吉川英治
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吉川英治「三国志」 義盟 朗読岡田慎平
41.80
Nov 01, 2017一
桃園へ行ってみると、関羽と張飛のふたりは、近所の男を雇ってきて、園内の中央に、もう祭壇を作っていた。
壇の四方には、笹竹を建て、清縄をめぐらして金紙銀箋の華をつらね、土製の白馬を贄にして天を祭り、烏牛を屠ったことにして、地神を祠った。
「やあ、おはよう」
劉備が声をかけると、
「おお、お目ざめか」
張飛、関羽は、振向いた。
「見事に祭壇ができましたなあ。寝る間はなかったでしょう」
「いや、張飛が、興奮して、寝てから話しかけるので、ちっとも眠る間はありませんでしたよ」
と、関羽は笑った。
張飛は劉備のそばへきて、
「祭壇だけは立派にできたが、酒はあるだろうか」
心配して訊ねた。
「いや、母が何とかしてくれるそうです。今日は、一生一度の祝いだといっていますから」
「そうか、それで安心した。しかし劉兄、いいおっ母さんだな。ゆうべからそばで見ていても、羨しくてならない」
「そうです。自分で自分の母を褒めるのもへんですが、子に優しく世に強い母です」
「気品がある、どこか」
「失礼だが、劉兄には、まだ夫人はないようだな」
「ありません」
「はやくひとり娶らないと、母上がなんでもやっている様子だが、あのお年で、お気の毒ではないか」
「…………」
劉備は、そんなことを訊かれたので、またふと、忘れていた鴻芙蓉の佳麗なすがたを思い出してしまった。
で、つい答えを忘れて、何となく眼をあげると、眼の前へ、白桃の花びらが、霏々と情あるもののように散ってきた。
「劉備や。皆さんも、もうお支度はよろしいのですか」
厨に見えなかった母が、いつの間にか、三名の後ろにきて告げた。
三名が、いつでもと答えると、母はまた、いそいそと厨房のほうへ去った。
近隣の人手を借りてきたのであろう。きのう張飛の姿を見て、きゃっと魂消て逃げた娘も、その娘の恋人の隣家の息子も、ほかの家族も、大勢して手伝いにきた。
やがて、まず一人では持てないような酒瓶が祭壇の莚へ運ばれてきた。
それから豚の仔を丸ごと油で煮たのや、山羊の吸物の鍋や、干菜を牛酪で煮つけた物だの、年数のかかった漬物だの――運ばれてくるごとに、三名は、その豪華な珍味の鉢や大皿に眼を奪われた。
劉備さえ、心のうちで、
「これは一体、どうしたことだろう」と、母の算段を心配していた。
そのうちにまた、村長の家から、花梨の立派な卓と椅子がかつがれてきた。
「大饗宴だな」
張飛は、子どものように、歓喜した。
準備ができると、手伝いの者は皆、母屋へ退がってしまった。
三名は、
「では」
と、眼を見合せて、祭壇の前の蓆へ坐った。そして天地の神へ、
「われらの大望を成就させ給え」
と、祈念しかけると、関羽が、
「ご両所。少し待ってくれ」
と、なにか改まっていった。 -
吉川英治「三国志」 三花一瓶一二 朗読岡田慎平
吉川英治「三国志」 三花一瓶三四 朗読岡田慎平
吉川英治「三国志」 三花一瓶五 六 朗読岡田慎平
一
母と子は、仕事の庭に、きょうも他念なく、蓆機に向って、蓆を織っていた。
がたん……
ことん
がたん
水車の回るような単調な音がくり返されていた。
だが、その音にも、きょうはなんとなく活気があり、歓喜の譜があった。
黙々、仕事に精だしてはいるが、母の胸にも、劉備の心にも、今日この頃の大地のように、希望の芽が生々と息づいていた。
ゆうべ。
劉備は、城内の市から帰ってくると、まっ先に、二つの吉事を告げた。
一人の良き友に出会った事と、かねて手放した家宝の剣が、計らず再び、自分の手へ返ってきた事と。
そう二つの歓びを告げると、彼の母は、
「一陽来復。おまえにも時節が来たらしいね。劉備や……心の支度もよいかえ」
と、かえって静かに声を低め、劉備の覚悟を糺すようにいった。
時節。……そうだ。
長い長い冬を経て、桃園の花もようやく蕾を破っている。土からも草の芽、木々の枝からも緑の芽、生命のあるもので、萌え出ない物はなに一つない。
がたん……
ことん……
蓆機は単調な音をくりかえしているが、劉備の胸は単調でない。こんな春らしい春をおぼえたことはない。
――我は青年なり。
空へ向って言いたいような気持である。いやいや、老いたる母の肩にさえ、どこからか舞ってきた桃花の一片が、紅く点じているではないか。
すると、どこかで、歌う者があった。十二、三歳の少女の声だった。妾ガ髪初メテ額ヲ覆ウ
花ヲ折ッテ門前ニ戯レ
郎ハ竹馬ニ騎シテ来リ
床ヲ繞ッテ青梅ヲ弄ス劉備は、耳を澄ました。
少女の美音は、近づいてきた。……十四君ノ婦ト為ッテ
羞顔未ダ嘗テ開カズ
十五初メテ眉を展ベ
願ワクバ塵ト灰トヲ共ニセン
常ニ抱柱ノ信ヲ存シ
豈上ランヤ望夫台
十六君遠クヘ行ク近所に住む少女であった。早熟な彼女はまだ青い棗みたいに小粒であったが、劉備の家のすぐ墻隣の息子に恋しているらしく、星の晩だの、人気ない折の真昼などうかがっては、墻の外へきて、よく歌をうたっていた。
「…………」
劉備は、木蓮の花に黄金の耳環を通したような、少女の貌を眼にえがいて、隣の息子を、なんとなく羨ましく思った。
そしてふと、自分の心の底からも一人の麗人を思い出していた。それは、三年前の旅行中、古塔の下であの折の老僧にひき合わされた鴻家の息女、鴻芙蓉のその後の消息であった。
――どうしたろう。あれから先。
張飛に訊けば、知っている筈である。こんど張飛に会ったら――など独り考えていた。
すると、墻の外で、しきりに歌をうたっていた少女が、犬にでも噛まれたのか、突然、きゃっと悲鳴をあげて、どこかへ逃げて行った。 -
岡田慎平朗読『三国志』吉川英治 橋畔風談1,2
橋畔風談「三国志」 吉川英治 岡田慎平朗読蟠桃河の水は紅くなった。両岸の桃園は紅霞をひき、夜は眉のような月が香った。
けれど、その水にも、詩を詠む人を乗せた一艘の舟もないし、杖をひいて逍遥する雅人の影もなかった。
「おっ母さん、行ってきますよ」
「ああ、行っておいで」
「なにか城内からおいしい物でも買ってきましょうかね」
劉備は、家を出た。
沓や蓆をだいぶ納めてある城内の問屋へ行って、価を取ってくる日だった。
午から出ても、用達をすまして陽のあるうちに、らくに帰れる道のりなので、劉備は驢にものらなかった。
いつか羊仙のおいて行った山羊がよく馴れて、劉備の後についてくるのを、母が後ろで呼び返していた。
城内は、埃ッぽい。
雨が久しくなかったので、沓の裏がぽくぽくする。劉備は、問屋から銭を受け取って、脂光りのしている市の軒なみを見て歩いていた。
蓮根の菓子があった。劉備はそれを少し買い求めた。――けれど少し歩いてから、
「蓮根は、母の持病に悪いのじゃないか」と、取換えに戻ろうかと迷っていた。
がやがやと沢山な人が辻に集まっている。いつもそこは、野鴨の丸揚げや餅など売っている場所なので、その混雑かと思うていたが、ふと見ると、大勢の頭の上に、高々と、立札が見えている。
「何だろ?」
彼も、好奇にかられて、人々のあいだから高札を仰いだ。
見ると――遍く天下に義勇の士を募るという布告の文であった。
黄巾の匪、諸州に蜂起してより、年々の害、鬼畜の毒、惨として蒼生に青田なし。
今にして、鬼賊を誅せずんば、天下知るべきのみ。
太守劉焉、遂に、子民の泣哭に奮って討伐の天鼓を鳴らさんとす。故に、隠れたる草廬の君子、野に潜むの義人、旗下に参ぜよ。
欣然、各子の武勇に依って、府に迎えん。郡校尉鄒靖
「なんだね、これは」
「兵隊を募っているのさ」
「ああ、兵隊か」
「どうだ、志願して行って、ひと働きしては」
「おれなどはだめだ。武勇もなにもない。ほかの能もないし」
「誰だって、そう能のある者ばかり集まるものか。こう書かなくては、勇ましくないからだよ」
「なるほど」
「憎い黄匪めを討つんだ、槍の持ち方が分らないうちは、馬の飼糧を刈っても軍の手伝いになる。おれは行く」
ひとりがつぶやいて去ると、そのつぶやきに決心を固めたように、二人去り、三人去り、皆、城門の役所のほうへ力のある足で急いで行った。
「…………」
劉備は、時勢の跫音を聞いた。民心のおもむく潮を見た。
――が。蓮根の菓子を手に持ったまま、いつまでも、考えていた。誰もいなくなるまで、高札と睨み合って考えていた。
「……ああ」
気がついて、間がわるそうに、そこから離れかけた。すると、誰か、楊柳のうしろから、
「若人。待ち給え」
と、呼んだ者があった。 -
吉川英治 岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻 桑の家一 二
吉川英治 岡田慎平朗読,「三国志」桃園の巻 桑の家 三 四
吉川英治 岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻 桑の家五.六
吉川英治 岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻 桑の家 七 八 九
県の楼桑村は、戸数二、三百の小駅であったが、春秋は北から南へ、南から北へと流れる旅人の多くが、この宿場で驢をつなぐので、酒を売る旗亭もあれば、胡弓を弾くひなびた妓などもいて相当に賑わっていた。
この地はまた、太守劉焉の領内で、校尉鄒靖という代官が役所をおいて支配していたが、なにぶん、近年の物情騒然たる黄匪の跳梁に脅かされているので、楼桑村も例にもれず、夕方になると明るいうちから村はずれの城門をかたく閉めて、旅人も居住者も、いっさいの往来は止めてしまった。
城門の鉄扉が閉まる時刻は、大陸の西にまっ赤な太陽が沈みかける頃で、望楼の役人が、六つの鼓を叩くのが合図だった。
だからこの辺の住民は、そこの門のことを、六鼓門と呼んでいたが、今日もまた、赤い夕陽が鉄の扉にさしかける頃、望楼の鼓が、もう二つ三つ四つ……と鳴りかけていた。
「待って下さい。待って下さいっ」
彼方から驢を飛ばしてきたひとりの旅人は、危うく一足ちがいで、一夜を城門の外に明かさなければならない間ぎわだったので、手をあげながら馳けてきた。
最後の鼓の一つが鳴ろうとした時、からくも旅人は、城門へ着いて、
「おねがい致します。通行をおゆるし下さいまし」
と、驢をそこで降りて、型のごとく関門調べを受けた。
役人は、旅人の顔を見ると、「やあ、お前は劉備じゃないか」と、いった。
劉備は、ここ楼桑村の住民なので、誰とも顔見知りだった。
「そうです。今、旅先から帰って参ったところです」
「お前なら、顔が手形だ、何も調べはいらないが、いったい何処へ行ったのだ。こんどの旅はまた、ばかに長かったじゃないか」
「はい、いつもの商用ですが、なにぶん、どこへ行っても近頃は、黄匪の横行で、思うように商いもできなかったものですから」
「そうだろう。関門を通る旅人も、毎日へるばかりだ。さあ、早く通れ」
「ありがとう存じます」
再び驢にのりかけると、
「そうそう、お前の母親だろう、よく関門まで来ては、きょうもまだ息子は帰りませぬか、今日も劉備は通りませぬかと、夕方になると訊ねにきたのが、この頃すがたが見えぬと思ったらわずらって寝ているのだぞ。はやく帰って顔を見せてやるがよい」
「えっ。では母は、留守中に、病気で寝ておりますか」
劉備はにわかに胸さわぎを覚え、驢を急がせて、関門から城内へ馳けた。
久しく見ない町の暮色にも、眼もくれないで彼は驢を家路へ向けた。道幅の狭い、そして短い宿場町はすぐとぎれて、道はふたたび悠長な田園へかかる。
ゆるい小川がある。水田がある。秋なのでもう村の人々は刈入れにかかっていた。そして所々に見える農家のほうへと、田の人影も水牛の影も戻って行く。
「ああ、わが家が見える」
劉備は、驢の上から手をかざした。舂く陽のなかに黒くぽつんと見える一つの屋根と、そして遠方から見ると、まるで大きな車蓋のように見える桑の木。劉備の生れた家なのである。
「どんなに自分をお待ちなされておることやら。……思えば、わしは孝養を励むつもりで、実は不孝ばかり重ねているようなもの。母上、済みません」
彼の心を知るか、驢も足を早めて、やがて懐かしい桑の大樹の下までたどりついた。 -
岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻吉川英治 張飛卒三
岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻吉川英治 張飛卒四三国志
桃園の巻
吉川英治
卒の張飛が、いきなり李朱氾をつまみ上げて、宙へ投げ飛ばしたので、
「やっ、こいつが」と、賊の小方たちは、劉備もそっちのけにして、彼へ総掛りになった。
「やい張卒、なんで貴様は、味方の李小方を投げおったか。また、おれ達のすることを邪魔だてするかっ」
「ゆるさんぞ。ふざけた真似すると」
「党の軍律に照らして、成敗してくれる。それへ直れ」
ひしめき寄ると、張は、
「わははははは。吠えろ吠えろ。胆をつぶした野良犬めらが」
「なに、野良犬だと」
「そうだ。その中に一匹でも、人間らしいのがおるつもりか」
「うぬ。新米の卒の分際で」
喚いた一人が、槍もろとも、躍りかかると、張飛は、団扇のような大きな手で、その横顔をはりつけるや否や、槍を引ッたくって、よろめく尻をしたたかに打ちのめした。
槍の柄は折れ、打たれた賊は、腰骨がくだけたように、ぎゃっともんどり打った。
思わぬ裏切者が出て、賊は狼狽したが、日頃から図抜けた巨漢の鈍物と、小馬鹿にしていた卒なので、その怪力を眼に見ても、まだ張飛の真価を信じられなかった。
張飛は、さながら岩壁のような胸いたをそらして、
「まだ来るか。むだな生命を捨てるより、おとなしく逃げ帰って、鴻家の姫と劉備の身は、先頃、県城を焼かれて鴻家の亡びた時、降参と偽って、黄巾賊の卒にはいっていた張飛という者の手に渡しましたと、有態に報告しておけ」
青空文庫より -
岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻吉川英治
どういう悪日と凶い方位をたどってきたものだろうか。
黄河の畔から、ここまでの間というものは、劉備は、幾たび死線を彷徨したことか知れない。これでもかこれでもかと、彼を試さんとする百難が、次々に形を変えて待ちかまえているようだった。
「もうこれまで」
劉備もついに観念した。避けようもない賊の包囲だ。斬り死せんものと覚悟をきめた。
けれど身には寸鉄も帯びていない。少年時代から片時もはなさず持っていた父の遺物の剣も、先に賊将の馬元義に奪られてしまった。
劉備は、しかし、
「ただは死なぬ」と思い、石ころをつかむが早いか、近づく者の顔へ投げつけた。
見くびっていた賊の一名は、不意を喰らって、
「あッ」と、鼻ばしらをおさえた。
劉備は、飛びついて、その槍を奪った。そして大音に、
「四民を悩ます害虫ども、もはや免しはおかぬ。県の劉備玄徳が腕のほどを見よや」
といって、捨身になった。
賊の小方、李朱氾は笑って、
「この百姓めが」と半月槍をふるってきた。
もとより劉備はさして武術の達人ではない。田舎の楼桑村で、多少の武技の稽古はしたこともあるが、それとて程の知れたものだ。武技を磨いて身を立てることよりも、蓆を織って母を養うことのほうが常に彼の急務であった。
でも、必死になって、七人の賊を相手に、ややしばらくは、一命をささえていたが、そのうちに、槍を打落され、よろめいて倒れたところを、李朱氾に馬のりに組み敷かれて、李の大剣は、ついに、彼の胸いたに突きつけられた。一
白馬は疎林の細道を西北へ向ってまっしぐらに駆けて行った。秋風に舞う木の葉は、鞍上の劉備と芙蓉の影を、征箭のようにかすめた。
やがて曠い野に出た。
野に出ても、二人の身をなお、箭うなりがかすめた。今度のは木の葉のそれではなく、鋭い鏃をもった鉄弓の矢であった。
「オ。あれへ行くぞ」
「女をのせて――」
「では違うのか」
「いや、やはり劉備だ」
「どっちでもいい。逃がすな。女も逃がすな」
賊兵の声々であった。
疎林の陰を出たとたんに、黄巾賊の一隊は早くも見つけてしまったのである。
獣群の声が、鬨をつくって、白馬の影を追いつめて来た。
劉備は、振り向いて、
「しまった!」
思わずつぶやいたので、彼と白馬の脚とを唯一の頼みにしがみついていた芙蓉は、
「ああ、もう……」
消え入るようにおののいた。
万が一つも、助からぬものとは観念しながらも、劉備は励まして、
「大丈夫、大丈夫。ただ、振り落されないように、駒の鬣と、私の帯に、必死でつかまっておいでなさい」と、いって、鞭打った。
芙蓉はもう返事もしない。ぐったりと鬣に顔をうつ伏せている。その容貌の白さはおののく白芙蓉の花そのままだった。劉備が、眼をくばると、
「いや、動かぬがよい。しばらくは、かえってここに、じっとしていたほうが……」
と、老僧が彼の袖をとらえ、そんな危急の中になお、語りつづけた。
県の城長の娘は、名を芙蓉といい姓は鴻ということ。また、今夜近くの河畔にきて宿陣している県軍は、きっと先に四散した城長の家臣が、残兵を集めて、黄巾賊へ報復を計っているに違いないということ。
だから、芙蓉の身を、そこまで届けてくれさえすれば、後は以前の家来たちが守護してくれる――白馬の背へ二人してのって、抜け道から一気に逃げのびて行くように――と、祷るようにいうのだった。(早く。早く)といわんばかりに、無言の縄は外から意志を伝えて、ゆれうごいている。
劉備は、それにつかまった。石壁に足をかけて、窓から外を見た。
「……オオ」
外にたたずんでいたのは、昼間、ただひとりで曲に腰かけていたあの老僧だ。骨と皮ばかりのような彼の細い影であった。
「――今だよ」
その手がさしまねく。
劉備はすぐ地上へ跳びおりた。待っていた老僧は、彼の身を抱えるようにして、物もいわず馳けだした。
寺の裏に、疎林があった。樹の間の細道さえ、銀河の秋はほの明るい。
「老僧、老僧。いったいどっちへ逃げるんですか」
「まだ、逃げるのじゃない」
「では、どうするんです」
「あの塔まで行ってもらうのじゃよ」
走りながら、老僧は指さした。
見るとなるほど、疎林の奥に、疎林の梢よりも、高くそびえている古い塔がある。老僧は、あわただしく古塔の扉をひらいて中へ隠れた。そしてあんなに急いだのに、なかなか出てこなかった。
「どうしたのだろう?」
劉備は気を揉んでいる。そして賊兵が追ってきはしまいかと、あちこち見まわしているとやがて、
「青年、青年」
小声で呼びながら、塔の中から老僧は何かひきながら出てきた。
「おや?」
劉備は眼をみはった。老僧が引っぱっているのは駒の手綱だった。銀毛のように美しい白馬がひかれだしたのである。劉備は縛められて、斎堂の丸柱にくくりつけられた。
そこは床に瓦を敷き詰め、太い丸柱と、小さい窓しかない石室だった。
「やい劉。貴様は、おれの眼をかすめて、逃げようとしたそうだな。察するところ、てめえは官の密偵だろう。いいや違えねえ。きっと県軍のまわし者だ。――今夜、十里ほど先まで、県軍がきて野陣を張っているそうだから、それへ連絡を取るために、脱け出そうとしたのだろう」
馬元義と李朱氾は、かわるがわるに来て、彼を拷問した。
「――道理で、貴様の面がまえは、凡者でないはずだ。県軍のまわし者でなければ、洛陽の直属の隠密か。いずれにしても、官人だろうてめえは。――さ、泥を吐け。いわねば、痛い思いをするだけだぞ」
しまいには、馬と李と、二人がかりで、劉を蹴って罵った。
劉は一口も物をいわなかった。こうなったからには、天命にまかせようと観念しているふうだった。
「こりゃひと筋縄では口をあかんぞ」
李は、持てあまし気味に、馬へ向ってこう提議した。 -
岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻吉川英治 白芙蓉一
白芙蓉
それは約五十名ほどの賊の小隊であった。中に驢に乗っている二、三の賊将が鉄鞭を指して、何かいっていたように見えたが、やがて、馬元義の姿を見かけたか、寺のほうへ向って、一散に近づいてきた。
「やあ、李朱氾。遅かったじゃないか」
こなたの馬元義も、石段から伸び上がっていうと、
「おう大方、これにいたか」と、李と呼ばれた男も、そのほかの仲間も、つづいて驢の鞍から降りながら、
「峠の孔子廟で待っているというから、あれへ行った所、姿が見えないので、俺たちこそ、大まごつきだ。遅いどころじゃない」と、汗をふきふき、かえって馬元義に向って、不平を並べたが、同類の冗談半分とみえて、責められた馬のほうも、げらげら笑うのみだった。
「ところで、ゆうべの収穫はどうだな。洛陽船を的に、だいぶ諸方の商人が泊っていた筈だが」
「大していう程の収穫もなかったが、一村焼き払っただけの物はあった。その財物は皆、荷駄にして、例の通りわれわれの営倉へ送っておいたが」
「近頃は人民どもも、金は埋けて隠しておく方法をおぼえたり、商人なども、隊伍を組んで、俺たちが襲うまえに、うまく逃げ散ってしまうので、だんだん以前のようにうまいわけには行かなくなったなあ」
「ウム、そういえば、先夜も一人惜しいやつを取逃がしたよ」
「惜しい奴? ――それは何か高価な財宝でも持っていたのか」
「なあに、砂金や宝石じゃないが、洛陽船から、茶を交易した男があるんだ。知っての通り、盟主張角様には、茶ときては、眼のない好物。これはぜひ掠めとって、大賢良師へご献納もうそうと、そいつの泊った旅籠も目ぼしをつけておき、その近所から焼き払って踏みこんだところ、いつの間にか、逃げ失せてしまって、とうとう見つからない。――こいつあ近頃の失策だったよ」
賊の李朱氾は、劉備のすぐそばで、それを大声で話しているのだった。
劉備は、驚いた。
そして思わず、懐中に秘していた錫の小さい茶壺をそっとさわってみた。
すると、馬元義は、
「ふーむ」と、うめきながら、改めて後ろにいる劉青年を振向いてから、さらに、李へ向って、
「それは、幾歳ぐらいな男か」
「そうさな。俺も見たわけでないが、嗅ぎつけた部下のはなしによると、まだ若いみすぼらしい風態の男だが、どこか凛然としているから、油断のならない人間かも知れないといっていたが」
「じゃあ、この男ではないのか」
馬元義は、すぐ傍らにいる劉備を指さして、いった。
「え?」
李は、意外な顔をしたが、馬元義から仔細を聞くとにわかに怪しみ疑って、
「そいつかもしれない。――おういっ、丁峰、丁峰」
と、池畔に屯させてある部下の群れへ向ってどなった。
手下の丁峰は、呼ばれて、屯の中から馳けてきた。李は、黄河で茶を交易した若者は、この男ではないかと、劉の顔を指さして、質問した。
丁は、劉青年を見ると、惑うこともなくすぐ答えた。
「あ。この男です。この若い男に違いありません」
「よし」
李は、そういって、丁峰を退けると、馬元義と共に、いきなり劉備の両手を左右からねじあげた。「こら、貴様は茶をかくしているというじゃないか。その茶壺をこれへ出してしまえ」
馬元義も責め、李朱氾も共に、劉備のきき腕を、ねじ抑えながら脅した。
「出さぬと、ぶった斬るぞ。今もいった通り、張角良師のご好物だが、良師のご威勢でさえ、めったに手にはいらぬ程の物だ。貴様のような下民などが、茶を持ったところで、何となるものか。われわれの手を経て、良師へ献納してしまえ」
劉備は、云いのがれのきかないことを、はやくも観念した。しかし、故郷の母が、いかにそれを楽しみに待っているかを思うと、自分の生命を求められたより辛かった。
(何とか、ここをのがれる工夫はないものか)
となお、未練をもって、両手の痛みをこらえていると、李朱氾の靴は、気早に劉備の腰を蹴とばして、「唖か、つんぼか、おのれは」と、罵った。
そして、よろめく劉備の襟がみを、つかみもどして、
「あれに、血に飢えている五十の部下がこちらを見て、餌を欲しがっているのが、眼に見えないか。返辞をしろ」と、威猛高にいった。
劉備は二人の土足の前へ、そうしてひれ伏したまま、まだ、母の歓びを売って、この場を助かる気持になれないでいたが、ふと、眼を上げると、寺門の陰にたたずんで、こちらを覗いていた最前の老僧が、
(物など惜しむことはない。求める物は、何でも与えてしまえ、与えてしまえ)
と、手真似をもって、しきりと彼の善処をうながしている。
劉備もすぐ、(そうだ。この身体を傷つけたら、母にも大不孝となる)と思って、心をきめたが、それでもまだ懐中の茶壺は出さなかった。腰に佩いている剣の帯革を解いて、
「これこそは、父の遺物ですから、自分の生命の次の物ですが、これを献上します。ですから、茶だけは見のがして下さい」と哀願した。
すると、馬元義は、
「おう、その剣は、俺がさっきから眼をつけていたのだ。貰っておいてやる」と奪り上げて、「茶のことは、俺は知らん」と、空うそぶいた。
李朱氾は、前にもまして怒りだして、一方へ剣を渡して、俺になぜ茶壺を渡さないかと責めた。
劉備は、やむなく、肌深く持っていた錫の小壺まで出してしまった。李は、宝珠をえたように、両掌を捧げて、
「これだ、これだ。洛陽の銘葉に違いない。さだめし良師がおよろこびになるだろう」と、いった。
賊の小隊はすぐ先へ出発する予定らしかったが、ひとりの物見が来て、ここから十里ほどの先の河べりに、県の吏軍が約五百ほど野陣を張り、われわれを捜索しているらしいという報告をもたらした。で、にわかに、「では、今夜はここへ泊れ」となって、約五十の黄巾賊は、そのまま寺を宿舎にして、携帯の糧嚢を解きはじめた。
夕方の炊事の混雑をうかがって、劉備は今こそ逃げるによい機と、薄暮の門を、そっと外へ踏みだしかけた。
「おい。どこへ行く」
賊の哨兵は、見つけるとたちまち、大勢して彼を包囲し、奥にいる馬元義と李朱氾へすぐ知らせた。 -
岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻 吉川英治 流行る童歌
流行童歌
一
驢は、北へ向いて歩いた。
鞍上の馬元義は、ときどき南を振り向いて、
「奴らはまだ追いついてこないがどうしたのだろう」と、つぶやいた。
彼の半月槍をかついで、驢の後からついてゆく手下の甘洪かんこうは、
「どこかで道を取っ違えたのかも知れませんぜ。いずれ冀州きしゅう(河北省保定の南方)へ行けば落ち合いましょうが」と、いった。
いずれ賊の仲間のことをいっているのであろう――と劉備りゅうびは察した。とすれば、自分がのがれてきた黄河の水村を襲ったあの連中を待っているのかも知れない、と思った。
(何しろ、従順をよそおっているに如しくはない。そのうちには、逃げる機会があるだろう)
劉備は、賊の荷物を負って、黙々と、驢と半月槍のあいだに挟まれながら歩いた。丘陵と河と平原ばかりの道を、四日も歩きつづけた。
幸い雨のない日が続いた。十方碧落へきらく、一朶だの雲もない秋だった。黍きびのひょろ長い穂に、時折、驢も人の背丈せたけもつつまれる。
「ああ――」
旅に倦うんで、馬元義は大きなあくびを見せたりした。甘も気けだるそうに居眠り半分、足だけを動かしていた。
そんな時、劉備はふと、
――今だっ。
という衝動にかられて、幾度か剣に手をやろうとしたが、もし仕損じたらと、母を想い、身の大望を考えて、じっと辛抱していた。
「おう、甘洪」
「へえ」
「飯が食えるぞ。冷たい水にありつけるぞ――見ろ、むこうに寺があら」
「寺が」
黍の間から伸び上がって、
「ありがてえ。大方だいほう、きっと酒もありますぜ。坊主は酒が好きですからね」
夜は冷え渡るが、昼間は焦げつくばかりな炎熱であった。――水と聞くと、劉備も思わず伸び上がった。
低い丘陵が彼方に見える。
丘陵に抱かれている一叢ひとむらの木立と沼があった。沼には紅白の蓮花はちすがいっぱい咲いていた。
そこの石橋を渡って、荒れはてた寺門の前で、馬元義は驢をおりた。門の扉は、一枚はこわれ、一枚は形だけ残っていた。それに黄色の紙が貼ってあって、次のような文が書いてあった。
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青空文庫名作文学の朗読
岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻 黄巾賊五吉川英治
岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻吉川英治流行る童歌
三国志桃園の巻
吉川英治
黄巾賊こうきんぞく
一
後漢ごかんの建寧けんねい元年のころ。
今から約千七百八十年ほど前のことである。
一人の旅人があった。
腰に、一剣を佩はいているほか、身なりはいたって見すぼらしいが、眉まゆは秀ひいで、唇くちは紅あかく、とりわけ聡明そうめいそうな眸ひとみや、豊ゆたかな頬をしていて、つねにどこかに微笑をふくみ、総じて賤いやしげな容子ようすがなかった。
年の頃は二十四、五。
草むらの中に、ぽつねんと坐って、膝をかかえこんでいた。
悠久ゆうきゅうと水は行く――
微風は爽さわやかに鬢びんをなでる。
涼秋の八月だ。
そしてそこは、黄河の畔ほとりの――黄土層の低い断きり岸ぎしであった。
「おーい」
誰か河でよんだ。
「――そこの若い者ウ。なにを見ているんだい。いくら待っていても、そこは渡し舟の着く所じゃないぞ」
小さな漁船から漁夫りょうしがいうのだった。
青年は笑えくぼを送って、
「ありがとう」と、少し頭を下げた。
漁船は、下流へ流れ去った。けれど青年は、同じ所に、同じ姿をしていた。膝をかかえて坐ったまま遠心的な眼をうごかさなかった。
「おい、おい、旅の者」
こんどは、後ろを通った人間が呼びかけた。近村の百姓であろう。ひとりは鶏の足をつかんでさげ、ひとりは農具をかついでいた。
「――そんな所で、今朝からなにを待っているんだね。このごろは、黄巾賊こうきんぞくとかいう悪徒が立ち廻るからな。役人衆に怪あやしまれるぞよ」
青年は、振りかえって、
「はい、どうも」
おとなしい会釈えしゃくをかえした。
けれどなお、腰を上げようとはしなかった。
そして、幾千万年も、こうして流れているのかと思われる黄河の水を、飽あかずに眺めていた。
(――どうしてこの河の水は、こんなに黄色いのか?)
汀みぎわの水を、仔細に見ると、それは水その物が黄色いのではなく、砥石といしを粉にくだいたような黄色い沙すなの微粒びりゅうが、水に混まじっていちめんにおどっているため、濁にごって見えるのであった。
「ああ……、この土も」
青年は、大地の土を、一つかみ掌てに掬すくった。そして眼を――はるか西北の空へじっと放った。
支那の大地を作ったのも、黄河の水を黄色くしたのも、みなこの沙の微粒である。そしてこの沙は中央亜細亜アジアの沙漠から吹いてきた物である。まだ人類の生活も始まらなかった何万年も前の大昔から――不断に吹き送られて、積り積った大地である。この広い黄土こうどと黄河の流れであった。
「わたしのご先祖も、この河を下くだって……」
彼は、自分の体に今、脈うっている血液がどこからきたか、その遠い根元までを想像していた。
支那を拓ひらいた漢民族も、その沙の来る亜細亜の山岳を越えてきた。そして黄河の流れに添いつつ次第にふえ、苗族びょうぞくという未開人を追って、農業を拓ひらき、産業を興おこし、ここに何千年の文化を植えてきたものだった。
「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備りゅうびを、鞭むち打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」
天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。
するとすぐ後ろへ、誰か突っ立って、彼の頭からどなった。
「うさんな奴やつだ。やいっ、汝は、黄巾賊こうきんぞくの仲間だろう?」
青空文庫より