もう喜んだのでありました。
川は藪の下を流れ、そこにかかっている一つの水車をゴトンゴトンとまわして、村の奥深くはいっていきました。
藪のところまで来ると、盗人のうちのかしらが、いいました。
「それでは、わしはこの藪のかげで待っているから、おまえらは、村のなかへはいっていって様子を見て来い。なにぶん、おまえらは盗人になったばかりだから、へまをしないように気をつけるんだぞ。金のありそうな家を見たら、そこの家のどの窓がやぶれそうか、そこの家に犬がいるかどうか、よっくしらべるのだぞ。いいか釜右ヱ門。」
「へえ。」
と釜右ヱ門が答えました。これは昨日まで旅あるきの釜師で、釜や茶釜をつくっていたのでありました。
「いいか、海老之丞。」
「へえ。」
と海老之丞が答えました。これは昨日まで錠前屋で、家々の倉や長持などの錠をつくっていたのでありました。
「いいか角兵ヱ。」
「へえ。」
とまだ少年の角兵ヱが答えました。これは越後から来た角兵ヱ獅子で、昨日までは、家々の閾の外で、逆立ちしたり、とんぼがえりをうったりして、一文二文の銭を貰っていたのでありました。
「いいか鉋太郎。」
「へえ。」
と鉋太郎が答えました。これは、江戸から来た大工の息子で、昨日までは諸国のお寺や神社の門などのつくりを見て廻り、大工の修業していたのでありました。
「さあ、みんな、いけ。わしは親方だから、ここで一服すいながらまっている。」
そこで盗人の弟子たちが、釜右ヱ門は釜師のふりをし、海老之丞は錠前屋のふりをし、角兵ヱは獅子まいのように笛をヒャラヒャラ鳴らし、鉋太郎は大工のふりをして、花のき村にはいりこんでいきました。
かしらは弟子どもがいってしまうと、どっかと川ばたの草の上に腰をおろし、弟子どもに話したとおり、たばこをスッパ、スッパとすいながら、盗人のような顔つきをしていました。これは、ずっとまえから火つけや盗人をして来たほんとうの盗人でありました。
「わしも昨日までは、ひとりぼっちの盗人であったが、今日は、はじめて盗人の親方というものになってしまった。だが、親方になって見ると、これはなかなかいいもんだわい。仕事は弟子どもがして来てくれるから、こうして寝ころんで待っておればいいわけである。」
とかしらは、することがないので、そんなつまらないひとりごとをいってみたりしていました。
やがて弟子の釜右ヱ門が戻って来ました。
「おかしら、おかしら。」
かしらは、ぴょこんとあざみの花のそばから体を起こしました。
「えいくそッ、びっくりした。おかしらなどと呼ぶんじゃねえ、魚の頭のように聞こえるじゃねえか。ただかしらといえ。」
盗人になりたての弟子は、
「まことに相すみません。」
とあやまりました。
「どうだ、村の中の様子は。」
とかしらがききました。
「へえ、すばらしいですよ、かしら。ありました、ありました。」
「何が。」
「大きい家がありましてね、そこの飯炊き釜は、まず三斗ぐらいは炊ける大釜でした。あれはえらい銭になります。それから、お寺に吊ってあった鐘も、なかなか大きなもので、あれをつぶせば、まず茶釜が五十はできます。なあに、あっしの眼に狂いはありません。嘘だと思うなら、あっしが造って見せましょう。」
「馬鹿馬鹿しいことに威張るのはやめろ。」
とかしらは弟子を叱りつけました。
「きさまは、まだ釜師根性がぬけんからだめだ。そんな飯炊き釜や吊り鐘などばかり見てくるやつがあるか。それに何だ、その手に持っている、穴のあいた鍋は。」
「へえ、これは、その、或る家の前を通りますと、槙の木の生け垣にこれがかけて干してありました。見るとこの、尻に穴があいていたのです。それを見たら、じぶんが盗人であることをつい忘れてしまって、この鍋、二十文でなおしましょう、とそこのおかみさんにいってしまったのです。」
「何というまぬけだ。じぶんのしょうばいは盗人だということをしっかり肚にいれておらんから、そんなことだ。」
と、かしらはかしららしく、弟子に教えました。そして、
「もういっぺん、村にもぐりこんで、しっかり見なおして来い。」
と命じました。釜右ヱ門は、穴のあいた鍋をぶらんぶらんとふりながら、また村にはいっていきました。
こんどは海老之丞がもどって来ました。
「かしら、ここの村はこりゃだめですね。」
と海老之丞は力なくいいました。
「どうして。」
「どの倉にも、錠らしい錠は、ついておりません。子供でもねじきれそうな錠が、ついておるだけです。あれじゃ、こっちのしょうばいにゃなりません。」
「こっちのしょうばいというのは何だ。」
「へえ、……錠前……屋。」
「きさまもまだ根性がかわっておらんッ。」
とかしらはどなりつけました。
「へえ、相すみません。」
「そういう村こそ、こっちのしょうばいになるじゃないかッ。倉があって、子供でもねじきれそうな錠しかついておらんというほど、こっちのしょうばいに都合のよいことがあるか。まぬけめが。もういっぺん、見なおして来い。」
「なるほどね。こういう村こそしょうばいになるのですね。」
と海老之丞は、感心しながら、また村にはいっていきました。
次にかえって来たのは、少年の角兵ヱでありました。角兵ヱは、笛を吹きながら来たので、まだ藪の向こうで姿の見えないうちから、わかりました。
「いつまで、ヒャラヒャラと鳴らしておるのか。盗人はなるべく音をたてぬようにしておるものだ。」
とかしらは叱りました。角兵ヱは吹くのをやめました。
「それで、きさまは何を見て来たのか。」
「川についてどんどん行きましたら、花菖蒲を庭いちめんに咲かせた小さい家がありました。」
「うん、それから?」
「その家の軒下に、頭の毛も眉毛もあごひげもまっしろな爺さんがいました。」
「うん、その爺さんが、小判のはいった壺でも縁の下に隠していそうな様子だったか。」
「そのお爺さんが竹笛を吹いておりました。ちょっとした、つまらない竹笛だが、とてもええ音がしておりました。あんな、不思議に美しい音ははじめてききました。おれがききとれていたら、爺さんはにこにこしながら、三つ長い曲をきかしてくれました。おれは、お礼に、とんぼがえりを七へん、つづけざまにやって見せました。」
「やれやれだ。それから?」
「おれが、その笛はいい笛だといったら、笛竹の生えている竹藪を教えてくれました。そこの竹で作った笛だそうです。それで、お爺さんの教えてくれた竹藪へいって見ました。ほんとうにええ笛竹が、何百すじも、すいすいと生えておりました。」
「昔、竹の中から、金の光がさしたという話があるが、どうだ、小判でも落ちていたか。」
「それから、また川をどんどんくだっていくと小さい尼寺がありました。そこで花の撓がありました。お庭にいっぱい人がいて、おれの笛くらいの大きさのお釈迦さまに、あま茶の湯をかけておりました。おれもいっぱいかけて、それからいっぱい飲ましてもらって来ました。茶わんがあるならかしらにも持って来てあげましたのに。」
「やれやれ、何という罪のねえ盗人だ。そういう人ごみの中では、人のふところや袂に気をつけるものだ。とんまめが、もういっぺんきさまもやりなおして来い。その笛はここへ置いていけ。」
角兵ヱは叱られて、笛を草の中へおき、また村にはいっていきました。
おしまいに帰って来たのは鉋太郎でした。
「きさまも、ろくなものは見て来なかったろう。」
と、きかないさきから、かしらがいいました。
「いや、金持ちがありました、金持ちが。」
と鉋太郎は声をはずませていいました。金持ちときいて、かしらはにこにことしました。
「おお、金持ちか。」
「金持ちです、金持ちです。すばらしいりっぱな家でした。」
「うむ。」
「その座敷の天井と来たら、さつま杉の一枚板なんで、こんなのを見たら、うちの親父はどんなに喜ぶかも知れない、と思って、あっしは見とれていました。」
「へっ、面白くもねえ。それで、その天井をはずしてでも来る気かい。」
鉋太郎は、じぶんが盗人の弟子であったことを思い出しました。盗人の弟子としては、あまり気が利かなかったことがわかり、鉋太郎はバツのわるい顔をしてうつむいてしまいました。
そこで鉋太郎も、もういちどやりなおしに村にはいっていきました。
「やれやれだ。」
と、ひとりになったかしらは、草の中へ仰向けにひっくりかえっていいました。
「盗人のかしらというのもあんがい楽なしょうばいではないて。」 -
蘭郁二郎 「息を止める男」福山美奈子朗読
13.60
Sep 28, 2017息を止める男
蘭郁二郎
無くて七癖というように誰れでも癖は持っているものだが、水島の癖は又一風変っていた。それは貴方にお話してもおそらくは信じてくれないだろうと思うがその癖は『息を止める』ということなのである。
私も始め友人から聞いた時は冗談かと信じなかったが、一日彼の家に遊びに行った時に笑い乍ら訊いてみると、彼は頗る真面目でそれを肯定するのである。私も不思議に思ってどうしてそんなことをするのかと聞いてみたが彼は首を振るばかりでなかなか話してくれなかった。
然し話してくれないと尚聞き度くなるものであるし、又あまり変なことなので好奇心に馳られた私はどこまでも五月蠅く追窮したので、水島もとうとう笑いながら話してくれた。
『その話はね、誰れでも五月蠅く聞くんだ、その癖皆んな途中で莫迦らしいと笑って了うんだ。それで僕もあまり話したくないんだ。まあ話を聞くよりは自分で一寸息を止めてみ給え、始めの二三十秒はなんでもないかも知れないが、仕舞いになるとこめかみの辺の脈管の搏動が頭の芯まで響いて来る。胸の中は空っぽになってわくわくと込み上げる様になる――遂、堪らなくなって、ハアーと大きく息を吸うと胸の中の汚いものがすっかり嘔き出されたようにすがすがしい気持になって、虐げられた心臓は嬉しそうに生れ変ったような新らしい力でドキンドキンと動き出す。
僕はその胸のわくわくする快感が堪らなく好きなのだ。ハアーと大きく息する時の気持、快よい心臓の響き。僕は是等の快感を味わう為には何物も惜しくないと思っている』
水島はそう言って、この妙な話を私が真面目に聞いているかどうかを確かめるように私の顔を見てから又話しを続けた。
『しかし、近頃一つ心配な事が起って来たのだ、よく阿片中毒者――イヤそんな例をとらなくてもいい、煙草のみでも酒のみでも――などが始めの中はこんなものが、と思ってそれを続けて行く中には何時しかそれが恍惚の夢を齎すのだ、斯う習慣になってくると今度はその吸飲量を増さなければ満足しなくなる、馥郁たる幻を追うことが出来なくなる。それと同じに僕も最初のうちは四五十秒から一分もすると全身がうずうずして言い知れぬ快感に身をもだえたものなのに、それがこの頃は五分になり、十分になり、今では十五分以上も息を止めていても平気なのだ、だけど僕は少しも恐れていない、この素晴らしい快感の為には僕の命位は余りに小さいものだ、それに海女なども矢張り必要上の練習から、随分長く海に潜っていられるということも聞いているからね、海女といえばどうして彼女等はあの戦慄的な業に満足しているのだろうか、僕は矢張あの舟べりにもたれて大きく息する時の快感が潜在的にある為だと思うね』
水島はそう言って又私の顔を覗くようにして笑った。
然し私はまだそれが信じられなかった、息を止めてその快感を味う! 私はそれがとてつもない大嘘のように思われたり、本当かも知れないという気もした、その上十五分以上も息を止めて平気だというのだから――
水島は私の信じられないような様子を見てか、子供にでもいうように、
『君は嘘だと思うんだね、そりゃ誰だってすぐには信じられないだろうさ。嘘か本当か今実験して見様じゃないか』
私はぼんやりしていたが水島はそんなことにお構いなく、
『さあ、時計でも見てくれ給え』
斯ういうと彼は椅子に深か深かと腰を掛けなおした。
彼が斯う無造作にして来ると、私にも又持前の好奇心が動き始めた。
『一寸。今三時三十八分だからもう二分してきっちり四十分からにしよう』
というと水島は相変らず無造作に『ウン』と軽くいったきり目をつぶっている、斯うなると私の好奇心はもう押えきれなくなって了った。
『よおし、四十分だ』
私は胸を躍らせながら言った、水島はそれと同時に大きく息を吸い込んで悪戯っ子のように眼をぱちぱちして見せた。
私は十五分間やっとこらえた、私は不安になって来たのである、耐えられない沈黙と重苦しい雰囲気が部屋一杯に覆いかかっている、墓石のような顔色をした彼の額には青黒い静脈が絛虫のようにうねって、高くつき出た頬骨の下の青白いくぼみには死の影が浮動している。
私はこの洞穴のような空虚に堪えられなくなった、そして追い立てられるように椅子から立つと彼に近寄って、恰度取合せた仁丹の容器に付いている鏡をとり出すとよく検死医がするようにそれを口元に近付けて見た、矢張り鏡は曇らない、彼は完全に呼吸をしてないのだ……私は押しもどされるように椅子に帰って腰を掛けなおした。
四時。もう二十分も経った。その瞬間不吉な想像が後頭部に激しい痛みを残して通り過ぎた。彼は自殺したのではないかしら、日頃変り者で通っている彼のことだ、自殺するに事を欠いて親しい友人の私の面前で一生に一度の大きな芝居を仕乍ら死んで行こうとしているのではないだろうか、死の道程を見詰めている。そんな不吉な幻が私に軽い眩暈を感ぜしめた。
彼の顔は不自然に歪んで来た、歪んだ頬はひきつけたように震えた。私は自分を落付ける為に勢一杯の努力をした、然し遂にはこの重苦しい雰囲気の重圧には耐えられなくなって了った、そうして、死の痙攣、断末魔の苦悶、そんな妙な形容詞が脳裏に浮んだ瞬間私は腰掛けていた椅子をはねのけて彼を抱き起し、力一杯ゆすぶって目をさまさせようと大声で水島の名を呼んでいたのだった――。
私のこの狂人染みた動作が効を奏してか、彼の青白い顔には次第に血の気が表われて来た。然しそうして少しの後、口が听けるようになると直ぐ乾からびた声で、
『駄目だなァ君は、今やっと最後の快感にはいり始めたのに……』そういって力のない瞳で私を見詰めるのだった。けれど私は水島にそういわれ乍らもなんとなく安心した様な気持になって、彼の言葉を淡く聞いていたのである。私はあの息を止めるという不可能な実験の後、私の好奇心は急に水島に興味を覚えて、暇をみては彼の家に遊びに行くのが何時からとはなく例になっていた。
所が或る日、何時もの通り水島を訪れると恰度又彼があの不可思議な『眠り』をして居るところに行き合った、今見た彼の様子はいかにも幸福そうな、物静かな寝顔であった、この前は初めての事なので無意識の不安が彼の顔に死の連想を見せたのかも知れない……。
私はこの前のように周章て起して機嫌を悪くされてもつまらぬから、そっと其儘にして見ているとしばらくして彼は目をさました。
そうして二十分も息を止めている間の奇怪な幻覚を話してくれたのである。それがどんな妖しい話であったか。
『僕が息を止めている間に様々な幻の世界を彷徨するというとさも大嘘のように思うだろうがまあ聞いてくれ給え。
例えばこの「息を止める」ということに一番近い状態は外界からの一切の刺激を断った「眠り」という状態だ、この不可思議な状態は凡ての人々が余りにも多く経験するので、それに就いて少しでも深く考えようとしないのは随分軽卒だということが出来る、君、この「眠り」の中にどんな知られぬ世界が蠢いていることか……、そして又君は屡々寝ている間にどうしても解けなかった試験問題の解を得たり、或は素晴らしい小説の筋を思い付いたりして所謂霊感を感じるというようなことを聞いたり、或は君自身も経験したことがあると思う、それというのも皆この第二次以上の空間を隙見して来たに過ぎないのだ、ところが君、この「眠り」にも未だ現世との連絡がある、それは呼吸だ、それがある為に人々はまだ幻の世界に遊ぶことが出来ないのだ、併し僕は其唯一の連絡を切断して了ったのだ――。
人は皆胎児の間に一度は必ず是等の幻の世界に遊び、そうして其途上に何か収穫のあったものが生を享けてからこの現実の世界に於て学者となり、芸術家となり、又は犯罪者となるのだ。
幻の世界は一つではない、清澄な詩の国もあれば、陰惨な犯罪の国もある。昔、仏教は訓えた、次の世界に極楽と地獄のあることを、それを思い合わせて見ると、この地獄極楽を訓えた者も或は僕の如くこの幻の世界の彷徨者であったかも知れぬ』