2017年7月
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野村胡堂 「銭形平次捕物控 鈴を慕ふ女」 萩柚月朗読
錢形平次捕物控
鈴を慕ふ女
野村胡堂
「八、あれを跟けてみな」
「へエ――」
「逃がしちやならねえ、相手は細くねえぞ」
「あの七つ下りの浪人者ですかい」
「馬鹿ツ、あれは何處かの手習師匠で、佛樣のやうな武家だ。俺の言ふのは、その先へ行く娘のことだ」
「へエ――、あの美しい新造が曲者なんですかい。驚いたな」
「靜かに物を言へ、人が聞いてるぜ」
錢形の平次と子分のガラツ八は、その頃繁昌した、下谷の徳藏稻荷に參詣するつもりで、まだ朝のうちの廣徳寺前を、上野の方へ辿つて居りました。
「ガラツ八、よく見て置くんだよ、心得の爲に話して置くが――」
「へエ――」
平次は一段と聲を落しました。
「武家はちよいと怖い顏をして居るが、よく/\見ると顏の造作の刻みが深いといふだけのことで、まことに人相に毒がねえ、――牙のある獸に角がなく、角のある獸に牙がねえのと同じ理窟で、あんな怖い顏をした人間は、十中八九は心持のいゝものだ。ところが本當の惡黨とか、腹の黒い人間といふものは、思ひの外ノツペりした顏をして居るものだよ。見るがいゝ、あの武家の袂の先には、此處からでも見える位、朱が付いてるだらう、あれが手習師匠の證據だ。子供の手習を直す時朱硯に袂の先が入つたんだらう」
「へエ――、するとあの美しい娘が惡人てえ證據は?」
「あの娘と摺れ違つた時見ると、袖の先に同じやうに赤いものが付いてるが、それは朱ぢやなくて血だ。それにあの娘は廣徳寺前で、袂から泥燒のお狐樣を落したらう」
「それは、あつしも見ましたよ。あれは徳藏稻荷の門前で賣つて居ますね、素燒のお狐に泥繪具を塗つて、一つが十二文。あれは懷中へ忍ばせて置くと、願事が叶ふとか言つて、手弄みをする手合がよく持つて居ますが――」
「それだよ、そのお狐を若い女が袖に忍ばせて居るのも可笑しいが、何かの機みで落つことすと、乾き切つた往來の上で尻尾が缺けた。――この通り」
平次は何時の間に拾つたか、内懷から尻尾の缺けた素燒の狐を出して見せました。
「何時の間に拾ひなすつたんで、早業だね、親分は?」
「馬鹿、靜かに物を言へ、往來の人が顏を見るぢやないか、――ところで、女が物を落すと、どんなに忙しい時でも大抵踏み止つて一應は拾ひ上げるものだ。そして、役にも立たないことだが――毀れたものなら、元の通り繼いでみるとか何とか、どんなにつまらない物でも、それ位の未練は持つて居るものだ。ところがあの娘は何うだ」
「お狐を落として、尻尾が缺けると、ちよいと振り向いたつ切り、拾ひ上げようともせずにサツサと行つて仕舞つた――成程、こいつは可笑しいや」
「解つたか、八。あの女は馬鹿か豪傑か、でなければ腹の中に容易でない屈託があるんだ。それも並大抵のことではない、女が願事が叶ふといふ禁呪のおコンコン樣を捨てゝ行くのは容易ぢやない」
平次の明察は、すつかりガラツ八を景氣付けました。
「ね、親分。この仕事を私に任しちや下さいませんか」
「何だと」
「八五郎の手柄初めに、根こそぎ洗ひ出してみませう」
「大丈夫か、ガラツ八」
「大丈夫かは心細いな」
「――」
「第一、あんな吹けば飛ぶやうな新造を、錢形の平次親分とその一の子分の八五郎とで跟けたとあつちや、世間の聞えもよくねえ」
「それもさうだな。萬に一つの間違ひはあるまいが、あの娘を見失つちやならねえよ。俺は徳藏稻荷へ行つて、お前の歸つて來るのを待つて居るから」
「有難てえ。それぢや任せて下さるんだね、親分」
「ドヂを踏むな、相手が綺麗な新造だと思ふと間違ひだぞ」
「だ、大丈夫――」
ガラツ八は平手を額にかざすと、平次に別れて娘の後を追ひました。 -
永井荷風 「寐顔」海渡みなみ朗読
寐顔
永井荷風
竜子は六歳の時父を失ったのでその写真を見てもはっきりと父の顔を思出すことができない。今年もう十七になる。それまで竜子は小石川茗荷谷の小じんまりした土蔵付の家に母と二人ぎり姉妹のようにくらして来た。母の京子は娘よりも十八年上であるが髪も濃く色も白いのみか娘よりも小柄で身丈さえも低い処から真実姉妹のように見ちがえられる事も度々であった。
竜子は十七になった今日でも母の乳を飲んでいた頃と同じように土蔵につづいた八畳の間に母と寝起を共にしている。琴三味線も生花茶の湯の稽古も長年母と一緒である。芝居へも縁日へも必ず連立って行く。小説や雑誌も同じものを読む。学課の復習試験の下調も母が側から手伝うので、年と共に竜子自身も母をば姉か友達のように思う事が多かった。
しかし十三の頃から竜子は何の訳からとも知らず折々こんな事を考えるようになった。母はもし自分というものがなかったなら今日までこうして父のなくなった家にさびしく一人で暮してはおられなかったかも知れない。自分が八ツの時亡くなった祖母の家にとうに帰ってしまわれたかも知れない。母がこの年月ここにこうしておられるのは全く自分の生れたためではないか。竜子は母が養育の恩を今更のように有難く忝なく思うと共に、また母に対して何とも知れず気の毒のような済まないような気もして自然と涙ぐんだ。それ以来竜子は唯に母と自分の身の上のみならず見廻す家の内の家具調度または庭の植木のさまにまで底知れぬ寂しさを感ずるようになった。
家の内には竜子が生れた時から見馴れた箪笥火鉢屏風書棚の如き家具の外に茶の湯裁縫生花の道具、または大きな硝子戸棚の中に並べられた人形羽子板玩具のたぐい、一ツ一ツに注意すればむしろ物が多過ぎるほど賑かに置かれてある。それにもかかわらず家の内はいつもしんとして薄寒いような気のするほど静である。
日当りのいい縁側には縮緬の夜具羽二重の座布団や母子二人の着物が干される。軒先には翼と尾との紫に首と腹との真赤な鸚哥が青い籠の内から頓狂な声を出して啼く。さして広からぬ庭には四季断えず何かしら花がさいているが、それらの物のハデな艶しい色彩はかえって男気のない家の内の静寂をばどうかすると一層さびしく際立たせるように思われる事があった。
日頃母子の家に出入する男といっては、日々勝手口へ御用を聞きに来る商人の外には、植木屋と呉服屋と家作の差配人と、それから桑島先生という内科の医者くらいのものであろう。いずれも竜子の生れない前から出入していた人たちで、もう髪の白くなっていないものは一人もない。
橘屋という呉服屋の番頭は長年母の実家の御出入であった関係から母の嫁入した先の家まで商いを弘めたのである。差配人の高木というのは亡った主人が経営していた会社の使用人で長年金庫の番人をしていた堅い老人である。植木屋は雑司ヶ谷から来る五兵衛という腰のまがった爺であったが、竜子が丁度高等女学校へ進もうという前の年松の霜よけをしに来た時、徴兵から戻って来た亀蔵という伜を連れて来て、自分は年を取って仕事に出られなくなったからこの後は親爺同様に伜をお使い下さるようにと頼んで行った。長年かかりつけの桑島先生が老病で世を去ったのもやはりその頃であった。 -
アーサー・コナン・ドイル「緋のエチュード」第一章 松井美樹朗読
アーサー・コナン・ドイル「緋のエチュード」第二章 松井美樹朗読
アーサー・コナン・ドイル「緋のエチュード」第三章 松井美樹朗読
緋のエチュード
A STUDY IN SCARLET
アーサー・コナン・ドイル Arthur Conan Doyle
大久保ゆう訳
第一部 医学博士にして退役軍医ジョン・H・ワトソンの回顧録から翻刻さる
第一章 シャーロック・ホームズくん
一八七八年のこと、私はロンドン大学で医学博士号を取得し、続けて陸軍軍医の義務課程も修めるべくネットリィへ進んだ。そこで課程修了したのち、正式に軍医補として第五ノーザンバランド・フュージリア連隊付となった。当時連隊はインドに駐屯していたが、私の赴任に先立ち第二次アフガン戦争が勃発、ボンベイに到着するやいなや、連隊は峠の向こう敵陣深くにあり、と聞かされることになった。だが境遇をともにする多くの士官たちと連隊を追い、無事カンダハールへたどり着くと、我が連隊がそこにいたので、すぐさま着任する恰好となった。
この戦役は多くの者に論功行賞をもたらす形となったが、私にはただ不運厄災あるのみだった。連隊を免ぜられ、次に任ぜられたのはバークシア連隊付で、かくしてマイワンドの激戦へ参加したのである。戦闘のなか、私はジェザイル弾を肩に受けたため、骨が砕け、鎖骨下動脈に傷を負ってしまった。すんでの所で殺気みなぎるガージ兵士の手に落ちそうだったが、助手看護兵マリが勇猛果敢な行動に打ち出て、荷馬の上に放り載せられた私は、マリによって安全な英軍戦線までうまく連れ帰されたのである。
つもりつもった疲労と負傷とが相まって、私は衰弱しきってしまい、そのため、おびただしい数の負傷兵と一緒にペシャワールの基地病院へ後送された。私は療養の末、病棟を歩き回り、ヴェランダで日光浴が出来るほどまで回復したのだが、そんなときインド領の呪いこと腸チフスにかかり、病床に伏してしまった。数ヶ月間、我が命は峠をさまよった。意識を取り戻し病状が上向いたときには、私はすっかりやつれ衰え、ついには医局から一刻も早く本国へ帰還させよ、との診断が下った。早速そのまま軍隊輸送船オロンティーズ号に乗せられ、一ヶ月後ポーツマス桟橋に上陸したのだが、私の健康は見る影もなく、祖国政府から向こう九ヶ月の静養許可をいただくという有様だった。
イングランドには親類知己がひとりとしておらず、空気のように気ままであり、一日一一シリング六ペンスの支給額の許す限りは勝手に過ごせた。このような状況下では、全帝国における惰気倦怠の掃き溜め、このロンドンに私が居着くのは当然のことだった。しばらくストランドのプライヴェート・ホテルに寝泊まりし、無味乾燥な生活を送り、金銭を湯水の如く使っていた。すると私の財源は底を尽き始め、そこで二者択一を迫られている現状にようやく気が付いたのである。この大都市を去り田舎へ引き払うか、もしくは今の生活を根底から改めるか。私は後者を選び、まずホテルを去ることを心に決め、洒落っけを幾分落としてもよいから、その分安い、そんな部屋を捜し始めた。
こういう結論に行き着いたその日、クライティリオン酒場の前に突っ立っていると、誰かに肩を叩かれた。振り返ってみると、なんとバーツで私の手術助手だったスタンフォード青年がそこにいたのである。この大都会ロンドンで知った顔を見て、私のさみしさもあらわれるようだった。昔日、スタンフォードとそれほど親しいわけではなかったが、私が心のこもった挨拶をすると、スタンフォードもうれしそうな顔を見せてくれた。私は喜びついでにホルボーンで一緒に昼食でも摂ろうと誘い、ふたりしてハンソム型馬車で出発した。
「ワトソン、今は何をしているんだ?」とスタンフォードは驚きを隠せず訊いてきた。ちょうど馬車がロンドンの雑踏をかき分け走っているときだった。「針金みたいに痩せて、肌の色も胡桃みたいじゃないか。」
私は我が冒険談を手短に聞かせようとしたが、話はホルボーンのなかまでもつれ込んだ。
不幸話が終わると、スタンフォードは同情混じりに言った。「とんだ災難だったね。今はどうしてるんだい?」
「下宿を捜していてな、何とか良い部屋を手頃な家賃で借りられんかと苦心しているのだが。」
すると話し相手は、「奇遇だな。そんな言葉を聞いたのは今日、君で二人目だ。」
「なら私の前に誰か?」と私。
「病院の化学実験室で研究をしているやつでさ。今朝嘆いていたんで訳を聞いてみると、良い部屋があるんだけど懐具合に見合わなくて、かといって家賃を折半する人間も見つからないとか。」
「何と! 部屋と家賃を分け合うなら、私など打ってつけの男ではないか。私も独りよりはパートナーがいた方がいい。」
スタンフォード青年はワイングラス越しに驚きの目を見せた。「シャーロック・ホームズを知らないんだったね。きっと一緒に生活するなんてまっぴらだ、って言うよ?」
「彼と私では気が合いそうにないのか?」
「いやいや、気が合わないとかそういうことじゃない。ちょっと変わった発想をするやつでね――科学の方に目がないんだ。なかなかいいやつだとは思うんだけど。」
「医学生かね?」
「いいや……それが専攻が何かもさっぱり。解剖学に明るいし、一流の化学者とも思える。でも見る限り、体系的な医学の勉強をした様子はなさそうで。彼の研究はまさに気まぐれ奇抜、それでいて飛び抜けた知識の宝庫で、教授たちもびっくりだよ。」
「本人に何をしているのか問いたださなかったのかね?」
「いや聞いたことにはなかなか答えてくれなくて。本人の気が向けば、いくらでも話してくれるんだけど。」
「ぜひとも会いたいね。」と私。「誰かと同居するなら、研究熱心で物静かな男がいい。まだ全快したわけじゃないから、せかせかしたり、はらはらしたりするのはきつくてな。どちらもアフガニスタンで一生分体験してきたからもう結構だ。どうすれば、その君の知り合いとやらに会えるのかね?」
「きっと実験室にいるよ。」と相手は答える。「何週間も顔を出さないこともあるけど、朝夕ずっと研究のために詰め込んでいることもあってね。良ければ、食後に馬車で行こうか。」
「そうしよう。」と私は返答し、会話は別の話題へと移った。
ホルボーンを後にして病院へ向かう道中、スタンフォードは私が同居人と決め込んだ紳士について二三、突っ込んだ話をしてくれた。
「馬が合わなかったからって、僕のせいにしないでくれよ。実験室でたまに顔を合わせるくらいで、それ以上のことは知らないんだから。君が決めたことなんだから、絶対責任を押しつけるなよ。」
「馬が合わねば、別れるまでだ。どうもな、スタンフォード。」と私は相手を険しい目で見つめながら、話を続ける。「君はこの件に乗り気ではないみたいだ。その男、気性が荒いとか、何かあるんじゃないか? 遠回しな話はなしだ。」
スタンフォードは笑い、「弱ったな、どう言えばいいやら。ホームズってやつはちょっと科学がすぎるんだよ――冷血と言ってもいい。たとえば、彼が友人に新発見の植物性アルカロイドを一服盛るとか、ありそうだね。もちろん悪意じゃなくて、単に精密な効能が知りたいがための探求心から来てるというんだから。本人の名誉のために言い添えると、そのためなら自分が飲むことだってやりかねない。こと厳密正確な知識に熱を上げているんだ。」
「結構じゃないか。」
「まあ、でも度が過ぎるとね。解剖室のなか、死体をステッキで叩いてまわると聞けば、その変人ぶりもわかってくるだろう?」
「死体を叩く!」
「そう、死後どの程度の時間まで打撲傷が現れるかの実証だとさ。現場をこの目で見たよ。」
「それでも医学生でないと?」
「ああ。その研究の目的も、神さましかわからない。まあ着いたから、人となりを自分で確かめることだね。」かくして我々は小道へ入り、大病院の一棟へ向かう小さな裏口をくぐった。私にはなじみの場所だから、案内もなく、殺風景な階段を上り、漆喰の壁とくすんだドアの続く長い廊下を進んでいった。突き当たりの前に、低いアーチ型の天井がついた廊下が分岐していて、実験室に至るのである。
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