田中智之

  • 芥川龍之介 「二人小町」海渡みなみ 田中智之朗読

    二人小町

    芥川龍之介

     一

    小野おの小町こまち几帳きちょうの陰に草紙そうしを読んでいる。そこへ突然黄泉よみ使つかいが現れる。黄泉の使は色の黒い若者。しかも耳はうさぎの耳である。
    小町 (驚きながら)誰です、あなたは?
    使 黄泉の使です。
    小町 黄泉の使! ではもうわたしは死ぬのですか? もうこの世にはいられないのですか? まあ、少し待って下さい。わたしはまだ二十一です。まだ美しい盛りなのです。どうか命は助けて下さい。
    使 いけません。わたしは一天万乗いってんばんじょうの君でも容赦ようしゃしない使なのです。
    小町 あなたはなさけを知らないのですか? わたしが今死んで御覧なさい。深草ふかくさ少将しょうしょうはどうするでしょう? わたしは少将と約束しました。天に在っては比翼ひよくの鳥、地に在っては連理れんりの枝、――ああ、あの約束を思うだけでも、わたしの胸は張りけるようです。少将はわたしの死んだことを聞けば、きっとなげじにに死んでしまうでしょう。
    使 (つまらなそうに)歎き死が出来れば仕合せです。とにかく一度は恋されたのですから、……しかしそんなことはどうでもよろしい。さあ地獄へおともしましょう。
    小町 いけません。いけません。あなたはまだ知らないのですか? わたしはただの体ではありません。もう少将のたねを宿しているのです。わたしが今死ぬとすれば、子供も、――可愛いわたしの子供も一しょに死ななければなりません。(泣きながら)あなたはそれでもいと云うのですか? やみから闇へ子供をやっても、かまわないと云うのですか?
    使 (ひるみながら)それはお子さんにはお気の毒です。しかし閻魔王えんまおうの命令ですから、どうか一しょに来て下さい。何、地獄も考えるほど、悪いところではありません。昔から名高い美人や才子はたいてい地獄へ行っています。
    小町 あなたはおにです。羅刹らせつです。わたしが死ねば少将も死にます。少将のたねの子供も死にます。三人ともみんな死んでしまいます。いえ、そればかりではありません。年とったわたしの父や母もきっと一しょに死んでしまいます。(一層泣き声を立てながら)わたしは黄泉よみの使でも、もう少し優しいと思っていました。
    使 (迷惑めいわくそうに)わたしはお助け申したいのですが、……
    小町 (生き返ったように顔を上げながら)ではどうか助けて下さい。五年でも十年でもかまいません。どうかわたしの寿命じゅみょうを延ばして下さい。たった五年、たった十年、――子供さえ成人すればいのです。それでもいけないと云うのですか?
    使 さあ、年限はかまわないのですが、――しかしあなたをつれて行かなければ代りが一人入るのです。あなたと同じ年頃の、……
    小町 (興奮こうふんしながら)では誰でもつれて行って下さい。わたしの召使めしつかいの女の中にも、同じ年の女は二三人います。阿漕あこぎでも小松こまつでもかまいません。あなたの気に入ったのをつれて行って下さい。
    使 いや、名前もあなたのように小町と云わなければいけないのです。
    小町 小町! 誰か小町と云う人はいなかったかしら。ああ、います。います。(発作的ほっさてきに笑い出しながら)玉造たまつくり小町こまちと云う人がいます。あの人を代りにつれて行って下さい。
    使 年もあなたと同じくらいですか?
    小町 ええ、ちょうど同じくらいです。ただ綺麗きれいではありませんが、――器量きりょうなどはどうでもかまわないのでしょう?
    使 (愛想あいそよく)悪い方がいのです。同情しずにすみますから。
    小町 (生き生きと)ではあの人に行って貰って下さい。あの人はこの世にいるよりも、地獄に住みたいと云っています。誰もう人がいないものですから。
    使 よろしい。その人をつれて行きましょう。ではお子さんを大事にして下さい。(得々とくとくと)黄泉の使もなさけだけは心得ているつもりなのです。
    使、突然また消え失せる。
    小町 ああ、やっと助かった! これも日頃信心する神や仏のおはからいであろう。(手を合せる)八百万やおよろずの神々、十方じっぽう諸菩薩しょぼさつ、どうかこのうそげませぬように。

  • 平林初之輔「頭と足」田中智之朗読

    頭と足

    平林初之輔

         一

    船が港へ近づくにつれて、船の中で起った先刻の悲劇よりも何よりも、新聞記者である里村さとむらの心を支配したのは、如何にしてこの事件をいち早く本社に報道するかという職業意識であった。
    彼は、社へ発送すべき電文の原稿はもうしたためている。しかし、同じ船の中に、自分の社とふだんから競争の地位にたっているA新聞の記者田中たなかがちゃんと乗りあわせて、矢張り電文の原稿は書いてしまって現に自分のそばに、何げない様子をして自分と話をしている。その様子は如何にも自信に満ちた様子である。港には郵便局は一つしかない、従って送信機も一つしかない勘定だ。どちらかさきに郵便局へ着いた方がそれを何分間でも何時間でも独占できるのだ。郵便局は波止場から十町もはなれているという。して見れば体力のすぐれている田中がさきにゆきつくことは必定だ。
    里村は気が気でなかった、波止場はすでに向うに見えている。彼はいても立ってもいられなかった。ことに、自分の体力に信頼しきって悠然とかまえている田中のそばにいるのがもう辛棒できなかった。彼はふらふらとデッキのベンチをたち上って船室へ降りていった。
    田中は安心しきっていた。彼は靴のひもを結びなおし、腰のバンドをしらべ、帽子を眉深まぶかにかぶり直し、万が一にも手ぬかりのないように、いざといったらすぐに駈けだすことのできるように用意していた。三四分もたつと里村が船室にもいたたまらぬと見えて、矢張り浮かぬ顔付をしてデッキへ上って来た。競争が切迫するにつれて二人は緊張しきってもう一言もものを言わなかった。

    青空文庫より

  • 小川未明「駄馬と百姓」田中智之朗読

  • 田中智之朗読「悪魔の聖壇」平林初之輔

     

  • 西村俊彦田中智之朗読「指輪」江戸川乱歩

    A 失礼ですが、いつかも汽車で御一緒になった様ですね。
    B これは御見おみそれ申しました。そういえば、私も思い出しましたよ。やっぱりこの線でしたね。
    A あの時は飛んだ御災難でした。
    B いや、お言葉で痛み入ります。私もあの時はどうしようかと思いましたよ。
    A あなたが、私の隣の席へいらしったのは、あれはK駅を過ぎて間もなくでしたね。あなたは、一袋の蜜柑みかんを、スーツケースと一緒に下げて来られましたね。そしてその蜜柑を私にも勧めて下さいましたっけね。……実を申しますとね。私は、あなたを変に慣れ慣れしい方だと思わないではいられませんでしたよ。
    B そうでしょう、私はあの日はほんとうにどうかしていましたよ。
    A そうこうしている内に、隣の一等車の方から、興奮した人達がドヤドヤと這入はいって来ましたね。そして、その内の一人の貴婦人が一緒にやって来た車掌にあなたの方を指して何かささやきましたね。
    B あなたはよく覚えていらっしゃる、車掌に「一寸ちょっと君、失敬ですが」と云われた時には変な気がしましたよ。よく聞いて見ると、私はその貴婦人のダイヤの指環ゆびわったてんですから、驚きましたね。
    A でも、あなたの態度は中々お立派でしたよ。「馬鹿な事をってはいけない。そりゃ人違いだろう。何なら私の身体をしらべて見るがいい」なんて、一寸あれけの落着いた台詞せりふは云えないもんですよ。
    B おだてるもんじゃありません。
    A 車掌なんてものは、ああした事に慣れていると見えて、中々抜目なく検査しましたっけね。貴婦人の旦那という男も、うるさくあなたの身体をおもちゃにしたじゃありませんか。でも、あんなに厳重に検べても、とうとう品物は出ませんでしたね、みんなのあやまり様たらありませんでした。ほんとに痛快でした。
    B 疑いがはれても、乗客が皆、妙な目附で私の方を見るのには閉口しました。
    A しかし、不思議ですね。とうとうあの指環は出て来なかったというじゃありませんか。どうも、不思議ですね。
    B …………
    A …………
    B ハハハハハハ。オイ、いい加減にしらばくれっこは止そうじゃねえか。この通り誰も聞いているものはいやしねえ。いつまでも、左様然さようしからばでもあるまいじゃないか。
    A フン、ではやっぱりそうだったのかね。
    B おめえも中々隅へは置けないよ。あの時、俺がソッと窓から投げ出した蜜柑のことを一言も云わないで、見当をつけて置いて、後から拾いに出掛けるなんざあ、どうして、玄人くろうとだよ。
    A 成程、俺は随分すばしっこく立廻った積りだ。それが、ちゃんとおめえに先手を打たれているんだからかなわねえ。俺が拾ったのはただの腐れ蜜柑が五つよ。
    B 俺が窓から投げたのも五つだったぜ。
    A 馬鹿云いねえ。あの五つは皆無傷だった。指環を抜き取った跡なんかありゃしなかったぜ。いわくつきの奴あ、ちゃんとおめえが先廻りして拾っちまったんだろう。
    B ハハハハハハ。はからんや、そうじゃねえんだからお笑い草だ。
    A オヤ、これはおかしい。じゃ、何の為にあの蜜柑を窓からほうり出したんだね。
    B まあ考えても見ねえ。折角せっかく命懸けで頂戴した品物をよ。仮令たとい蜜柑の中へ押込んだとしてもよ。誰に拾われるか分りもしねえ線路のわきなぞへ抛られるものかね。おめえがノコノコ拾いに行くまで元の所に落ちていたなぞは、飛んだ不思議と云うもんだ。
    A それじゃやっぱり蜜柑を抛った訳が分らないじゃないか。
    B まあ聞きねえ、こういう訳だ。あの時は少々どじを踏んでね、亭主野郎に勘ぐられてしまったものだから、こいつは危いと大慌てに慌てて逃げ出したんだ。どうする暇もありゃしねえ。だが、おめえの隣の席まで来て様子を見ると、急に追っかけて来る様でもねえ。さては車掌に知らせているんだな、こいつは愈々いよいよ油断がならねえと気が気じゃないんだが、さて一件の物をどう始末したらいいのか、咄嗟の場合で日頃自慢の智慧も出ねえ。恥しい話だが、ただもうイライラしちまってね。
    A なる程。
    B すると、フッとうまい事を考えついたんだ。というのが、例の蜜柑の一件さ。よもやおめえが、あれを見て黙っていようたあ思わなかったんだ。きっと手柄顔てがらがお吹聴ふいちょうするに違いない。そうして俺が蜜柑の袋を投げたと分りゃ、皆の頭がそっちへ向かうというもんじゃねえか。蜜柑の中へ品物をしのばせて置いて後から拾いに行くなんざあ古い手だからね。誰だって感づかあね。そうなるてえと、仮令検べるにしてからが、この男はもう品物を持っちゃいねえと云う頭で検べるんだから、自然おろそかにもなろうてもんだ。ね、分ったかね。
    A 成程、考えやがったな。こいつあ一杯喰わされたね。
    B ところが、おめえが知って居ながらなんとも云い出さねえ。今に云うか今に云うかと待ち構えていても、ウンともスンとも口を利かねえ。とうとう身体検査の段取りになっても、まだ黙っていやあがる。俺あ「さては」と思ったね「こいつは飛んだ食わせものだぞ。このままソッとして置いて、後から拾いに行こうと思っていやがる」あの場合だが、俺あおかしくなったね。
    A フフン、ざまあねえ……だが待ちねえ。するってえと、おめえはあれを一体どこへ隠したんだね。車掌の奴随分際どい所まで検べやあがった。口の中から耳の穴までくまなく検べたが、でも、とうとう見つからなかったじゃないか。
    B お前も随分お目出度めでてえ野郎だな。
    A はてね。こいつは面妖めんようだね。こうなるてえと、俺あどうも聞かずにゃ置かれねえ。そう勿体ぶらねえで、後学の為に御伝授に預かり度いもんだね。
    B ハハハ……まあいいよ。
    A よかあねえ、そうらすもんじゃねえやな。俺にゃどうも本当とは受取れねえからな。
    B 嘘だと思われちゃしゃくだから、じゃ話すがね。怒っちゃいけないよ。実はね、おめえが腰に下げていた煙草たばこ入れの底へソッとしのばせて置いたのさ。それにしても、あの時お前の身体はまるで隙だらけだったぜ。ハハハハハハ、エ、いつその指環を取戻したかって、いうまでもねえ、おめえが、早く蜜柑を拾いに行こうと、大慌てで開札口を出る時によ。

  • 田中智之朗読「黒猫」薄田泣菫

    黒猫

    薄田泣菫

    「奥さん、謝れなら謝りまんが、それぢやお宅の飼猫だすかいな、これ」
    荷車きの爺さんは、薄ぎたない手拭てぬぐひで、額の汗をき拭き、かう言つて、前に立つた婦人の顔を敵意のある眼で見返しました。二人の間には、荷車のわだちき倒された真つ黒な小猫が、雑巾のやうに平べつたくなつて横たはつてゐました。
    六月のむしむしする日の午後でした。私は大阪のある場末の、小学校裏の寂しい裏町を通りかかつて、ふとこんな光景を見つけました。
    「いいえ、宅の猫ぢやありません。うちの猫だつたら、こんなとこに独り歩きなぞさせるもんですか。可哀さうに」
    婦人のそばかすだらけの顔は、憎しみでいくらか曲つてゐるやうに見えました。小さな鼻の上には、脂汗が粒々になつて溜つてゐました。間違ヘやうもない、新聞の婦人欄でよく見覚えのある関西婦人――協会の幹事で、こちらの婦人界では顔利きの一人でした。婦人――協会といふのは、鮨万の板場から聞いた東京鮨のこしらへ方と、京都大学教授から受売りのアインシユタインの相対性原理の講釈とを、一緒くたにして取り扱ふことのできる所謂有識婦人の集まりでした。
    「へえ、お宅の飼猫やないもんを、なんでまたわてがあんさんに謝らんなりまへんのだすか」
    爺さんは、小猫が婦人のものでなかつたのを聞くと、急に気強くなつて、反抗的に唇を尖らせました。
    「私にあやまれと誰が言ひました」
    婦人は強ひて気を落ちつけようとして、たもとから手巾ハンケチを取り出して鼻先の汗を拭きました。
    「そんなら誰にあやまるんだす。あやまる相手がないやおまへんか」
    爺さんは口論いさかひに言ひ勝つたもののやうに、白い歯を見せてせせら笑ひをしました。通りかかつた近所の悪戯いたづらが三、四人立ち停つて、二人の顔を見較べてゐました。
    「いや、あります」婦人はきつぱりと言ひました。「この小猫にあやまらなくちやなりません」
    「猫に」爺さんは思はず声を立てて眼を円くしました。「猫にあやまれなんて、阿呆らしいこと言ひなんな。わてかう見えても人間だつせ」
    このとき、死にかかつた小猫は痙攣ひきつるやうに後脚をびくびくふるはせて、真つ黒な頭を持ち上げようとしましたが、雑文ばかり流行はやつて、一向秀れた創作が出ないと言ふ批評家の言葉が耳に入つたものか、それとも小猫にあやまらさうとする婦人の言葉を洩れ聞いて、もしかそんなことにでもなつたなら、一番挨拶に困るのは自分だと思ふにつけて、急に世の中が厭になつたかして、そのままぐつたりとなつて息が絶えてしまひました。
    そんなことに頓着のない二人は、哀れな小猫の死骸の上で元気よく喧嘩を続けました。婦人は言ひました

  • 西村俊彦田中智之朗読「火星の芝居」石川啄木

  • 田中智之朗読 「朝飯」島崎藤村

  • 田中智之朗読 「京都日記」芥川龍之介

    京都日記

    芥川龍之介

    光悦寺

    光悦寺くわうえつじへ行つたら、本堂の横手の松の中に小さな家が二軒立つてゐる。それがいづれも妙にをさまつてゐる所を見ると、物置きなんぞの類ではないらしい。らしいどころか、その一軒には大倉喜八郎おほくらきはちらう氏の書いたがくさへもかかつてゐる。そこで案内をしてくれた小林雨郊こばやしうかう君をつかまへて、「これはなんです」と尋ねたら、「光悦会くわうえつくわいで建てた茶席です」と云ふ答へがあつた。
    自分は急に、光悦会がくだらなくなつた。
    「あの連中は光悦に御出入おでいりを申しつけた気でゐるやうぢやありませんか。」
    小林君は自分の毒口どくぐちを聞いて、にやにや笑ひ出した。
    「これが出来たのでたかみねわしみねとが続いてゐる所が見えなくなりました。茶席など造るより、あの辺の雑木ざふきでも払へばよろしいにな。」
    小林君が洋傘かうもりで指さしたはうを見ると、成程なるほどもぢやもぢや生え繁つた初夏しよか雑木ざふきこずゑが鷹ヶ峯の左の裾を、鬱陶うつたうしく隠してゐる。あれがなくなつたら、山ばかりでなく、向うに光つてゐる大竹藪おほたけやぶもよく見えるやうになるだらう。第一その方が茶席を造るよりは、手数てすうがかからないのに違ひない。
    それから二人ふたり庫裡くりへ行つて、住職の坊さんに宝物はうもつを見せて貰つた。その中に一つ、銀の桔梗ききやうきんすすきとが入り乱れた上に美しい手蹟しゆせきで歌を書いた、八寸四方くらゐの小さなぢくがある。これはすすきの葉の垂れた工合ぐあひが、殊に出来が面白い。小林君は専門家だけに、それを床柱とこばしらにぶら下げて貰つて、「よろしいな。銀もよう焼けてゐる」とかなんとか云つてゐる。自分は敷島しきしまくはへて、まだ仏頂面ぶつちやうづらをしてゐたが、やはりこの絵を見てゐると、落着きのある、ほがらかい心もちになつて来た。
    が、しばらくすると住職の坊さんが、小林君の方を向いて、こんな事を云った。
    「もう少しすると、又一つ茶席が建ちます。」
    小林君もこれにはいささか驚いたらしい。
    「又光悦会ですか。」
    「いいえ、今度は個人でございます。」
    自分は忌々いまいましいのを通り越して、へんな心もちになつた。一体光悦くわうえつをどう思つてゐるのだか、光悦寺をどう思つてゐるのだか、もう一つついでに鷹ヶ峯をどう思つてゐるのだか、かうなると、到底たうてい自分には分らない。そんなに茶席が建てたければ、茶屋四郎次郎ちややしらうじらう邸跡やしきあとや何かの麦畑でも、もつと買占めて、むやみに囲ひを並べたらよからう。さうしてその茶席ののきがくでも提灯ちやうちんでもべた一面に懸けるがい。さうすれば自分も始めから、わざわざ光悦寺などへやつて来はしない。さうとも。誰が来るものか。
    あとで外へ出たら、小林君が「い時に来ました。この上茶席が建つたらどうもなりません。」と云つた。さう思つて見ればたしかに好い時に来たのである。が、一つの茶席もない、更に好い時に来なかつたのは、返す返すも遺憾ゐかんに違ひない。――自分は依然として仏頂面ぶつちやうづらをしながら、小林君と一しよに竹藪のうしろに立つてゐる寂しい光悦寺の門を出た。

    青空文庫より

  • 青空文庫作品の朗読「魚河岸」芥川龍之介 朗読 は田中智之さんです。


    魚河岸
    芥川龍之介
    去年の春の夜よ、――と云ってもまだ風の寒い、月の冴さえた夜よるの九時ごろ、保吉やすきちは三人の友だちと、魚河岸うおがしの往来を歩いていた。三人の友だちとは、俳人の露柴ろさい、洋画家の風中ふうちゅう、蒔画師まきえしの如丹じょたん、――三人とも本名ほんみょうは明あかさないが、その道では知られた腕うでっ扱こきである。殊に露柴ろさいは年かさでもあり、新傾向の俳人としては、夙つとに名を馳はせた男だった。
    我々は皆酔っていた。もっとも風中と保吉とは下戸げこ、如丹は名代なだいの酒豪しゅごうだったから、三人はふだんと変らなかった。ただ露柴はどうかすると、足もとも少々あぶなかった。我々は露柴を中にしながら、腥なまぐさい月明りの吹かれる通りを、日本橋にほんばしの方へ歩いて行った。
    露柴は生きっ粋すいの江戸えどっ児こだった。曾祖父そうそふは蜀山しょくさんや文晁ぶんちょうと交遊の厚かった人である。家も河岸かしの丸清まるせいと云えば、あの界隈かいわいでは知らぬものはない。それを露柴はずっと前から、家業はほとんど人任せにしたなり、自分は山谷さんやの露路ろじの奥に、句と書と篆刻てんこくとを楽しんでいた。だから露柴には我々にない、どこかいなせな風格があった。下町気質したまちかたぎよりは伝法でんぼうな、山の手には勿論縁の遠い、――云わば河岸の鮪まぐろの鮨すしと、一味相通ずる何物かがあった。………
    露柴はさも邪魔じゃまそうに、時々外套がいとうの袖をはねながら、快活に我々と話し続けた。如丹は静かに笑い笑い、話の相槌あいづちを打っていた。その内に我々はいつのまにか、河岸の取とっつきへ来てしまった。このまま河岸を出抜けるのはみんな妙に物足りなかった。するとそこに洋食屋が一軒、片側かたかわを照らした月明りに白い暖簾のれんを垂らしていた。この店の噂は保吉さえも何度か聞かされた事があった。「はいろうか?」「はいっても好いいな。」――そんな事を云い合う内に、我々はもう風中を先に、狭い店の中へなだれこんでいた。
    店の中には客が二人、細長い卓たくに向っていた。客の一人は河岸の若い衆、もう一人はどこかの職工らしかった。我々は二人ずつ向い合いに、同じ卓に割りこませて貰もらった。それから平貝たいらがいのフライを肴さかなに、ちびちび正宗まさむねを嘗め始めた。勿論下戸げこの風中や保吉は二つと猪口ちょくは重ねなかった。その代り料理を平げさすと、二人とも中々なかなか健啖けんたんだった。
    この店は卓も腰掛けも、ニスを塗らない白木しらきだった。おまけに店を囲う物は、江戸伝来の葭簀よしずだった。だから洋食は食っていても、ほとんど洋食屋とは思われなかった。風中は誂あつらえたビフテキが来ると、これは切り味みじゃないかと云ったりした。如丹はナイフの切れるのに、大いに敬意を表していた。保吉はまた電燈の明るいのがこう云う場所だけに難有ありがたかった。露柴も、――露柴は土地っ子だから、何も珍らしくはないらしかった。が、鳥打帽とりうちぼうを阿弥陀あみだにしたまま、如丹と献酬けんしゅうを重ねては、不相変あいかわらず快活にしゃべっていた。
    するとその最中さいちゅうに、中折帽なかおれぼうをかぶった客が一人、ぬっと暖簾のれんをくぐって来た。客は外套の毛皮の襟えりに肥った頬ほおを埋うずめながら、見ると云うよりは、睨にらむように、狭い店の中へ眼をやった。それから一言いちごんの挨拶あいさつもせず、如丹と若い衆との間の席へ、大きい体を割りこませた。保吉はライスカレエを掬すくいながら、嫌な奴だなと思っていた。これが泉鏡花いずみきょうかの小説だと、任侠にんきょう欣よろこぶべき芸者か何かに、退治たいじられる奴だがと思っていた。しかしまた現代の日本橋は、とうてい鏡花の小説のように、動きっこはないとも思っていた。
    客は註文を通した後のち、横柄おうへいに煙草をふかし始めた。その姿は見れば見るほど、敵役かたきやくの寸法すんぽうに嵌はまっていた。脂あぶらぎった赭あから顔は勿論、大島おおしまの羽織、認みとめになる指環ゆびわ、――ことごとく型を出でなかった。保吉はいよいよ中あてられたから、この客の存在を忘れたさに、隣にいる露柴ろさいへ話しかけた。が、露柴はうんとか、ええとか、好いい加減な返事しかしてくれなかった。のみならず彼も中あてられたのか、電燈の光に背そむきながら、わざと鳥打帽を目深まぶかにしていた。
    保吉やすきちはやむを得ず風中ふうちゅうや如丹じょたんと、食物くいものの事などを話し合った。しかし話ははずまなかった。この肥ふとった客の出現以来、我々三人の心もちに、妙な狂いの出来た事は、どうにも仕方のない事実だった。
    客は註文のフライが来ると、正宗まさむねの罎びんを取り上げた。そうして猪口ちょくへつごうとした。その時誰か横合いから、「幸こうさん」とはっきり呼んだものがあった。客は明らかにびっくりした。しかもその驚いた顔は、声の主ぬしを見たと思うと、たちまち当惑とうわくの色に変り出した。「やあ、こりゃ檀那だんなでしたか。」――客は中折帽を脱ぎながら、何度も声の主ぬしに御時儀おじぎをした。声の主は俳人の露柴ろさい、河岸かしの丸清まるせいの檀那だった。
    「しばらくだね。」――露柴は涼しい顔をしながら、猪口を口へ持って行った。その猪口が空からになると、客は隙すかさず露柴の猪口へ客自身の罎の酒をついだ。それから側目はためには可笑おかしいほど、露柴の機嫌きげんを窺うかがい出した。………
    鏡花きょうかの小説は死んではいない。少くとも東京の魚河岸には、未いまだにあの通りの事件も起るのである。
    しかし洋食屋の外そとへ出た時、保吉の心は沈んでいた。保吉は勿論「幸さん」には、何の同情も持たなかった。その上露柴の話によると、客は人格も悪いらしかった。が、それにも関かかわらず妙に陽気ようきにはなれなかった。保吉の書斎の机の上には、読みかけたロシュフウコオの語録がある。――保吉は月明りを履ふみながら、いつかそんな事を考えていた。
    青空文庫より