夏目漱石「こころ」下 37 38 山口雄介朗読

夏目漱石「こころ」下 37 38 山口雄介朗読

13.30
Oct 03, 2017

三十七

「二人は各自めいめいへやに引き取ったぎり顔を合わせませんでした。Kの静かな事は朝と同じでした。わたくしじっと考え込んでいました。
私は当然自分の心をKに打ち明けるべきはずだと思いました。しかしそれにはもう時機がおくれてしまったという気も起りました。なぜ先刻さっきKの言葉をさえぎって、こっちから逆襲しなかったのか、そこが非常な手落てぬかりのように見えて来ました。せめてKのあとに続いて、自分は自分の思う通りをその場で話してしまったら、まだ好かったろうにとも考えました。Kの自白に一段落が付いた今となって、こっちからまた同じ事を切り出すのは、どう思案しても変でした。私はこの不自然に打ち勝つ方法を知らなかったのです。私の頭は悔恨にられてぐらぐらしました。
私はKが再び仕切しきりのふすまけて向うから突進してきてくれればいと思いました。私にいわせれば、先刻はまるで不意撃ふいうちに会ったも同じでした。私にはKに応ずる準備も何もなかったのです。私は午前に失ったものを、今度は取り戻そうという下心したごころを持っていました。それで時々眼を上げて、襖をながめました。しかしその襖はいつまでってもきません。そうしてKは永久に静かなのです。
そのうち私の頭は段々この静かさにき乱されるようになって来ました。Kは今襖の向うで何を考えているだろうと思うと、それが気になってたまらないのです。不断もこんなふうにお互いが仕切一枚を間に置いて黙り合っている場合は始終あったのですが、私はKが静かであればあるほど、彼の存在を忘れるのが普通の状態だったのですから、その時の私はよほど調子が狂っていたものと見なければなりません。それでいて私はこっちから進んで襖を開ける事ができなかったのです。一旦いったんいいそびれた私は、また向うから働き掛けられる時機を待つよりほかに仕方がなかったのです。
しまいに私はじっとしておられなくなりました。無理に凝としていれば、Kの部屋へ飛び込みたくなるのです。私は仕方なしに立って縁側へ出ました。そこから茶の間へ来て、何という目的もなく、鉄瓶てつびんの湯を湯呑ゆのみついで一杯呑みました。それから玄関へ出ました。私はわざとKの室を回避するようにして、こんな風に自分を往来の真中に見出みいだしたのです。私には無論どこへ行くというあてもありません。ただじっとしていられないだけでした。それで方角も何も構わずに、正月の町を、むやみに歩きまわったのです。私の頭はいくら歩いてもKの事でいっぱいになっていました。私もKをふるい落す気で歩き廻る訳ではなかったのです。むしろ自分から進んで彼の姿を咀嚼そしゃくしながらうろついていたのです。
私には第一に彼がかいしがたい男のように見えました。どうしてあんな事を突然私に打ち明けたのか、またどうして打ち明けなければいられないほどに、彼の恋がつのって来たのか、そうして平生の彼はどこに吹き飛ばされてしまったのか、すべて私には解しにくい問題でした。私は彼の強い事を知っていました。また彼の真面目まじめな事を知っていました。私はこれから私の取るべき態度を決する前に、彼について聞かなければならない多くをもっていると信じました。同時にこれからさき彼を相手にするのが変に気味が悪かったのです。私は夢中に町の中を歩きながら、自分の室にじっすわっている彼の容貌ようぼうを始終眼の前にえがき出しました。しかもいくら私が歩いても彼を動かす事は到底できないのだという声がどこかで聞こえるのです。つまり私には彼が一種の魔物のように思えたからでしょう。私は永久彼にたたられたのではなかろうかという気さえしました。
私が疲れてうちへ帰った時、彼の室は依然として人気ひとけのないように静かでした。

三十八

「私が家へはいると間もなくくるまの音が聞こえました。今のように護謨輪ゴムわのない時分でしたから、がらがらいういやひびきがかなりの距離でも耳に立つのです。車はやがて門前で留まりました。
私が夕飯ゆうめしに呼び出されたのは、それから三十分ばかりったあとの事でしたが、まだ奥さんとお嬢さんの晴着はれぎが脱ぎてられたまま、次の室を乱雑にいろどっていました。二人は遅くなると私たちに済まないというので、飯の支度に間に合うように、急いで帰って来たのだそうです。しかし奥さんの親切はKと私とに取ってほとんど無効も同じ事でした。私は食卓に坐りながら、言葉を惜しがる人のように、素気そっけない挨拶あいさつばかりしていました。Kは私よりもなお寡言かげんでした。たまに親子連おやこづれで外出した女二人の気分が、また平生へいぜいよりはすぐれて晴れやかだったので、我々の態度はなおの事眼に付きます。奥さんは私にどうかしたのかと聞きました。私は少し心持が悪いと答えました。実際私は心持が悪かったのです。すると今度はお嬢さんがKに同じ問いを掛けました。Kは私のように心持が悪いとは答えません。ただ口がきたくないからだといいました。お嬢さんはなぜ口が利きたくないのかと追窮ついきゅうしました。私はその時ふと重たいまぶたを上げてKの顔を見ました。私にはKが何と答えるだろうかという好奇心があったのです。Kの唇は例のように少しふるえていました。それが知らない人から見ると、まるで返事に迷っているとしか思われないのです。お嬢さんは笑いながらまた何かむずかしい事を考えているのだろうといいました。Kの顔は心持薄赤くなりました。
その晩私はいつもより早くとこへ入りました。私が食事の時気分が悪いといったのを気にして、奥さんは十時頃蕎麦湯そばゆを持って来てくれました。しかし私のへやはもう真暗まっくらでした。奥さんはおやおやといって、仕切りのふすまを細目に開けました。洋燈ランプの光がKの机からななめにぼんやりと私の室に差し込みました。Kはまだ起きていたものとみえます。奥さんは枕元まくらもとに坐って、大方おおかた風邪かぜを引いたのだろうから身体からだあっためるがいいといって、湯呑ゆのみを顔のそばへ突き付けるのです。私はやむをえず、どろどろした蕎麦湯を奥さんの見ている前で飲みました。
私は遅くなるまで暗いなかで考えていました。無論一つ問題をぐるぐる廻転かいてんさせるだけで、ほかに何の効力もなかったのです。私は突然Kが今隣りの室で何をしているだろうと思い出しました。私は半ば無意識においと声を掛けました。すると向うでもおいと返事をしました。Kもまだ起きていたのです。私はまだ寝ないのかと襖ごしに聞きました。もう寝るという簡単な挨拶あいさつがありました。何をしているのだと私は重ねて問いました。今度はKの答えがありません。その代り五、六分経ったと思う頃に、押入おしいれをがらりと開けて、とこを延べる音が手に取るように聞こえました。私はもう何時なんじかとまた尋ねました。Kは一時二十分だと答えました。やがて洋燈ランプをふっと吹き消す音がして、家中うちじゅうが真暗なうちに、しんと静まりました。
しかし私の眼はその暗いなかでいよいよえて来るばかりです。私はまた半ば無意識な状態で、おいとKに声を掛けました。Kも以前と同じような調子で、おいと答えました。私は今朝けさ彼から聞いた事について、もっと詳しい話をしたいが、彼の都合はどうだと、とうとうこっちから切り出しました。私は無論襖越ふすまごしにそんな談話を交換する気はなかったのですが、Kの返答だけは即坐に得られる事と考えたのです。ところがKは先刻さっきから二度おいと呼ばれて、二度おいと答えたような素直すなおな調子で、今度は応じません。そうだなあと低い声で渋っています。私はまたはっと思わせられました。

青空文庫より

2017年11月7日

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