夏目漱石「こころ」下 35 36 山口雄介朗読

夏目漱石「こころ」下 35 36 山口雄介朗読

12.78
Sep 28, 2017

三十五

「こんな訳でわたくしはどちらの方面へ向っても進む事ができずに立ちすくんでいました。身体からだの悪い時に午睡ひるねなどをすると、眼だけめて周囲のものが判然はっきり見えるのに、どうしても手足の動かせない場合がありましょう。私は時としてああいう苦しみを人知れず感じたのです。
そのうち年が暮れて春になりました。ある日奥さんがKに歌留多かるたをやるからだれか友達を連れて来ないかといった事があります。するとKはすぐ友達なぞは一人もないと答えたので、奥さんは驚いてしまいました。なるほどKに友達というほどの友達は一人もなかったのです。往来で会った時挨拶あいさつをするくらいのものは多少ありましたが、それらだって決して歌留多かるたなどを取るがらではなかったのです。奥さんはそれじゃ私の知ったものでも呼んで来たらどうかといい直しましたが、私も生憎あいにくそんな陽気な遊びをする心持になれないので、い加減な生返事なまへんじをしたなり、打ちやっておきました。ところが晩になってKと私はとうとうお嬢さんに引っ張り出されてしまいました。客も誰も来ないのに、内々うちうち小人数こにんずだけで取ろうという歌留多ですからすこぶる静かなものでした。その上こういう遊技をやり付けないKは、まるで懐手ふところでをしている人と同様でした。私はKに一体百人一首ひゃくにんいっしゅの歌を知っているのかと尋ねました。Kはよく知らないと答えました。私の言葉を聞いたお嬢さんは、大方おおかたKを軽蔑けいべつするとでも取ったのでしょう。それから眼に立つようにKの加勢をし出しました。しまいには二人がほとんど組になって私に当るという有様になって来ました。私は相手次第では喧嘩けんかを始めたかも知れなかったのです。幸いにKの態度は少しも最初と変りませんでした。彼のどこにも得意らしい様子を認めなかった私は、無事にその場を切り上げる事ができました。
それから二、三日ったのちの事でしたろう、奥さんとお嬢さんは朝から市ヶ谷にいる親類の所へ行くといってうちを出ました。Kも私もまだ学校の始まらないころでしたから、留守居同様あとに残っていました。私は書物を読むのも散歩に出るのもいやだったので、ただ漠然と火鉢のふちひじを載せてじっあごを支えたなり考えていました。となりへやにいるKも一向いっこう音を立てませんでした。双方ともいるのだかいないのだか分らないくらい静かでした。もっともこういう事は、二人の間柄として別に珍しくも何ともなかったのですから、私は別段それを気にも留めませんでした。
十時頃になって、Kは不意に仕切りのふすまを開けて私と顔を見合みあわせました。彼は敷居の上に立ったまま、私に何を考えていると聞きました。私はもとより何も考えていなかったのです。もし考えていたとすれば、いつもの通りお嬢さんが問題だったかも知れません。そのお嬢さんには無論奥さんも食っ付いていますが、近頃ではK自身が切り離すべからざる人のように、私の頭の中をぐるぐるめぐって、この問題を複雑にしているのです。Kと顔を見合せた私は、今まで朧気おぼろげに彼を一種の邪魔ものの如く意識していながら、明らかにそうと答える訳にいかなかったのです。私は依然として彼の顔を見て黙っていました。するとKの方からつかつかと私の座敷へ入って来て、私のあたっている火鉢の前にすわりました。私はすぐ両肱りょうひじを火鉢の縁から取りけて、心持それをKの方へ押しやるようにしました。
Kはいつもに似合わない話を始めました。奥さんとお嬢さんは市ヶ谷のどこへ行ったのだろうというのです。私は大方叔母おばさんの所だろうと答えました。Kはその叔母さんは何だとまた聞きます。私はやはり軍人の細君さいくんだと教えてやりました。すると女の年始は大抵十五日すぎだのに、なぜそんなに早く出掛けたのだろうと質問するのです。私はなぜだか知らないと挨拶するよりほかに仕方がありませんでした。

三十六

「Kはなかなか奥さんとお嬢さんの話をめませんでした。しまいにはわたくしも答えられないような立ち入った事まで聞くのです。私は面倒よりも不思議の感に打たれました。以前私の方から二人を問題にして話しかけた時の彼を思い出すと、私はどうしても彼の調子の変っているところに気が付かずにはいられないのです。私はとうとうなぜ今日に限ってそんな事ばかりいうのかと彼に尋ねました。その時彼は突然黙りました。しかし私は彼の結んだ口元の肉がふるえるように動いているのを注視しました。彼は元来無口な男でした。平生へいぜいから何かいおうとすると、いう前によく口のあたりをもぐもぐさせるくせがありました。彼の唇がわざと彼の意志に反抗するように容易たやすかないところに、彼の言葉の重みもこもっていたのでしょう。一旦いったん声が口を破って出るとなると、その声には普通の人よりも倍の強い力がありました。
彼の口元をちょっとながめた時、私はまた何か出て来るなとすぐ疳付かんづいたのですが、それがはたしてなんの準備なのか、私の予覚はまるでなかったのです。だから驚いたのです。彼の重々しい口から、彼のお嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられた時の私を想像してみて下さい。私は彼の魔法棒のために一度に化石されたようなものです。口をもぐもぐさせる働きさえ、私にはなくなってしまったのです。
その時の私は恐ろしさのかたまりといいましょうか、または苦しさの塊りといいましょうか、何しろ一つの塊りでした。石か鉄のように頭から足の先までが急に固くなったのです。呼吸をする弾力性さえ失われたくらいに堅くなったのです。幸いな事にその状態は長く続きませんでした。私は一瞬間ののちに、また人間らしい気分を取り戻しました。そうして、すぐ失策しまったと思いました。せんを越されたなと思いました。
しかしそのさきをどうしようという分別はまるで起りません。恐らく起るだけの余裕がなかったのでしょう。私はわきの下から出る気味のわるい汗が襯衣シャツとおるのをじっと我慢して動かずにいました。Kはそのあいだいつもの通り重い口を切っては、ぽつりぽつりと自分の心を打ち明けてゆきます。私は苦しくってたまりませんでした。おそらくその苦しさは、大きな広告のように、私の顔の上に判然はっきりした字でり付けられてあったろうと私は思うのです。いくらKでもそこに気の付かないはずはないのですが、彼はまた彼で、自分の事に一切いっさいを集中しているから、私の表情などに注意する暇がなかったのでしょう。彼の自白は最初から最後まで同じ調子で貫いていました。重くてのろい代りに、とても容易な事では動かせないという感じを私に与えたのです。私の心は半分その自白を聞いていながら、半分どうしようどうしようという念に絶えずき乱されていましたから、こまかい点になるとほとんど耳へ入らないと同様でしたが、それでも彼の口に出す言葉の調子だけは強く胸に響きました。そのために私は前いった苦痛ばかりでなく、ときには一種の恐ろしさを感ずるようになったのです。つまり相手は自分より強いのだという恐怖の念がきざし始めたのです。
Kの話が一通り済んだ時、私は何ともいう事ができませんでした。こっちも彼の前に同じ意味の自白をしたものだろうか、それとも打ち明けずにいる方が得策だろうか、私はそんな利害を考えて黙っていたのではありません。ただ何事もいえなかったのです。またいう気にもならなかったのです。
午食ひるめしの時、Kと私は向い合せに席を占めました。下女げじょに給仕をしてもらって、私はいつにない不味まずめしを済ませました。二人は食事中もほとんど口をきませんでした。奥さんとお嬢さんはいつ帰るのだか分りませんでした。

青空文庫より

2017年11月7日

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