野村胡堂

  • 野村胡堂 「銭形平次捕物控 平次屠蘇機嫌」全編 萩柚月朗読

     元日の晝下り、八丁堀町御組屋敷の年始廻りをした錢形平次と子分の八五郎は、海賊橋かいぞくばしを渡つて、青物町へ入らうと言ふところでヒヨイと立止りました。

    「八、目出度いな」
    「へエ――」
    ガラツ八は眼をパチ/\させます。正月の元日が今始めて解つた筈もなく、天氣は朝つからの日本晴れだし、今更親分に目出度がられるわけは無いやうな氣がしたのです。
    「旦那方のめえぢや、呑んだ酒も身につかねえ。丁度腹具合も北山だらう、一杯身につけようぢやないか」
    平次は斯んな事を言つて、ヒヨイとあごをしやくりました。成程、その顎の向つた方角、活鯛いけだひ屋敷の前に、何時の間に出來たか、洒落しやれた料理屋が一軒、大門松を押つ立てゝ、年始廻りの中食で賑はつてゐたのです。
    「へエ――、本當ですか、親分」
    ガラツ八の八五郎は、存分に鼻の下を長くしました。ツヒぞ斯んな事を言つたことの無い親分の平次が、與力笹野新三郎の役宅で、屠蘇とそを祝つたばかりの歸り途に、一杯呑み直さうといふ量見が解りません。
    「本當ですかは御挨拶だね。後で割前を出せなんてケチな事を言ふ氣遣ひはねえ。サア、眞つ直ぐに乘り込みな」
    さう言ふ平次、料理屋の前へ來ると、フラリとよろけました。組屋敷で軒並めた屠蘇とそが、今になつて一時に發したのでせう。
    「親分、あぶないぢやありませんか」
    「何を言やがる。危ねえのは手めえの顎だ、片附けて置かねえと、俺の髷節に引つ掛るぢやないか」
    「冗談でせう、親分」
    二人は黒板塀を繞らした、相當の構の門へつながつて入つて行きました。
    眞新しい看板に「さざなみ」と書き、淺黄あさぎの暖簾に鎌輪奴かまわぬと染め出した入口、ヒヨイと見ると、頭の上の大輪飾おほわかざりが、どう間違へたか裏返しに掛けてあるではありませんか。
    「こいつは洒落て居るぜ、――正月が裏を返しや盆になるとよ。ハツハツ、ハツハツ、だが、世間附き合ひが惡いやうだから、ちよいと直してやらう」
    平次は店の中から空樽あきだるを一梃持出して、それを踏臺に、輪飾りを直してやりました。
    「入らつしやい、毎度有難う存じます」
    「これは親分さん方、明けましてお目出度うございます。大層御機嫌で、へツ、へツ」
    帳場に居た番頭と若い衆、掛け合ひで滑らかなお世辭を浴びせます。
    「何を言やがる、身錢を切つた酒ぢやねえ、お役所のお屠蘇で御機嫌になれるかツてんだ」
    「へツ、御冗談」
    平次は無駄を言ひ乍ら、フラリフラリと二階へ――
    「お座敷は此方でございます。二階は混み合ひますから」
    小女が座布團を温め乍ら言ふのです。
    「混み合つた方が正月らしくて宜いよ。大丈夫だ、人見知りをするやうな育ちぢやねえ。――尤もこの野郎は醉が廻ると噛み付くかも知れないよ」
    平次は後から登つて來るガラツ八の鼻のあたりを指すのでした。
    小女はんがりともせずに跟いて來ました。二階の客は四組十人ばかり、二た間の隅々に陣取つて正月氣分もなく靜かに呑んで居ります。
    「其處ぢやさらし物見たいだ。通りの見える所にしてくれ」
    部屋の眞ん中に拵へた席を、平次は自分で表の障子の側に移し、ガラツ八と差し向ひで、威勢よく盃を擧げたものです。
    「大層な景氣ですね、親分」
    面喰つたのはガラツ八でした。平次のはしやぎ樣も尋常ではありませんが、それより膽を冷したのは、日頃堅いで通つた平次の、この日のあざやかな呑みつ振りです。
    「心配するなよ。金は小判といふものをフンダンに持つて居るんだ。――なア八、俺もこの稼業には飽々あき/\してしまつたから、今年は一つ商賣替をしようと思ふがどうだ」
    「冗談で――親分」
    「冗談や洒落で、元日早々こんな事が言へるものか。大眞面目の涙の出るほど眞劍な話さね。八、江戸中で一番儲かる仕事は一體何んだらう。――相談に乘つてくれ」
    さう言ふうちにも、平次は引つ切りなしに盃をあけました。見る/\膳の上に林立する徳利の數、ガラツ八の八五郎は薄寒い心持でそれを眺めて居ります。
    「儲かる事なんか、あつしがそんな事を知つてゐるわけが無いぢやありませんか」
    「成程ね。知つて居りや、自分で儲けて、この俺に達引たてひいてくれるか。――有難いね、八、手前の氣つぷに惚れたよ」
    「――」
    ガラツ八は閉口してぼんのくぼを撫でました。
    「――尤も、手前の氣つぷに惚れたのは俺ばかりぢやねえ。横町の煮賣屋のお勘ん子がさう言つたぜ。――お願ひだから親分さん、八さんに添はして下さいつ――てよ」
    「親分」
    「惡くない娘だぜ。少し、唐臼からうすを踏むが、大したきりやうさ。何方を見て居るか、ちよつと見當の付かない眼玉の配りが氣に入つたよ。それに、あの娘は時々垂れ流すんだつてね、飛んだ洒落た隱し藝ぢやないか」
    「止して下さいよ、親分」
    「首でもくゝると氣の毒だから、何んとか恰好をつけておやりよ、畜生奴」
    「親分」
    ガラツ八はこんなに驚いたことはありません。錢形平次は際限さいげんもなく浴びせ乍ら、滅茶々々に饒舌り捲つて二階中の客を沈默させてしまひました。
    四組のお客は、それにしても何と言ふおとなしいことでせう。そのころ流行はやつた、客同士の盃のやりとりもなく、地味に呑んで、地味に食ふ人ばかり。そのくせ、勘定が濟んでも容易に立たうとする者はなく、後から/\と來る客が立て込んで、何時の間にやら、四組が六組になり、八組になり、八疊と四疊半の二た間は、小女が食物を運ぶ道を開けるのが精一杯です。
    「なア、八、本當のところ江戸中で一番儲かる仕事を教へてくれ、頼むぜ」
    平次は尚も執拗しつあうにガラツ八を追及します。
    「泥棒でもするんですね、親分」
    ガラツ八は少し捨鉢になりました。
    「何んだと此野郎ツ」
    平次は何に腹を立てたか、いきなり起上つてガラツ八に掴みかゝりましたが、散々呑んだ足許が狂つて、見事膳を蹴上げると、障子を一枚背負つたまゝ、縁側へ轉げ出したのです。
    「親分、危いぢやありませんか」
    飛びつくやうに抱き起したガラツ八、これはあまり醉つてゐない上、どんなに罵倒ばたうされても、親分の平次に向つて腹を立てるやうな男ではありません。
    「あゝ醉つた。――俺は眠いよ、此處で一と寢入りして歸るから、そつとして置いてくれ」
    障子の上に半分のしかゝつたまゝ、平次は本當に眼をつぶるのです。
    「親分、――さア、歸りませう。寢たきや、家に歸つてからにしようぢやありませんか」
    「何を。女房の面を見ると、とたんに眼がさめる俺だ。お願ひだから、此處で――」
    「親分、お願ひだから歸りませう、さア」
    ガラツ八は手を取つて引き起します。
    「よし、それぢや素直に歸る。手前てめえこれで、勘定を拂つてくれ。言ふまでもねえが、今日は元日だよ、八、勘定こつきりなんて見つともねえことをするな」
    「心得てますよ、親分。――小判を一枚づつもやりや宜いんでせう」
    「大きな事を言やがる」
    ガラツ八は平次をなだめ乍ら、財布から小粒を出して勘定をすませ、板前と小女に、はずみ過ぎない程度のお年玉をやりました。
    「あ、親分、そんな事は、をんなにやらせて置けば宜いのに――危いなアどうも」
    八五郎もハツとしました。平次は覺束ない足をふみ締めて、自分の外した障子を一生懸命元の敷居へはめ込んで居るのです。
    「放つて置け。俺が外した障子だ、俺が直すに何が危ないものか。おや、裏返しだぜ。骨が外へ向いてけつかる、どつこいしよ」
    平次はまだ障子と角力を取つて居ります。

  • 野村胡堂 「銭形平次捕物控 南蛮秘法箋」全編萩柚月朗読

    小石川水道端に、質屋渡世で二萬兩の大身代をきづき上げた田代屋又左衞門、年は取つて居るが、昔は二本差だつたさうで恐ろしいきかん氣。
    「やい/\こんな湯へ入られると思ふか。風邪を引くぢやないか、馬鹿々々しい」
    風呂場から町内中響き渡るやうに怒鳴どなつて居ります。
    「ハイ、唯今、直ぐ參ります」
    女中も庭男も居なかつたと見えて、奧から飛出したのは伜の嫁のお冬、外から油障子を開けて、手頃のまきを二三本投げ込みましたが、頑固な鐵砲風呂で、急にはうまく燃えつかない上、煙突などといふ器用なものがありませんから、忽ち風呂場一杯にみなぎる煙です。
    「あツ、これはたまらぬ。エヘン/\/\、其處を開けて貰はう。エヘン/\/\、寒いのは我慢するが、年寄に煙は大禁物だ」
    「何うしませう、ちよつと、お持ち下さい。燃え草を持つて參りますから」
    若い嫁は、風呂場の障子を一パイに開けたまゝ、面喰らつて物置の方へ飛んで行つて了ひました。
    底冷のする梅二月、宵と言つても身を切られるやうな風が又左衞門の裸身を吹きますが、すつかり煙にせ入つた又左衞門は、流しにうづくまつたまゝ、大汗を掻いて咳入せきいつて居ります。
    その時でした。
    何處からともなく飛んで來た一本の吹矢、咳き込むはずみに、少し前屈みになつた又左衞門の二の腕へ深々と突つ立つたのです。
    「あツ」
    心得のない人ではありませんが、全く闇のつぶてです。思はず悲鳴をあげると、
    「何うした何うした、大旦那の聲のやうだが」
    店からも奧からも、一ぺんに風呂場に雪崩なだれ込みます。
    見ると、裸體のまゝ、流しに突つ起つた主人又左衞門の左の腕に、白々と立つたのは、羽ごと六寸もあらうと思ふ一本の吹矢、引拔くと油で痛めた竹の根は、鋼鐵の如く光つて、美濃紙みのがみを卷いた羽を染めたのは、斑々はん/\たる血潮です。
    「俺は構はねえ、外を見ろ、誰が一體こんな事をしあがつた」
    豪氣な又左衞門に勵まされるともなく、二三人バラバラと外へ飛出すと、庭先に呆然立つて居るのは、埃除ほこりよけの手拭を吹流しに冠つて、燃え草の木片を抱へた嫁のお冬、美しい顏を硬張らせて、宵闇の中に何處ともなく見詰めて居ります。
    「御新造樣、何うなさいました」
    「あ、誰か彼方へ逃げて行つたよ。追つ驅けて御覽」
    と言ひますが、庭にも、木戸にも、往來にも人影らしいものは見當りません。
    「こんな物が落ちて居ます」
    丁稚の三吉がお冬の足元から拾ひ上げたのは、四尺あまりの本式の吹矢筒ふきやづつ、竹の節を拔いて狂ひを止めた上に、磨きをかけたものですが、鐵砲の不自由な時代には、これでも立派な飛道具で、江戸の初期には武士もたしなんだと言はれる位、後には子供の玩具おもちやや町人の遊び道具になりましたが、この時分はまだ/\、吹矢も相當に幅を利かせた頃です。
    餘事はさておき――、
    引拔いたあとは、つまらない瘡藥きずぐすりか何かを塗つて、其儘にして置きましたが、其晩から大熱を發して、枕も上がらぬ騷ぎ、曉方かけて又左衞門の腕は樽のやうにれ上がつて了ひました。
    麹町から名高い外科を呼んで診て貰ふと、
    「これは大變だ。併し破傷風はしやうふうにしてもこんなに早く毒が廻る筈はない――吹矢を拜見」
    仔細らしく坊主頭を振ります。
    昨夜の吹矢を、後で詮索せんさくをする積りで、ほんの暫らく風呂場の棚の上へ置いたのを、誰の仕業か知りませんが、瞬くうちになくなつて了つたのです。
    「誰だ、吹矢を捨てたのは」
    と言つたところで、もう後の祭り、故意か過ちか、兎に角、又左衞門に大怪我をさした當人が、後のたゝりを恐れて、隱して了つたことだけは確かです。
    「それは惜しいことをした。ことによると、その吹矢の根に、毒が塗つてあつたかも知れぬて」
    「え、そんな事があるでせうか」
    又左衞門の伜又次郎、これは次男に生れて家督かとくを相續した手堅い一方の若者、今では田代屋の用心棒と言つていゝ程の男です。
    「さうでもなければ、こんなにふくれるわけがない。この毒が胴に廻つては、お氣の毒だが命が六づかしい。今のうちに、腕を切り落す外はあるまいと思ふが、如何でせうな」
    斯う言はれると、又次郎はすつかり蒼くなりましたが、父の又左衞門は、武士の出といふだけあつて思ひの外驚きません。
    「それは何でもないことだ。右の腕一本あれば不自由はしない、サア」
    千貫目のおもりを掛けられたやうな腕を差出して、苦痛にゆがむ頬に、我慢の微笑を浮べます。

    青空文庫より

  • 野村胡堂錢形平次捕物控「酒屋火事」(一)(ニ)


    野村胡堂錢形平次捕物控「酒屋火事三四」萩柚月朗読


    野村胡堂錢形平次捕物控「酒屋火事」五,六萩柚月朗読


    野村胡堂錢形平次捕物控「酒屋火事」七萩柚月朗読

  • 萩柚月朗読銭形平次捕り物控えお篠姉妹全編通し 野村胡堂

  • 萩柚朗読銭形平次捕り物控「花見の仇討」野村胡堂一 二


    萩柚月朗読 野村胡堂「銭形平次捕り物控」花見の仇討ち三四


    萩柚月朗読 銭形平次捕り物控花見の仇討五六野村胡堂


    萩柚月朗読 野村胡堂 銭形平次捕り物控,花見の仇討ち七、八

    「親分」
    ガラツ八の八五郎は息せき切つて居りました。續く――大變――といふ言葉も、容易には唇に上りません。
    「何だ、八」
    飛鳥あすか山の花見歸り、谷中へ拔けようとする道で、錢形平次は後から呼止められたのです。飛鳥山の花見の行樂に、埃と酒にすつかり醉つて、これから夕陽を浴びて家路を急がうといふ時、跡片付けで少し後れたガラツ八が、毛氈まうせんを肩に引つ擔いだまゝ、泳ぐやうに飛んで來たのでした。
    「親分、――引つ返して下さい。山で敵討がありましたよ」
    「何?」
    「巡禮姿の若い男が、虚無僧に斬られて、山は※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)えくり返るやうな騷ぎで」
    「よし、行つて見よう」
    平次は少しばかりの荷物を町内の人達に預けると、獲物を見付けた獵犬のやうに、飛鳥山へ取つて返します。
    柔かな夕風につれて、何處からともなく飛んで來る櫻の花片、北の空は紫にたそがれて、妙に感傷をそゝる夕です。
    二人が山へ引つ返した時は、全く文字通りの大混亂でした。異常な沈默の裡に、掛り合ひを恐れて逃げ散るもの、好奇心に引ずられて現場を覗くもの、右往左往する人波が、不氣味な動きを、際限もなく續けて居るのです。
    「退いた/\」
    ガラツ八の聲につれて、人波はサツと割れました。その中には早くも驅け付けた見廻り同心が、配下の手先に指圖をして、斬られた巡禮の死骸を調べて居ります。
    「お、平次ぢやないか。丁度宜い、手傳つてくれ」
    樫谷かしや樣、――敵討ださうぢやございませんか」
    平次は同心樫谷三七郎の側に差寄つて、踏み荒した櫻の根方に、あけに染んで崩折れた巡禮姿を見やりました。
    「それが不思議なんだ、――敵討と言つたところで、花見茶番の敵討だ。竹光を拔き合せたところへ、筋書通り留め女が入つて、用意の酒肴さけさかなを開かうと言ふ手順だつたといふが、敵の虚無僧になつた男が、巡禮の方を眞刀で斬り殺してしまつたのだよ」
    「へエ――」
    平次は同心の説明を聽き乍らも、巡禮の死體を丁寧に調べて見ました。笠ははね飛ばされて、月代さかやきの青い地頭が出て居りますが、白粉を塗つて、引眉毛、眼張りまで入れ、手甲、脚絆から、笈摺おひずるまで、芝居の巡禮をそのまゝ、此上もない念入りの扮裝こしらへです。
    右手に持つたのは、銀紙貼りの竹光、それははすつかひに切られて、肩先に薄傷うすでを負はされた上、左の胸のあたりを、したゝかに刺され、蘇芳すはうを浴びたやうになつて、こと切れて居るのでした。
    「身元は? 旦那」
    平次は樫谷三七郎を見上げました。
    「直ぐ解つたよ、馬道の絲屋、出雲屋の若主人宗次郎だ」
    「へエ――」
    「茶番の仲間が、宗次郎が斬られると直ぐ驅け付けた。これがさうだ」
    樫谷三七郎が顎で指すと、少し離れて、虚無僧が一人、留め女が一人、薄寒さうに立つて居るのでした。
    そのうちの虚無僧は、巡禮姿の宗次郎を斬つた疑ひを被つたのでせう。特に一人の手先が引き添つて、スワと言はゞ、繩も打ち兼ねまじき氣色を見せて居ります。
    次第に銀鼠色に暮れ行く空、散りかけた櫻は妙に白茶けて、興も春色もめると見たのも暫し、間もなく山中に灯が入つて、大きな月がもやの中に芝居の拵へ物のやうに昇りました。
    陰慘な、そのくせ妙に陽氣な、言ひやうもない不思議な花の山です。
    「旦那、少し訊いて見たいと思ひますが――」
    平次は樫谷三七郎を顧みました。
    「何なりと訊くが宜い」
    「では」
    平次は茶番の仲間を一とわたり眺めやります。

  • 萩柚月朗読 銭形平次捕り物控 「迷子札5,6 」野村胡堂

    萩柚月朗読銭形平次捕り物「控迷子札7.8」野村胡堂

    「御免下さいまし」
    「誰ぢや」
    御徒町の吉田一學、御徒士頭おかちがしらで一千石をむ大身ですが、平次はその御勝手口へ、遠慮もなく入つて行つたのです。
    「御用人樣に御目に掛りたう御座いますが」
    「お前は何だ」
    「左官の伊之助の弟――え、その、平次と申す者で」
    「もう遲いぞ、明日出直して參れ」
    お勝手に居る爺父おやぢは、恐ろしく威猛高ゐたけだけです。
    「さう仰しやらずに、ちよいとお取次を願ひます。御用人樣は、屹度御逢ひ下さいます」
    「いやな奴だな、此處を何と心得る」
    「へエ、吉田樣のお勝手口で」
    どうもこの押し問答は平次の勝です。
    やがて通されたのは、内玄關の突當りの小部屋。
    「私は用人の後閑武兵衞こがぶへゑぢやが――平次といふのはお前か」
    六十年配の穩やかな仁體です。
    「へエ、私は左官の伊之助の弟で御座いますが、兄の遺言ゆゐごんで、今晩お伺ひいたしました」
    「遺言?」
    老用人は一寸眼を見張りました。
    「兄の伊之助が心掛けて果し兼ねましたが、一つ見て頂きたいものが御座います。――なアに、つまらない迷子札で、へエ」
    平次がさう言ひ乍ら、懷から取出したのは、眞鍮しんちうの迷子札が一枚、後閑こが武兵衞の手の屆きさうもないところへ置いて、上眼使ひに、そつと見上げるのでした。
    色の淺黒い、苦み走つた男振りも、わざと狹く着た單衣ひとへもすつかり板に付いて、名優の強請場ゆすりばに見るやうな、一種拔き差しのならぬ凄味さへ加はります。
    「それを何うしようと言ふのだ」
    「へ、へ、へ、この迷子札に書いてある、甲寅きのえとら四月生れの乙松といふ伜を引渡して頂きたいんで、たゞそれ丈けの事で御座いますよ、御用人樣」
    「――」
    「何んなもんで御座いませう」
    「暫らく待つてくれ」
    こまぬいた腕をほどくと、後閑武兵衞、深沈たる顏をして奧に引込みました。
    待つこと暫時ざんじ
    何處から槍が來るか、何處から鐵砲が來るか、それは全く不安極まる四半刻でしたが、平次は小判形の迷子札と睨めつこをしたまゝ、大した用心をするでもなくひかへて居ります。
    「大層待たせたな」
    二度目に出て來た時の用人は、何となくニコニコして居りました。
    「どういたしまして、どうせ夜が明けるか、斬られて死骸だけ歸るか――それ位の覺悟はいたして參りました」
    と平次。
    「大層いさぎよい事だが、左樣な心配はあるまい――ところで、その迷子札ぢや。私の一存で、此場で買ひ取らうと思ふ、どうぢや、これ位では」
    出したのは、二十五兩包の小判が四つ。
    「――」
    「不足かな」
    「――」
    「これつ切り忘れてくれるなら、此倍出してもよいが」
    武兵衞は此取引の成功をうたがつても居ない樣子です。
    「御用人樣、私は金が欲しくて參つたのぢや御座いません」
    「何だと」
    平次の言葉の豫想外よさうぐわいさ。
    「百兩二百兩はおろか、千兩箱を積んでもこの迷子札は賣りやしません――乙松といふ伜を頂戴して、兄伊之助の後を立てさへすれば、それでよいので」
    「それは言ひ掛りと言ふものだらう、平次とやら」
    「――」
    「私に免じて、我慢をしてくれぬか、この通り」
    後閑武兵衞は疊へ手を落すのでした。
    「それぢや、一日考へさして下さいまし。めひのお北とも相談をして、明日の晩又參りませう」
    平次は目的が達した樣子でした。迷子札を懷へ入れると、丁寧にいとまを告げて、用心深く屋敷の外へ出ました。

    青空文庫より

  • 二宮隆朗読小川未明「時計のない村」

     

    まちからとおはなれた田舎いなかのことであります。そのむらには、あまりんだものがありませんでした。むらじゅうで、時計とけいが、たった二つぎりしかなかったのです。
    ながあいだ、このむら人々ひとびとは、時計とかいがなくてすんできました。太陽たいようのぼりぐあいをて、およその時刻じこくをはかりました。けれど、この文明ぶんめいなかに、時計とけいもちいなくてははなしにならぬというので、むらうちでの金持かねもちの一人ひとりが、まちたときに、そのまち時計屋とけいやから、一つの時計とけいもとめたのであります。
    その金持かねもちは、いま、自分じぶんはたくさんのかねはらって、時計とけいもとめることをこころうちほこりとしました。今日きょうから、むらのものたちは、万事ばんじあつまりや、約束やくそく時間じかんを、この時計とけいによってしなければならぬとおもったからであります。
    「この時計とけいは、くるうようなことはないだろうな。」と、金持かねもちは、時計屋とけいや番頭ばんとうにたずねました。
    「けっして、くるうようなことはありません。そんなおしなではございません。」と、番頭ばんとうこたえました。
    「それなら、安心あんしんだが。」と、金持かねもちは、ほほえみました。
    「このみせ時間じかんは、まちがいがないだろうな。」と、金持かねもちは、またききました。
    「けっして、まちがってはいません。標準時ひょうじゅんじわせてございます。」と、番頭ばんとうこたえました。
    「それなら、安心あんしんだ。」と、金持かねもちはおもったのであります。
    金持かねもちは、った時計とけい大事だいじにして、自分じぶんむらってかえりました。
    これまで、時計とけいというものをなれなかったむら人々ひとびとは、毎日まいにちのように、その金持かねもちのうちしかけてきました。そして、ひとりでにうごはりて、不思議ふしぎおもいました。また、金持かねもちから時間じかん見方みかたおそわって、かれらは、はたけにいっても、やまにいっても、ると時計とけいはなしをしたのであります。
    このむらに、もう一人ひとり金持かねもちがありました。そのおとこは、むらのものが、一ぽう金持かねもちのうちにばかり出入でいりするのをねたましくおもいました。時計とけいがあるばかりに、みんなが、そのうちへゆくのがしゃくにさわったのであります。
    「どれ、おれも、ひとつ時計とけいってこよう。そうすれば、きっとおれのところへもみんながやってくるにちがいない。」と、そのおとこおもったのです。
    おとこは、まちました。そして、もう一人ひとり金持かねもちが時計とけいったみせと、ちがったみせへゆきました。そのみせも、まちでのおおきな時計屋とけいやであったのです。おとこは、いろいろなかたち時計とけいをこのみせました。なるたけ、めずらしいとおもったのを、おとこえらびました。
    「この時計とけいは、くるわないだろうか。」と、おとこは、みせ番頭ばんとういました。
    「そんなことは、けっしてございません。保険付ほけんつきでごさいます。」と、番頭ばんとうこたえました。
    「その時計とけい時間じかんは、っているだろうか。」と、おとこはたずねました。
    標準時ひょうじゅんじっています。」と、番頭ばんとうこたえました。
    ねじさえかけておけは、いつまでたってもまちがいはないだろうか。」と、おとこは、ねんのためにいました。
    「この時計とけいは、幾年いくねんたっても、くるうようなことはございません。」と、番頭ばんとうこたえました。
    おとこは、これをってかえれば、むらのものたちが、みんなにやってくるとおもって、その時計とけいって大事だいじにしてむりかえりました。
    もう一人ひとり金持かねもちが、べつ時計とけいまちからってきたといううわさがむらにたつと、はたして、みんながやってきました。
    青空文庫より

  • 萩柚月朗読、銭形平次捕物控 城の絵図面 









    錢形平次捕物控
    城の繪圖面
    野村胡堂

    「親分、大變な野郎が來ましたぜ」
     ガラツ八の八五郎は、拇指おやゆびで自分の肩越しに指し乍ら、入口の方へ頤あごをしやくつて見せます。
    「大變な野郎――?」
     錢形の平次は、岡つ引には過ぎた物の本に吸付いて、顏を擧げようともしません。
    「二本差りやんこが二人――」
    「馬鹿野郎、御武家を野郎呼ばはりする奴があるものか、無禮討にされても俺の知つたことぢやないぜ」
    「でもね親分、立派なお武家が二人、敷居を舐なめるやうにして、――平次殿御在宿ならば御目にかゝりたい、主人姓名の儀は仔細あつて申兼ねるが、拙者は石津右門いしづうもん、大垣伊右衞門と申すもの――てやがる。まるでお芝居だね、へツ、へツ、へツ、へツ」
     ガラツ八は、箍たがの拔けた桶をけのやうに、手の付けやうのない馬鹿笑ひをするのです。
    「御身分の方だらう、丁寧にお通し申すんだ。――その馬鹿笑ひだけなんとか片附けろ、呆れた野郎だ」
     小言をいひ乍ら平次は、取散らかした部屋の中を片附けて、少し煎餅せんべいになつた座蒲團を二枚、上座らしい方角へ直します。
    「これは、平次殿か、飛んだ邪魔をいたす。拙者は石津右門――」
    「拙者は大垣伊右衞門と申す者」
     二人の武家は開き直つて挨拶するのです。――石津右門といふのは、五十前後の鬼が霍亂くわくらんを思つたやうな惡相の武家、眼も鼻も口も大きい上に、澁紙しぶがみ色の皮膚、山のやうな兩肩、身扮みなりも、腰の物も、代表型テイピカルな淺黄あさぎ裏のくせに、聲だけは妙に物優しく、折目正しい言葉にも、女のやうな柔かい響があります。
     大垣伊右衞門といふのは、それより四つ五つ若く、これは美男と言つてもいゝでせう、秀ひいでた眉、高い鼻、少し大きいが紅い唇、謠うたひの地があるらしい錆さびを含んだ聲、口上も江戸前でハキハキして居ります。
    「私が平次でございますが――御用は?」
     平次は靜かに顏をあげました。
    「外ではない。町方の御用を勤める平次殿には、筋違ひの仕事であらうが、人間二人三人の命に係はる大事、折入つて頼みたいことがあつて參つた――」
     石津右門は口を切るのです。
    「拙者はさる大藩の國家老、こゝに居られる大垣殿は江戸の御留守居ぢや。耻を申さねば判らぬが、三日前、當江戸上屋敷に、不測ふそくの大事が起り、拙者と大垣殿は既に腹まで掻切らうといたしたが、一藩の興廢こうはいに拘かゝはる大事、一人や二人腹を切つて濟むことではない。――兎やかう思案の果、さる人から平次殿の大名たいめいを承はり、良き智慧を拜借に參つたやうなわけぢや――」
     四角几帳面きちやうめんな話、聽いて居るだけでも肩の凝りさうなのを、ガラツ八はたまり兼ねて次の間へ避難しました。――平次殿の大名――から――良き智慧を拜借――が可笑しかつたのです。
    「旦那、お言葉中でございますが、あつしは町方の御用聞で、御武家や御大名方の紛紜いざこざに立ち入るわけには參りません。承はる前に、それはお斷り申上げた方が宜しいやうで――」
     平次が尻ごみしたのも無理はありません。腹を切り損ねて飛込んで來た武家などには、どうも附き合ひ切れないと思つたのです。石津右門の辭色じしよくは、何樣以て容易のことではなかつたのでした
    青空文庫より

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