2017年12月

  • 夏目漱石「こころ」下 41 42 山口雄介朗読

    14.65
    Oct 18, 2017

    四十一

    「私はちょうど他流試合でもする人のようにKを注意して見ていたのです。私は、私の眼、私の心、私の身体からだ、すべて私という名の付くものを五隙間すきまもないように用意して、Kに向ったのです。罪のないKは穴だらけというよりむしろ明け放しと評するのが適当なくらいに無用心でした。私は彼自身の手から、彼の保管している要塞ようさいの地図を受け取って、彼の眼の前でゆっくりそれをながめる事ができたも同じでした。
    Kが理想と現実の間に彷徨ほうこうしてふらふらしているのを発見した私は、ただ一打ひとうちで彼を倒す事ができるだろうという点にばかり眼を着けました。そうしてすぐ彼のきょに付け込んだのです。私は彼に向って急に厳粛な改まった態度を示し出しました。無論策略からですが、その態度に相応するくらいな緊張した気分もあったのですから、自分に滑稽こっけいだの羞恥しゅうちだのを感ずる余裕はありませんでした。私はまず「精神的に向上心のないものは馬鹿ばかだ」といい放ちました。これは二人で房州ぼうしゅうを旅行している際、Kが私に向って使った言葉です。私は彼の使った通りを、彼と同じような口調で、再び彼に投げ返したのです。しかし決して復讐ふくしゅうではありません。私は復讐以上に残酷な意味をもっていたという事を自白します。私はその一言いちごんでKの前に横たわる恋の行手ゆくてふさごうとしたのです。
    Kは真宗寺しんしゅうでらに生れた男でした。しかし彼の傾向は中学時代から決して生家の宗旨しゅうしに近いものではなかったのです。教義上の区別をよく知らない私が、こんな事をいう資格に乏しいのは承知していますが、私はただ男女なんにょに関係した点についてのみ、そう認めていたのです。Kは昔から精進しょうじんという言葉が好きでした。私はその言葉の中に、禁欲きんよくという意味もこもっているのだろうと解釈していました。しかし後で実際を聞いて見ると、それよりもまだ厳重な意味が含まれているので、私は驚きました。道のためにはすべてを犠牲にすべきものだというのが彼の第一信条なのですから、摂欲せつよく禁欲きんよくは無論、たとい欲を離れた恋そのものでも道の妨害さまたげになるのです。Kが自活生活をしている時分に、私はよく彼から彼の主張を聞かされたのでした。そのころからお嬢さんを思っていた私は、勢いどうしても彼に反対しなければならなかったのです。私が反対すると、彼はいつでも気の毒そうな顔をしました。そこには同情よりも侮蔑ぶべつの方が余計に現われていました。
    こういう過去を二人の間に通り抜けて来ているのですから、精神的に向上心のないものは馬鹿だという言葉は、Kに取って痛いに違いなかったのです。しかし前にもいった通り、私はこの一言で、彼が折角せっかく積み上げた過去を蹴散けちらしたつもりではありません。かえってそれを今まで通り積み重ねて行かせようとしたのです。それが道に達しようが、天に届こうが、私は構いません。私はただKが急に生活の方向を転換して、私の利害と衝突するのを恐れたのです。要するに私の言葉は単なる利己心の発現でした。
    「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」
    私は二度同じ言葉を繰り返しました。そうして、その言葉がKの上にどう影響するかを見詰めていました。
    「馬鹿だ」とやがてKが答えました。「僕は馬鹿だ」
    Kはぴたりとそこへ立ちまったまま動きません。彼は地面の上を見詰めています。私は思わずぎょっとしました。私にはKがその刹那せつな居直いなおり強盗のごとく感ぜられたのです。しかしそれにしては彼の声がいかにも力に乏しいという事に気が付きました。私は彼の眼遣めづかいを参考にしたかったのですが、彼は最後まで私の顔を見ないのです。そうして、徐々そろそろとまた歩き出しました。

    青空文庫より

  • 江戸川乱歩「一枚の切符」二宮 隆朗読

    54.97
    Oct 16, 2017

    「イヤ、僕も多少は知っているさ。あれは先ず、近来の珍事だったからな。世間はあの噂で持切っている。が、多分君程詳敷くわしくはないんだ。少し話さないか」
    一人の青年紳士が、こういって、赤い血のしたたる肉の切れを口へ持って行った。
    「じゃ、一つ話すかな。オイ、ボーイさん、ビールの御代りだ」
    身形みなりの端正なのにそぐわず、髪の毛を馬鹿にモジャモジャとのばした、相手の青年は、次の様に語り出した。
    「時は――大正――年十月十日午前四時、所は――ちょうの町外れ、富田とみた博士邸裏の鉄道線路、これが舞台面だ。冬の、(イヤ、秋かな、マアどっちでもいいや)まだ薄暗いあかつきの、静寂せいじゃくを破って、上り第○号列車が驀進ばくしんして来たと思い給え。すると、どうした訳か、突然けたたましい警笛が鳴ったかと思うと、非常制動機の力で、列車は出し抜けに止められたが、少しの違いで車が止まる前に、一人の婦人が轢殺ひきころされてしまったんだ。僕はその現場げんじょうを見たんだがね。初めての経験だが、実際いやな気持のものだ。
    それが問題の博士令夫人だったのさ。車掌の急報で其筋そのすじの連中がやって来る。野次馬が集る。そのうちに誰れかが博士邸に知らせる、驚いた主人の博士や召使達が飛出して来る、丁度その騒ぎの最中へ、君も知っている様に、当時――町へ遊びに出掛けていた僕が、僕の習慣である所の、早朝の散歩の途次、通り合せたという訳さ。で、検死が始まる。警察医らしい男が傷口を検査する。一通り済むと直ぐに死体は博士邸へ担込かつぎこまれて了う。傍観者の眼には、きわめて簡単に、事は落着したようであった。
    僕の見たのはこれけだ。あとは新聞記事を綜合して、それに僕の想像を加えての話だから、その積りで聞いてくれ給え。さて警察医の観察によると、死因は無論轢死れきしであって、右の太腿を根許ねもとから切断されたのによるというのだ。そして、ことここに至った理由わけはというと、それを説明してれる所の、実に有力な手懸りが、死人の懐中から出て来た。それは夫人が夫博士に宛てた一通の書置かきおきであって中の文句は、永年の肺病で、自分も苦しみ、周囲にも迷惑を掛けていることが、最早や耐えられなくなったから、茲に覚悟の自殺をとげる。ザッとマアこういう意味だったのだ。実にありふれた事件だ。若し、ここに一人の名探偵が現れなかったなら、お話はそれでお仕舞で、博士夫人の厭世えんせい自殺とか何とか、三面記事の隅っこに小さい記事を留めるに過ぎなかったが、その名探偵のお蔭で、我々もすばらしい話題が出来たというものだ。