江戸川乱歩「お勢登場」海渡みなみ朗読
江戸川乱歩「お勢登場」海渡みなみ朗読
50.63
May 06, 2018
肺病やみの格太郎は、今日も又細君においてけぼりを食って、ぼんやりと留守を守っていなければならなかった。最初の程は、如何なお人好しの彼も、激憤を感じ、それを種に離別を目論んだことさえあったのだけれど、病という弱味が段々彼をあきらめっぽくして了った。先の短い自分の事、可愛い子供のことなど考えると、乱暴な真似はできなかった。その点では、第三者である丈け、弟の格二郎などの方がテキパキした考を持っていた。彼は兄の弱気を歯痒がって、時々意見めいた口を利くこともあった。
「なぜ兄さんは左様なんだろう。僕だったらとっくに離縁にしてるんだがな。あんな人に憐みをかける所があるんだろうか」
だが、格太郎にとっては、単に憐みという様なことばかりではなかった。成程、今おせいを離別すれば、文なしの書生っぽに相違ない彼女の相手と共に、たちまち其日にも困る身の上になることは知れていたけれど、その憐みもさることながら、彼にはもっと外の理由があったのだ。子供の行末も無論案じられたし、それに、恥しくて弟などには打開けられもしないけれど、彼には、そんなにされても、まだおせいをあきらめ兼る所があった。それ故、彼女が彼から離れ切って了うのを恐れて、彼女の不倫を責めることさえ遠慮している程なのであった。
おせいの方では、この格太郎の心持を、知り過ぎる程知っていた。大げさに云えば、そこには暗黙の妥協に似たものが成り立っていた。彼女は隠し男との遊戯の暇には、その余力を以て格太郎を愛撫することを忘れないのだった。格太郎にして見れば、この彼女の僅ばかりのおなさけに、不甲斐なくも満足している外はない心持だった。
「でも、子供のことを考えるとね。そう一概なことも出来ないよ。この先一年もつか二年もつか知れないが、俺の寿命は極っているのだし、そこへ持って来て母親までなくしては、あんまり子供が可哀相だからね。まあもうちっと我慢して見るつもりだ。なあに、その内にはおせいだって、きっと考え直す時が来るだろうよ」
格太郎はそう答えて、一層弟を歯痒がらせるのを常とした。
だが、格太郎の仏心に引かえて、おせいは考え直すどころか、一日一日と、不倫の恋に溺れて行った。それには、窮迫して、長病いで寝た切りの、彼女の父親がだしに使われた。彼女は父親を見舞いに行くのだと称しては、三日にあげず家を外にした。果して彼女が里へ帰っているかどうかを検べるのは、無論訳のないことだったけれど、格太郎はそれすらしなかった。妙な心持である。彼は自分自身に対してさえ、おせいを庇う様な態度を取った。
今日もおせいは、朝から念入りの身じまいをして、いそいそと出掛けて行った。
「里へ帰るのに、お化粧はいらないじゃないか」
そんないやみが、口まで出かかるのを、格太郎はじっと堪えていた。此頃では、そうして云い度いことも云わないでいる、自分自身のいじらしさに、一種の快感をさえ覚える様になっていた。
細君が出て行って了うと、彼は所在なさに趣味を持ち出した盆栽いじりを始めるのだった。跣足で庭へ下りて、土にまみれていると、それでもいくらか心持が楽になった。又一つには、そうして趣味に夢中になっている様を装うことが、他人に対しても自分に対しても、必要なのであった。
おひる時分になると、女中が御飯を知らせに来た。
「あのおひるの用意が出来ましたのですが、もうちっと後になさいますか」
女中さえ、遠慮勝ちにいたいたし相な目で自分を見るのが、格太郎はつらかった。
「ああ、もうそんな時分かい。じゃおひるとしようか。坊やを呼んで来るといい」
彼は虚勢を張って、快活らしく答えるのであった。此頃では、何につけても虚勢が彼の習慣になっていた。
そういう日に限って、女中達の心づくしか、食膳にはいつもより御馳走が並ぶのであった。でも格太郎はこの一月ばかりというもの、おいしい御飯をたべたことがなかった。子供の正一も家の冷い空気に当ると、外の餓鬼大将が俄にしおしおして了うのだった。
「ママどこへ行ったの」
彼はある答えを予期しながら、でも聞いて見ないでは安心しないのである。
「おじいちゃまの所へいらっしゃいましたの」
女中が答えると、彼は七歳の子供に似合わぬ冷笑の様なものを浮べて、「フン」と云ったきり、御飯をかき込むのであった。子供ながら、それ以上質問を続けることは、父親に遠慮するらしく見えた。それと彼には又彼丈けの虚勢があるのだ。
「パパ、お友達を呼んで来てもいい」
御飯がすんで了うと、正一は甘える様に父親の顔を覗き込んだ。格太郎は、それがいたいけな子供の精一杯の追従の様な気がして、涙ぐましいいじらしさと、同時に自分自身に対する不快とを感じないではいられなかった。でも、彼の口をついて出た返事は、いつもの虚勢以外のものではないのだった。
「アア、呼んで来てもいいがね。おとなしく遊ぶんだよ」
父親の許しを受けると、これも又子供の虚勢かも知れないのだが、正一は「嬉しい嬉しい」と叫びながら、さも快活に表の方へ飛び出して行って、間もなく三四人の遊び仲間を引っぱって来た。そして、格太郎がお膳の前で楊枝を使っている処へ、子供部屋の方から、もうドタンバタンという物音が聞え始めた。
2018年5月27日
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