山本周五郎「橋の下」二 朗読カフェ 声優 喜多川拓郎の朗読 名作文学の朗読

橋の下

山本周五郎

「あれは刀のようだが」とやがて若侍が訊いた、「御老人はもと武家だったのか」
「これ」と老人は妻女に云った、「おまえもうひと眠りするがいい、かゆが出来たら起こしてやる、それまで横になっておいで」
 妻女はなにかを片づけていた。
「立町の国分という材木問屋の主人が亡くなって、ゆうべ通夜がございました」と老人は若侍に云った、「残り物があるから取りに来い、と云われたものですから、頂戴にいってさきほど戻ったところでございます」
 妻女は口の欠けた土瓶どびんと、湯呑を二つ、塗のげた盆にのせて、老人の脇に置くと、よく聞きとれない挨拶を述べ、石垣と橋との隙間へ、緩慢な動作でいあがっていった。老人はまた若侍のようすを見た。彼は黒い無紋の袖の羽折を重ねていたが、着物も下衣も白であった。
「寒くはないか」と老人は振返って妻女に呼びかけた、「えりをよく巻いておくんだぞ」
 妻女が低い声でなにか答え、老人はまた若侍の着物を見た。その白い着物が、老人になにごとか思いださせたらしい、焚火に枯枝をくべながら、老人はゆっくりとうなずいた。
「さよう、私はもと侍でございました」と老人は云った、「国許くにもとは申しかねますが、私までに八代続いた家柄だそうで、その藩主に仕えてからも四代になり、身分も上位のほうでございました」
 老人は土瓶の中を見た。それから、たぎり始めた湯沸しをおろし、土瓶に注いで、二つの湯呑に茶をれると、茶といえるようなものではないが、もし不浄と思わなかったら飲んでもらいたい、と云ってすすめた。若侍は礼を述べて、湯呑を受取った。
「その」と若侍が云った、「こんなことを訊いては失礼かもしれないが」
 老人は静かにさえぎった、「いや、失礼などということはありません、ごらんのとおりなりはてたありさまですから、いまさら身の恥を隠すにも及びますまい、それにまた、聞いて頂くほどの話もないのです」
 若侍は茶をすすり、湯呑を両手でつかんで、老人の話しだすのを待った。老人は湯沸しを鉤に掛け、自分の湯呑を持って、大事そうに啜りながら、やや暫く黙っていた。
「さよう、じつのところ、申上げるほどの話ではない、私は四十年ほどまえに、一人の娘のために親しい友を斬って、その娘といっしょに出奔しました、つづめて云えばそれだけのことです」
 老人は茶を啜り、それからゆっくりと続けた、「その友達とは幼年のころから親しかった、私のほうが一つ年下でしたし、友達の家は徒士かちにすぎなかったが、二人は兄弟よりも親しかったといってもいいでしょう、さよう、――いちどこんなことがありました、たしか十一か二のときだったでしょう、のちにあらそいのたねになった娘のことで、私がひどく怒り、三人でなにかしていたのを放りだして、私だけさっさとそこをたち去りました」
 老人は唇に微笑をうかべ、さもたのしそうに、頭を左へ右へと振った。
「三人でなにをしていたのか、場所がどこだったか、私がなんで怒ったのか、いまではすっかり忘れてしまいました、うろおぼえに落葉の音を覚えています、私は落葉を踏んで歩いていました、するとまもなく、うしろでも落葉を踏む音が聞える、その音がずっと私のあとからついて来るのです、私はてっきり娘が追って来たものと思い、振返ってみると友達でした。
 ――ついて来るな、帰れ。
 私はそうどなって、もっといそぎ足に歩き続けたのです、友達はやはりついて来ますし、私は二度も三度もどなりました」
 老人は自分で静かに頷き、茶をひとくち啜った、「その友達は躯も小柄でしたし、眉は濃いが、まる顔で頭がとがっているため、握り飯のような恰好にみえるので、みんなから黙りむすびと呼ばれていました、黙りむすび、私にとってはなつかしいあだ名です、――彼は口かずが少なく、ふだんはごく温和おとなしいが、いざとなると決してあとへはひかぬ性分でした、三度もどなりつけたので、もう帰るかと思うとやっぱりついて来る、なんにも云わずに、黙ってうしろからついて来るのです、私は振返ってまた云いました。
 ――どうしてついて来るんだ。
 すると彼は答えました。
 ――だって、友達だもの」
 老人は口をつぐみ、眼をつむって暫く沈黙した。若侍はそっと老人を見たが、すぐにその眼をそらし、両手で持っている湯呑を静かにまわした。
「だって、友達だもの」と老人はくり返し、それからまた続けた、「もし正確にいうなら、二人が兄弟より親しくなったのは、それからあとのことだったでしょう、彼は学問もよくできましたし、武芸でもめきめき腕をあげました、十五六のころから家中かちゅうの注目を集め、将来ぬきんでた出世をするだろうと云われたものです、そして彼もまた、その世評の正しいことを立証したのですが、――」
 老人は焚火の上から湯沸しをおろし、脇にある鍋を取って掛けた。使い古した鉄鍋で、もとのつるこわれたのだろう、つるの代りに麻の細引が付けてあった。老人は薪をくべ、火のぐあいを直した。すると煙が立って、いっときほのおが隠れ、それから急に明るく燃えあがり、※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)のさきが鍋底をめた。
「私がどんなふうだったか、ということは申しますまい、私も私なりにやっておりました」と老人は云った、「もし私が、彼に嫉妬しっとしていたとお考えになるなら、それは間違っています、私は少しも嫉妬は感じませんでした、ことによるとそれは、私の家柄がよく、身分もずっと上だったからかもしれません、私はむしろ彼を尊敬していたといってもいいくらいです、いい時代でした、家があり、家族があり、若さと力を自分で感ずることができ、そしてよき友達をもっている、――さよう、二十一の年まで、私はそのように安定した、満足な生活に恵まれていました。それが父の死を境にして、狂いだしたのです」
 老人は土瓶に湯を注いで、若侍のほうへさしだした。若侍は首を振り、老人は自分の湯呑に茶を注いだ。
「つまらない話で、御退屈ではありませんか」
「いや、うかがっています」と若侍が答えた、「どうぞ続けて下さい」
「父が病死したあと、私にすぐ縁談が始まりました」と老人は云った、「二十一の冬のことですが、私はまえからそのつもりでいた娘を、自分の嫁にと望みました、娘の家は番がしら格で、彼女の年は十七歳、もちろん当人も私の妻になることを承知していたのです、しかし、その申入れは断わられました」

2021年7月9日

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