2021年7月
-
赤い蝋燭(六本木シンフォニーサロン ライブ録音)
新美南吉
山から里の方へ遊びにいった猿が一本の赤い蝋燭を拾いました。赤い蝋燭は沢山あるものではありません。それで猿は赤い蝋燭を花火だと思い込んでしまいました。
猿は拾った赤い蝋燭を大事に山へ持って帰りました。
山では大へんな騒になりました。何しろ花火などというものは、鹿にしても猪にしても兎にしても、亀にしても、鼬にしても、狸にしても、狐にしても、まだ一度も見たことがありません。その花火を猿が拾って来たというのであります。
「ほう、すばらしい」
「これは、すてきなものだ」
鹿や猪や兎や亀や鼬や狸や狐が押合いへしあいして赤い蝋燭を覗きました。すると猿が、
「危い危い。そんなに近よってはいけない。爆発するから」といいました。
みんなは驚いて後込しました。
そこで猿は花火というものが、どんなに大きな音をして飛出すか、そしてどんなに美しく空にひろがるか、みんなに話して聞かせました。そんなに美しいものなら見たいものだとみんなは思いました。
「それなら、今晩山の頂上に行ってあそこで打上げて見よう」と猿がいいました。みんなは大へん喜びました。夜の空に星をふりまくようにぱあっとひろがる花火を眼に浮べてみんなはうっとりしました。
さて夜になりました。みんなは胸をおどらせて山の頂上にやって行きました。猿はもう赤い蝋燭を木の枝にくくりつけてみんなの来るのを待っていました。
いよいよこれから花火を打上げることになりました。しかし困ったことが出来ました。と申しますのは、誰も花火に火をつけようとしなかったからです。みんな花火を見ることは好きでしたが火をつけにいくことは、好きでなかったのであります。
これでは花火はあがりません。そこでくじをひいて、火をつけに行くものを決めることになりました。第一にあたったものは亀でありました。
亀は元気を出して花火の方へやって行きました。だがうまく火をつけることが出来たでしょうか。いえ、いえ。亀は花火のそばまで来ると首が自然に引込んでしまって出て来なかったのでありました。
そこでくじがまたひかれて、こんどは鼬が行くことになりました。鼬は亀よりは幾分ましでした。というのは首を引込めてしまわなかったからであります。しかし鼬はひどい近眼でありました。だから蝋燭のまわりをきょろきょろとうろついているばかりでありました。
遂々猪が飛出しました。猪は全く勇しい獣でした。猪はほんとうにやっていって火をつけてしまいました。
みんなはびっくりして草むらに飛込み耳を固くふさぎました。耳ばかりでなく眼もふさいでしまいました。
しかし蝋燭はぽんともいわずに静かに燃えているばかりでした。 -
橋の下
山本周五郎
二
「あれは刀のようだが」とやがて若侍が訊いた、「御老人はもと武家だったのか」
「これ」と老人は妻女に云った、「おまえもうひと眠りするがいい、粥が出来たら起こしてやる、それまで横になっておいで」
妻女はなにかを片づけていた。
「立町の国分という材木問屋の主人が亡くなって、ゆうべ通夜がございました」と老人は若侍に云った、「残り物があるから取りに来い、と云われたものですから、頂戴にいってさきほど戻ったところでございます」
妻女は口の欠けた土瓶と、湯呑を二つ、塗の剥げた盆にのせて、老人の脇に置くと、よく聞きとれない挨拶を述べ、石垣と橋との隙間へ、緩慢な動作で這いあがっていった。老人はまた若侍のようすを見た。彼は黒い無紋の袖の羽折を重ねていたが、着物も下衣も白であった。
「寒くはないか」と老人は振返って妻女に呼びかけた、「衿をよく巻いておくんだぞ」
妻女が低い声でなにか答え、老人はまた若侍の着物を見た。その白い着物が、老人になにごとか思いださせたらしい、焚火に枯枝をくべながら、老人はゆっくりと頷いた。
「さよう、私はもと侍でございました」と老人は云った、「国許は申しかねますが、私までに八代続いた家柄だそうで、その藩主に仕えてからも四代になり、身分も上位のほうでございました」
老人は土瓶の中を見た。それから、たぎり始めた湯沸しをおろし、土瓶に注いで、二つの湯呑に茶を淹れると、茶といえるようなものではないが、もし不浄と思わなかったら飲んでもらいたい、と云ってすすめた。若侍は礼を述べて、湯呑を受取った。
「その」と若侍が云った、「こんなことを訊いては失礼かもしれないが」
老人は静かに遮った、「いや、失礼などということはありません、ごらんのとおりなりはてたありさまですから、いまさら身の恥を隠すにも及びますまい、それにまた、聞いて頂くほどの話もないのです」
若侍は茶を啜り、湯呑を両手でつかんで、老人の話しだすのを待った。老人は湯沸しを鉤に掛け、自分の湯呑を持って、大事そうに啜りながら、やや暫く黙っていた。
「さよう、じつのところ、申上げるほどの話ではない、私は四十年ほどまえに、一人の娘のために親しい友を斬って、その娘といっしょに出奔しました、つづめて云えばそれだけのことです」
老人は茶を啜り、それからゆっくりと続けた、「その友達とは幼年のころから親しかった、私のほうが一つ年下でしたし、友達の家は徒士にすぎなかったが、二人は兄弟よりも親しかったといってもいいでしょう、さよう、――いちどこんなことがありました、たしか十一か二のときだったでしょう、のちに諍いのたねになった娘のことで、私がひどく怒り、三人でなにかしていたのを放りだして、私だけさっさとそこをたち去りました」
老人は唇に微笑をうかべ、さもたのしそうに、頭を左へ右へと振った。
「三人でなにをしていたのか、場所がどこだったか、私がなんで怒ったのか、いまではすっかり忘れてしまいました、うろおぼえに落葉の音を覚えています、私は落葉を踏んで歩いていました、するとまもなく、うしろでも落葉を踏む音が聞える、その音がずっと私のあとからついて来るのです、私はてっきり娘が追って来たものと思い、振返ってみると友達でした。
――ついて来るな、帰れ。
私はそうどなって、もっといそぎ足に歩き続けたのです、友達はやはりついて来ますし、私は二度も三度もどなりました」
老人は自分で静かに頷き、茶をひとくち啜った、「その友達は躯も小柄でしたし、眉は濃いが、まる顔で頭が尖っているため、握り飯のような恰好にみえるので、みんなから黙りむすびと呼ばれていました、黙りむすび、私にとってはなつかしいあだ名です、――彼は口かずが少なく、ふだんはごく温和しいが、いざとなると決してあとへはひかぬ性分でした、三度もどなりつけたので、もう帰るかと思うとやっぱりついて来る、なんにも云わずに、黙ってうしろからついて来るのです、私は振返ってまた云いました。
――どうしてついて来るんだ。
すると彼は答えました。
――だって、友達だもの」
老人は口をつぐみ、眼をつむって暫く沈黙した。若侍はそっと老人を見たが、すぐにその眼をそらし、両手で持っている湯呑を静かにまわした。
「だって、友達だもの」と老人はくり返し、それからまた続けた、「もし正確にいうなら、二人が兄弟より親しくなったのは、それからあとのことだったでしょう、彼は学問もよくできましたし、武芸でもめきめき腕をあげました、十五六のころから家中の注目を集め、将来ぬきんでた出世をするだろうと云われたものです、そして彼もまた、その世評の正しいことを立証したのですが、――」
老人は焚火の上から湯沸しをおろし、脇にある鍋を取って掛けた。使い古した鉄鍋で、もとのつるは毀れたのだろう、つるの代りに麻の細引が付けてあった。老人は薪をくべ、火のぐあいを直した。すると煙が立って、いっときが隠れ、それから急に明るく燃えあがり、のさきが鍋底を舐めた。
「私がどんなふうだったか、ということは申しますまい、私も私なりにやっておりました」と老人は云った、「もし私が、彼に嫉妬していたとお考えになるなら、それは間違っています、私は少しも嫉妬は感じませんでした、ことによるとそれは、私の家柄がよく、身分もずっと上だったからかもしれません、私はむしろ彼を尊敬していたといってもいいくらいです、いい時代でした、家があり、家族があり、若さと力を自分で感ずることができ、そしてよき友達をもっている、――さよう、二十一の年まで、私はそのように安定した、満足な生活に恵まれていました。それが父の死を境にして、狂いだしたのです」
老人は土瓶に湯を注いで、若侍のほうへさしだした。若侍は首を振り、老人は自分の湯呑に茶を注いだ。
「つまらない話で、御退屈ではありませんか」
「いや、うかがっています」と若侍が答えた、「どうぞ続けて下さい」
「父が病死したあと、私にすぐ縁談が始まりました」と老人は云った、「二十一の冬のことですが、私はまえからそのつもりでいた娘を、自分の嫁にと望みました、娘の家は番がしら格で、彼女の年は十七歳、もちろん当人も私の妻になることを承知していたのです、しかし、その申入れは断わられました」四 -
虔十公園林
宮沢賢治
虔十はいつも繩の帯をしめてわらって杜の中や畑の間をゆっくりあるいてゐるのでした。
雨の中の青い藪を見てはよろこんで目をパチパチさせ青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹を見付けてははねあがって手をたゝいてみんなに知らせました。
けれどもあんまり子供らが虔十をばかにして笑ふものですから虔十はだんだん笑はないふりをするやうになりました。
風がどうと吹いてぶなの葉がチラチラ光るときなどは虔十はもううれしくてうれしくてひとりでに笑へて仕方ないのを、無理やり大きく口をあき、はあはあ息だけついてごまかしながらいつまでもいつまでもそのぶなの木を見上げて立ってゐるのでした。
時にはその大きくあいた口の横わきをさも痒いやうなふりをして指でこすりながらはあはあ息だけで笑ひました。
なるほど遠くから見ると虔十は口の横わきを掻いてゐるか或いは欠伸でもしてゐるかのやうに見えましたが近くではもちろん笑ってゐる息の音も聞えましたし唇がピクピク動いてゐるのもわかりましたから子供らはやっぱりそれもばかにして笑ひました。
おっかさんに云ひつけられると虔十は水を五百杯でも汲みました。一日一杯畑の草もとりました。けれども虔十のおっかさんもおとうさんも仲々そんなことを虔十に云ひつけようとはしませんでした。
さて、虔十の家のうしろに丁度大きな運動場ぐらゐの野原がまだ畑にならないで残ってゐました。
ある年、山がまだ雪でまっ白く野原には新らしい草も芽を出さない時、虔十はいきなり田打ちをしてゐた家の人達の前に走って来て云ひました。
「お母、おらさ杉苗七百本、買って呉ろ。」
虔十のおっかさんはきらきらの三本鍬を動かすのをやめてじっと虔十の顔を見て云ひました。
「杉苗七百ど、どごさ植※[#小書き平仮名ゑ、49-6]らぃ。」
「家のうしろの野原さ。」
そのとき虔十の兄さんが云ひました。
「虔十、あそごは杉植※[#小書き平仮名ゑ、49-9]でも成長らなぃ処だ。それより少し田でも打って助けろ。」
虔十はきまり悪さうにもぢもぢして下を向いてしまひました。
すると虔十のお父さんが向ふで汗を拭きながらからだを延ばして
「買ってやれ、買ってやれ。虔十ぁ今まで何一つだて頼んだごとぁ無ぃがったもの。買ってやれ。」と云ひましたので虔十のお母さんも安心したやうに笑ひました。
虔十はまるでよろこんですぐにまっすぐに家の方へ走りました。
そして納屋から唐鍬を持ち出してぽくりぽくりと芝を起して杉苗を植ゑる穴を掘りはじめました。
虔十の兄さんがあとを追って来てそれを見て云ひました。
「虔十、杉ぁ植る時、掘らなぃばわがなぃんだぢゃ。明日まで待て。おれ、苗買って来てやるがら。」
虔十はきまり悪さうに鍬を置きました。
次の日、空はよく晴れて山の雪はまっ白に光りひばりは高く高くのぼってチーチクチーチクやりました。そして虔十はまるでこらへ切れないやうににこにこ笑って兄さんに教へられたやうに今度は北の方の堺から杉苗の穴を掘りはじめました。実にまっすぐに実に間隔正しくそれを掘ったのでした。虔十の兄さんがそこへ一本づつ苗を植ゑて行きました。
その時野原の北側に畑を有ってゐる平二がきせるをくはへてふところ手をして寒さうに肩をすぼめてやって来ました。平二は百姓も少しはしてゐましたが実はもっと別の、人にいやがられるやうなことも仕事にしてゐました。平二は虔十に云ひました。
「やぃ。虔十、此処さ杉植るな※[#小書き平仮名ん、50-11]てやっぱり馬鹿だな。第一おらの畑ぁ日影にならな。」
虔十は顔を赤くして何か云ひたさうにしましたが云へないでもぢもぢしました。
すると虔十の兄さんが、
「平二さん、お早うがす。」と云って向ふに立ちあがりましたので平二はぶつぶつ云ひながら又のっそりと向ふへ行ってしまひました。
その芝原へ杉を植ゑることを嘲笑ったものは決して平二だけではありませんでした。あんな処に杉など育つものでもない、底は硬い粘土なんだ、やっぱり馬鹿は馬鹿だとみんなが云って居りました。
それは全くその通りでした。杉は五年までは緑いろの心がまっすぐに空の方へ延びて行きましたがもうそれからはだんだん頭が円く変って七年目も八年目もやっぱり丈が九尺ぐらゐでした。
ある朝虔十が林の前に立ってゐますとひとりの百姓が冗談に云ひました。
「おゝい、虔十。あの杉ぁ枝打ぢさなぃのか。」
「枝打ぢていふのは何だぃ。」
「枝打ぢつのは下の方の枝山刀で落すのさ。」
「おらも枝打ぢするべがな。」
虔十は走って行って山刀を持って来ました。
そして片っぱしからぱちぱち杉の下枝を払ひはじめました。ところがたゞ九尺の杉ですから虔十は少しからだをまげて杉の木の下にくぐらなければなりませんでした。
夕方になったときはどの木も上の方の枝をたゞ三四本ぐらゐづつ残してあとはすっかり払ひ落されてゐました。
濃い緑いろの枝はいちめんに下草を埋めその小さな林はあかるくがらんとなってしまひました。
虔十は一ぺんにあんまりがらんとなったのでなんだか気持ちが悪くて胸が痛いやうに思ひました。
そこへ丁度虔十の兄さんが畑から帰ってやって来ましたが林を見て思はず笑ひました。そしてぼんやり立ってゐる虔十にきげんよく云ひました。
「おう、枝集めべ、いゝ焚ぎものうんと出来だ。林も立派になったな。」
そこで虔十もやっと安心して兄さんと一緒に杉の木の下にくぐって落した枝をすっかり集めました。
下草はみじかくて奇麗でまるで仙人たちが碁でもうつ処のやうに見えました。
ところが次の日虔十は納屋で虫喰ひ大豆を拾ってゐましたら林の方でそれはそれは大さわぎが聞えました。
あっちでもこっちでも号令をかける声ラッパのまね、足ぶみの音それからまるでそこら中の鳥も飛びあがるやうなどっと起るわらひ声、虔十はびっくりしてそっちへ行って見ました。
すると愕ろいたことは学校帰りの子供らが五十人も集って一列になって歩調をそろへてその杉の木の間を行進してゐるのでした。
全く杉の列はどこを通っても並木道のやうでした。それに青い服を着たやうな杉の木の方も列を組んであるいてゐるやうに見えるのですから子供らのよろこび加減と云ったらとてもありません、みんな顔をまっ赤にしてもずのやうに叫んで杉の列の間を歩いてゐるのでした。
その杉の列には、東京街道ロシヤ街道それから西洋街道といふやうにずんずん名前がついて行きました。
虔十もよろこんで杉のこっちにかくれながら口を大きくあいてはあはあ笑ひました。
それからはもう毎日毎日子供らが集まりました。
たゞ子供らの来ないのは雨の日でした。
その日はまっ白なやはらかな空からあめのさらさらと降る中で虔十がたゞ一人からだ中ずぶぬれになって林の外に立ってゐました。
「虔十さん。今日も林の立番だなす。」
簑を着て通りかゝる人が笑って云ひました。その杉には鳶色の実がなり立派な緑の枝さきからはすきとほったつめたい雨のしづくがポタリポタリと垂れました。虔十は口を大きくあけてはあはあ息をつきからだからは雨の中に湯気を立てながらいつまでもいつまでもそこに立ってゐるのでした。
ところがある霧のふかい朝でした。
虔十は萱場で平二といきなり行き会ひました。
平二はまはりをよく見まはしてからまるで狼のやうないやな顔をしてどなりました。
「虔十、貴さんどごの杉伐れ。」
「何してな。」
「おらの畑ぁ日かげにならな。」
虔十はだまって下を向きました。平二の畑が日かげになると云ったって杉の影がたかで五寸もはひってはゐなかったのです。おまけに杉はとにかく南から来る強い風を防いでゐるのでした。
「伐れ、伐れ。伐らなぃが。」
「伐らなぃ。」虔十が顔をあげて少し怖さうに云ひました。その唇はいまにも泣き出しさうにひきつってゐました。実にこれが虔十の一生の間のたった一つの人に対する逆らひの言だったのです。
ところが平二は人のいゝ虔十などにばかにされたと思ったので急に怒り出して肩を張ったと思ふといきなり虔十の頬をなぐりつけました。どしりどしりとなぐりつけました。
虔十は手を頬にあてながら黙ってなぐられてゐましたがたうとうまはりがみんなまっ青に見えてよろよろしてしまひました。すると平二も少し気味が悪くなったと見えて急いで腕を組んでのしりのしりと霧の中へ歩いて行ってしまひました。
さて虔十はその秋チブスにかかって死にました。平二も丁度その十日ばかり前にやっぱりその病気で死んでゐました。
ところがそんなことには一向構はず林にはやはり毎日毎日子供らが集まりました。
お話はずんずん急ぎます。
次の年その村に鉄道が通り虔十の家から三町ばかり東の方に停車場ができました。あちこちに大きな瀬戸物の工場や製糸場ができました。そこらの畑や田はずんずん潰れて家がたちました。いつかすっかり町になってしまったのです。その中に虔十の林だけはどう云ふわけかそのまゝ残って居りました。その杉もやっと一丈ぐらゐ、子供らは毎日毎日集まりました。学校がすぐ近くに建ってゐましたから子供らはその林と林の南の芝原とをいよいよ自分らの運動場の続きと思ってしまひました。
虔十のお父さんももうかみがまっ白でした。まっ白な筈です。虔十が死んでから二十年近くなるではありませんか。
ある日昔のその村から出て今アメリカのある大学の教授になってゐる若い博士が十五年ぶりで故郷へ帰って来ました。
どこに昔の畑や森のおもかげがあったでせう。町の人たちも大ていは新らしく外から来た人たちでした。
それでもある日博士は小学校から頼まれてその講堂でみんなに向ふの国の話をしました。
お話がすんでから博士は校長さんたちと運動場に出てそれからあの虔十の林の方へ行きました。
すると若い博士は愕ろいて何べんも眼鏡を直してゐましたがたうとう半分ひとりごとのやうに云ひました。
「あゝ、こゝはすっかりもとの通りだ。木まですっかりもとの通りだ。木は却って小さくなったやうだ。みんなも遊んでゐる。あゝ、あの中に私や私の昔の友達が居ないだらうか。」
博士は俄かに気がついたやうに笑ひ顔になって校長さんに云ひました。
「こゝは今は学校の運動場ですか。」
「いゝえ。こゝはこの向ふの家の地面なのですが家の人たちが一向かまはないで子供らの集まるまゝにして置くものですから、まるで学校の附属の運動場のやうになってしまひましたが実はさうではありません。」
「それは不思議な方ですね、一体どう云ふわけでせう。」
「こゝが町になってからみんなで売れ売れと申したさうですが年よりの方がこゝは虔十のたゞ一つのかたみだからいくら困っても、これをなくすることはどうしてもできないと答へるさうです。」
「ああさうさう、ありました、ありました。その虔十といふ人は少し足りないと私らは思ってゐたのです。いつでもはあはあ笑ってゐる人でした。毎日丁度この辺に立って私らの遊ぶのを見てゐたのです。この杉もみんなその人が植ゑたのださうです。あゝ全くたれがかしこくたれが賢くないかはわかりません。たゞどこまでも十力の作用は不思議です。こゝはもういつまでも子供たちの美しい公園地です。どうでせう。こゝに虔十公園林と名をつけていつまでもこの通り保存するやうにしては。」
「これは全くお考へつきです。さうなれば子供らもどんなにしあはせか知れません。」
さてみんなその通りになりました。
芝生のまん中、子供らの林の前に
「虔十公園林」と彫った青い橄欖岩の碑が建ちました。
昔のその学校の生徒、今はもう立派な検事になったり将校になったり海の向ふに小さいながら農園を有ったりしてゐる人たちから沢山の手紙やお金が学校に集まって来ました。
虔十のうちの人たちはほんたうによろこんで泣きました。
全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さはやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本当のさいはひが何だかを教へるか数へられませんでした。
そして林は虔十の居た時の通り雨が降ってはすき徹る冷たい雫をみじかい草にポタリポタリと落しお日さまが輝いては新らしい奇麗な空気をさはやかにはき出すのでした。 -
トンボの死
山川方夫
二人が知りあったのは、青年の夏休みのアルバイトからだった。彼女はそのビルの一階にある喫茶店のウエイトレスをしていた。そして青年は、同じビルの四階と五階にひろいフロアをもつ電器会社に、夏休みのあいだだけやとわれた給仕だということだった。
ときどき彼女が注文をうけたコーヒーやジュースを運んで行ったり、青年のほうでも喫茶店にやってきたりして、やがて彼女の仲間のウエイトレスたちは、彼女がちょいちょい青年のことを話題にしたがるのに気づいた。
「あの人はね、とっても可哀そうなの」
と、よく彼女はいった。
「なんでもお母さんが継母で、お父さんは死んじゃってて、弟や妹からもバカにされるし、親戚もだれもかまっちゃくれないんですって。でも苦学して、いっしょうけんめいアルバイトしながら夜間大学に行っているの。だけど、からだが疲れちゃって、やっぱり成績も悪いらしいのね。可哀そうなのよ、とっても」
相手がからかうと、彼女は真赤になって怒った。
「ひどいわ、ひどいわ。そんなんじゃないのよ。結婚だなんて、そんなこと私ができないこと、あんただって知ってるじゃない」
たしかに、彼女には母と病気の弟と、まだ小さな妹とがいた。一家のただ一人の働き手である彼女は、まだ十九だった。
夏休みが終ると、青年は電器会社には来なくなった。が、喫茶店にはときどき姿をみせ、彼女にコーヒーをおごられては、きまって小さな封筒に入ったなにかを受けとって帰って行くのだった。その青年の後ろ姿をぼんやりとみつめながら、彼女はいつもひどく幸福そうな表情をうかべていた。
「なにを渡しているの? いつも」
あるとき同僚の一人がきくと、彼女はニコニコして答えた。
「あれ? あれはね、トンボのエサ」
ふしぎがる同僚に、彼女は善良そのものの顔で説明するのだった。
「あの人ね。小さな鳥カゴの中に二匹のトンボを飼っているの。オスのほうは太郎、メスはエミ子っていう名前なのよ。とっても可愛いくって、名前を呼ぶと羽ばたきして近寄ってくるんだって、ただね、あの人、働かなくちゃならないんで、エサをとってきてやるひまがないのよ。それで、私がかわりにいっしょうけんめいハエをとって、その死骸をああして封筒に入れて渡したげることにしてるの。……あの人、とっても感謝しているのよ」冷房がそろそろ不要になりはじめた秋のある日だった。喫茶店に、彼女あてに署名のない手紙が来ていた。それを読むと、彼女は蒼白になり、手紙を引き破いた。
「……バカな人」といって、そして泣きはじめた。
心配する同僚たちに、彼女はいった。
「あの人はね、ウソつきなの。あの人、ほんとはあの電器会社の社長さんの一人息子なのよ。私、会社の人たちが話しているのを聞いて、はじめから知ってたのよ。来年大学を出たらすぐアメリカに留学するんで、事業の内容を実地に知るために夏休みをつぶしてたの。もちろん継母なんかじゃないし、だれからもかまわれないどころか、みんなからチヤホヤされて育てられて、でもあの人は家での役目も将来もキチッときまっていて、そのコースから逃げだすことができないのよ。そんな自分から解放されたくって、あの人は私にでたらめばかり話して聞かせてたんだわ。……でも私、あの人のウソを信じてあげるふりをしてたの。だって、私がなにかしてあげられるのは、ウソのあの人でしかないんだし、あの人と私とでは、あの人のそんなウソのなかにしか、いっしょに住める場所がないんですもの。だから、せめて来年、あの人がアメリカへ行って、私から消えてしまうまで、私は本気でずっとあの人のウソを信じてあげるつもりだったの。あの人のウソの中で、いっしょに暮したいと思ってたの。……それを、いまごろ、ダマすのが気がとがめて、だなんて、……」
泣きつづける彼女の汚れたハンド・バッグの口がひらき、ふくらんだいつもの小さな封筒がころげ落ちて、そこからなにかが床にこぼれた。同僚たちは、一瞬それをハエの死骸と見あやまったが、じつは、それは湿った麦茶の出ガラだった。
彼のウソの生命をのばすために、それがけんめいに彼女がいつも運んでいたウソのエサなのだった。
「……あの人、やっぱり一ぺんも開けてみなかったのね」
と、低く彼女はいった。晩い秋の街に顔を向け、そしてつぶやくようにくりかえした。
「そうね。……きっと、もう、トンボも死んでしまったのね」 -
橋の下
山本周五郎
練り馬場と呼ばれるその広い草原は、城下から北へ二十町あまりいったところにある。原の北から西は森と丘につづき、東辺に伊鹿野川が流れている。城主が在国のときは、年にいちどそこで武者押をするため、練り馬場と呼ばれるようになったと伝えられている。
いま一人の若侍が、その草原へはいって来た。月は落ちてしまって見えない、空はいちめんの星であるが、あたりはまだまっ暗で、原の南東にある源心寺の森がひどく遠く、ぼんやりと、墨でぼかしたようにかすんでいた。
「少し早かったな」とその若侍は呟いた、「しかしもうすぐ明けてくるだろう」
彼は周囲を眺め、空を見あげた。年は二十四五歳で、眼鼻だちのきりっとした顔が、寒さのためであろうか、仮面のように硬ばって白く、無表情にみえた。彼は東の空を見やり、それから首を振った。
「いや、そんな筈はない」と彼は呟いた、口は殆んど動かず、誰かほかの者が呟くように聞えた、「間違える筈はない、たしかに七つの鐘を聞いて起きたのだ、たしかに七つだった」
彼は自分をおちつかせようとして、腹に力をいれた。そしてゆっくりと、往ったり来たりし始めた。きっちりとはいた草鞋の下で、冰った土や枯草がみしみしときしみ、そこから寒さがはいあがってきた。寒さは足をはいのぼって腹にしみとおり、躯の芯からふるえが起こった。彼はまた東の空を見あげたが、そこには朝のけはいさえなく、さっきよりは一段と星が明るくなったように思えた。
その若侍のおちつかない動作は、眼に見えないなにかに追われているか、または追いかけているようにみえた。白く硬ばった顔は硬ばったままで、感情の激しい動揺をあらわしているようであり、歩きまわる足どりや、絶えまなしに左右を見やる眼つきには、追いつめられたけものが逃げ場を失ったときの、恐怖にちかい絶望といった感じがあらわれていた。
「なにを、いまさら」と彼は呟いた、「もう考える余地はないじゃないか、これでいよいよけりがつくんだ、もうなにも思い惑うな、なんにも考えるな」
腹部から胸のほうへと、ふるえが波を打ってこみあげ、歯と歯がこまかく触れあった。彼は歯をくいしばり、足に力をこめて歩きまわった。やがて、源心寺で鐘が鳴りだした。彼はうわのそらで聞いていたが、ぼんやり七つ(午前四時)かぞえたのでわれに返った。
「七つじゃないか」と彼は云った、「捨て鐘をべつにして、たしかに七つだった、すると刻を間違えたのか」
家で聞いた刻の鐘が七つだと思ったが、それではあれは八つ(午前二時)だったのか、と彼は思った。空のもようでみても、いま七つが正しいらしい。約束の六つ半まではたっぷり三時間ちかくある。ばかな間違いをした、あがっていたんだな、と彼は思った。
「どうしよう」寒さのためにふるえながら、彼は自分に問いかけた、「帰って出直すわけにもいかない、そうはできない、といって、ここにこうしていれば躯が凍えてしまう」
彼は舌打ちをし、両手の指を揉んだり、擦りあわせたりしながら、川のほうへと足を向けた。自分がどっちへ歩いているのかも知らず、川の岸まで来てようやく気がつき、おどろいて立停った。――伊鹿野川は冬になると水が少なくなる。幅三十間ばかりの川が、半ば以上も干いて、広くなった河原を、細く二た条に分れた水が、うねうねと蛇行しているのだが、いまはそれも冰っており、星明りの下でかすかに白く、いかにも冷たげに見えていた。
岸のところで立停った彼は、なにかに眼をひかれてふと右の、川上のほうへ振向いた。およそ三十間ばかり先に、焚火の火らしいものが小さく見えた。そのちらちらする火が彼の眼をとらえたのであろう、彼はちょっと躊っていたが、すぐにそちらへ向って歩きだした。
火は岸の下で燃えていた。水のない河原の岸よりで、近づいてみると、そこは土合橋の下であった。若侍はもっと近づいてゆき、そこに人のいるのを見て、河原へおりた。焚火は土合橋の下で燃えており、その脇で二人の老人がなにかしていた。よく見ると一人は男、一人は女で、焚火には鍋がかけてあった。
老人のほうでも、彼が近づいて来るのを見ていたらしく、彼が立停ると、穏やかな声で呼びかけた。
「お見廻りでございますか」
「いや」と彼はあいまいに口ごもった。
老人は彼のようすを眺め、それからまた云った、「これからがいちばん凍てる時刻です、よろしかったら、こちらへ来ておあたりになりませんか」
若侍は迷った。かれらが乞食だということがわかったからである。だが、それはただの乞食ではなく、城下では「夫婦乞食」といって、数年まえからかなりひろく知られていたし、彼も幾たびか見かけたことがあった。――かれらはいつも二人いっしょだった。ほかの乞食とはちがって、身妝もさっぱりしており、人の家の勝手口で残った冷飯や菜を貰うほかには、道ばたで物乞いをすることもないし、銭などには決して手を出さなかった。
――人柄も悪くない、なにかわけのある夫婦だろう。
城下の人たちはそう云って、着古した物などを、わざわざ持っていってやる者もある、という話を聞いたこともあった。
「では、――」と若侍が云った、「邪魔をさせてもらおう」
老人はどうぞと云い、掛けてある鍋をおろすと、うしろから蓆を取り出して、焚火の脇へ敷いた。蓆は新しいもので、まだ甘ずっぱいような藁の匂いがしていた。若侍は刀をとってから、その上に腰をおろし、そしてまわりのようすを眺めた。
頭上には土合橋が屋根になっていた。水の干いた河原に坐って見あげると、おどろくほど高いが、それでも屋根の役をすることはたしかであった。橋のつけねには石が組んであるが、その石垣と橋桁のあいだに三尺ほどの隙間があり、二三の包の置いてあるのが見えた。おそらく、そこが老人たちの寝場所になるのであろう。若い侍はそう思いながら、ふと眼を細くした。そこに置いてある包の一つから、刀の柄が見えたのである。眼をとめて見ると、それは紛れもなく刀の柄であった。
老人は焚火に湯沸しを掛けていた。焚火には太い枯枝を三叉に立て、結びめのところに鉤がさがっている。老人はその鉤へ湯沸しを掛けながら、妻女になにか云いつけ、また、それとなく若侍のようすをぬすみ見ていた。