森川ららさんの朗読 大倉 燁子「あの顔」

刑事弁護士の尾形博士は法廷から戻ると、久しぶりにゆっくりとした気分になって晩酌の膳にむかった。庭の新緑はいつか青葉になって、月は中空にかかっていた。
うっすらと化粧をした夫人が静かに入って来て、葡萄酒の瓶をとりあげ、
「ずいぶん、お疲れになったでしょう?」と上眼使いに夫を見上げながら、ワイン・グラスになみなみと酒を注いだ。
「うむ。だが、――長い間の責任をすましたので、肩の荷を下したように楽々した」
「そうでしょう? 今日の弁論、とても素晴らしかったんですってね。私、傍聴したかった。霜山弁護士さんが先刻おいでになって、褒めていらしたわ、あんな熱のこもった弁論を聴くのは全く珍らしい事だ、あれじゃたとえ被告が死刑の判決を下されたって、満足して、尾形君に感謝を捧げながら冥土へ行くだろうって、仰しゃっていらしたわ」
「霜山君はお世辞がいいからなアハ……。しかし、少しでも被告の罪が軽くなってくれればねえ、僕はそればっかり祈っている」
「あなたに救われた被告は今日までに随分おおぜいあるんでしょうねえ。刑事弁護士なんて云うと恐い人のように世間では思うらしいけれど、ほんとは人を助ける仕事で、仏様のようなものなんですからね」
「その代り金にならないよ。だから、いつでもピイピイさ」と笑った。
「殺人犯だの、強盗だのなんかにはあんまりお金持ちはいないんですものねえ、でも、あなたは金銭にかえがたい喜びがあるから、と、いつも仰しゃいますが、減刑になったなんて聞くと私まで胸がすうっとしますわ。その人のために弁護なさるあなたの身になったらどんなに愉快だろうと思いますのよ」と云っているところに、玄関のベルが臆病らしくチリッと鳴った、まるで爪か、指先でもちょっと触れたように。
「おやッ」と夫人は口の中でつぶやいた。
ふたりは何という事なしに眼を見合せたのだった。すると、こんどはややしっかりしたベルの音がした。
夫人は小首を傾げて、
「普通のお客様のようじゃないわね、きっと何かまた」と、云いながら席を起って行ったが、間もなく引返して来ると、まるでおびえたような顔をして、
「何んだか、気味が悪いのよ。まるで幽霊のような女の人が、しょんぼりと立っていてね、薄暗い蔭の方へ顔を向けているので、年頃も何もまるで分らないけれど、みなりは迚も立派なの。正面まともに私の顔も見ないで、先生に折入ってお願いしたい事がありまして夜中伺いましたって、この御紹介状を差出したんですが、その手がまたぶるぶると震るえて、その声ったらまるで泣いているよう、――」
博士はその紹介状を受取って、封をきり、眼を通していたが、
「不思議な人からの紹介だな」と云って、ぽいと夫人の手へ投げた。
「まあ、ミシェル神父様からの御紹介状ですのねえ、あなた、神父様御存じなの?」
「うむ。僕は若い頃熱心な天主教徒だったんだよ。いまは大なまけだが――、しかし、形式的のつとめこそ怠っているが、心は昔と少しも変らない信者なんだ。二十何年前僕はミシェル神父様の手で洗礼をさずけて頂いた。しかし、よくまあ神父様は覚えていられたものだなあ」と、博士は愉快そうに起って、自ら玄関に訪問客を迎え、横手の応接室に通した。
「どんな御用件なんでしょうか?」と、ゆったりと煙草に火を点けた。
女は夫人の言葉通りに小刻みに体を震わせながら、暗い隅に腰かけて顔も上げ得ないのだった。三十か、あるいは四五にもなっているかも知れないが、痩せた青い顔に憂慮と不安のいろが漂い、神経質らしい太い眉を深く寄せている。紹介状には川島浪子とだけ書いてあって、人妻か未亡人か、どういう身分の婦人であるかがまるでわからなかった。夜中、殊に突然飛び込んで来る客には何かしら深い事情のある人が多かったので、彼は心の中で仔細があるなとうなずいた。
ややしばらくしてから、婦人は低い声で、
「お願いがあって、突然上りまして」と云って、面を伏せた。
「神父様の御紹介状にはただお名前だけしか書いてありません、委しい事は御当人から直接訊いてくれ、と、ありますが――」
「はい。私はある小さな会社の重役をつとめている者の妻でございます。思いあまったことがありまして、教会へ告白にまいりましたところ、神父様が、先生にお縋りしてみよと仰しゃいましたので、恥を忍んでまいりました」と、割合にはっきりした口調で云って、はじめて顔を上げ、正面から彼を見た。その顔をじいと見ていた博士は、
「あッ、あなたは――」思わずおどろきの叫び声をあげて、
「秋田さん秋田浪子さんじゃありませんか?」
「先生、よく覚えていて下さいました」と、彼女は淋しくほほ笑んだ。
「随分変られましたな、すっかりお見それしてしまった、川島さんだなどと仰しゃるもんだから、なおわからなかったんです」
「でも、私、川島へ再婚したんですの」
「秋田さんなら、何も御紹介状をお持ちになる必要もなかった」
「だって、もうお忘れになったろうと思って、――先生と御交際させて頂いていたのはもう二十年も音の事ですもの」
「何十年たったって、あなたを忘れるなんて――」そんなことがあって、どうするものかと、つい口の先まで出かかったのをぐっと呑み込んで、
「いくら健忘症の僕でも、あの頃のことだけは忘れませんよ」
「じゃあ、いまでも怒っていらっしゃる? 私が結婚したことを――」
博士は烈しく首を振って、
「いいや。決して、――あなたは僕のような貧乏書生と結婚しては幸福になれないからいやだとはっきり云ってくれたから、僕は反って思い切れたんですよ。間もなく浪子さんが金持の後妻になったと聞いた時、その方があなたのためには幸福なんだろうと思って、祝福していた位ですもの、そのかたとは?」
「死別しました。先妻の息子が相続人だったので、私は離婚して川島と再婚しました」
「それで、――あなたは幸福に暮らしていられるんでしょうな」と云ったが、みなりこそ立派だが、見違えるほど面瘻れした彼女を見ては幸福な生活をしている者とはどうしたって思われなかった。
彼女は悲しげに少時しょんぼりとうなだれていたが、
「先生は、今朝の新聞を御らんになりましたか?」
と、きっと顔を上げて訊いた。
「見ましたが?」
「あの、――ある青年が、あやまって赤ン坊を殺した記事をお読みになったでしょう?」
博士はうなずいて、
「無意識のうちに殺したという、あの事件ですか?」
「私、その事で先生にお縋りに上ったんですの」
「すると、あの青年は?」
「私の従弟ですの」
「なるほど、あなたの旧姓と同じですね、秋田弘とか云いましたね」
「父の弟の息子です。秀才だったのですが、大学を出る一年前に応召して、戦争に行ってからすっかり人間が変ってしまいました。終戦と同時に帰還しましたが、もう大学へかえる気持ちもなく、それかと云って就職もせず、働く気もないという風で、前途に希望を全く失ってしまい、毎日ただぶらぶらと遊んでその日その日を送っているというようなので、親も段々愛想をつかし、最近では小遣銭にも不自由しておりましてね、度々私のところへ無心を云いに来るようになりました」
「ちょいと待って下さい」
博士はベルを鳴らして、夫人に今朝の新聞を持って来させ、もう一度その記事に眼を通してから、びっくりしたように、
「殺人はあなたの家で行われたんですか?」
「そうなんです」
「ふうむ」
彼は始めてこの訪問の容易ならぬことを知ったのだった。
「して、その赤ン坊は?」
「私の子なんですの」
「えッ? あなたのお子さんが殺されたんだと仰しゃるんですか?」
「ええ。ですけれど、――先生、弘さんは可哀想な青年なんですのよ。私、自分の赤ン坊が殺されたんですけれど、弘さんを恨む気にはなれません、それで、――それで実は私、先生にお願いするんです。どうぞ、あのひとを救ってやって下さいませ」と云って、手を合せ、
「あの、先生、弘さんは死刑になるんでございましょう?」とおろおろ声で訊くのだった。
「さあ」
「もしも、弘さんが死刑にでもなるようでしたら、――私は生きていられませんの。あんまり可哀想で、――どうぞ、お願いです、助けてやって――」
と、婦人は縋りつかないばかりに嘆願するのだった。
「と、いって、僕がどうしようもないじゃありませんか。犯行がこうはっきりしていて、あなたの家を訪問し、あなたの赤ン坊を殺した、それをあなたは目撃していたが、どうにもとめようがなかった、というのでしょう?」
「新聞に書いてあるのはそれだけです、が、それにはいろいろとわけがありまして――」
「そのわけというのをすっかり話してみて下さい。その上で、僕の力に及ぶことなら何んとでもして上げますから」
「ほんとにお願いします。恐らく私が先生にお願いすることの、これが最初で最後だろうと思います。先生、私の涙のお願い、きいて下さいね」と云って、婦人はむせび泣くのだった。
「よろしい。その代り何もかもありのままを云って下さい。少しでもかくしたりしてはいけませんよ。嘘が交じると困ることになりますからね」
「決して、誓って嘘は申しません、かくしだてもいたしません、すっかり洗いざらいお話しいたしてしまいますわ」

青空文庫より

2017年11月12日

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