2017年6月
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渡辺温「シルクハット」西村俊彦 萩柚月 二宮隆朗読
シルクハット
渡辺温
私も中村も給料が十円ずつ上がった。
私は私のかぶり古した山高帽子を中村に十円で譲って、そしてそれに十五円足して、シルクハットを買った。
青年時代に一度、シルクハットをかぶってみたい――と、私は永いことそう思っていた。シルクハットのもつ贅沢な[#「贅沢な」は底本では「贄沢な」]気品を、自分の頭の上に載せて見たくてたまらなかった。
私は天鵞絨の小さなクッションで幾度もシルクハットのけばを撫でた。帽子舗の店さきの明るい花電燈を照り返している鏡の中で、シルクハットは却々よく私に似合った。
また中村は自分の古ぼけた黒羅紗の帽子をカバンの中へおし込んで、山高帽子を冠った。ムッソリニのような顔に見えた。
私共は、それから、行きつけの港の、砂浜にあるパブリック・ホテルへ女を買いに出かけた。その日は私共の給料日で私共は乏しい収入をさいて、月にたった一度だけ女を楽しむことにきめていたのである。
シルクハットは果してホテルの女たちをおどろかした。私の女はとりわけ眼を瞠って、むしろドギマギしたように私を見た。彼女は一月の中に見違うばかり蒼くやつれてしまっていた。もとから病気持ちらしい彼女だったので、屹度ひどい病いでもしたのであろう。
彼女は私と共に踊りながら、息を切らして、果は身慄いした。私はそれで、すぐに踊るのをやめることにした。小さい女は私の膝に腰かけた。
「苦しそうだね。」と私はきいてみた。
「もうよろしいの。――でも、死ぬかも知れませんわ。」女は嗄がれた声で答えた。
中村は、なじみの男刈りにした肥っちょの娘と、独逸麦酒をしこたま飲んだあとで、アルゼンチン・タンゴを怪しげな身振りで踊っていた。その娘は眉根のしい悪党みたいな人相だったが、中村はいっそそこが気に入ったと云うのであった。
寝室に入る前に、私達はめいめい金を払う。
私は紙入れを女の目の前で、いっぱい開けて見せながら「今夜は未だ大分金があるぞ。」と云った。月々の部屋代と食費と洋服代との全部であった。女は背のびをして、紙幣の数をのぞきこむと、「まあ――」と云って笑った。
女は少しばかり元気になったのかも知れなかった。
女の部屋に入って、寝る時、女は枕元の活動役者の写真をべたべた貼りつけた壁に、私のシルクハットをそっと掛けて、そしてさて手を合せて拝む真似をした。シルクハットの地と云うものは、物がふれると直ぐケバ立ってしまうので、女は非常にこわごわと取扱わなければならなかった。 -
江戸川乱歩 少年探偵団19「「天井の声」別役みか朗読
もうこれで安心です。たとえ二十面相が予告どおりにやってきたとしても、黄金塔はまったく安全なのです。賊はとくいそうににせものをぬすみだしていくことでしょう。あの大泥棒をいっぱい食わせてやるなんて、じつにゆかいではありませんか。
賊が床下などに気のつくはずはありませんが、でも、用心にこしたことはありません。大鳥氏はその晩から、ほんものの黄金塔のうずめてあるあたりの畳の上に、ふとんをしかせてねむることにしました。昼間も、その部屋から一歩も外へ出ない決心です。
すると、みょうなことに「3」の字がてのひらにあらわれて以来、数字の予告がパッタリととだえてしまいました。ほんとうは、それには深いわけがあったのですけれど、大鳥氏はそこまで気がつきません。ただふしぎに思うばかりです。
しかし、数字はあらわれないでも、盗難は二十五日の夜とはっきり言いわたされているのですから、けっして安心はできません。大鳥氏はそのあとの三日間を、塔のうずめてある部屋にがんばりつづけました。
そして、とうとう二十五日の夜がきたのです。
もう宵のうちから、大鳥氏と門野支配人は、にせ黄金塔をかざった座敷にすわりこんで、出入り口の板戸には中からかぎをかけてゆだんなく見張りをつづけていました。
店のほうでも、店員一同、今夜こそ二十面相がやってくるのだと、いつもより早く店をしめてしまって、入り口という入り口にすっかりかぎをかけ、それぞれ持ち場をきめて、見はり番をするやら、こん棒片手に家中を巡回するやら、たいへんなさわぎでした。
いかな魔法使いの二十面相でも、このような二重三重の、げんじゅうな警戒の中へ、どうしてはいってくることができましょう。彼はこんどこそ失敗するにちがいありません。もし、この中へしのびこんで、にせ黄金塔にもまよわされず、ほんものの宝物をぬすむことができるとすれば、二十面相は、もう魔法使いどころではありません。神さまです。盗賊の神さまです。
警戒のうちに、だんだん夜がふけていきました。十時、十一時、十二時。表通りのざわめきも聞こえなくなり、家の中もシーンと静まりかえってきました。ただ、ときどき、巡回する店員の足音が、廊下にシトシトと聞こえるばかりです。
奥の間では、大鳥氏と門野支配人が、さし向かいにすわって、置き時計とにらめっこをしていました。
「門野君、ちょうど十二時だよ。ハハハ……、とうとうやっこさんやってこなかったね。十二時がすぎれば、もう二十六日だからね。約束の期限が切れるじゃないか。ハハハ……。」
大鳥氏はやっと胸をなでおろして、笑い声をたてるのでした。
「さようでございますね。さすがの二十面相も、このげんじゅうな見はりには、かなわなかったとみえますね。ハハハ……、いいきみでございますよ。」
門野支配人も、怪盗をあざけるように笑いました。
ところが、ふたりの笑い声の消えるか消えないかに、とつじょとして、どこからともなく、異様なしわがれ声がひびいてきたではありませんか。
「おい、おい、まだ安心するのは早いぜ。二十面相の字引きには、不可能ということばがないのをわすれたかね。」
それはじつになんともいえない陰気な、まるで墓場の中からでもひびいてくるような、いやあな感じの声でした。
「おい、門野君、きみいま何か言いやしなかったかい。」
大鳥氏はギョッとしたように、あたりを見まわしながら、しらがの支配人にたずねるのでした。
「いいえ、私じゃございません。しかし、なんだかへんな声が聞こえたようでございますね。」
門野老人は、けげんな声で、同じように左右を見まわしました。
「おい、へんだぜ。ゆだんしちゃいけないぜ。きみ、廊下を見てごらん。戸の外にだれかいるんじゃないかい。」
大鳥氏は、もうすっかり青ざめて、歯の根もあわぬありさまです。
門野支配人は、主人よりもいくらか勇気があるとみえ、さしておそれるようすもなく、立っていって、かぎで戸をひらき、外の廊下を見わたしました。
「だれもいやしません。おかしいですね。」
老人がそういって、戸をしめようとすると、またしても、どこからともなく、あのしわがれ声が聞こえてきました。
「なにをキョロキョロしているんだ、ここだよ。ここだよ。」
陰にこもって、まるで水の中からでも、ものをいっているような感じです。何かしらゾーッと総毛立つような、お化けじみた声音です。
「やい、きさまはどこにいるんだ。いったい何者だッ。ここへ出てくるがいいじゃないか。」
門野老人が、から元気をだして、どことも知れぬ相手にどなりつけました。
「ウフフ……、どこにいると思うね。あててみたまえ……。だが、そんなことよりも、黄金塔は大じょうぶなのかね。二十面相は約束をたがえたりはしないはずだぜ。」
「何をいっているんだ。黄金塔はちゃんと床の間にかざってあるじゃないか。盗賊なんかに指一本ささせるものか。」
門野老人は部屋の中をむやみに歩きまわりながら、姿のない敵とわたりあいました。
「ウフフフ……、おい、おい、番頭さん、きみは二十面相が、それほどお人よしだと思っているのかい。床の間のはにせもので、ほんものは土の中にうめてあることぐらい、おれが知らないとでもいうのかい。」
それを聞くと、大鳥氏と支配人とは、ゾッとして顔を見あわせました。ああ、怪盗は秘密を知っていたのです。門野老人のせっかくの苦心はなんの役にも立たなかったのです。
「おい、あの声は、どうやら天井裏らしいぜ。」
大鳥氏はふと気がついたように、支配人の腕をつかんで、ヒソヒソとささやきました。
いかにも、そういえば、声は天井の方角からひびいてくるようです。天井ででもなければ、ほかに人間ひとりかくれる場所なんて、どこにもないのです。
「はあ、そうかもしれません。この天井の上に、二十面相のやつがかくれているのかもしれません。」
支配人は、じっと天井を見あげて、ささやきかえしました。
「早く、店の者を呼んでください。そしてかまわないから、天井板をはがして、泥棒をつかまえるようにいいつけてください。さ、早く、早く。」
大鳥氏は、両手で門野老人をおしやるようにしながら、せきたてるのです。老人はおされるままに、廊下に出て、店員たちを呼びあつめるために、店のほうへ急いでいきました。
やがて、三人のくっきょうな店員が、シャツ一枚の姿で、脚立やこん棒などを持って、しのび足で、はいってきました。相手にさとられぬよう、ふいに天井板をはがして、賊を手どりにしようというわけです。
門野老人の手まねのさしずにしたがって、ひとりの店員がこん棒を両手ににぎりしめ、脚立の上に乗ったかと思うと、勢いこめて、ヤッとばかりに、天井板をつきあげました。
一つき、二つき、三つき、つづけざまにつきあげたものですから、天井板はメリメリという音をたててやぶれ、みるみる大きな穴があいてしまいました。
「さあ、これで照らしてみたまえ。」
支配人が懐中電燈をさしだしますと、脚立の上の店員は、それを受けとって、天井の穴から首をさし入れ、屋根裏のやみの中を、アチコチと見まわしました。
大鳥時計店は、大部分がコンクリート建ての洋館で、この座敷は、あとからべつに建てました一階建ての日本間でしたから、屋根裏といっても、さほど広いわけでなく、一目で全体が見わたせるのです。
「何もいませんよ。すみからすみまで電燈の光をあててみましたが、ネズミ一ぴきいやあしませんぜ。」
店員はそういって、失望したように脚立をおりました。
「そんなはずはないがなあ。わしが見てやろう。」
こんどは門野支配人が、電燈を持って、脚立にのぼり、天井裏をのぞきこみました。しかし、そこのやみの中には、どこにも人間らしいものの姿はないのです。
「おかしいですね。たしかに、このへんから聞こえてきたのですが……。」
「いないのかい。」
大鳥氏がやや安堵したらしく、たずねます。
「ええ、まるっきりからっぽでございます。ほんとうにネズミ一ぴきいやあしません。」
賊の姿はとうとう発見することができませんでした。では、いったいあのぶきみな声は、どこからひびいてきたのでしょう。むろん、縁の下ではありません。厚い畳の下の声が、あんなにすっきり聞こえるわけはないからです。
といって、そのほかに、どこにかくれる場所がありましょう。ああ、魔術師二十面相は、またしてもえたいのしれぬ魔法を使いはじめたのです -
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坂口安吾「恋愛論」物袋綾子朗読
恋愛論
坂口安吾
恋愛とはいかなるものか、私はよく知らない。そのいかなるものであるかを、一生の文学に探しつづけているようなものなのだから。
誰しも恋というものに突きあたる。あるいは突きあたらずに結婚する人もあるかもしれない。やがてしかし良人を妻を愛す。あるいは生れた子供を愛す。家庭そのものを愛す。金を愛す。着物を愛す。
私はフザけているのではないゝ。
日本語では、恋と、愛という語がある。いくらかニュアンスがちがうようだ。あるいは二つをずいぶん違ったように解したり感じたりしている人もあるだろう。外国では(私の知るヨーロッパの二三の国では)愛も恋も同じで、人を愛すという同じ言葉で物を愛すという。日本では、人を愛し、人を恋しもするが、通例物を恋すとはいわない。まれに、そういう時は、愛すと違った意味、もう少し強烈な、狂的な力がこめられているような感じである。
もっとも、恋す、という語には、いまだ所有せざるものに思いこがれるようなニュアンスもあり、愛すというと、もっと落ちついて、静かで、澄んでいて、すでに所有したものを、いつくしむような感じもある。だから恋すという語には、もとめるはげしさ、狂的な祈願がこめられているような趣きでもある。私は辞書をしらべたわけではないのだが、しかし、恋と愛の二語に歴史的な、区別され限定された意味、ニュアンスが明確に規定されているようには思われぬ。
昔、切支丹が初めて日本に渡来したころ、この愛という語で非常に苦労したという話がある。あちらでは愛すは好むで、人を愛す、物を愛す、みな一様に好むという平凡な語が一つあるだけだ。ところが、日本の武士道では、不義はお家の御法度で、色恋というと、すぐ不義とくる。恋愛はよこしまなものにきめられていて、清純な意味が愛の一字にふくまれておらぬのである。切支丹は愛を説く。神の愛、キリシトの愛、けれども愛は不義につらなるニュアンスが強いのだから、この訳語に困惑したので、苦心のあげくに発明したのが、大切という言葉だ。すなわち「神のご大切」「キリシトのご大切」と称し、余は汝を愛す、というのを、余は汝を大切に思う、と訳したのである。
実際、今日われわれの日常の慣用においても、愛とか恋は何となく板につかない言葉の一つで、僕はあなたを愛します、などというと、舞台の上でウワの空にしゃべっているような、われわれの生活の地盤に密着しない空々しさが感じられる。愛す、というのは何となくキザだ。そこで、僕はあなたがすきだ、という。この方がホンモノらしい重量があるような気がするから、要するに英語のラヴと同じ結果になるようだが、しかし、日本語のすきだ、だけでは力不足の感があり、チョコレートなみにしかすきでないような物たりなさがあるから、しかたなしに、とてもすきなんだ、と力むことになる。
日本の言葉は明治以来、外来文化に合わせて間に合わせた言葉が多いせいか、言葉の意味と、それがわれわれの日常に慣用される言葉のイノチがまちまちであったり、同義語が多様でその各々に靄がかかっているような境界線の不明確な言葉が多い。これを称して言葉の国というべきか、われわれの文化がそこから御利益を受けているか、私は大いに疑っている。
惚れたというと下品になる、愛すというといくらか上品な気がする。下品な恋、上品な恋、あるいは実際いろいろの恋があるのだろうから、惚れた、愛した、こう使いわけて、たった一字の動詞で簡単明瞭に区別がついて、日本語は便利のようだが、しかし、私はあべこべの不安を感じる。すなわち、たった一語の使いわけによって、いともあざやかに区別をつけてそれですましてしまうだけ、物自体の深い機微、独特な個性的な諸表象を見のがしてしまう。言葉にたよりすぎ、言葉にまかせすぎ、物自体に即して正確な表現を考え、つまりわれわれの言葉は物自体を知るための道具だという、考え方、観察の本質的な態度をおろそかにしてしまう。要するに、日本語の多様性は雰囲気的でありすぎ、したがって、日本人の心情の訓練をも雰囲気的にしている。われわれの多様な言葉はこれをあやつるにきわめて自在豊饒な心情的沃野を感じさせてたのもしい限りのようだが、実はわれわれはそのおかげで、わかったようなわからぬような、万事雰囲気ですまして卒業したような気持になっているだけの、原始詩人の言論の自由に恵まれすぎて、原始さながらのコトダマのさきわう国に、文化の借り衣裳をしているようなものだ。
人は恋愛というものに、特別雰囲気を空想しすぎているようだ。しかし、恋愛は、言葉でもなければ、雰囲気でもない。ただ、すきだ、ということの一つなのだろう。すきだ、という心情に無数の差があるかもしれぬ。その差の中に、すき、と、恋との別があるのかもしれないが、差は差であって、雰囲気ではないはずである。 -
林芙美子「幸福の彼方」海渡みなみ朗読
幸福の彼方
林芙美子
一
西陽の射してゐる洗濯屋の狭い二階で、絹子ははじめて信一に逢つた。
十二月にはいつてから、珍らしく火鉢もいらないやうな暖かい日であつた。信一は始終ハンカチで額を拭いてゐた。
絹子は時々そつと信一の表情を眺めてゐる。
長らくの病院生活で、色は白かつたけれども少しもくつたくのないやうな顔をしてゐて、耳朶の豊かなひとであつた。顎が四角な感じだつたけれども、西陽を眩しさうにして、時々壁の方へ向ける信一の横顔が、絹子には何だか昔から知つてゐるひとででもあるかのやうに親しみのある表情だつた。
信一はきちんと背広を着て窓のところへ坐つてゐた。仲人格の吉尾が、禿げた頭を振りながら不器用な手つきで寿司や茶を運んで来た。
「絹子さん、寿司を一つ、信一さんにつけてあげて下さい」
さう云つて、吉尾は用事でもあるのか、また階下へ降りて行つてしまつた。寿司の上をにぶい羽音をたてて大きい蝿が一匹飛んでゐる。絹子はそつとその蝿を追ひながら、素直に寿司皿のそばへにじり寄つて行つて小皿へ寿司をつけると、その皿をそつと信一の膝の上へのせた。信一は皿を両手に取つて赧くなつてゐる。絹子はまた割箸を割つてそれを黙つたまま信一の手へ握らせたのだけれども、信一はあわててその箸を押しいただいてゐた。
ふつと触れあつた指の感触に、絹子は胸に焼けるやうな熱さを感じてゐた。
信一を好きだと思つた。
何がどうだと云ふやうな、きちんとした説明のしやうのない、みなぎるやうな強い愛情のこころが湧いて来た。
信一は皿を膝に置いたまま黙つてゐる。
硝子戸越しにビール会社の高い煙突が見えた。絹子は黙つてゐるのが苦しかつたので、小皿へ醤油を少しばかりついで、信一の持つてゐる寿司皿の寿司の一つ一つへ丁寧に醤油を塗つた。
「いや、どうも有難う‥‥」
醤油の香りで、一寸下を向いた信一はまた赧くなつてもじもじしてゐた。絹子は信一をいいひとだと思つてゐる。何かいい話をしなければならないと思つた。さうして心のなかには色々な事を考へるのだけれども、何を話してよいのか、少しも話題がまとまらない。
信一は薄い色眼鏡をかけてゐたので、一寸眼の悪いひととは思へないほど元気さうだつた。絹子は一生懸命で、
「村井さんは何がお好きですか?」
と訊いてみた。
「何ですか? 食べるものなら、僕は何でも食べます」
「さうですか、でも、一番、お好きなものは何ですの?」
「さア、一番好きなもの‥‥僕はうどんが好きだな‥‥」
絹子は、
「まア」
と云つてくすくす笑つた。自分もうどんは大好きだつたし、二宮の家にゐた頃は、お嬢さまもうどんが好きで、絹子がほとんど毎日のやうにうどんを薄味で煮たものであつた。
うどんと云はれて、急に御前崎の白い濤の音が耳もとへ近々ときこえてくるやうであつた。絹子と信一は同郷人で、信一は絹子とは七ツ違ひの二十八である。去年戦場から片眼をうしなつて戻つて来たのであつた -
野村胡堂 「銭形平次捕物控 平次屠蘇機嫌」全編 萩柚月朗読
元日の晝下り、八丁堀町御組屋敷の年始廻りをした錢形平次と子分の八五郎は、海賊橋を渡つて、青物町へ入らうと言ふところでヒヨイと立止りました。
「八、目出度いな」
「へエ――」
ガラツ八は眼をパチ/\させます。正月の元日が今始めて解つた筈もなく、天氣は朝つからの日本晴れだし、今更親分に目出度がられるわけは無いやうな氣がしたのです。
「旦那方の前ぢや、呑んだ酒も身につかねえ。丁度腹具合も北山だらう、一杯身につけようぢやないか」
平次は斯んな事を言つて、ヒヨイと顎をしやくりました。成程、その顎の向つた方角、活鯛屋敷の前に、何時の間に出來たか、洒落た料理屋が一軒、大門松を押つ立てゝ、年始廻りの中食で賑はつてゐたのです。
「へエ――、本當ですか、親分」
ガラツ八の八五郎は、存分に鼻の下を長くしました。ツヒぞ斯んな事を言つたことの無い親分の平次が、與力笹野新三郎の役宅で、屠蘇を祝つたばかりの歸り途に、一杯呑み直さうといふ量見が解りません。
「本當ですかは御挨拶だね。後で割前を出せなんてケチな事を言ふ氣遣ひはねえ。サア、眞つ直ぐに乘り込みな」
さう言ふ平次、料理屋の前へ來ると、フラリとよろけました。組屋敷で軒並甞めた屠蘇が、今になつて一時に發したのでせう。
「親分、あぶないぢやありませんか」
「何を言やがる。危ねえのは手前の顎だ、片附けて置かねえと、俺の髷節に引つ掛るぢやないか」
「冗談でせう、親分」
二人は黒板塀を繞らした、相當の構の門へ繋がつて入つて行きました。
眞新しい看板に「さざなみ」と書き、淺黄の暖簾に鎌輪奴と染め出した入口、ヒヨイと見ると、頭の上の大輪飾が、どう間違へたか裏返しに掛けてあるではありませんか。
「こいつは洒落て居るぜ、――正月が裏を返しや盆になるとよ。ハツハツ、ハツハツ、だが、世間附き合ひが惡いやうだから、ちよいと直してやらう」
平次は店の中から空樽を一梃持出して、それを踏臺に、輪飾りを直してやりました。
「入らつしやい、毎度有難う存じます」
「これは親分さん方、明けましてお目出度うございます。大層御機嫌で、へツ、へツ」
帳場に居た番頭と若い衆、掛け合ひで滑らかなお世辭を浴びせます。
「何を言やがる、身錢を切つた酒ぢやねえ、お役所のお屠蘇で御機嫌になれるかツてんだ」
「へツ、御冗談」
平次は無駄を言ひ乍ら、フラリフラリと二階へ――
「お座敷は此方でございます。二階は混み合ひますから」
小女が座布團を温め乍ら言ふのです。
「混み合つた方が正月らしくて宜いよ。大丈夫だ、人見知りをするやうな育ちぢやねえ。――尤もこの野郎は醉が廻ると噛み付くかも知れないよ」
平次は後から登つて來るガラツ八の鼻のあたりを指すのでした。
小女は苦んがりともせずに跟いて來ました。二階の客は四組十人ばかり、二た間の隅々に陣取つて正月氣分もなく靜かに呑んで居ります。
「其處ぢや曝し物見たいだ。通りの見える所にしてくれ」
部屋の眞ん中に拵へた席を、平次は自分で表の障子の側に移し、ガラツ八と差し向ひで、威勢よく盃を擧げたものです。
「大層な景氣ですね、親分」
面喰つたのはガラツ八でした。平次のはしやぎ樣も尋常ではありませんが、それより膽を冷したのは、日頃堅いで通つた平次の、この日の鮮やかな呑みつ振りです。
「心配するなよ。金は小判といふものをフンダンに持つて居るんだ。――なア八、俺もこの稼業には飽々してしまつたから、今年は一つ商賣替をしようと思ふがどうだ」
「冗談で――親分」
「冗談や洒落で、元日早々こんな事が言へるものか。大眞面目の涙の出るほど眞劍な話さね。八、江戸中で一番儲かる仕事は一體何んだらう。――相談に乘つてくれ」
さう言ふうちにも、平次は引つ切りなしに盃をあけました。見る/\膳の上に林立する徳利の數、ガラツ八の八五郎は薄寒い心持でそれを眺めて居ります。
「儲かる事なんか、あつしがそんな事を知つてゐるわけが無いぢやありませんか」
「成程ね。知つて居りや、自分で儲けて、この俺に達引いてくれるか。――有難いね、八、手前の氣つぷに惚れたよ」
「――」
ガラツ八は閉口してぼんのくぼを撫でました。
「――尤も、手前の氣つぷに惚れたのは俺ばかりぢやねえ。横町の煮賣屋のお勘ん子がさう言つたぜ。――お願ひだから親分さん、八さんに添はして下さいつ――てよ」
「親分」
「惡くない娘だぜ。少し、唐臼を踏むが、大したきりやうさ。何方を見て居るか、ちよつと見當の付かない眼玉の配りが氣に入つたよ。それに、あの娘は時々垂れ流すんだつてね、飛んだ洒落た隱し藝ぢやないか」
「止して下さいよ、親分」
「首でも縊ると氣の毒だから、何んとか恰好をつけておやりよ、畜生奴」
「親分」
ガラツ八はこんなに驚いたことはありません。錢形平次は際限もなく浴びせ乍ら、滅茶々々に饒舌り捲つて二階中の客を沈默させてしまひました。
四組のお客は、それにしても何と言ふおとなしいことでせう。そのころ流行つた、客同士の盃のやりとりもなく、地味に呑んで、地味に食ふ人ばかり。そのくせ、勘定が濟んでも容易に立たうとする者はなく、後から/\と來る客が立て込んで、何時の間にやら、四組が六組になり、八組になり、八疊と四疊半の二た間は、小女が食物を運ぶ道を開けるのが精一杯です。
「なア、八、本當のところ江戸中で一番儲かる仕事を教へてくれ、頼むぜ」
平次は尚も執拗にガラツ八を追及します。
「泥棒でもするんですね、親分」
ガラツ八は少し捨鉢になりました。
「何んだと此野郎ツ」
平次は何に腹を立てたか、いきなり起上つてガラツ八に掴みかゝりましたが、散々呑んだ足許が狂つて、見事膳を蹴上げると、障子を一枚背負つたまゝ、縁側へ轉げ出したのです。
「親分、危いぢやありませんか」
飛びつくやうに抱き起したガラツ八、これはあまり醉つてゐない上、どんなに罵倒されても、親分の平次に向つて腹を立てるやうな男ではありません。
「あゝ醉つた。――俺は眠いよ、此處で一と寢入りして歸るから、そつとして置いてくれ」
障子の上に半分のしかゝつたまゝ、平次は本當に眼をつぶるのです。
「親分、――さア、歸りませう。寢たきや、家に歸つてからにしようぢやありませんか」
「何を。女房の面を見ると、とたんに眼がさめる俺だ。お願ひだから、此處で――」
「親分、お願ひだから歸りませう、さア」
ガラツ八は手を取つて引き起します。
「よし、それぢや素直に歸る。手前これで、勘定を拂つてくれ。言ふまでもねえが、今日は元日だよ、八、勘定こつきりなんて見つともねえことをするな」
「心得てますよ、親分。――小判を一枚づつもやりや宜いんでせう」
「大きな事を言やがる」
ガラツ八は平次を宥め乍ら、財布から小粒を出して勘定をすませ、板前と小女に、機み過ぎない程度のお年玉をやりました。
「あ、親分、そんな事は、婢にやらせて置けば宜いのに――危いなアどうも」
八五郎もハツとしました。平次は覺束ない足を蹈締めて、自分の外した障子を一生懸命元の敷居へはめ込んで居るのです。
「放つて置け。俺が外した障子だ、俺が直すに何が危ないものか。おや、裏返しだぜ。骨が外へ向いてけつかる、どつこいしよ」
平次はまだ障子と角力を取つて居ります。 -
宮沢賢治「土神と狐」喜多川拓郎朗読
土神と狐
宮沢賢治
一本木の野原の、北のはづれに、少し小高く盛りあがった所がありました。いのころぐさがいっぱいに生え、そのまん中には一本の奇麗な女の樺の木がありました。
それはそんなに大きくはありませんでしたが幹はてかてか黒く光り、枝は美しく伸びて、五月には白き雲をつけ、秋は黄金や紅やいろいろの葉を降らせました。
ですから渡り鳥のくゎくこうや百舌も、又小さなみそさゞいや目白もみんなこの木に停まりました。たゞもしも若い鷹などが来てゐるときは小さな鳥は遠くからそれを見付けて決して近くへ寄りませんでした。
この木に二人の友達がありました。一人は丁度、五百歩ばかり離れたぐちゃぐちゃの谷地の中に住んでゐる土神で一人はいつも野原の南の方からやって来る茶いろの狐だったのです。
樺の木はどちらかと云へば狐の方がすきでした。なぜなら土神の方は神といふ名こそついてはゐましたがごく乱暴で髪もぼろぼろの木綿糸の束のやう眼も赤くきものだってまるでわかめに似、いつもはだしで爪も黒く長いのでした。ところが狐の方は大へんに上品な風で滅多に人を怒らせたり気にさはるやうなことをしなかったのです。
たゞもしよくよくこの二人をくらべて見たら土神の方は正直で狐は少し不正直だったかも知れません。 -
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吉川英治「三国志」 三花一瓶一二 朗読岡田慎平
吉川英治「三国志」 三花一瓶三四 朗読岡田慎平
吉川英治「三国志」 三花一瓶五 六 朗読岡田慎平
一
母と子は、仕事の庭に、きょうも他念なく、蓆機に向って、蓆を織っていた。
がたん……
ことん
がたん
水車の回るような単調な音がくり返されていた。
だが、その音にも、きょうはなんとなく活気があり、歓喜の譜があった。
黙々、仕事に精だしてはいるが、母の胸にも、劉備の心にも、今日この頃の大地のように、希望の芽が生々と息づいていた。
ゆうべ。
劉備は、城内の市から帰ってくると、まっ先に、二つの吉事を告げた。
一人の良き友に出会った事と、かねて手放した家宝の剣が、計らず再び、自分の手へ返ってきた事と。
そう二つの歓びを告げると、彼の母は、
「一陽来復。おまえにも時節が来たらしいね。劉備や……心の支度もよいかえ」
と、かえって静かに声を低め、劉備の覚悟を糺すようにいった。
時節。……そうだ。
長い長い冬を経て、桃園の花もようやく蕾を破っている。土からも草の芽、木々の枝からも緑の芽、生命のあるもので、萌え出ない物はなに一つない。
がたん……
ことん……
蓆機は単調な音をくりかえしているが、劉備の胸は単調でない。こんな春らしい春をおぼえたことはない。
――我は青年なり。
空へ向って言いたいような気持である。いやいや、老いたる母の肩にさえ、どこからか舞ってきた桃花の一片が、紅く点じているではないか。
すると、どこかで、歌う者があった。十二、三歳の少女の声だった。妾ガ髪初メテ額ヲ覆ウ
花ヲ折ッテ門前ニ戯レ
郎ハ竹馬ニ騎シテ来リ
床ヲ繞ッテ青梅ヲ弄ス劉備は、耳を澄ました。
少女の美音は、近づいてきた。……十四君ノ婦ト為ッテ
羞顔未ダ嘗テ開カズ
十五初メテ眉を展ベ
願ワクバ塵ト灰トヲ共ニセン
常ニ抱柱ノ信ヲ存シ
豈上ランヤ望夫台
十六君遠クヘ行ク近所に住む少女であった。早熟な彼女はまだ青い棗みたいに小粒であったが、劉備の家のすぐ墻隣の息子に恋しているらしく、星の晩だの、人気ない折の真昼などうかがっては、墻の外へきて、よく歌をうたっていた。
「…………」
劉備は、木蓮の花に黄金の耳環を通したような、少女の貌を眼にえがいて、隣の息子を、なんとなく羨ましく思った。
そしてふと、自分の心の底からも一人の麗人を思い出していた。それは、三年前の旅行中、古塔の下であの折の老僧にひき合わされた鴻家の息女、鴻芙蓉のその後の消息であった。
――どうしたろう。あれから先。
張飛に訊けば、知っている筈である。こんど張飛に会ったら――など独り考えていた。
すると、墻の外で、しきりに歌をうたっていた少女が、犬にでも噛まれたのか、突然、きゃっと悲鳴をあげて、どこかへ逃げて行った。 -
芥川龍之介 「二人小町」海渡みなみ 田中智之朗読
二人小町
芥川龍之介
一小野の小町、几帳の陰に草紙を読んでいる。そこへ突然黄泉の使が現れる。黄泉の使は色の黒い若者。しかも耳は兎の耳である。
小町 (驚きながら)誰です、あなたは?
使 黄泉の使です。
小町 黄泉の使! ではもうわたしは死ぬのですか? もうこの世にはいられないのですか? まあ、少し待って下さい。わたしはまだ二十一です。まだ美しい盛りなのです。どうか命は助けて下さい。
使 いけません。わたしは一天万乗の君でも容赦しない使なのです。
小町 あなたは情を知らないのですか? わたしが今死んで御覧なさい。深草の少将はどうするでしょう? わたしは少将と約束しました。天に在っては比翼の鳥、地に在っては連理の枝、――ああ、あの約束を思うだけでも、わたしの胸は張り裂けるようです。少将はわたしの死んだことを聞けば、きっと歎き死に死んでしまうでしょう。
使 (つまらなそうに)歎き死が出来れば仕合せです。とにかく一度は恋されたのですから、……しかしそんなことはどうでもよろしい。さあ地獄へお伴しましょう。
小町 いけません。いけません。あなたはまだ知らないのですか? わたしはただの体ではありません。もう少将の胤を宿しているのです。わたしが今死ぬとすれば、子供も、――可愛いわたしの子供も一しょに死ななければなりません。(泣きながら)あなたはそれでも好いと云うのですか? 闇から闇へ子供をやっても、かまわないと云うのですか?
使 (ひるみながら)それはお子さんにはお気の毒です。しかし閻魔王の命令ですから、どうか一しょに来て下さい。何、地獄も考えるほど、悪いところではありません。昔から名高い美人や才子はたいてい地獄へ行っています。
小町 あなたは鬼です。羅刹です。わたしが死ねば少将も死にます。少将の胤の子供も死にます。三人ともみんな死んでしまいます。いえ、そればかりではありません。年とったわたしの父や母もきっと一しょに死んでしまいます。(一層泣き声を立てながら)わたしは黄泉の使でも、もう少し優しいと思っていました。
使 (迷惑そうに)わたしはお助け申したいのですが、……
小町 (生き返ったように顔を上げながら)ではどうか助けて下さい。五年でも十年でもかまいません。どうかわたしの寿命を延ばして下さい。たった五年、たった十年、――子供さえ成人すれば好いのです。それでもいけないと云うのですか?
使 さあ、年限はかまわないのですが、――しかしあなたをつれて行かなければ代りが一人入るのです。あなたと同じ年頃の、……
小町 (興奮しながら)では誰でもつれて行って下さい。わたしの召使いの女の中にも、同じ年の女は二三人います。阿漕でも小松でもかまいません。あなたの気に入ったのをつれて行って下さい。
使 いや、名前もあなたのように小町と云わなければいけないのです。
小町 小町! 誰か小町と云う人はいなかったかしら。ああ、います。います。(発作的に笑い出しながら)玉造の小町と云う人がいます。あの人を代りにつれて行って下さい。
使 年もあなたと同じくらいですか?
小町 ええ、ちょうど同じくらいです。ただ綺麗ではありませんが、――器量などはどうでもかまわないのでしょう?
使 (愛想よく)悪い方が好いのです。同情しずにすみますから。
小町 (生き生きと)ではあの人に行って貰って下さい。あの人はこの世にいるよりも、地獄に住みたいと云っています。誰も逢う人がいないものですから。
使 よろしい。その人をつれて行きましょう。ではお子さんを大事にして下さい。(得々と)黄泉の使も情だけは心得ているつもりなのです。
使、突然また消え失せる。
小町 ああ、やっと助かった! これも日頃信心する神や仏のお計らいであろう。(手を合せる)八百万の神々、十方の諸菩薩、どうかこの嘘の剥げませぬように。