2017年6月

  • 中原中也「夜汽車の食堂」福山美奈子朗読

  • 芥川龍之介「黒衣聖母」海渡みなみ朗読

    黒衣聖母

    芥川龍之介

    ――この涙の谷にうめき泣きて、御身おんみに願いをかけ奉る。……御身の憐みの御眼おんめをわれらにめぐらせ給え。……深く御柔軟ごじゅうなん、深く御哀憐、すぐれてうましくまします「びるぜん、さんたまりや」様――
    ――和訳「けれんど」――

    「どうです、これは。」
    田代たしろ君はこう云いながら、一体の麻利耶観音マリヤかんのん卓子テーブルの上へ載せて見せた。
    麻利耶観音と称するのは、切支丹宗門きりしたんしゅうもん禁制時代の天主教徒てんしゅきょうとが、しばしば聖母せいぼ麻利耶の代りに礼拝らいはいした、多くは白磁はくじの観音像である。が、今田代君が見せてくれたのは、その麻利耶観音の中でも、博物館の陳列室や世間普通の蒐収家しゅうしゅうかのキャビネットにあるようなものではない。第一これは顔を除いて、他はことごとく黒檀こくたんを刻んだ、一尺ばかりの立像である。のみならずくびのまわりへ懸けた十字架形じゅうじかがた瓔珞ようらくも、金と青貝とを象嵌ぞうがんした、極めて精巧な細工さいくらしい。その上顔は美しい牙彫げぼりで、しかも唇には珊瑚さんごのような一点の朱まで加えてある。……
    私は黙って腕を組んだまま、しばらくはこの黒衣聖母こくいせいぼの美しい顔を眺めていた。が、眺めている内に、何か怪しい表情が、象牙ぞうげの顔のどこだかに、ただよっているような心もちがした。いや、怪しいと云ったのでは物足りない。私にはその顔全体が、ある悪意を帯びた嘲笑をみなぎらしているような気さえしたのである。
    「どうです、これは。」
    田代君はあらゆる蒐集家に共通な矜誇ほこりの微笑を浮べながら、卓子テーブルの上の麻利耶観音と私の顔とを見比べて、もう一度こう繰返した。
    「これは珍品ですね。が、何だかこの顔は、無気味ぶきみな所があるようじゃありませんか。」
    円満具足えんまんぐそく相好そうごうとは行きませんかな。そう云えばこの麻利耶観音には、妙な伝説が附随しているのです。」
    「妙な伝説?」
    私は眼を麻利耶観音から、思わず田代君の顔に移した。田代君は存外真面目まじめな表情を浮べながら、ちょいとその麻利耶観音を卓子テーブルの上から取り上げたが、すぐにまた元の位置に戻して、
    「ええ、これはわざわいを転じてさいわいとする代りに、福を転じて禍とする、縁起えんぎの悪い聖母だと云う事ですよ。」
    「まさか。」
    「ところが実際そう云う事実が、持ち主にあったと云うのです。」
    田代君は椅子いすに腰を下すと、ほとんど物思わしげなとも形容すべき、陰鬱な眼つきになりながら、私にも卓子テーブルの向うの椅子へかけろと云う手真似をして見せた。
    「ほんとうですか。」
    私は椅子へかけると同時に、我知らず怪しい声を出した。田代君は私より一二年ぜんに大学を卒業した、秀才の聞えの高い法学士である。かつまた私の知っている限り、所謂いわゆる超自然的現象には寸毫すんごうの信用も置いていない、教養に富んだ新思想家である、その田代君がこんな事を云い出す以上、まさかその妙な伝説と云うのも、荒唐無稽こうとうむけいな怪談ではあるまい。――
    「ほんとうですか。」
    私がふたたびこう念を押すと、田代君は燐寸マッチの火をおもむろにパイプへ移しながら、
    「さあ、それはあなた自身の御判断に任せるよりほかはありますまい。が、ともかくもこの麻利耶マリヤ観音には、気味の悪い因縁いんねんがあるのだそうです。御退屈でなければ、御話しますが。――」

    青空文庫より

  • 江戸川乱歩少年探偵団11「四つのなぞ」別役みか朗読

    江戸川乱歩少年探偵団12「さかさの首」別役みか朗読

    さかさの首

    明智探偵は、ふたりのインド人に部屋を貸していた洋館の主人春木氏に、一度会っていろいろきいてみたいというので、さっそく同氏に電話をかけて、つごうをたずねますと、昼間は少しさしつかえがあるから、夜七時ごろおいでくださいという返事でした。
    探偵は電話の約束をすませますと、すぐさま事務所を出かけました。春木氏に会うまでに、ほかにいろいろしらべておきたいことがあるからということでした。
    小林少年は、ぜひ、いっしょにつれていってください、とたのみましたが、きみは、まだつかれがなおっていないだろうからと、るす番を命じられてしまいました。
    それから明智探偵が、どこへ行って、何をしたか、それはまもなく読者諸君にわかるときがきますから、ここにはしるしません。その夜の七時に、探偵が春木氏の洋館をたずねたところから、お話をつづけましょう。
    青年紳士春木氏は、自分で玄関へ出むかえて、明智探偵の顔を見ますと、ニコニコと、さもうれしそうにしながら、
    「よくおいでくださいました。ご高名こうめいは、かねてうかがっております。いつか一度お目にかかってお話をうけたまわりたいものだとぞんじておりましたが、わざわざおたずねくださるなんて、こんなにうれしいことはありません。さあ、どうか。」
    と、二階のりっぱな応接室に案内しました。
    ふたりは、テーブルをはさんで、イスにかけましたが、初対面のあいさつをしているところへ、三十歳ぐらいの白いつめえりの上着を着た召し使いが、紅茶を運んできました。
    「わたしは、妻をなくしまして、ひとりぼっちなんです。家族といっては、このコックとふたりきりで、家が広すぎるものですから、あんなインド人なんかに部屋を貸したりして、とんだめにあいました。でも、たしかな紹介状を持ってきたものですから、つい信用してしまいましてね。」
    春木氏は、立ちさるコックのうしろ姿を、目で追いながら、いいわけするようにいうのでした。
    それをきっかけに、明智探偵は、いよいよ用件にはいりました。
    「じつは、あの夜のことを、あなたご自身のお口から、よくうかがいたいと思って、やってきたのですが、どうも、ふにおちないのは、ふたりのインド人が、わずかのあいだに消えうせてしまったことです。
    もう、ご承知でしょうが、子どもたちがむじゃきな探偵団をつくっていましてね。あの晩、中村係長たちが、ここへかけつける二十分ほどまえに、その子どもたちが、どの部屋ですか、ここの二階にふたりのインド人がいることを、ちゃんと、たしかめておいたのです。それが、警官たちよりも早くあなたがお帰りになったときに、もう、家の中にいなくなっていたというのは、じつにふしぎじゃありませんか。
    そのあいだじゅう、六人の子どもたちが、おたくのまわりに、げんじゅうな見はりをつづけていたのです。表門はもちろん、裏門からでも、あるいは塀を乗りこえてでも、インド人が逃げだしたとすれば、子どもたちの目をのがれることはできなかったはずです。」
    すると、春木氏はうなずいて、
    「ええ、わたしも、その点が、じつにふしぎでしかたがないのです。あいつらは、何かわれわれには想像もできない、妖術のようなものでもこころえていたのではないでしょうか。」
    と、いかにも、きみ悪そうな表情をしてみせました。
    「ところが、もう一つ、みょうなことがあるのですよ。あなたがお帰りになったのは、子どもたちがインド人がいることをたしかめてから、警官がくるまでのあいだでしたね。すると、そのときはもう、子どもたちは、ちゃんと見はりの部署についていたはずなのですが……、あなたは、むろん表門からおはいりになったのでしょうね。」
    「ええ、表門からはいりました。」
    「そのとき、表門には、ふたりの子どもが番をしていたのですよ。その子どもたちを、ごらんになりましたか。門柱のところに、番兵ばんぺいのように立っていたっていうのですが。」
    「ほう、そうですか。わたしはちっとも気がつきませんでしたよ。ちょうどそのとき、子どもたちがわきへ行っていたのかもしれませんね。げんじゅうな見はりといったところで、なにしろ年はもいかない小学生のことですから、あてにはなりませんでしょう。」
    「ところが、子どもというものはばかになりませんよ。何かに一心になると、おとなのように、ほかのことは考えませんからね。ぼくはこういうばあいには、おとなよりも子どものほうが信用がおけると思います。

    青空文庫より

  • 小川未明「金の輪」物袋綾子朗読

    太郎は長いあいだ、病気びょうきでふしていましたが、ようやくとこからはなれて出られるようになりました。けれどまだ三月の末で、朝と晩には寒いことがありました。
    だから、日のあたっているときには、外へ出てもさしつかえなかったけれど、晩がたになると早く家へはいるように、おかあさんからいいきかされていました。
    まだ、さくらの花も、ももの花も咲くには早うございましたけれど、うめだけが、かきねのきわに咲いていました。そして、雪もたいてい消えてしまって、ただ大きな寺のうらや、はたけのすみのところなどに、いくぶんか消えずにのこっているくらいのものでありました。
    太郎は、外に出ましたけれど、往来おうらいにはちょうど、だれも友だちが遊んでいませんでした。みんな天気がよいので、遠くの方まで遊びに行ったものとみえます。もし、この近所であったら、自分も行ってみようと思って、耳をすましてみましたけれど、それらしい声などはきこえなかったのであります。
    ひとりしょんぼりとして、太郎は家のまえに立っていましたが、畑には去年とりのこした野菜やさいなどが、新しくみどり色の芽をふきましたので、それを見ながら細い道を歩いていました。
    すると、よい金の輪のふれあう音がして、ちょうどすずを鳴らすようにきこえてきました。
    かなたを見ますと、往来の上をひとりの少年が、輪をまわしながら、走ってきました。そして、その輪は金色きんいろに光っていました。太郎は目を見はりました。かつてこんなに美しく光る輪を見なかったからであります。しかも、少年のまわしてくる金の輪は二つで、それがたがいにふれあって、よい音色ねいろをたてるのであります。太郎はかつてこんなに手ぎわよく輪をまわす少年を見たことがありません。いったいだれだろうと思って、かなたの往来を走って行く少年の顔をながめましたが、まったく見おぼえのない少年でありました。
    この知らぬ少年は、その往来をすぎるときに、ちょっと太郎の方をむいて微笑びしょうしました。ちょうど知った友だちにむかってするように、なつかしげに見えました。

  • 中島敦「妖氛録」西村俊彦朗読

  • 太宰治「きりぎりす」海渡みなみ朗読

    きりぎりす

    太宰治

     おわかれいたします。あなたは、うそばかりついていました。私にも、いけない所が、あるのかも知れません。けれども、私は、私のどこが、いけないのか、わからないの。私も、もう二十四です。このとしになっては、どこがいけないと言われても、私には、もう直す事が出来ません。いちど死んで、キリスト様のように復活でもしない事には、なおりません。自分から死ぬという事は、一ばんの罪悪のような気も致しますから、私は、あなたと、おわかれして私の正しいと思う生きかたで、しばらく生きて努めてみたいと思います。私には、あなたが、こわいのです。きっと、この世では、あなたの生きかたのほうが正しいのかも知れません。けれども、私には、それでは、とても生きて行けそうもありません。私が、あなたのところへ参りましてから、もう五年になります。十九の春に見合いをして、それからすぐに、私は、ほとんど身一つで、あなたのところへ参りました。今だから申しますが、父も、母も、この結婚には、ひどく反対だったのでございます。弟も、あれは、大学へはいったばかりのころでありましたが、姉さん、大丈夫かい? 等と、ませた事を言って、不機嫌ふきげんな様子を見せていました。あなたが、いやがるだろうと思いましたから、きょうまで黙ってりましたが、あの頃、私には他に二つ、縁談がございました。もう記憶も薄れている程なのですが、おひとりは、何でも、帝大の法科を出たばかりの、お坊ちゃんで外交官志望とやら聞きました。お写真も拝見しました。楽天家らしい晴やかな顔をしていました。これは、池袋の大姉さんの御推薦でした。もうひとりのお方は、父の会社に勤めて居られる、三十歳ちかくの技師でした。五年も前の事ですから、記憶もはっきり致しませんが、なんでも、大きい家の総領で、人物も、しっかりしているとやら聞きました。父のお気に入りらしく、父も母も、それは熱心に、支持していました。お写真は、拝見しなかった、と思います。こんな事はどうでもいいのですが、また、あなたに、ふふんと笑われますと、つらいので、記憶しているだけの事を、はっきり申し上げました。いま、こんな事を申し上げるのは、決して、あなたへのいやがらせのつもりでも何でもございません。それは、お信じ下さい。私は、困ります。他のいいところへお嫁に行けばよかった等と、そんな不貞な、ばかな事は、みじんも考えて居りませんのですから。あなた以外の人は、私には考えられません。いつもの調子で、お笑いになると、私は困ってしまいます。私は本気で、申し上げているのです。おしまいまでお聞き下さい。あの頃も、いまも、私は、あなた以外の人と結婚する気は、少しもありません。それは、はっきりしています。私は子供の時から、愚図々々が何より、きらいでした。あの頃、父に、母に、また池袋の大姉さんにも、いろいろ言われ、とにかく見合いだけでも等と、すすめられましたが、私にとっては、見合いもお祝言しゅうげんも同じものの様な気がしていましたから、かるがると返事は出来ませんでした。そんなおかたと結婚する気は、まるっきり無かったのです。みんなの言う様に、そんな、申しぶんの無いおかただったら、殊更ことさらに私でなくても、他にいお嫁さんが、いくらでも見つかる事でしょうし、なんだか張り合いの無いことだと思っていました。この世界中に(などと言うと、あなたは、すぐお笑いになります)私でなければ、お嫁に行けないような人のところへ行きたいものだと、私はぼんやり考えて居りました。丁度その時に、あなたのほうからの、あのお話があったのでした。ずいぶん乱暴な話だったので、父も母も、はじめから不機嫌でした。だって、あの骨董屋こっとうや但馬たじまさんが、父の会社へ画を売りに来て、れいのおしゃべりを、さんざんした揚句の果に、この画の作者は、いまにきっと、ものになります。どうです、お嬢さんを等と不謹慎な冗談を言い出して、父は、いい加減に聞き流し、とにかく画だけは買って会社の応接室の壁に掛けて置いたら、二、三日して、また但馬さんがやって来て、こんどは本気に申し込んだというじゃありませんか。乱暴だわ。お使者の但馬さんも但馬さんなら、その但馬さんにそんな事を頼む男も男だ、と父も母もあきれていました。でも、あとで、あなたにお伺いして、それは、あなたの全然ご存じなかった事で、すべては但馬さんの忠義な一存からだったという事が、わかりました。但馬さんには、ずいぶんお世話になりました。いまの、あなたの御出世も、但馬さんのお蔭よ。本当に、あなたには、商売を離れて尽して下さった。あなたを見込んだというわけね。これからも、但馬さんを忘れては、いけません。あの時、私は但馬さんの無鉄砲な申し込みの話を聞いて、少し驚きながらも、ふっと、あなたにお逢いしてみたくなりました。なんだか、とてもうれしかったの。私は、る日こっそり父の会社に、あなたの画を見に行きました。その時のことを、あなたにお話し申したかしら。私は父に用事のある振りをして応接室にはいり、ひとりで、つくづくあなたの画を見ました。あの日は、とても寒かった。火の気の無い、広い応接室のすみに、ぶるぶる震えながら立って、あなたの画を見ていました。あれは、小さい庭と、日当りのいい縁側の画でした。縁側には、誰もすわっていないで、白い座蒲団ざぶとんだけが一つ、置かれていました。青と黄色と、白だけの画でした。見ているうちに、私は、もっとひどく、立って居られないくらいに震えて来ました。この画は、私でなければ、わからないのだと思いました。真面目まじめに申し上げているのですから、お笑いになっては、いけません。私は、あの画を見てから、二、三日、夜も昼も、からだが震えてなりませんでした。どうしても、あなたのとこへ、お嫁に行かなければ、と思いました。蓮葉はすはな事で、からだが燃えるように恥ずかしく思いましたが、私は母にお願いしました。母は、とても、いやな顔をしました。私はけれども、それは覚悟していた事でしたので、あきらめずに、こんどは直接、但馬さんに御返事いたしました。但馬さんは大声で、えらい! とおっしゃって立ち上り、椅子につまずいて転びましたが、あの時は、私も但馬さんも、ちっとも笑いませんでした。それからの事は、あなたも、よく御承知のはずでございます。私の家では、あなたの評判は、日がつにつれて、いよいよ悪くなる一方でした。あなたが、瀬戸内海の故郷から、親にも無断で東京へ飛び出して来て、御両親は勿論もちろん、親戚の人ことごとくが、あなたに愛想づかしをしている事、お酒を飲む事、展覧会に、いちども出品していない事、左翼らしいという事、美術学校を卒業しているかどうか怪しいという事、その他たくさん、どこで調べて来るのか、父も母も、さまざまの事実を私に言い聞かせてしかりました。けれども、但馬さんの熱心なとりなしで、どうやら見合いまでにはぎつけました。千疋屋せんびきやの二階に、私は母と一緒にまいりました。あなたは、私の思っていたとおりの、おかたでした。ワイシャツの袖口そでぐちが清潔なのに、感心いたしました。私が、紅茶の皿を持ち上げた時、意地悪くからだが震えて、スプーンが皿の上でかちゃかちゃ鳴って、ひどく困りました。家へ帰ってから、母は、あなたの悪口を、一そう強く言っていました。あなたが煙草たばこばかり吸って、母には、ろくに話をして上げなかったのが、何より、いけなかったようでした。人相が悪い、という事も、しきりに言っていました。見込みがないというのです。けれども私は、あなたのところへ行く事に、きめていました。ひとつき、すねて、とうとう私が勝ちました。但馬さんとも相談して、私は、ほとんど身一つで、あなたのところへ参りました。淀橋よどばしのアパートで暮した二年ほど、私にとって楽しい月日つきひは、ありませんでした。毎日毎日、あすの計画で胸が一ぱいでした。あなたは、展覧会にも、大家たいかの名前にも、てんで無関心で、勝手な画ばかり描いていました。貧乏になればなるほど、私はぞくぞく、へんに嬉しくて、質屋にも、古本屋にも、遠い思い出の故郷のようななつかしさを感じました。お金が本当に何も無くなった時には、自分のありったけの力を、ためす事が出来て、とても張り合いがありました。だって、お金の無い時の食事ほど楽しくて、おいしいのですもの。つぎつぎに私は、いいお料理を、発明したでしょう? いまは、だめ。なんでも欲しいものを買えると思えば、何の空想もいて来ません。市場へ出掛けてみても私は、虚無です。よその叔母さんたちの買うものを、私も同じ様に買って帰るだけです。あなたが急にお偉くなって、あの淀橋のアパートを引き上げ、この三鷹みたか町の家に住むようになってからは、楽しい事が、なんにもなくなってしまいました。私の、腕の振いどころが無くなりました。あなたは、急におくちもお上手になって、私を一そう大事にして下さいましたが、私は自身が何だか飼い猫のように思われて、いつも困って居りました。私は、あなたを、この世で立身なさるおかたとは思わなかったのです。死ぬまで貧乏で、わがまま勝手な画ばかり描いて、世の中の人みんなに嘲笑ちょうしょうせられて、けれども平気で誰にも頭を下げず、たまには好きなお酒を飲んで一生、俗世間に汚されずに過して行くお方だとばかり思って居りました。私は、ばかだったのでしょうか。でも、ひとりくらいは、この世に、そんな美しい人がいる筈だ、と私は、あの頃も、いまもなお信じて居ります。その人のひたい月桂樹げっけいじゅの冠は、他の誰にも見えないので、きっと馬鹿扱いを受けるでしょうし、誰もお嫁に行ってあげてお世話しようともしないでしょうから、私が行って一生お仕えしようと思っていました。私は、あなたこそ、その天使だと思っていました。私でなければ、わからないのだと思っていました。それが、まあ、どうでしょう。急に、何だか、お偉くなってしまって。私は、どういうわけだか、恥ずかしくてたまりません。

  • 野村胡堂錢形平次捕物控「酒屋火事」(一)(ニ)


    野村胡堂錢形平次捕物控「酒屋火事三四」萩柚月朗読


    野村胡堂錢形平次捕物控「酒屋火事」五,六萩柚月朗読


    野村胡堂錢形平次捕物控「酒屋火事」七萩柚月朗読

  • 小川未明「駄馬と百姓」田中智之朗読

  • 海渡みなみ朗読、「三角と四角」巖谷小波

    三角と四角

    巖谷小波

     数学のうちに幾何というものがある。幾何を学ぶにわ、是非とも定木じょうぎが入る。その定木の中に、三角定木というのがある。――これわ大方諸君みなさんも御存じでしょう。
    ところがこの三角定木、自分の体にわ、三方にとがった角のあるのを、大層自慢に致し、世間に品も多いが、乃公おれほど角のあるものわあるまい、角にかけてわ乃公が一番だと、たった三つよりない角を、ひどく鼻にかけておりました。
    するとる日、同じ机の上にあった鉛筆が来ていうにわ、

    (筆)三角さん三角さん、お前わ平常ふだんから大層その角を自慢しているし、わしらもまたお前ほど角の多いものわないと思っていたが、この間来た画板がばんを見たかイ。あれわお前よりまた角が多いぜ。
    と、いいますから、三角わ少し不平の顔色で、
    (三)ナニ僕より角の多いやつがおる。馬鹿いいたもうな。およそ世界わ広しといえども、僕より余計に角をもった奴わないはずだ。
    (筆)ところがあるから仕方がない。
    (三)ナニそれわ君の眼が如何どうかしてるのだ。
    (筆)ナニ如何どうも仕てるものか、うそだと思うならいって見給え!
    (三)そんならいって見よう。嘘だったら承知しないよ。
    (筆)いいとも嘘なら首でもやるワ。

    と、これから連れ立って行て見ますと、なるほど画板わ真ッ四角で、自分よりわ一角多く、しかも今まで自分をめていた連中が、今でわみんな画板の方ばかり向いて、しきりにその角を褒めている様子です。

    (筆)どうだイ嘘じゃあるまい。
    (三)なるほど此奴こいつわ恐れいった。

    と、さすがの三角定木も、こうなると頭をくよりほかわありません。大いに面目を失いましたが、しかし心のうちでわ、まだ負惜しみという奴があって、おのれ生意気な画板め、余計な角をもって来やがって、よくも乃公おれに赤恥をかかせやがったな。どうするか覚えていろと、はてくやしまぎれに良くない了簡りょうけんを起しました。
    で、そのまま帰ると、直ぐに近所のはさみところえ参り、

    (三)鋏君、申兼もうしかねたが今夜一ト晩、君の体を貸してくれまいか。

    鋏わこれを聞いて、

    (鋏)なるほど、次第によってわ貸すまいものでもないが、一体何を切るのだ。
    (三)ちっとかたいものを切りたいのだが、よく切れるかイ。
    (鋏)大抵なものならきって見せるが、それでもむずかしいと思うならまア一遍いで行くさ。
    (三)そうか、そんなら磨がしてくれたまえ。痛かろうけども頼まれたが因果だ、ちっとの間辛抱頼む。

    と、これから三角定木わ、くだんの鋏をば磨ぎ立てまして、もうこれならば大丈夫と、その日の暮れるのを、今か今かと待ちかまえておりました。
    そのうちに日も暮れて、夜もけて、四隣あたりも寝静まったと思う頃、三角定木わムクムクと床を出て例の鋏をば小脇こわきにかかえ、さし足ぬき足で、の画板の寝ている処え、そっと忍んで参りました。
    見ると画板わ、前後も知らぬ高鼾たかいびきで、さも心持さそうに寝ておりますから、めた! おのれ画板め、今乃公おれが貴様の角を、残らず取り払ってやるからにわ、もう明日あしたからわ角なしだ、いくら威張っても追い付かんぞと、腹の中で散々悪態をきながら、突然チョキリ! 一角きって落しましたが、まだ気が付かない様子ですから、また一角をチョキリ! それでもめないから、こりゃよくよく寝坊だわイ、といいながら、チョキリ! チョキリ! とうとう四角とも切り落し、まずこれで溜飲りゅういんが下がった。どりゃ帰って寝よう、鋏さん大きに御苦労だったと、急いでわがえ帰って、そのまま寝てしまいました。
    さてその翌朝、何わぬ顔で床を出て見ますと、世間でわ大評判で、う者ごとに、
    「画板わえらいえらい。」
    と、しきりに画板を褒め立てますから、如何どうした事かといって見ますと、こわいかに、昨日まで四角であった画板わ、今朝けさわ八角に成って、意気揚々と歩行あるいております。
    四角の角々を切り落せば、角の数が倍になって、八角に成るのわ当然あたりまえ、しかもそれわ自分の所業しわざであるのに、そうとわ心付かぬ三角定木、驚いたの驚かないの!

    (三)ヒヤーこりゃ如何どうじゃ。アノ四角、一夜のうちに八角に成りよった。この分でわまた明日わ、十角や二十角にも成るだろう、こりゃ所詮しょせんかなわぬわイ。

    と、とうとうかぶとを脱いで降参しましたとわ、身のほど知らぬ大白痴おおたわけ

  • 喜多川拓郎朗読「月夜のでんしんばしら」宮沢賢治

    月夜のでんしんばしら

    宮沢賢治

    ある晩、恭一はぞうりをはいて、すたすた鉄道線路の横の平らなところをあるいてりました。
    たしかにこれは罰金ばっきんです。おまけにもし汽車がきて、窓から長い棒などが出ていたら、一ぺんになぐり殺されてしまったでしょう。
    ところがその晩は、線路見まわりの工夫もこず、窓から棒の出た汽車にもあいませんでした。そのかわり、どうもじつに変てこなものを見たのです。
    九日の月がそらにかかっていました。そしてうろこ雲が空いっぱいでした。うろこぐもはみんな、もう月のひかりがはらわたの底までもしみとおってよろよろするというふうでした。その雲のすきまからときどき冷たい星がぴっかりぴっかり顔をだしました。
    恭一はすたすたあるいて、もう向うに停車場ていしゃばのあかりがきれいに見えるとこまできました。ぽつんとしたまっ赤なあかりや、硫黄いおうのほのおのようにぼうとしたむらさきいろのあかりやらで、をほそくしてみると、まるで大きなお城があるようにおもわれるのでした。
    とつぜん、右手のシグナルばしらが、がたんとからだをゆすぶって、上の白い横木をななめに下の方へぶらさげました。これはべつだん不思議でもなんでもありません。
    つまりシグナルがさがったというだけのことです。一晩に十四じゅうし回もあることなのです。
    ところがそのつぎが大へんです。
    さっきから線路の左がわで、ぐゎあん、ぐゎあんとうなっていたでんしんばしらの列が大威張おおいばりで一ぺんに北のほうへ歩きだしました。みんなつの瀬戸せともののエボレットをかざり、てっぺんにはりがねのやりをつけた亜鉛とたんのしゃっぽをかぶって、片脚かたあしでひょいひょいやって行くのです。そしていかにも恭一をばかにしたように、じろじろ横めでみて通りすぎます。
    うなりもだんだん高くなって、いまはいかにもむかしふうの立派な軍歌に変ってしまいました。

    「ドッテテドッテテ、ドッテテド、
    でんしんばしらのぐんたいは
    はやさせかいにたぐいなし
    ドッテテドッテテ、ドッテテド
    でんしんばしらのぐんたいは
    きりつせかいにならびなし。」

    一本のでんしんばしらが、ことにかたをそびやかして、まるでうで木もがりがり鳴るくらいにして通りました。
    みると向うの方を、六本うで木の二十二の瀬戸もののエボレットをつけたでんしんばしらの列が、やはりいっしょに軍歌をうたって進んで行きます。

    「ドッテテドッテテ、ドッテテド
    二本うで木の工兵隊
    六本うで木の竜騎兵りゅうきへい
    ドッテテドッテテ、ドッテテド
    いちれつ一万五千人
    はりがねかたくむすびたり