喜多川拓郎

  • 江戸川乱歩「妻に失恋した男」 朗読カフェ喜多川拓郎朗読 


    21.27

    日本文学

  • 江戸川乱歩「木馬は廻る」 朗読カフェ喜多川拓郎朗読

    39.53 May 21, 2019

  • 宮沢賢治「紫紺染について」 朗読カフェ喜多川拓郎朗読

    17.58 May 13, 2019

  • 宮沢賢治「鳥箱先生とフウねずみ」 喜多川拓郎 朗読

  • 夏目漱石 夢十夜 第四夜 喜多川拓郎朗読

    7.03 May 29, 2018

    第四夜

    広い土間の真中に涼み台のようなものをえて、その周囲まわりに小さい床几しょうぎが並べてある。台は黒光りに光っている。片隅かたすみには四角なぜんを前に置いてじいさんが一人で酒を飲んでいる。さかなは煮しめらしい。
    爺さんは酒の加減でなかなか赤くなっている。その上顔中つやつやしてしわと云うほどのものはどこにも見当らない。ただ白いひげをありたけやしているから年寄としよりと云う事だけはわかる。自分は子供ながら、この爺さんの年はいくつなんだろうと思った。ところへ裏のかけひから手桶ておけに水をんで来たかみさんが、前垂まえだれで手をきながら、
    「御爺さんはいくつかね」と聞いた。爺さんは頬張ほおばった煮〆にしめみ込んで、
    「いくつか忘れたよ」と澄ましていた。神さんは拭いた手を、細い帯の間にはさんで横から爺さんの顔を見て立っていた。爺さんは茶碗ちゃわんのような大きなもので酒をぐいと飲んで、そうして、ふうと長い息を白い髯の間から吹き出した。すると神さんが、
    「御爺さんのうちはどこかね」と聞いた。爺さんは長い息を途中で切って、
    へその奥だよ」と云った。神さんは手を細い帯の間に突込つっこんだまま、
    「どこへ行くかね」とまた聞いた。すると爺さんが、また茶碗のような大きなもので熱い酒をぐいと飲んで前のような息をふうと吹いて、
    「あっちへ行くよ」と云った。
    真直まっすぐかい」と神さんが聞いた時、ふうと吹いた息が、障子しょうじを通り越して柳の下を抜けて、河原かわらの方へ真直まっすぐに行った。
    爺さんが表へ出た。自分もあとから出た。爺さんの腰に小さい瓢箪ひょうたんがぶら下がっている。肩から四角な箱をわきの下へ釣るしている。浅黄あさぎ股引ももひき穿いて、浅黄の袖無そでなしを着ている。足袋たびだけが黄色い。何だか皮で作った足袋のように見えた。
    爺さんが真直に柳の下まで来た。柳の下に子供が三四人いた。爺さんは笑いながら腰から浅黄の手拭てぬぐいを出した。それを肝心綯かんじんよりのように細長くった。そうして地面じびたの真中に置いた。それから手拭の周囲まわりに、大きな丸い輪をいた。しまいに肩にかけた箱の中から真鍮しんちゅうこしらえた飴屋あめやふえを出した。
    「今にその手拭がへびになるから、見ておろう。見ておろう」と繰返くりかえして云った。
    子供は一生懸命に手拭を見ていた。自分も見ていた。
    「見ておろう、見ておろう、好いか」と云いながら爺さんが笛を吹いて、輪の上をぐるぐる廻り出した。自分は手拭ばかり見ていた。けれども手拭はいっこう動かなかった。
    爺さんは笛をぴいぴい吹いた。そうして輪の上を何遍も廻った。草鞋わらじ爪立つまだてるように、抜足をするように、手拭に遠慮をするように、廻った。こわそうにも見えた。面白そうにもあった。
    やがて爺さんは笛をぴたりとやめた。そうして、肩に掛けた箱の口を開けて、手拭の首を、ちょいとつまんで、ぽっとほうんだ。
    「こうしておくと、箱の中でへびになる。今に見せてやる。今に見せてやる」と云いながら、爺さんが真直に歩き出した。柳の下を抜けて、細い路を真直に下りて行った。自分は蛇が見たいから、細い道をどこまでもいて行った。爺さんは時々「今になる」と云ったり、「蛇になる」と云ったりして歩いて行く。しまいには、
    「今になる、蛇になる、
    きっとなる、笛が鳴る、」
    うたいながら、とうとう河の岸へ出た。橋も舟もないから、ここで休んで箱の中の蛇を見せるだろうと思っていると、爺さんはざぶざぶ河の中へ這入はいり出した。始めはひざくらいの深さであったが、だんだん腰から、胸の方まで水につかって見えなくなる。それでも爺さんは
    「深くなる、夜になる、
    真直になる」
    と唄いながら、どこまでも真直に歩いて行った。そうしてひげも顔も頭も頭巾ずきんもまるで見えなくなってしまった。
    自分は爺さんが向岸むこうぎしへ上がった時に、蛇を見せるだろうと思って、あしの鳴る所に立って、たった一人いつまでも待っていた。けれども爺さんは、とうとう上がって来なかった。

    青空文庫より

  • 宮沢賢治「クンねずみ」喜多川拓郎朗読

    20.90
    Apr 06, 2018

    クねずみ

    宮沢賢治

    クという名前のねずみがありました。たいへん高慢でそれにそねみ深くって、自分をねずみの仲間の一番の学者と思っていました。ほかのねずみが何か生意気なことを言うとエヘンエヘンと言うのが癖でした。
    クねずみのうちへ、ある日、友だちのタねずみがやって来ました。
    さてタねずみはクねずみに言いました。
    今日こんにちは、クさん。いいお天気です。」
    「いいお天気です。何かいいものを見つけましたか。」
    「いいえ。どうも不景気ですね。どうでしょう。これからの景気は。」
    「さあ、あなたはどう思いますか。」
    「そうですね。しかしだんだんよくなるのじゃないでしょうか。オウベイのキンユウはしだいにヒッパクをテイしたそう……。」
    「エヘン、エヘン。」いきなりクねずみが大きなせきばらいをしましたので、タねずみはびっくりして飛びあがりました。クねずみは横を向いたまま、ひげを一つぴんとひねって、それから口の中で、
    「ヘイ、それから。」と言いました。
    タねずみはやっと安心してまたおひざに手を置いてすわりました。
    クねずみもやっとまっすぐを向いて言いました。
    せんころの地震にはおどろきましたね。」
    「全くです。」
    「あんな大きいのは私もはじめてですよ。」
    「ええ、ジョウカドウでしたねえ。シンゲンはなんでもトウケイ四十二度二分ナンイ……。」
    「エヘン、エヘン。」
    クねずみはまたどなりました。
    タねずみはまためんくらいましたが、さっきほどではありませんでした。
    クねずみはやっと気を直して言いました。
    「天気もよくなりましたね。あなたは何かうまい仕掛けをしておきましたか。」
    「いいえ、なんにもしておきません。しかし、今度天気が長くつづいたら、私は少し畑の方へ出てみようと思うんです。」
    「畑には何かいいことがありますか。」
    「秋ですからとにかく何かこぼれているだろうと思います。天気さえよければいいのですがね。」
    「どうでしょう。天気はいいでしょうか。」
    「そうですね、新聞に出ていましたが、オキナワレットウにハッセイしたテイキアツは次第にホクホクセイのほうへシンコウ……。」
    「エヘン、エヘン。」クねずみはまたいやなせきばらいをやりましたので、タねずみはこんどというこんどはすっかりびっくりして半分立ちあがって、ぶるぶるふるえて目をパチパチさせて、黙りこんでしまいました。
    クねずみは横の方を向いて、おひげをひっぱりながら、横目でタねずみの顔を見ていましたが、ずうっとしばらくたってから、あらんかぎり声をひくくして、
    「へい。そして。」と言いました。ところがタねずみはもうすっかりこわくなって物が言えませんでしたから、にわかに一つていねいにおじぎをしました。そしてまるで細いかすれた声で、
    「さよなら。」と言ってクねずみのおうちを出て行きました。
    クねずみは、そこであおむけにねころんで、
    「ねずみ競争新聞」を手にとってひろげながら、
    「ヘッ。タなどはなってないんだ。」とひとりごとを言いました。
    さて、「ねずみ競争新聞」というのは実にいい新聞です。これを読むと、ねずみ仲間の競争のことはなんでもわかるのでした。ペねずみが、たくさんとうもろこしのつぶをぬすみためて、大砂糖持ちのパねずみと意地ばりの競争をしていることでも、ハねずみヒねずみフねずみの三匹のむすめねずみが学問の競争をやって、比例の問題まで来たとき、とうとう三匹とも頭がペチンと裂けたことでも、なんでもすっかり出ているのでした。
    さあ、さあ、みなさん。失礼ですが、クねずみのきょうの新聞を読むのを、お聞きなさい。
    「ええと、カマジン国の飛行機、プハラを襲うと。なるほどえらいね。これはたいへんだ。まあしかし、ここまでは来ないから大丈夫だ。ええと、ツェねずみの行くえ不明。ツェねずみというのはあの意地わるだな。こいつはおもしろい。
    天井裏街一番地、ツェ氏は昨夜行くえ不明となりたり。本社のいちはやく探知するところによればツェ氏は数日前よりはりがねせいねずみとり氏と交際を結びおりしが一昨夜に至りて両氏の間に多少感情の衝突ありたるもののごとし。台所街四番地ネ氏の談によれば昨夜もツェ氏は、はりがねせいねずみとり氏を訪問したるがごとし、と。なお床下通り二十九番地ポ氏は、昨夜深更より今朝にかけて、ツェ氏並びにはりがねせいねずみとり氏の激しき争論、時に格闘の声を聞きたりと。以上を総合するに、本事件には、はりがねせいねずみとり氏、最も深き関係を有するがごとし。本社はさらに深く事件の真相を探知の上、大いにはりがねせいねずみとり氏に筆誅ひっちゅうを加えんと欲す。と。ははは、ふん、これはもう疑いもない。ツェのやつめ、ねずみとりに食われたんだ。おもしろい。そのつぎはと。なんだ、ええと、新任ねずみ会議員テ氏。エヘン、エヘン。エン。エッヘン。ヴェイヴェイ。なんだちくしょう。テなどがねずみ会議員だなんて。えい、おもしろくない。おれでもすればいいんだ。えい。おもしろくもない、散歩に出よう。」
    そこでクねずみは散歩に出ました。そしてプンプンおこりながら、天井裏街の方へ行く途中で、二匹のむかでが親孝行の蜘蛛くもの話をしているのを聞きました。
    「ほんとうにね、そうはできないもんだよ。」
    「ええ、ええ、全くですよ。それにあの子は、自分もどこかからだが悪いんですよ。それだのにね、朝は二時ごろから起きて薬を飲ませたり、おかゆをたいてやったり、夜だって寝るのはいつもおそいでしょう。たいてい三時ごろでしょう。ほんとうにからだがやすまるってないんでしょう。感心ですねえ。」
    「ほんとうにあんな心がけのいい子は今ごろあり……。」
    「エヘン、エヘン。」と、いきなりクねずみはどなって、おひげを横の方へひっぱりました。
    むかではびっくりして、はなしもなにもそこそこに別れて逃げて行ってしまいました。
    クねずみはそれからだんだん天井裏街の方へのぼって行きました。天井裏街のガランとした広い通りでは、ねずみ会議員のテねずみがもう一ぴきのねずみとはなしていました。
    クねずみはこわれたちり取りのかげで立ちぎきをしておりました。
    テねずみが、
    「それで、その、わたしの考えではね、どうしてもこれは、その、共同一致、団結、和睦わぼくの、セイシンで、やらんと、いかんね。」と言いました。
    クねずみは、
    「エヘン、エヘン。」と聞こえないようにせきばらいをしました。相手のねずみは、「へい。」と言って考えているようです。
    テねずみははなしをつづけました。
    「もしそうでないとすると、つまりその、世界のシンポハッタツ、カイゼンカイリョウがそのつまりテイタイするね。」
    「エン、エン、エイ、エイ。」クねずみはまたひくくせきばらいをしました。
    相手のねずみは、「へい。」と言って考えています。
    「そこで、その、世界文明のシンポハッタツ、カイリョウカイゼンがテイタイすると、政治はもちろんケイザイ、ノウギョウ、ジツギョウ、コウギョウ、キョウイク、ビジュツそれからチョウコク、カイガ、それからブンガク、シバイ、ええと、エンゲキ、ゲイジュツ、ゴラク、そのほかタイイクなどが、ハッハッハ、たいへんそのどうもわるくなるね。」テねずみはむつかしいことをあまりたくさん言ったので、もう愉快でたまらないようでした。クねずみはそれがまたむやみにしゃくにさわって、「エン、エン。」と聞こえないように、そしてできるだけ高くせきばらいをやって、にぎりこぶしをかためました。
    相手のねずみはやはり「へい。」と言っております。
    テねずみはまたはじめました。
    「そこでそのケイザイやゴラクが悪くなるというと、不平を生じてブンレツを起こすというケッカにホウチャクするね。そうなるのは実にそのわれわれのシンガイでフホンイであるから、やはりその、ものごとは共同一致団結和睦のセイシンでやらんといかんね。」
    クねずみはあんまりテねずみのことばが立派で、議論がうまくできているのがしゃくにさわって、とうとうあらんかぎり、
    「エヘン、エヘン。」とやってしまいました。するとテねずみはぶるるっとふるえて、目を閉じて、小さく小さくちぢまりましたが、だんだんそろりそろりと延びて、そおっと目をあいて、それから大声で叫びました。
    「こいつは、ブンレツだぞ。ブンレツ者だ。しばれ、しばれ。」と叫びました。すると相手のねずみは、まるでつぶてのようにクねずみに飛びかかってねずみのなわを出して、クルクルしばってしまいました。
    クねずみはくやしくてくやしくてなみだが出ましたが、どうしてもかないそうがありませんでしたから、しばらくじっとしておりました。するとテねずみは紙切れを出してするするするっと何か書いて捕り手のねずみに渡しました。
    捕り手のねずみは、しばられてごろごろころがっているクねずみの前に来て、すてきにおごそかな声でそれを読みはじめました。
    「クねずみはブンレツ者によりて、みんなの前にて暗殺すべし。」クねずみは声をあげてチュウチュウ泣きました。
    「さあ、ブンレツ者。あるけ、早く。」と、捕り手のねずみは言いました。さあ、そこでクねずみはすっかり恐れ入ってしおしおと立ちあがりました。あっちからもこっちからもねずみがみんな集まって来て、
    「どうもいい気味だね。いつでもエヘンエヘンと言ってばかりいたやつなんだ。」
    「やっぱり分裂していたんだ。」
    「あいつが死んだらほんとうにせいせいするだろうね。」というような声ばかりです。
    捕り手のねずみは、いよいよ白いたすきをかけて、暗殺のしたくをはじめました。
    その時みんなのうしろの方で、フウフウと言うひどい音が聞こえ、二つの目玉が火のように光って来ました。それは例の猫大将ねこたいしょうでした。
    「ワーッ。」とねずみはみんなちりぢり四方に逃げました。
    「逃がさんぞ。コラッ。」と猫大将はその一匹を追いかけましたが、もうせまいすきまへずうっと深くもぐり込んでしまったので、いくら猫大将が手をのばしてもとどきませんでした。
    猫大将は「チェッ。」と舌打ちをして戻って来ましたが、クねずみのただ一匹しばられて残っているのを見て、びっくりして言いました。
    「貴様はなんと言うものだ。」クねずみはもう落ち着いて答えました。
    「クと申します。」
    「フ、フ、そうか、なぜこんなにしているんだ。」
    「暗殺されるためです。」
    「フ、フ、フ。そうか。それはかあいそうだ。よしよし、おれが引き受けてやろう。おれのうちへ来い。ちょうどおれのうちでは、子供が四人できて、それに家庭教師がなくて困っているところなんだ。来い。」
    猫大将はのそのそ歩きだしました。
    クねずみはこわごわあとについて行きました。猫のおうちはどうもそれは立派なもんでした。紫色の竹で編んであって中はわらや布きれでホクホクしていました。おまけにちゃあんとご飯を入れる道具さえあったのです。
    そしてその中に、猫大将ねこたいしょうの子供が四人、やっと目をあいて、にゃあにゃあと鳴いておりました。
    猫大将は子供らを一つずつなめてやってから言いました。
    「お前たちはもう学問をしないといけない。ここへ先生をたのんで来たからな。よく習うんだよ。決して先生を食べてしまったりしてはいかんぞ。」
    子供らはよろこんでニヤニヤ笑って口々に、
    「おとうさん、ありがとう。きっと習うよ。先生を食べてしまったりしないよ。」と言いました。
    クねずみはどうも思わず足がブルブルしました。
    猫大将が言いました。
    「教えてやってくれ。おもに算術をな。」
    「へい。しょう、しょう、承知いたしました。」とクねずみが答えました。
    猫大将はきげんよくニャーと鳴いてするりと向こうへ行ってしまいました。
    子供らが叫びました。
    「先生、早く算術を教えてください。先生。早く。」
    クねずみはさあ、これはいよいよ教えないといかんと思いましたので、口早に言いました。
    「一に一をたすと二です。」
    「そうだよ。」子供らが言いました。
    「一から一を引くとなんにもなくなります。」
    「わかったよ。」
    子供らが叫びました。
    「一に一をかけると一です。」
    「きまってるよ。」と猫の子供らが目をりんと張ったまま答えました。
    「一を一で割ると一です。」
    「それでいいよ。」と猫の子供らがよろこんで叫びました。そこでクねずみはすっかりのぼせてしまいました。
    「一に二をたすと三です。」
    「合ってるよ。」
    「一から二を引くと……」と言おうとしてクねずみは、はっとつまってしまいました。
    すると猫の子供らは一度に叫びました。
    「一から二は引かれないよ。」
    クねずみはあんまり猫の子供らがかしこいので、すっかりむしゃくしゃして、また早口に言いました。そうでしょう。クねずみはいちばんはじめの一に一をたして二をおぼえるのに半年かかったのです。
    「一に二をかけると二です。」
    「そうともさ。」
    「一を二で割ると……。」クねずみはまたつまってしまいました。すると猫の子供らはまた一度に声をそろえて、
    「一割る二では半分だよ。」と叫びました。
    クねずみはあんまりねこの子供らの賢いのがしゃくにさわって、思わず「エヘン。エヘン。エイ。エイ。」
    とやりました。すると猫の子供らは、しばらくびっくりしたように、顔を見合わせていましたが、やがてみんな一度に立ちあがって、
    「なんだい。ねずめ、人をそねみやがったな。」と言いながらクねずみの足を一ぴきが一つずつかじりました。
    クねずみは非常にあわててばたばたして、急いで「エヘン、エヘン、エイ、エイ。」とやりましたがもういけませんでした。
    クねずみはだんだん四方の足から食われて行って、とうとうおしまいに四ひきの子猫は、クねずみの胃ののところで頭をコツンとぶっつけました。
    そこへ猫大将が帰って来て、
    「何か習ったか。」とききました。
    「ねずみをとることです。」と四ひきがいっしょに答えました。

     

  • 宮沢賢治 「氷河鼠の毛皮」 喜多川拓郎朗読

    25.23
    Mar 26, 2018

    このおはなしは、ずゐぶん北の方の寒いところからきれぎれに風に吹きとばされて来たのです。氷がひとでや海月くらげやさまざまのお菓子の形をしてゐる位寒い北の方から飛ばされてやつて来たのです。
    十二月の二十六日の夜八時ベーリング行の列車に乗つてイーハトヴをつた人たちが、どんなにあつたかきつとどなたも知りたいでせう。これはそのおはなしです。

    ×

    ぜんたい十二月の二十六日はイーハトヴはひどい吹雪でした。町の空や通りはまるつきり白だか水色だか変にばさ/\した雪の粉でいつぱい、風はひつきりなしに電線や枯れたポプラを鳴らし、からすなども半分凍つたやうになつてふら/\と空を流されて行きました。たゞ、まあ、その中から馬そりの鈴のチリンチリン鳴る音が、やつと聞えるのでやつぱりたれか通つてゐるなといふことがわかるのでした。
    ところがそんなひどい吹雪でも夜の八時になつて停車場に行つて見ますと暖炉の火は愉快に赤く燃えあがり、ベーリング行の最大急行に乗る人たちはもうその前にまつ黒に立つてゐました。
    何せ北極のぢき近くまで行くのですからみんなはすつかり用意してゐました。着物はまるで厚い壁のくらゐ着込み、馬油を塗つた長靴ながぐつをはきトランクにまで寒さでひびが入らないやうに馬油を塗つてみんなほう/\してゐました。
    汽罐車きくわんしやはもうすつかり支度ができて暖さうな湯気を吐き、客車にはみな明るく電燈がともり、赤いカーテンもおろされて、プラツトホームにまつすぐにならびました。
    『ベーリング行、午後八時発車、ベーリング行。』一人の駅夫が高く叫びながら待合室に入つて来ました。
    すぐ改札のベルが鳴りみんなはわい/\切符を切つてもらつてトランクや袋を車の中にかつぎ込みました。
    間もなくパリパリ呼子が鳴り汽罐車は一つポーとほえて、汽車は一目散に飛び出しました。何せベーリング行の最大急行ですから実にはやいもんです。見る間にそのおしまひの二つの赤い火が灰いろの夜のふゞきの中に消えてしまひました。こゝまではたしかに私も知つてゐます。

    ×

    列車がイーハトヴの停車場をはなれて荷物がたなや腰掛の下に片附き、席がすつかりきまりますとみんなはまづつくづくと同じ車の人たちの顔つきを見まはしました。
    一つの車には十五人ばかりの旅客が乗つてゐましたがそのまん中には顔の赤いふとつた紳士がどつしりと腰掛けてゐました。その人は毛皮を一杯に着込んで、二人前の席をとり、アラスカ金の大きな指環ゆびわをはめ、十連発のぴかぴかする素敵な鉄砲を持つていかにも元気さう、声もきつとよほどがらがらしてゐるにちがひないと思はれたのです。
    近くにはやつぱり似たやうななりの紳士たちがめいめい眼鏡めがねを外したり時計を見たりしてゐました。どの人も大へん立派でしたがまん中の人にくらべては少しやせてゐました。向ふのすみには痩た赤ひげの人が北極狐ほくきよくぎつねのやうにきよとんとすまして腰を掛けこちらのはすかひの窓のそばにはかたい帆布はんぷの上着を着て愉快さうに自分にだけ聞えるやうなかすかな口笛を吹いてゐる若い船乗りらしい男が乗つてゐました。そのほか痩てまゆも深く刻み陰気な顔を外套ぐわいたうのえりに埋てゐる人さつぱり何でもないといふやうにもうねむりはじめた商人風の人など三四人りました。

    ×

    汽車は時々素通りする停車場の踏切でがたつと横にゆれながら一生けん命ふゞきの中をかけました。しかしその吹雪もだん/\をさまつたのかそれとも汽車が吹雪の地方を越したのか、まもなくみんなは外の方から空気にしつけられるやうな気がし、もう外では雪が降つてゐないといふやうに思ひました。黄いろな帆布の青年は立つて自分の窓のカーテンを上げました。そのカーテンのうしろには湯気の凍り付いたぎらぎらの窓ガラスでした。たしかにその窓ガラスは変に青く光つてゐたのです。船乗りの青年はポケツトから小さなナイフを出してその窓の羊歯しだの葉の形をした氷をガリガリ削り落しました。
    削り取られた分の窓ガラスはつめたくて実によく透とほり向ふでは山脈の雪が耿々かうかうとひかり、その上の鉄いろをしたつめたい空にはまるでたつたいまみがきをかけたやうな青い月がすきつとかゝつてゐました。
    野原の雪は青じろく見え煙の影は夢のやうにかけたのです。唐檜たうひやとゞ松がまつ黒に立つてちらちら窓を過ぎて行きます。じつと外を見てゐる若者のくちびるは笑ふやうに又泣くやうにかすかにうごきました。それは何か月に話し掛けてゐるかとも思はれたのです。みんなもしんとして何か考へ込んでゐました。まん中の立派な紳士もまた鉄砲を手に持つて何か考へてゐます。けれどもにはかに紳士は立ちあがりました。鉄砲を大切にたなに載せました。それから大きな声で向ふの役人らしい葉巻をくはへてゐる紳士に話し掛けました。
    『何せ向ふは寒いだらうね。』
    向ふの紳士が答へました。
    『いや、それはもう当然です。いくら寒いと云つてもこつちのは相対的ですがなあ、あつちはもう絶対です。寒さがちがひます。』
    『あなたは何べん行つたね。』
    『私は今度二遍目ですが。』
    『どうだらう、わしの防寒の設備は大丈夫だらうか。』
    『どれ位ご支度なさいました。』
    『さあ、まあイーハトヴの冬の着物の上に、ラツコ裏の内外套うちぐわいたうね、海狸びばあの中外套ね、黒狐くろぎつね表裏の外外套ね。』
    『大丈夫でせう、ずゐぶんいゝお支度です。』
    『さうだらうか、それから北極兄弟商会パテントの緩慢燃焼外套ね………。』
    『大丈夫です』
    『それから氷河鼠ひようがねずみくびのとこの毛皮だけでこさへた上着ね。』
    『大丈夫です。しかし氷河鼠の頸のとこの毛皮はぜい沢ですな。』
    『四百五十ぴき分だ。どうだらう。こんなことで大丈夫だらうか。』
    『大丈夫です。』
    『わしはね、主に黒狐をとつて来るつもりなんだ。黒狐の毛皮九百枚持つて来てみせるといふかけをしたんだ。』
    『さうですか。えらいですな。』
    『どうだ。祝盃しゆくはいを一杯やらうか。』紳士はステームでだんだん暖まつて来たらしく外套を脱ぎながらウヱスキーのびんを出しました。
    すぢ向ひではさつきの青年が額をつめたいガラスにあてるばかりにして月とオリオンとの空をじつとながめ、向ふすみではあのやせ赤髯あかひげの男が眼をきよろきよろさせてみんなの話を聞きすまし、酒をみ出した紳士のまはりの人たちは少しうらやましさうにこの豪勢な北極近くまで猟に出かける暢気のんきな大将を見てゐました。

    ×

    毛皮外套をあんまり沢山もつた紳士はもうひとりの外套を沢山もつた紳士と喧嘩けんくわをしましたがそのあとの方の人はたうとう負て寝たふりをしてしまひました。
    紳士はそこでつゞけさまにウヰスキーの小さなコツプを十二ばかりやりましたらすつかり酔ひがまはつてもう目を細くしてくちびるをなめながらそこら中の人に見あたり次第くだを巻きはじめました。
    『ね、おい、氷河鼠の頸のところの毛皮だけだぜ。えゝ、氷河鼠の上等さ。君、君、百十六疋の分なんだ。君、君う見渡すといふと外套二枚ぐらゐのお方もずゐぶんあるやうだが外套二枚ぢやだめだねえ、君は三枚だからいいね、けれども、君、君、君のその外套ぐわいたうは全体それは毛ぢやないよ。君はさつきモロツコぎつねだとかつたねえ。どうしてどうしてちやんとわかるよ。それはほんとの毛ぢやないよ。ほんとの毛皮ぢやないんだよ』
    『失敬なことを云ふな。失敬な』
    『いゝや、ほんとのことを云ふがね、たしかにそれはにせものだ。絹糸でこしらへたんだ』
    『失敬なやつだ。君はそれでも紳士かい』
    『いゝよ。僕は紳士でもせり売屋でも何でもいゝ。君のその毛皮はにせものだ』
    野蕃やばんなやつだ。実に野蕃だ』
    『いゝよ。おこるなよ向ふへ行つて寒かつたら僕のとこへおいで』
    『頼まない』
    よその紳士はすつかりぶり/\してそれでもきまり悪さうにやはりうつ/\寝たふりをしました。
    氷河鼠ひようがねずみの上着をつた大将はくちびるをなめながらまはりを見まはした。
    『君、おい君、その窓のところのお若いの。失敬だが君は船乗りかね』
    若者はやつぱり外を見てゐました。月の下にはまつ白な蛋白石たんぱくせきのやうな雲の塊が走つて来るのです。
    『おい、君、何と云つても向ふは寒い、その帆布一枚ぢやとてもやり切れたもんぢやない。けれども君はなか/\豪儀なとこがある。よろしい貸てやらう。僕のを一枚貸てやらう。さうしよう』
    けれども若者はそんなげんが耳にも入らないといふやうでした。つめたく唇を結んでまるでオリオン座のとこの鋼いろの空の向ふを見透かすやうな眼をして外を見てゐました。
    『ふん。バースレーかね。黒狐だよ。なかなか寒いからね、おい、君若いお方、失敬だが外套を一枚お貸申すとしようぢやないか。黄いろの帆布一枚ぢやどうしてどうして零下の四十度を防ぐもなにもできやしない。黒狐だから。おい若いお方。君、君、おいなぜ返事せんか。無礼なやつだ君は我輩を知らんか。わしはねイーハトヴのタイチだよ。イーハトヴのタイチを知らんか。こんな汽車へ乗るんぢやなかつたな。わしの持船で出かけたらだまつて殿さまで通るんだ。ひとりで出掛けて黒狐を九百疋とつて見せるなんて下らないかけをしたもんさ』
    こんな馬鹿ばかげた大きな子供の酔どれをもうたれも相手にしませんでした。みんな眠るかねむる支度でした。きちんと起きてゐるのはさつきの窓のそばの一人の青年と客車のすみでしきりに鉛筆をなめながらきよときよと聴き耳をたてて何か書きつけてゐるあのやせ赤髯あかひげの男だけでした。
    『紅茶はいかゞですか。紅茶はいかゞですか』
    白服のボーイが大きな銀の盆に紅茶のコツプを十ばかり載せてしづかに大股おほまたにやつて来ました。
    『おい、紅茶をおくれ』イーハトヴのタイチが手をのばしました。ボーイはからだをかゞめてすばやく一つを渡し銀貨を一枚受け取りました。
    そのとき電燈がすうつと赤く暗くなりました。
    窓は月のあかりでまるで螺鈿らでんのやうに青びかりみんなの顔もにはかさびしく見えました。
    『まつくらでござんすなおばけが出さう』ボーイは少しかがんであの若い船乗りののぞいてゐる窓からちよつと外を見ながら云ひました。
    『おや、変な火が見えるぞ。たれかかがりをいてるな。をかしい』
    この時電燈がまたすつとつきボーイは又
    『紅茶はいかがですか』と云ひながら大股おほまたにそして恭しく向ふへ行きました。
    これが多分風の飛ばしてよこした切れ切れの報告の第五番目にあたるのだらうと思ひます。

    ×

    夜がすつかり明けて東側の窓がまばゆくまつ白に光り西側の窓が鈍い鉛色になつたとき汽車が俄にとまりました。みんな顔を見合せました。
    『どうしたんだらう。まだベーリングに着くはずがないし故障ができたんだらうか。』
    そのとき俄に外ががや/\してそれからいきなりとびらががたつと開き朝日はビールのやうにながれ込みました。赤ひげがまるで違つた物凄ものすごい顔をしてピカ/\するピストルをつきつけてはひつて来ました。
    そのあとから二十人ばかりのすさまじい顔つきをした人がどうもそれは人といふよりは白熊しろくまといつた方がいゝやうな、いや、白熊といふよりは雪狐ゆきぎつねと云つた方がいいやうなすてきにもく/\した毛皮を着た、いや、着たといふよりは毛皮で皮ができてるというた方がいゝやうな、ものが変な仮面をかぶつたりえり巻を眼まで上げたりしてまつ白ないきをふう/\吐きながら大きなピストルをみんな握つて車室の中にはひつて来ました。
    先登の赤ひげは腰かけにうつむいてまだねむつてゐたゆふべの偉らい紳士を指さして云ひました。
    『こいつがイーハトヴのタイチだ。ふらちなやつだ。イーハトヴの冬の着物の上にねラツコ裏の内外套うちぐわいたう海狸びばあの中外套と黒狐裏表の外外套を着ようといふんだ。おまけにパテント外套と氷河鼠ひようがねずみくびのとこの毛皮だけでこさへた上着も着ようといふやつだ。これから黒狐の毛皮九百枚とるとぬかすんだ、たたき起せ。』
    二番目の黒と白のぶちの仮面をかぶつた男がタイチの首すぢをつかんで引きずり起しました。残りのものは油断なく車室中にピストルを向けてにらみつけてゐました。
    三番目のが云ひました。
    『おい、立て、きさまこいつだなあの電気網をテルマの岸に張らせやがつたやつは。連れてかう』
    『うん、立て。さあ立ていやなつらをしてるなあさあ立て』
    紳士は引つたてられて泣きました。ドアがあけてあるのでへやの中はにはかに寒くあつちでもこつちでもクシヤンクシヤンとまじめ腐つたくしやみの声がしました。
    二番目がしつかりタイチをつかまへて引つぱつて行かうとしますと三番目のはまだ立つたまゝきよろきよろ車中を見まはしました。
    ほかにはないか。そこのとこに居るやつも毛皮の外套ぐわいたうを三枚持つてるぞ』
    『ちがふちがふ』赤ひげはせはしく手を振つて云ひました。『ちがふよ。あれはほんとの毛皮ぢやない絹糸でこさへたんだ』
    『さうか』
    ゆふべのその外套をほんとのモロツコぎつねだと云つた人は変な顔をしてしやちほこばつてゐました。
    『よし、さあでは引きあげ、おいたれでもおれたちがこの車を出ないうちに一寸ちよつとでも動いたやつは胸にスポンと穴をあけるから、さう思へ』
    その連中はぢりぢりとあと退ずさりして出て行きました。
    そして一人づつだんだん出て行つておしまひ赤ひげがこつちへピストルを向けながらせなかでタイチを押すやうにして出て行かうとしました。タイチは髪をばちやばちやにして口をびくびくまげながら前からはひつぱられうしろからは押されてもうとびらの外へ出さうになりました。
    にはかに窓のとこに居た帆布の上着の青年がまるで天井にぶつつかる位のろしのやうに飛びあがりました。
    ズドン。ピストルが鳴りました。落ちたのはたゞの黄いろの上着だけでした。と思つたらあの赤ひげがもう足をすくつて倒され青年はふとつた紳士を又車室の中に引つぱり込んで右手には赤ひげのピストルを握つてすごい顔をして立つてゐました。
    赤ひげがやつと立ちあがりましたら青年はしつかりそのえり首をつかみピストルを胸につきつけながら外の方へ向いて高く叫びました。
    『おい、くまども。きさまらのしたことはもつともだ。けれどもなおれたちだつて仕方ない。生きてゐるにはきものも着なけあいけないんだ。おまへたちが魚をとるやうなもんだぜ。けれどもあんまり無法なことはこれから気を付けるやうに云ふから今度はゆるしてれ。ちよつと汽車が動いたらおれの捕虜にしたこの男は返すから』
    『わかつたよ。すぐ動かすよ』外で熊どもが叫びました。
    『レールを横の方へ敷いたんだな』誰かが云ひました。
    氷ががりがり鳴つたりばたばたかけまはる音がしたりして汽車は動き出しました。
    『さあけがをしないやうに降りるんだ』船乗りが云ひました。赤ひげは笑つてちよつと船乗りの手を握つて飛び降りました。
    『そら、ピストル』船乗りはピストルを窓の外へはふり出しました。
    『あの赤ひげはくまの方の間諜かんてふだつたね』たれかが云ひました。わかものは又窓の氷を削りました。
    氷山のかどが桃色や青やぎらぎら光つて窓の外にぞろつとならんでゐたのです。これが風のとばしてよこしたお話のおしまひの一切れです。

  • 芥川龍之介「トロッコ」 喜多川拓郎朗読

    19.40
    Mar 15, 2018

    トロッコ

    芥川龍之介

    小田原熱海あたみ間に、軽便鉄道敷設ふせつの工事が始まったのは、良平りょうへいの八つの年だった。良平は毎日村はずれへ、その工事を見物に行った。工事を――といったところが、ただトロッコで土を運搬する――それが面白さに見に行ったのである。
    トロッコの上には土工が二人、土を積んだうしろたたずんでいる。トロッコは山をくだるのだから、人手を借りずに走って来る。あおるように車台が動いたり、土工の袢天はんてんすそがひらついたり、細い線路がしなったり――良平はそんなけしきをながめながら、土工になりたいと思う事がある。せめては一度でも土工と一しょに、トロッコへ乗りたいと思う事もある。トロッコは村外れの平地へ来ると、自然と其処そこに止まってしまう。と同時に土工たちは、身軽にトロッコを飛び降りるが早いか、その線路の終点へ車の土をぶちまける。それから今度はトロッコを押し押し、もと来た山の方へ登り始める。良平はその時乗れないまでも、押す事さえ出来たらと思うのである。
    ある夕方、――それは二月の初旬だった。良平は二つ下の弟や、弟と同じ年の隣の子供と、トロッコの置いてある村外れへ行った。トロッコは泥だらけになったまま、薄明るい中に並んでいる。が、そのほか何処どこを見ても、土工たちの姿は見えなかった。三人の子供は恐る恐る、一番はしにあるトロッコを押した。トロッコは三人の力がそろうと、突然ごろりと車輪をまわした。良平はこの音にひやりとした。しかし二度目の車輪の音は、もう彼を驚かさなかった。ごろり、ごろり、――トロッコはそう云う音と共に、三人の手に押されながら、そろそろ線路を登って行った。
    その内にかれこれ十けん程来ると、線路の勾配こうばいが急になり出した。トロッコも三人の力では、いくら押しても動かなくなった。どうかすれば車と一しょに、押し戻されそうにもなる事がある。良平はもういと思ったから、年下の二人に合図をした。
    「さあ、乗ろう!」
    彼等は一度に手をはなすと、トロッコの上へ飛び乗った。トロッコは最初おもむろに、それから見る見るいきおいよく、一息に線路をくだり出した。その途端につき当りの風景は、たちまち両側へ分かれるように、ずんずん目の前へ展開して来る。顔に当る薄暮はくぼの風、足の下におどるトロッコの動揺、――良平はほとん有頂天うちょうてんになった。
    しかしトロッコは二三分ののち、もうもとの終点に止まっていた。
    「さあ、もう一度押すじゃあ」
    良平は年下の二人と一しょに、又トロッコを押し上げにかかった。が、まだ車輪も動かない内に、突然彼等のうしろには、誰かの足音が聞え出した。のみならずそれは聞え出したと思うと、急にこう云う怒鳴り声に変った。
    「この野郎! 誰にことわってトロにさわった?」
    其処には古い印袢天しるしばんてんに、季節外れの麦藁帽むぎわらぼうをかぶった、背の高い土工が佇んでいる。――そう云う姿が目にはいった時、良平は年下の二人と一しょに、もう五六間逃げ出していた。――それぎり良平は使の帰りに、人気のない工事場のトロッコを見ても、二度と乗って見ようと思った事はない。唯その時の土工の姿は、今でも良平の頭の何処かに、はっきりした記憶を残している。薄明りの中にほのめいた、小さい黄色の麦藁帽、――しかしその記憶さえも、年毎としごとに色彩は薄れるらしい。
    そののち十日余りたってから、良平は又たった一人、ひる過ぎの工事場に佇みながら、トロッコの来るのを眺めていた。すると土を積んだトロッコのほかに、枕木まくらぎを積んだトロッコが一りょう、これは本線になるはずの、太い線路を登って来た。このトロッコを押しているのは、二人とも若い男だった。良平は彼等を見た時から、何だか親しみやすいような気がした。「この人たちならばしかられない」――彼はそう思いながら、トロッコのそばけて行った。
    「おじさん。押してやろうか?」
    その中の一人、――しまのシャツを着ている男は、俯向うつむきにトロッコを押したまま、思った通り快い返事をした。
    「おお、押してくよう
    良平は二人の間にはいると、力一杯押し始めた。
    われ中中なかなか力があるな」
    の一人、――耳に巻煙草まきたばこはさんだ男も、こう良平をめてくれた。
    その内に線路の勾配は、だんだん楽になり始めた。「もう押さなくともい」――良平は今にも云われるかと内心気がかりでならなかった。が、若い二人の土工は、前よりも腰を起したぎり、黙黙と車を押し続けていた。良平はとうとうこらえ切れずに、ずこんな事を尋ねて見た。
    何時いつまでも押していてい?」
    「好いとも」
    二人は同時に返事をした。良平は「優しい人たちだ」と思った。
    五六町余り押し続けたら、線路はもう一度急勾配になった。其処には両側の蜜柑畑みかんばたけに、黄色い実がいくつも日を受けている。
    「登りみちの方が好い、何時いつまでも押させてくれるから」――良平はそんな事を考えながら、全身でトロッコを押すようにした。
    蜜柑畑の間を登りつめると、急に線路はくだりになった。縞のシャツを着ている男は、良平に「やい、乗れ」と云った。良平はすぐに飛び乗った。トロッコは三人が乗り移ると同時に、蜜柑畑の※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)においあおりながら、ひたすべりに線路を走り出した。「押すよりも乗る方がずっと好い」――良平は羽織に風をはらませながら、当り前の事を考えた。「行きに押す所が多ければ、帰りに又乗る所が多い」――そうもまた考えたりした。
    竹藪たけやぶのある所へ来ると、トロッコは静かに走るのをめた。三人は又前のように、重いトロッコを押し始めた。竹藪は何時か雑木林になった。爪先つまさき上りの所所ところどころには、赤錆あかさびの線路も見えない程、落葉のたまっている場所もあった。その路をやっと登り切ったら、今度は高いがけの向うに、広広と薄ら寒い海が開けた。と同時に良平の頭には、余り遠く来過ぎた事が、急にはっきりと感じられた。
    三人は又トロッコへ乗った。車は海を右にしながら、雑木の枝の下を走って行った。しかし良平はさっきのように、面白い気もちにはなれなかった。「もう帰ってくれればい」――彼はそうも念じて見た。が、行く所まで行きつかなければ、トロッコも彼等も帰れない事は、勿論もちろん彼にもわかり切っていた。
    その次に車の止まったのは、切崩きりくずした山を背負っている、藁屋根の茶店の前だった。二人の土工はその店へはいると、乳呑児ちのみごをおぶったかみさんを相手に、悠悠ゆうゆうと茶などを飲み始めた。良平はひとりいらいらしながら、トロッコのまわりをまわって見た。トロッコには頑丈がんじょうな車台の板に、ねかえった泥がかわいていた。
    少時しばらくのち茶店を出て来しなに、巻煙草を耳にはさんだ男は、(その時はもう挟んでいなかったが)トロッコの側にいる良平に新聞紙に包んだ駄菓子をくれた。良平は冷淡に「難有ありがとう」と云った。が、すぐに冷淡にしては、相手にすまないと思い直した。彼はその冷淡さを取り繕うように、包み菓子の一つを口へ入れた。菓子には新聞紙にあったらしい、石油の※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)がしみついていた。
    三人はトロッコを押しながらゆるい傾斜を登って行った。良平は車に手をかけていても、心はほかの事を考えていた。
    その坂を向うへり切ると、又同じような茶店があった。土工たちがその中へはいったあと、良平はトロッコに腰をかけながら、帰る事ばかり気にしていた。茶店の前には花のさいた梅に、西日の光が消えかかっている。「もう日が暮れる」――彼はそう考えると、ぼんやり腰かけてもいられなかった。トロッコの車輪をって見たり、一人では動かないのを承知しながらうんうんそれを押して見たり、――そんな事に気もちを紛らせていた。
    ところが土工たちは出て来ると、車の上の枕木まくらぎに手をかけながら、無造作むぞうさに彼にこう云った。
    われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだから」
    「あんまり帰りが遅くなるとわれうちでも心配するずら
    良平は一瞬間呆気あっけにとられた。もうかれこれ暗くなる事、去年の暮母と岩村まで来たが、今日のみちはその三四倍ある事、それを今からたった一人、歩いて帰らなければならない事、――そう云う事が一時にわかったのである。良平はほとんど泣きそうになった。が、泣いても仕方がないと思った。泣いている場合ではないとも思った。彼は若い二人の土工に、取って附けたような御時宜おじぎをすると、どんどん線路伝いに走り出した。
    良平は少時しばらく無我夢中に線路の側を走り続けた。その内にふところの菓子包みが、邪魔になる事に気がついたから、それを路側みちばたり出す次手ついでに、板草履いたぞうりも其処へ脱ぎ捨ててしまった。すると薄い足袋たびの裏へじかに小石が食いこんだが、足だけははるかに軽くなった。彼は左に海を感じながら、急な坂路さかみちけ登った。時時涙がこみ上げて来ると、自然に顔がゆがんで来る。――それは無理に我慢しても、鼻だけは絶えずくうくう鳴った。
    竹藪の側を駈け抜けると、夕焼けのした日金山ひがねやまの空も、もう火照ほてりが消えかかっていた。良平は、いよいよ気が気でなかった。きとかえりと変るせいか、景色の違うのも不安だった。すると今度は着物までも、汗のれ通ったのが気になったから、やはり必死に駈け続けたなり、羽織を路側みちばたへ脱いで捨てた。
    蜜柑畑へ来る頃には、あたりは暗くなる一方だった。「命さえ助かれば――」良平はそう思いながら、すべってもつまずいても走って行った。
    やっと遠い夕闇ゆうやみの中に、村外れの工事場が見えた時、良平は一思いに泣きたくなった。しかしその時もべそはかいたが、とうとう泣かずに駈け続けた。
    彼の村へはいって見ると、もう両側の家家には、電燈の光がさし合っていた。良平はその電燈の光に、頭から汗の湯気ゆげの立つのが、彼自身にもはっきりわかった。井戸端に水をんでいる女衆おんなしゅうや、畑から帰って来る男衆おとこしゅうは、良平があえぎ喘ぎ走るのを見ては、「おいどうしたね?」などと声をかけた。が、彼は無言のまま、雑貨屋だの床屋だの、明るい家の前を走り過ぎた。
    彼のうち門口かどぐちへ駈けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。その泣き声は彼の周囲まわりへ、一時に父や母を集まらせた。ことに母は何とか云いながら、良平の体をかかえるようにした。が、良平は手足をもがきながら、すすり上げ啜り上げ泣き続けた。その声が余り激しかったせいか、近所の女衆も三四人、薄暗い門口へ集って来た。父母は勿論その人たちは、口口に彼の泣くわけを尋ねた。しかし彼は何と云われても泣き立てるより外に仕方がなかった。あの遠い路を駈け通して来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない気もちに迫られながら、…………
    良平は二十六の年、妻子さいしと一しょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆しゅふでを握っている。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然何の理由もないのに?――塵労じんろうに疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。…………

  • 宮沢賢治 「ツェねずみ」朗読 喜多川拓郎

    Feb 18, 2018

    ツェねずみ

    宮沢賢治

     ある古い家の、まっくらな天井裏に、「ツェ」という名まえのねずみがすんでいました。
    ある日ツェねずみは、きょろきょろ四方を見まわしながら、床下街道ゆかしたかいどうを歩いていますと、向こうからいたちが、何かいいものをたくさんもって、風のように走って参りました。そしてツェねずみを見て、ちょっとたちどまって早口に言いました。
    「おい、ツェねずみ。お前んとこの戸棚とだなの穴から、金米糖こんぺいとうがばらばらこぼれているぜ。早く行ってひろいな。」
    ツェねずみは、もうひげもぴくぴくするくらいよろこんで、いたちにはお礼も言わずに、いっさんにそっちへ走って行きました。ところが戸棚の下まで来たとき、いきなり足がチクリとしました。そして、「止まれ、だれかっ。」と言う小さな鋭い声がします。
    ツェねずみはびっくりしてよく見ますと、それはありでした。蟻の兵隊は、もう金米糖のまわりに四重の非常線を張って、みんな黒いまさかりをふりかざしています。二三十匹は金米糖を片っぱしから砕いたり、とかしたりして、巣へはこぶしたくです。ツェねずみはぶるぶるふるえてしまいました。
    「ここから内へはいってならん。早く帰れ。帰れ、帰れ。」蟻の特務曹長とくむそうちょうが、低い太い声で言いました。
    ねずみはくるっと一つまわって、いちもくさんに天井裏へかけあがりました。そして巣の中へはいって、しばらくねころんでいましたが、どうもおもしろくなくて、おもしろくなくて、たまりません。ありはまあ兵隊だし、強いからしかたもないが、あのおとなしいいたちめに教えられて、戸棚とだなの下まで走って行ってあり曹長そうちょうにけんつくを食うとは、なんたるしゃくにさわることだとツェねずみは考えました。そこでねずみは巣からまたちょろちょろはい出して、木小屋の奥のいたちの家にやって参りました。
    いたちはちょうど、とうもろこしのつぶを、歯でこつこつかんで粉にしていましたが、ツェねずみを見て言いました。
    「どうだ。金米糖がなかったかい。」
    「いたちさん。ずいぶんお前もひどい人だね。わたしのような弱いものをだますなんて。」
    「だましゃせん。たしかにあったのや。」
    「あるにはあっても、もう蟻が来てましたよ。」
    「蟻が、へい。そうかい。早いやつらだね。」
    「みんな蟻がとってしまいましたよ。私のような弱いものをだますなんて、まどうてください。償うてください。」
    「それはしかたない。お前の行きようが少しおそかったのや。」
    「知らん、知らん。私のような弱いものをだまして。償うてください。償うてください。」
    「困ったやつだな。ひとの親切をさかさまにうらむとは。よしよし。そんならおれの金米糖をやろう。」
    「償うてください。償うてください。」
    「えい、それ。持って行け。てめえの持てるだけ持ってうせちまえ。てめえみたいな、ぐにゃぐにゃした男らしくもねえやつは、つらも見たくねえ。早く持てるだけ持ってどっかへうせろ。」いたちはプリプリして、金米糖を投げ出しました。ツェねずみはそれを持てるだけたくさんひろって、おじぎをしました。いたちはいよいよおこって叫びました。
    「えい、早く行ってしまえ。てめえの取った、のこりなんかうじむしにでもくれてやらあ。」
    ツェねずみは、いちもくさんに走って、天井裏の巣へもどって、金米糖をコチコチ食べました。
    こんなぐあいですから、ツェねずみはだんだんきらわれて、たれもあんまり相手にしなくなりました。そこでツェねずみはしかたなしに、こんどは、柱だの、こわれたちりとりだの、バケツだの、ほうきだのと交際をはじめました。中でも柱とは、いちばん仲よくしていました。
    柱がある日、ツェねずみに言いました。
    「ツェねずみさん、もうじき冬になるね。ぼくらはまたかわいてミリミリ言わなくちゃならない。お前さんも今のうちに、いい夜具のしたくをしておいた方がいいだろう。幸いぼくのすぐ頭の上に、すずめが春持って来た鳥の毛やいろいろ暖かいものがたくさんあるから、いまのうちに、すこしおろして運んでおいたらどうだい。ぼくの頭は、まあ少し寒くなるけれど、僕は僕でまたくふうをするから。」
    ツェねずみはもっともと思いましたので、さっそく、その日から運び方にかかりました。
    ところが、途中に急な坂が一つありましたので、ねずみは三度目に、そこからストンところげ落ちました。
    柱もびっくりして、
    「ねずみさん、けがはないかい。けがはないかい。」と一生けん命、からだを曲げながら言いました。ねずみはやっと起き上がって、それからかおをひどくしかめながら言いました。
    「柱さん。お前もずいぶんひどい人だ。僕のような弱いものをこんな目にあわすなんて。」
    柱はいかにも申しわけがないと思ったので、
    「ねずみさん、すまなかった。ゆるしてください。」と一生けん命わびました。
    ツェねずみは図にのって、
    「許してくれもないじゃないか。お前さえあんなこしゃくなさしずをしなければ、私はこんな痛い目にもあわなかったんだよ。まどっておくれ。償っておくれ。さあ、償っておくれよ。」
    「そんなことを言ったって困るじゃありませんか。許してくださいよ。」
    「いいや、弱いものをいじめるのは私はきらいなんだから、償っておくれ。償っておくれ。さあ、償っておくれ。」
    柱は困ってしまって、おいおい泣きました。そこでねずみも、しかたなく、巣へかえりました。それからは、柱はもうこわがって、ねずみに口をききませんでした。
    さてそののちのことですが、ちりとりはある日、ツェねずみに半分になった最中もなかを一つやりました。するとちょうどその次の日、ツェねずみはおなかが痛くなりました。さあ、いつものとおりツェねずみは、まどっておくれを百ばかりも、ちりとりに言いました。ちりとりもあきれて、もうねずみとの交際はやめました。
    また、そののちのことですが、ある日バケツはツェねずみに、せんたくソーダのかけらをすこしやって、
    「これで毎朝お顔をお洗いなさい。」と言いましたら、ねずみはよろこんで次の日から、毎日それで顔を洗っていましたが、そのうちにねずみのおひげが十本ばかり抜けました。さあツェねずみは、さっそくバケツへやって来て、まどっておくれ償っておくれを、二百五十ばかり言いました。しかしあいにくバケツにはおひげもありませんでしたし、償うわけにも行かず、すっかり参ってしまって、泣いてあやまりました。そして、もうそれからは、ちょっとも口をききませんでした。
    道具仲間は、みんな順ぐりにこんなめにあって、こりてしまいましたので、ついにはだれもツェねずみの顔を見るといそいでわきの方を向いてしまうのでした。
    ところがその道具仲間に、ただ一人だけ、まだツェねずみとつきあってみないものがありました。
    それは針がねを編んでこさえたねずみりでした。
    ねずみ捕りは全体、人間の味方なはずですが、ちかごろは、どうも毎日の新聞にさえ、ねこといっしょにお払い物という札をつけた絵にまでして、広告されるのですし、そうでなくても、元来人間は、この針金のねずみ捕りを、一ぺんも優待したことはありませんでした。ええ、それはもうたしかにありませんとも。それに、さもさわるのさえきたないようにみんなから思われています。それですから実は、ねずみ捕りは人間よりはねずみの方に、よけい同情があるのです。けれども、たいていのねずみはなかなかこわがって、そばへやって参りません。ねずみ捕りは、毎日やさしい声で、
    「ねずちゃん、おいで。今夜のごちそうはあじのおつむだよ。お前さんの食べる間、わたしはしっかり押えておいてあげるから。ね、安心しておいで。入り口をパタンとしめるようなそんなことをするもんかね。わたしも人間にはもうこりこりしてるんだから。おいでよ。そら。」
    なんてねずみを呼びかけますが、ねずみはみんな、
    「へん、うまく言ってらあ。」とか、
    「へい、へい。よくわかりましてございます。いずれ、おやじや、せがれとも相談の上で。」とか言ってそろそろ逃げて行ってしまいます。
    そして朝になると、顔のまっ下男げなんが来て見て、
    「またはいらない。ねずみももう知ってるんだな。ねずみの学校で教えるんだな。しかしまあもう一日だけかけてみよう。」と言いながら、新しいえさととりかえるのでした。
    今夜も、ねずみ捕りは叫びました。
    「おいでおいで。今夜はやわらかな半ぺんだよ。えさだけあげるよ。大丈夫さ。早くおいで。」
    ツェねずみが、ちょうど通りかかりました。そして、
    「おや、ねずみ捕りさん、ほんとうにえさだけをくださるんですか。」と言いました。
    「おや、お前は珍しいねずみだね。そうだよ。えさだけあげるんだよ。そら、早くお食べ。」
    ツェねずみはプイッと中にはいって、むちゃむちゃむちゃっと半ぺんを食べて、またプイッと外へ出て言いました。
    「おいしかったよ。ありがとう。」
    「そうかい。よかったね。またあすの晩おいで。」
    次の朝、下男が来て見ておこって言いました。
    「えい。えさだけとって行きやがった。ずるいねずみだな。しかしとにかく中にはいったというのは感心だ。そら、きょうはいわしだぞ。」
    そして鰯を半分つけて行きました。
    ねずみ捕りは、鰯をひっかけて、せっかくツェねずみの来るのを待っていました。
    夜になって、ツェねずみはすぐ出て来ました。そしていかにも恩に着せたように、
    「今晩は、お約束どおり来てあげましたよ。」と言いました。
    ねずみ捕りは少しむっとしたが、無理にこらえて、
    「さあ、食べなさい。」とだけ言いました。
    ツェねずみはプイッとはいって、ピチャピチャピチャッと食べて、またプイッと出て来て、それから大風おおふうに言いました。
    「じゃ、あした、また、来て食べてあげるからね。」
    「ブウ。」とねずみ捕りは答えました。
    次の朝、下男が来て見て、ますますおこって言いました。
    「えい。ずるいねずみだ。しかし、毎晩、そんなにうまくえさだけ取られるはずがない。どうも、このねずみ捕りめは、ねずみからわいろをもらったらしいぞ。」
    「もらわん。もらわん。あんまり人を見そこなうな。」とねずみ捕りはどなりましたが、もちろん、下男の耳には聞こえません。きょうも腐った半ぺんをくっつけていきました。
    ねずみ捕りは、とんだ疑いを受けたので、一日ぷんぷんおこっていました。夜になりました。ツェねずみが出て来て、さも大儀たいぎらしく言いました。
    「あああ、毎日ここまでやって来るのも、並みたいていのこっちゃない。それにごちそうといったら、せいぜいさかなの頭だ。いやになっちまう。しかしまあ、せっかく来たんだからしかたない。食ってやるとしようか。ねずみ捕りさん。今晩は。」
    ねずみ捕りは、はりがねをぷりぷりさせておこっていましたので、ただ一こと、
    「お食べ。」と言いました。ツェねずみはすぐプイッと飛びこみましたが、半ぺんのくさっているのを見て、おこって叫びました、。
    「ねずみとりさん。あんまりひどいや。この半ぺんはくさってます。僕のような弱いものをだますなんて、あんまりだ。まどってください。償ってください。」
    ねずみ捕りは、思わず、はり金をりゅうりゅうと鳴らすくらい、おこってしまいました。そのりゅうりゅうが悪かったのです。
    「ピシャッ。シインン。」えさについていたかぎがはずれて、ねずみ捕りの入り口が閉じてしまいました。さあもうたいへんです。
    ツェねずみはきちがいのようになって、
    「ねずみ捕りさん。ひどいや。ひどいや。うう、くやしい。ねずみ捕りさん。あんまりだ。」と言いながら、はりがねをかじるやら、くるくるまわるやら、地だんだふむやら、わめくやら、泣くやら、それはそれは大さわぎです。それでも、償ってください、償ってくださいは、もう言う力がありませんでした。
    ねずみ捕りの方も、痛いやら、しゃくにさわるやら、ガタガタ、ブルブル、リュウリュウとふるえました。一晩そうやってとうとう朝になりました。
    顔のまっな下男が来て見て、こおどりして言いました。
    「しめた。しめた。とうとう、かかった。意地の悪そうなねずみだな。さあ、出て来い。こぞう。」
    青空文庫 名作文学の朗読