西村俊彦

  • 「猫とモミの木」前編 語り喜多川拓郎 倉沢はすみ作

    「猫とモミの木」後編 語り喜多川拓郎 倉沢はすみ作

    猫とモミの木

    キャスト キャラクター紹介

     

  • 渡辺温「シルクハット」西村俊彦 萩柚月 二宮隆朗読

    シルクハット

    渡辺温

     私も中村も給料が十円ずつ上がった。
    私は私のかぶり古した山高帽子を中村に十円で譲って、そしてそれに十五円足して、シルクハットを買った。
    青年時代に一度、シルクハットをかぶってみたい――と、私は永いことそう思っていた。シルクハットのもつ贅沢な[#「贅沢な」は底本では「贄沢な」]気品を、自分の頭の上に載せて見たくてたまらなかった。
    私は天鵞絨びろうどの小さなクッションで幾度もシルクハットのけばを撫でた。帽子舗の店さきの明るい花電燈を照り返している鏡の中で、シルクハットは却々なかなかよく私に似合った。
    また中村は自分の古ぼけた黒羅紗の帽子をカバンの中へおし込んで、山高帽子を冠った。ムッソリニのような顔に見えた。
    私共は、それから、行きつけの港の、砂浜にあるパブリック・ホテルへ女を買いに出かけた。その日は私共の給料日で私共は乏しい収入をさいて、月にたった一度だけ女を楽しむことにきめていたのである。
    シルクハットは果してホテルの女たちをおどろかした。私の女はとりわけ眼を瞠って、むしろドギマギしたように私を見た。彼女は一月の中に見違うばかり蒼くやつれてしまっていた。もとから病気持ちらしい彼女だったので、屹度ひどい病いでもしたのであろう。
    彼女は私と共に踊りながら、息を切らして、果は身慄いした。私はそれで、すぐに踊るのをやめることにした。小さい女は私の膝に腰かけた。
    「苦しそうだね。」と私はきいてみた。
    「もうよろしいの。――でも、死ぬかも知れませんわ。」女は嗄がれた声で答えた。
    中村は、なじみの男刈りにした肥っちょの娘と、独逸麦酒ドイツビールをしこたま飲んだあとで、アルゼンチン・タンゴを怪しげな身振りで踊っていた。その娘は眉根の※(「山+険のつくり」、第3水準1-47-78)しい悪党みたいな人相だったが、中村はいっそそこが気に入ったと云うのであった。
    寝室に入る前に、私達はめいめい金を払う。
    私は紙入れを女の目の前で、いっぱい開けて見せながら「今夜は未だ大分金があるぞ。」と云った。月々の部屋代と食費と洋服代との全部であった。女は背のびをして、紙幣の数をのぞきこむと、「まあ――」と云って笑った。
    女は少しばかり元気になったのかも知れなかった。
    女の部屋に入って、寝る時、女は枕元の活動役者の写真をべたべた貼りつけた壁に、私のシルクハットをそっと掛けて、そしてさて手を合せて拝む真似をした。シルクハットの地と云うものは、物がふれると直ぐケバ立ってしまうので、女は非常にこわごわと取扱わなければならなかった。

  • 芥川龍之介「カルメン」西村俊彦 岡田慎平 二宮隆朗読

    カルメン

    芥川龍之介

     革命ぜんだったか、革命後だったか、――いや、あれは革命前ではない。なぜまた革命前ではないかと言えば、僕は当時小耳こみみはさんだダンチェンコの洒落しゃれを覚えているからである。
    ある蒸し暑いあまもよいの、舞台監督のT君は、帝劇ていげき露台バルコニーたたずみながら、炭酸水たんさんすいのコップを片手に詩人のダンチェンコと話していた。あの亜麻色あまいろの髪の毛をした盲目もうもく詩人のダンチェンコとである。
    「これもやっぱり時勢ですね。はるばる露西亜ロシアのグランド・オペラが日本の東京へやって来ると言うのは。」
    「それはボルシェヴィッキはカゲキ派ですから。」
    この問答のあったのは確か初日から五日いつか目の晩、――カルメンが舞台へ登った晩である。僕はカルメンにふんするはずのイイナ・ブルスカアヤに夢中になっていた。イイナは目の大きい、小鼻の張った、肉感の強い女である。僕は勿論カルメンにふんするイイナをることを楽しみにしていた、が、第一幕が上ったのを見ると、カルメンに扮したのはイイナではない。水色の目をした、鼻の高い、なんとか云う貧相ひんそうな女優である。僕はT君と同じボックスにタキシイドの胸を並べながら、落胆らくたんしないわけには行かなかった。
    「カルメンは僕等のイイナじゃないね。」
    「イイナは今夜は休みだそうだ。その原因がまたすこぶるロマンティックでね。――」
    「どうしたんだ?」
    なんとか云う旧帝国の侯爵こうしゃくが一人、イイナのあとを追っかけて来てね、おととい東京へ着いたんだそうだ。ところがイイナはいつのまにか亜米利加アメリカ人の商人の世話になっている。そいつを見た侯爵は絶望したんだね、ゆうべホテルの自分の部屋で首をくくって死んじまったんだそうだ。」
    僕はこの話を聞いているうちに、ある場景じょうけいを思い出した。それはけたホテルの一室に大勢おおぜい男女なんにょかこまれたまま、トランプをもてあそんでいるイイナである。黒と赤との着物を着たイイナはジプシイうらないをしていると見え、T君にほほみかけながら、「今度はあなたのうんを見て上げましょう」と言った。(あるいは言ったのだと云うことである。ダア以外の露西亜ロシア語を知らない僕は勿論十二箇国の言葉に通じたT君に翻訳して貰うほかはない。)それからトランプをまくって見たのち、「あなたはあの人よりも幸福ですよ。あなたの愛する人と結婚出来ます」と言った。あの人と云うのはイイナの側に誰かと話していた露西亜ロシア人である。僕は不幸にも「あの人」の顔だの服装だのを覚えていない。わずかに僕が覚えているのは胸にしていた石竹せきちくだけである。イイナの愛を失ったために首をくくって死んだと云うのはあの晩の「あの人」ではなかったであろうか?……
    「それじゃ今夜は出ないはずだ。」
    い加減に外へ出て一杯いっぱいやるか?」
    T君も勿論イイナ党である。
    「まあ、もう一幕見て行こうじゃないか?」
    僕等がダンチェンコと話したりしたのは恐らくはこの幕合まくあいだったのであろう。
    次の幕も僕等には退屈だった。しかし僕等が席についてまだ五分とたたないうちに外国人が五六人ちょうど僕等の正面に当る向う側のボックスへはいって来た。しかも彼等のまっ先に立ったのはまぎれもないイイナ・ブルスカアヤである。イイナはボックスの一番前に坐り、孔雀くじゃくの羽根の扇を使いながら、悠々と舞台を眺め出した。のみならず同伴の外国人の男女なんにょと(その中には必ず彼女の檀那だんなの亜米利加人もまじっていたのであろう。)愉快そうに笑ったり話したりし出した。
    「イイナだね。」
    「うん、イイナだ。」
    僕等はとうとう最後の幕まで、――カルメンの死骸しがいようしたホセが、「カルメン! カルメン!」と慟哭どうこくするまで僕等のボックスを離れなかった。それは勿論舞台よりもイイナ・ブルスカアヤを見ていたためである。この男を殺したことを何とも思っていないらしい露西亜のカルメンを見ていたためである。

    ×          ×          ×

    それから二三日たったある晩、僕はあるレストランの隅にT君とテエブルを囲んでいた。
    「君はイイナがあの晩以来、確か左の薬指くすりゆび繃帯ほうたいしていたのに気がついているかい?」
    「そう云えば繃帯していたようだね。」
    「イイナはあの晩ホテルへ帰ると、……」
    駄目だめだよ、君、それを飲んじゃ。」
    僕はT君に注意した。薄い光のさしたグラスの中にはまだ小さい黄金虫こがねむしが一匹、仰向あおむけになってもがいていた。T君は白葡萄酒しろぶどうしゅゆかへこぼし、妙な顔をしてつけ加えた。
    「皿を壁へ叩きつけてね、そのまた欠片かけらをカスタネットの代りにしてね、指から血の出るのもかまわずにね、……」
    「カルメンのように踊ったのかい?」
    そこへ僕等の興奮とは全然つり合わない顔をした、頭の白い給仕が一人、静にさけの皿を運んで来た。……

  • 泉鏡太郎「鳥影」西村俊彦朗読

  • 中島敦「盈虚」西村俊彦朗読

    盈虚

    中島敦

     えいの霊公の三十九年と云う年の秋に、太子※(「萠+りっとう」、第3水準1-91-14)※(「耳+貴」、第4水準2-85-14)かいがいが父の命を受けてせいに使したことがある。みちに宋の国を過ぎた時、畑に耕す農夫共が妙な唄を歌うのを聞いた。

    既定爾婁豬
    盍帰吾艾※(「豕+暇のつくり」、第4水準2-89-3)
    牝豚はたしかに遣った故
    早く牡豚を返すべし

    衛の太子はこれを聞くと顔色を変えた。思い当ることがあったのである。
    父・霊公の夫人(といっても太子の母ではない)南子なんしは宋の国から来ている。容色よりもむしの才気で以てすっかり霊公をまるめ込んでいるのだが、此の夫人が最近霊公に勧め、宋から公子朝という者を呼んで衛の大夫に任じさせた。宋朝は有名な美男である。衛に嫁ぐ以前の南子と醜関係があったことは、霊公以外の誰一人として知らぬ者は無い。二人の関係は今衛の公宮で再び殆どおおっぴらに続けられている。宋の野人の歌うた牝豚牡豚とは、疑いもなく、南子と宋朝とを指しているのである。
    太子は斉から帰ると、側臣の戯陽速ぎようそくを呼んで事をはかった。翌日、太子が南子夫人に挨拶に出た時、戯陽速は既に匕首あいくちを呑んで室の一隅の幕の陰に隠れていた。さりげなく話をしながら太子は幕の陰に目くばせをする。急に臆したものか、刺客は出て来ない。三度合図をしても、ただ黒い幕がごそごそ揺れるばかりである。太子の妙なそぶりに夫人は気が付いた。太子の視線を辿り、室の一隅に怪しい者の潜んでいるを知ると、夫人は悲鳴を挙げて奥へ跳び込んだ。其の声に驚いて霊公が出て来る。夫人の手を執って落着けようとするが、夫人は唯狂気のように「太子がわたしを殺します。太子が妾を殺します」と繰返すばかりである。霊公は兵を召して太子を討たせようとする。其の時分には太子も刺客もうに都を遠く逃げ出していた。
    宋にはしり、続いてしんに逃れた太子※(「萠+りっとう」、第3水準1-91-14)※(「耳+貴」、第4水準2-85-14)かいがいは、人毎に語って言った。淫婦刺殺という折角せっかくの義挙も臆病な莫迦ばか者の裏切によって失敗したと。これも矢張衛から出奔した戯陽速が此の言葉を伝え聞いて、う酬いた。とんでもない。こちらの方こそ、すんでの事に太子に裏切られる所だったのだ。太子は私を脅して、自分の義母を殺させようとした。承知しなければ屹度きっと私が殺されたに違いないし、もし夫人を巧く殺せたら、今度は必ず其の罪をなすりつけられるに決っている。私が太子の言を承諾して、しかも実行しなかったのは、深謀遠慮の結果なのだと。

  • 中島敦「妖氛録」西村俊彦朗読

  • 西村俊彦田中智之朗読「指輪」江戸川乱歩

    A 失礼ですが、いつかも汽車で御一緒になった様ですね。
    B これは御見おみそれ申しました。そういえば、私も思い出しましたよ。やっぱりこの線でしたね。
    A あの時は飛んだ御災難でした。
    B いや、お言葉で痛み入ります。私もあの時はどうしようかと思いましたよ。
    A あなたが、私の隣の席へいらしったのは、あれはK駅を過ぎて間もなくでしたね。あなたは、一袋の蜜柑みかんを、スーツケースと一緒に下げて来られましたね。そしてその蜜柑を私にも勧めて下さいましたっけね。……実を申しますとね。私は、あなたを変に慣れ慣れしい方だと思わないではいられませんでしたよ。
    B そうでしょう、私はあの日はほんとうにどうかしていましたよ。
    A そうこうしている内に、隣の一等車の方から、興奮した人達がドヤドヤと這入はいって来ましたね。そして、その内の一人の貴婦人が一緒にやって来た車掌にあなたの方を指して何かささやきましたね。
    B あなたはよく覚えていらっしゃる、車掌に「一寸ちょっと君、失敬ですが」と云われた時には変な気がしましたよ。よく聞いて見ると、私はその貴婦人のダイヤの指環ゆびわったてんですから、驚きましたね。
    A でも、あなたの態度は中々お立派でしたよ。「馬鹿な事をってはいけない。そりゃ人違いだろう。何なら私の身体をしらべて見るがいい」なんて、一寸あれけの落着いた台詞せりふは云えないもんですよ。
    B おだてるもんじゃありません。
    A 車掌なんてものは、ああした事に慣れていると見えて、中々抜目なく検査しましたっけね。貴婦人の旦那という男も、うるさくあなたの身体をおもちゃにしたじゃありませんか。でも、あんなに厳重に検べても、とうとう品物は出ませんでしたね、みんなのあやまり様たらありませんでした。ほんとに痛快でした。
    B 疑いがはれても、乗客が皆、妙な目附で私の方を見るのには閉口しました。
    A しかし、不思議ですね。とうとうあの指環は出て来なかったというじゃありませんか。どうも、不思議ですね。
    B …………
    A …………
    B ハハハハハハ。オイ、いい加減にしらばくれっこは止そうじゃねえか。この通り誰も聞いているものはいやしねえ。いつまでも、左様然さようしからばでもあるまいじゃないか。
    A フン、ではやっぱりそうだったのかね。
    B おめえも中々隅へは置けないよ。あの時、俺がソッと窓から投げ出した蜜柑のことを一言も云わないで、見当をつけて置いて、後から拾いに出掛けるなんざあ、どうして、玄人くろうとだよ。
    A 成程、俺は随分すばしっこく立廻った積りだ。それが、ちゃんとおめえに先手を打たれているんだからかなわねえ。俺が拾ったのはただの腐れ蜜柑が五つよ。
    B 俺が窓から投げたのも五つだったぜ。
    A 馬鹿云いねえ。あの五つは皆無傷だった。指環を抜き取った跡なんかありゃしなかったぜ。いわくつきの奴あ、ちゃんとおめえが先廻りして拾っちまったんだろう。
    B ハハハハハハ。はからんや、そうじゃねえんだからお笑い草だ。
    A オヤ、これはおかしい。じゃ、何の為にあの蜜柑を窓からほうり出したんだね。
    B まあ考えても見ねえ。折角せっかく命懸けで頂戴した品物をよ。仮令たとい蜜柑の中へ押込んだとしてもよ。誰に拾われるか分りもしねえ線路のわきなぞへ抛られるものかね。おめえがノコノコ拾いに行くまで元の所に落ちていたなぞは、飛んだ不思議と云うもんだ。
    A それじゃやっぱり蜜柑を抛った訳が分らないじゃないか。
    B まあ聞きねえ、こういう訳だ。あの時は少々どじを踏んでね、亭主野郎に勘ぐられてしまったものだから、こいつは危いと大慌てに慌てて逃げ出したんだ。どうする暇もありゃしねえ。だが、おめえの隣の席まで来て様子を見ると、急に追っかけて来る様でもねえ。さては車掌に知らせているんだな、こいつは愈々いよいよ油断がならねえと気が気じゃないんだが、さて一件の物をどう始末したらいいのか、咄嗟の場合で日頃自慢の智慧も出ねえ。恥しい話だが、ただもうイライラしちまってね。
    A なる程。
    B すると、フッとうまい事を考えついたんだ。というのが、例の蜜柑の一件さ。よもやおめえが、あれを見て黙っていようたあ思わなかったんだ。きっと手柄顔てがらがお吹聴ふいちょうするに違いない。そうして俺が蜜柑の袋を投げたと分りゃ、皆の頭がそっちへ向かうというもんじゃねえか。蜜柑の中へ品物をしのばせて置いて後から拾いに行くなんざあ古い手だからね。誰だって感づかあね。そうなるてえと、仮令検べるにしてからが、この男はもう品物を持っちゃいねえと云う頭で検べるんだから、自然おろそかにもなろうてもんだ。ね、分ったかね。
    A 成程、考えやがったな。こいつあ一杯喰わされたね。
    B ところが、おめえが知って居ながらなんとも云い出さねえ。今に云うか今に云うかと待ち構えていても、ウンともスンとも口を利かねえ。とうとう身体検査の段取りになっても、まだ黙っていやあがる。俺あ「さては」と思ったね「こいつは飛んだ食わせものだぞ。このままソッとして置いて、後から拾いに行こうと思っていやがる」あの場合だが、俺あおかしくなったね。
    A フフン、ざまあねえ……だが待ちねえ。するってえと、おめえはあれを一体どこへ隠したんだね。車掌の奴随分際どい所まで検べやあがった。口の中から耳の穴までくまなく検べたが、でも、とうとう見つからなかったじゃないか。
    B お前も随分お目出度めでてえ野郎だな。
    A はてね。こいつは面妖めんようだね。こうなるてえと、俺あどうも聞かずにゃ置かれねえ。そう勿体ぶらねえで、後学の為に御伝授に預かり度いもんだね。
    B ハハハ……まあいいよ。
    A よかあねえ、そうらすもんじゃねえやな。俺にゃどうも本当とは受取れねえからな。
    B 嘘だと思われちゃしゃくだから、じゃ話すがね。怒っちゃいけないよ。実はね、おめえが腰に下げていた煙草たばこ入れの底へソッとしのばせて置いたのさ。それにしても、あの時お前の身体はまるで隙だらけだったぜ。ハハハハハハ、エ、いつその指環を取戻したかって、いうまでもねえ、おめえが、早く蜜柑を拾いに行こうと、大慌てで開札口を出る時によ。

  • 西村俊彦朗読「黄粱夢」芥川龍之介

    黄粱夢

    芥川龍之介

    盧生ろせいは死ぬのだと思った。目の前が暗くなって、子や孫のすすり泣く声が、だんだん遠い所へ消えてしまう。そうして、眼に見えない分銅ふんどうが足の先へついてでもいるように、体が下へ下へと沈んで行く――と思うと、急にはっと何かに驚かされて、思わず眼を大きく開いた。
    すると枕もとには依然として、道士どうし呂翁ろおうが坐っている。主人のかしいでいたきびも、いまだに熟さないらしい。盧生は青磁の枕から頭をあげると、眼をこすりながら大きな欠伸あくびをした。邯鄲かんたんの秋の午後は、落葉おちばした木々のこずえを照らす日の光があってもうすら寒い。
    「眼がさめましたね。」呂翁は、ひげを噛みながら、えみを噛み殺すような顔をして云った。
    「ええ」
    「夢をみましたろう。」
    「見ました。」
    「どんな夢を見ました。」
    「何でも大へん長い夢です。始めは清河せいか崔氏さいしむすめと一しょになりました。うつくしいつつましやかな女だったような気がします。そうしてあくる年、進士しんしの試験に及第して、渭南いなんになりました。それから、監察御史かんさつぎょし起居舎人ききょしゃじん知制誥ちせいこうを経て、とんとん拍子に中書門下ちゅうしょもんか平章事へいしょうじになりましたが、ざんを受けてあぶなく殺される所をやっと助かって、驩州かんしゅうへ流される事になりました。そこにかれこれ五六年もいましたろう。やがて、えんすすぐ事が出来たおかげでまた召還され、中書令ちゅうしょれいになり、燕国公えんこくこうに封ぜられましたが、その時はもういい年だったかと思います。子が五人に、孫が何十人とありましたから。」
    「それから、どうしました。」
    「死にました。確か八十を越していたように覚えていますが。」
    呂翁ろおうは、得意らしく髭を撫でた。
    「では、寵辱ちょうじょくの道も窮達きゅうたつの運も、一通りは味わって来た訳ですね。それは結構な事でした。生きると云う事は、あなたの見た夢といくらも変っているものではありません。これであなたの人生の執着しゅうじゃくも、熱がさめたでしょう。得喪とくそうの理も死生の情も知って見れば、つまらないものなのです。そうではありませんか。」
    盧生ろせいは、じれったそうに呂翁のことばを聞いていたが、相手が念を押すと共に、青年らしい顔をあげて、眼をかがやかせながら、こう云った。
    「夢だから、なお生きたいのです。あの夢のさめたように、この夢もさめる時が来るでしょう。その時が来るまでの間、わたしは真に生きたと云えるほど生きたいのです。あなたはそう思いませんか。」
    呂翁は顔をしかめたまま、しかりともいなとも答えなかった。

     

  • 西村俊彦朗読悟浄歎異―沙門悟浄の手記―中島敦

    昼餉ひるげののち、師父しふが道ばたの松の樹の下でしばらくいこうておられる間、悟空ごくう八戒はっかいを近くの原っぱに連出して、変身の術の練習をさせていた。
    「やってみろ!」と悟空が言う。「りゅうになりたいとほんとうに思うんだ。いいか。ほんとうにだぜ。この上なしの、突きつめた気持で、そう思うんだ。ほかの雑念はみんなててだよ。いいか。本気にだぜ。この上なしの・とことんの・本気にだぜ。」
    「よし!」と八戒は眼を閉じ、いんを結んだ。八戒の姿が消え、五尺ばかりの青大将あおだいしょうが現われた。そばで見ていたおれは思わず吹出してしまった。
    「ばか! 青大将にしかなれないのか!」と悟空がしかった。青大将が消えて八戒が現われた。「だめだよ、おれは。まったくどうしてかな?」と八戒は面目なげに鼻を鳴らした。
    「だめだめ。てんで気持がらないんじゃないか、お前は。もう一度やってみろ。いいか。真剣に、かけ値なしの真剣になって、竜になりたい竜になりたいと思うんだ。竜になりたいという気持だけになって、お前というものが消えてしまえばいいんだ。」
    よし、もう一度と八戒は印を結ぶ。今度は前と違って奇怪なものが現われた。錦蛇にしきへびには違いないが、小さな前肢まえあしが生えていて、大蜥蜴おおとかげのようでもある。しかし、腹部は八戒自身に似てブヨブヨふくれており、短い前肢で二、三歩うと、なんとも言えない無恰好ぶかっこうさであった。俺はまたゲラゲラ笑えてきた。
    「もういい。もういい。めろ!」と悟空が怒鳴る。頭をき掻き八戒が現われる。

    悟空。お前の竜になりたいという気持が、まだまだ突きつめていないからだ。だからだめなんだ。
    八戒。そんなことはない。これほど一生懸命に、竜になりたい竜になりたいと思いつめているんだぜ。こんなに強く、こんなにひたむきに。
    悟空。お前にそれができないということが、つまり、お前の気持の統一がまだ成っていないということになるんだ。
    八戒。そりゃひどいよ。それは結果論じゃないか。
    悟空。なるほどね。結果からだけ見て原因を批判することは、けっして最上のやり方じゃないさ。しかし、この世では、どうやらそれがいちばん実際的に確かな方法のようだぜ。今のお前の場合なんか、明らかにそうだからな。

    西村俊彦朗読「山月記」中島敦

  • 『ジャンナ』 %ef%bd%88%ef%bd%90%e3%82%a6%e3%83%a9%e9%ab%98%e7%94%bb%e8%b3%aa

    創造集団池小
    『ジャンナ』
    作:アレクサンドル・ガーリン
    訳:堀江新二
    演出:鈴木龍男
    出演:渡辺美英子、前原礼子、西村俊彦、山田タケシ
    日程:2016年12月1日(木)~4日(日)

    短編動画にも出演しています。


    『Doppelgänger —ドッペルゲンガー』
    作・演出:森慶太
    出演:西村俊彦