萩柚月

  • 野村胡堂 「銭形平次捕物控 鈴を慕ふ女」 萩柚月朗読

  • 「猫とモミの木」前編 語り喜多川拓郎 倉沢はすみ作

    「猫とモミの木」後編 語り喜多川拓郎 倉沢はすみ作

    猫とモミの木

    キャスト キャラクター紹介

     

  • 渡辺温「シルクハット」西村俊彦 萩柚月 二宮隆朗読

    シルクハット

    渡辺温

     私も中村も給料が十円ずつ上がった。
    私は私のかぶり古した山高帽子を中村に十円で譲って、そしてそれに十五円足して、シルクハットを買った。
    青年時代に一度、シルクハットをかぶってみたい――と、私は永いことそう思っていた。シルクハットのもつ贅沢な[#「贅沢な」は底本では「贄沢な」]気品を、自分の頭の上に載せて見たくてたまらなかった。
    私は天鵞絨びろうどの小さなクッションで幾度もシルクハットのけばを撫でた。帽子舗の店さきの明るい花電燈を照り返している鏡の中で、シルクハットは却々なかなかよく私に似合った。
    また中村は自分の古ぼけた黒羅紗の帽子をカバンの中へおし込んで、山高帽子を冠った。ムッソリニのような顔に見えた。
    私共は、それから、行きつけの港の、砂浜にあるパブリック・ホテルへ女を買いに出かけた。その日は私共の給料日で私共は乏しい収入をさいて、月にたった一度だけ女を楽しむことにきめていたのである。
    シルクハットは果してホテルの女たちをおどろかした。私の女はとりわけ眼を瞠って、むしろドギマギしたように私を見た。彼女は一月の中に見違うばかり蒼くやつれてしまっていた。もとから病気持ちらしい彼女だったので、屹度ひどい病いでもしたのであろう。
    彼女は私と共に踊りながら、息を切らして、果は身慄いした。私はそれで、すぐに踊るのをやめることにした。小さい女は私の膝に腰かけた。
    「苦しそうだね。」と私はきいてみた。
    「もうよろしいの。――でも、死ぬかも知れませんわ。」女は嗄がれた声で答えた。
    中村は、なじみの男刈りにした肥っちょの娘と、独逸麦酒ドイツビールをしこたま飲んだあとで、アルゼンチン・タンゴを怪しげな身振りで踊っていた。その娘は眉根の※(「山+険のつくり」、第3水準1-47-78)しい悪党みたいな人相だったが、中村はいっそそこが気に入ったと云うのであった。
    寝室に入る前に、私達はめいめい金を払う。
    私は紙入れを女の目の前で、いっぱい開けて見せながら「今夜は未だ大分金があるぞ。」と云った。月々の部屋代と食費と洋服代との全部であった。女は背のびをして、紙幣の数をのぞきこむと、「まあ――」と云って笑った。
    女は少しばかり元気になったのかも知れなかった。
    女の部屋に入って、寝る時、女は枕元の活動役者の写真をべたべた貼りつけた壁に、私のシルクハットをそっと掛けて、そしてさて手を合せて拝む真似をした。シルクハットの地と云うものは、物がふれると直ぐケバ立ってしまうので、女は非常にこわごわと取扱わなければならなかった。

  • 野村胡堂 「銭形平次捕物控 平次屠蘇機嫌」全編 萩柚月朗読

     元日の晝下り、八丁堀町御組屋敷の年始廻りをした錢形平次と子分の八五郎は、海賊橋かいぞくばしを渡つて、青物町へ入らうと言ふところでヒヨイと立止りました。

    「八、目出度いな」
    「へエ――」
    ガラツ八は眼をパチ/\させます。正月の元日が今始めて解つた筈もなく、天氣は朝つからの日本晴れだし、今更親分に目出度がられるわけは無いやうな氣がしたのです。
    「旦那方のめえぢや、呑んだ酒も身につかねえ。丁度腹具合も北山だらう、一杯身につけようぢやないか」
    平次は斯んな事を言つて、ヒヨイとあごをしやくりました。成程、その顎の向つた方角、活鯛いけだひ屋敷の前に、何時の間に出來たか、洒落しやれた料理屋が一軒、大門松を押つ立てゝ、年始廻りの中食で賑はつてゐたのです。
    「へエ――、本當ですか、親分」
    ガラツ八の八五郎は、存分に鼻の下を長くしました。ツヒぞ斯んな事を言つたことの無い親分の平次が、與力笹野新三郎の役宅で、屠蘇とそを祝つたばかりの歸り途に、一杯呑み直さうといふ量見が解りません。
    「本當ですかは御挨拶だね。後で割前を出せなんてケチな事を言ふ氣遣ひはねえ。サア、眞つ直ぐに乘り込みな」
    さう言ふ平次、料理屋の前へ來ると、フラリとよろけました。組屋敷で軒並めた屠蘇とそが、今になつて一時に發したのでせう。
    「親分、あぶないぢやありませんか」
    「何を言やがる。危ねえのは手めえの顎だ、片附けて置かねえと、俺の髷節に引つ掛るぢやないか」
    「冗談でせう、親分」
    二人は黒板塀を繞らした、相當の構の門へつながつて入つて行きました。
    眞新しい看板に「さざなみ」と書き、淺黄あさぎの暖簾に鎌輪奴かまわぬと染め出した入口、ヒヨイと見ると、頭の上の大輪飾おほわかざりが、どう間違へたか裏返しに掛けてあるではありませんか。
    「こいつは洒落て居るぜ、――正月が裏を返しや盆になるとよ。ハツハツ、ハツハツ、だが、世間附き合ひが惡いやうだから、ちよいと直してやらう」
    平次は店の中から空樽あきだるを一梃持出して、それを踏臺に、輪飾りを直してやりました。
    「入らつしやい、毎度有難う存じます」
    「これは親分さん方、明けましてお目出度うございます。大層御機嫌で、へツ、へツ」
    帳場に居た番頭と若い衆、掛け合ひで滑らかなお世辭を浴びせます。
    「何を言やがる、身錢を切つた酒ぢやねえ、お役所のお屠蘇で御機嫌になれるかツてんだ」
    「へツ、御冗談」
    平次は無駄を言ひ乍ら、フラリフラリと二階へ――
    「お座敷は此方でございます。二階は混み合ひますから」
    小女が座布團を温め乍ら言ふのです。
    「混み合つた方が正月らしくて宜いよ。大丈夫だ、人見知りをするやうな育ちぢやねえ。――尤もこの野郎は醉が廻ると噛み付くかも知れないよ」
    平次は後から登つて來るガラツ八の鼻のあたりを指すのでした。
    小女はんがりともせずに跟いて來ました。二階の客は四組十人ばかり、二た間の隅々に陣取つて正月氣分もなく靜かに呑んで居ります。
    「其處ぢやさらし物見たいだ。通りの見える所にしてくれ」
    部屋の眞ん中に拵へた席を、平次は自分で表の障子の側に移し、ガラツ八と差し向ひで、威勢よく盃を擧げたものです。
    「大層な景氣ですね、親分」
    面喰つたのはガラツ八でした。平次のはしやぎ樣も尋常ではありませんが、それより膽を冷したのは、日頃堅いで通つた平次の、この日のあざやかな呑みつ振りです。
    「心配するなよ。金は小判といふものをフンダンに持つて居るんだ。――なア八、俺もこの稼業には飽々あき/\してしまつたから、今年は一つ商賣替をしようと思ふがどうだ」
    「冗談で――親分」
    「冗談や洒落で、元日早々こんな事が言へるものか。大眞面目の涙の出るほど眞劍な話さね。八、江戸中で一番儲かる仕事は一體何んだらう。――相談に乘つてくれ」
    さう言ふうちにも、平次は引つ切りなしに盃をあけました。見る/\膳の上に林立する徳利の數、ガラツ八の八五郎は薄寒い心持でそれを眺めて居ります。
    「儲かる事なんか、あつしがそんな事を知つてゐるわけが無いぢやありませんか」
    「成程ね。知つて居りや、自分で儲けて、この俺に達引たてひいてくれるか。――有難いね、八、手前の氣つぷに惚れたよ」
    「――」
    ガラツ八は閉口してぼんのくぼを撫でました。
    「――尤も、手前の氣つぷに惚れたのは俺ばかりぢやねえ。横町の煮賣屋のお勘ん子がさう言つたぜ。――お願ひだから親分さん、八さんに添はして下さいつ――てよ」
    「親分」
    「惡くない娘だぜ。少し、唐臼からうすを踏むが、大したきりやうさ。何方を見て居るか、ちよつと見當の付かない眼玉の配りが氣に入つたよ。それに、あの娘は時々垂れ流すんだつてね、飛んだ洒落た隱し藝ぢやないか」
    「止して下さいよ、親分」
    「首でもくゝると氣の毒だから、何んとか恰好をつけておやりよ、畜生奴」
    「親分」
    ガラツ八はこんなに驚いたことはありません。錢形平次は際限さいげんもなく浴びせ乍ら、滅茶々々に饒舌り捲つて二階中の客を沈默させてしまひました。
    四組のお客は、それにしても何と言ふおとなしいことでせう。そのころ流行はやつた、客同士の盃のやりとりもなく、地味に呑んで、地味に食ふ人ばかり。そのくせ、勘定が濟んでも容易に立たうとする者はなく、後から/\と來る客が立て込んで、何時の間にやら、四組が六組になり、八組になり、八疊と四疊半の二た間は、小女が食物を運ぶ道を開けるのが精一杯です。
    「なア、八、本當のところ江戸中で一番儲かる仕事を教へてくれ、頼むぜ」
    平次は尚も執拗しつあうにガラツ八を追及します。
    「泥棒でもするんですね、親分」
    ガラツ八は少し捨鉢になりました。
    「何んだと此野郎ツ」
    平次は何に腹を立てたか、いきなり起上つてガラツ八に掴みかゝりましたが、散々呑んだ足許が狂つて、見事膳を蹴上げると、障子を一枚背負つたまゝ、縁側へ轉げ出したのです。
    「親分、危いぢやありませんか」
    飛びつくやうに抱き起したガラツ八、これはあまり醉つてゐない上、どんなに罵倒ばたうされても、親分の平次に向つて腹を立てるやうな男ではありません。
    「あゝ醉つた。――俺は眠いよ、此處で一と寢入りして歸るから、そつとして置いてくれ」
    障子の上に半分のしかゝつたまゝ、平次は本當に眼をつぶるのです。
    「親分、――さア、歸りませう。寢たきや、家に歸つてからにしようぢやありませんか」
    「何を。女房の面を見ると、とたんに眼がさめる俺だ。お願ひだから、此處で――」
    「親分、お願ひだから歸りませう、さア」
    ガラツ八は手を取つて引き起します。
    「よし、それぢや素直に歸る。手前てめえこれで、勘定を拂つてくれ。言ふまでもねえが、今日は元日だよ、八、勘定こつきりなんて見つともねえことをするな」
    「心得てますよ、親分。――小判を一枚づつもやりや宜いんでせう」
    「大きな事を言やがる」
    ガラツ八は平次をなだめ乍ら、財布から小粒を出して勘定をすませ、板前と小女に、はずみ過ぎない程度のお年玉をやりました。
    「あ、親分、そんな事は、をんなにやらせて置けば宜いのに――危いなアどうも」
    八五郎もハツとしました。平次は覺束ない足をふみ締めて、自分の外した障子を一生懸命元の敷居へはめ込んで居るのです。
    「放つて置け。俺が外した障子だ、俺が直すに何が危ないものか。おや、裏返しだぜ。骨が外へ向いてけつかる、どつこいしよ」
    平次はまだ障子と角力を取つて居ります。

  • 坂口安吾「餅のタタリ」萩柚月朗読

    餅のタタリ

    坂口安吾

    餅を落した泥棒

    土地によって一風変った奇習や奇祭があるものだが、日本中おしなべて変りのないのは新年にお餅を食べ門松をたてて祝う。お雑煮の作り方は土地ごとに大そうな違いはあるが、お餅を食べ門松をたてて新春を祝うことだけは日本中変りがなかろうと誰しも思いがちである。
    意外にも、新年にお餅も食べず門松もたてない村や部落は日本の諸地にかなり散在しているのだが、上州には特に多い。その上州でもある郡では諸町村の大部分が昔から新年を祝う風習をもっていない。それでも、ま、新年のオツキアイだけは気持ばかり致しましょう、というわけか、三※[#小書き片仮名ガ、295-16]日だけウドンを食べる。
    もともと上州の人たちは好んでウドンをたべる。農村では米を作りながら自分はウドンの方を喜んで食ってるという土地柄であるから、新年にウドンを食ってもふだんと変りがないようなものだ。むしろ新年のウドンの方がふだんのウドンよりもまずいぐらいで、テンプラウドンやキツネウドンにくらべると大そう風味が悪いような特別な作り方のウドンを三※[#小書き片仮名ガ、295-20]日間というもの三度々々我慢して食べてる。まったく我慢して食べてるとしか云いようがないほど味気ない食膳で、ふだんの方がゴチソウがあるのだ。要するにその食卓から新年を祝う気分を見ることはできなくて、むしろ一ツ年をとって死期が近づいたのをシミジミ観念して味っているような食卓なのである。
    どうして新年にウドンを食うかということについては昔からいろいろ云われているが、いずれも納得できるものではない。むしろ、上州ばかりでなく、日本の諸地では昔から新年にウドンを食っていたのかも知れない。餅をくって門松をたてる風習の方が後にできてやがて日本中に流行してしまったのかも知れず、そのとき意地ッぱりの村があって、オレだけはウドンをやめないとガンバリつづけたのが今に残ったのかも知れない。上州にはそういう意地ッぱりの気風があるようだ。
    さて、そういう村のあるところに、日当りのよい前庭に百坪もある円い池のある農家があった。その池には先祖からの鯉がいっぱい泳いでいて、それだけでも一財産だと云われているほどの池だから、この家はいつのころからか円池まるいけサンという通称でよばれるようになっていた。
    年の暮も押しつまって明日は新年という大晦日の夜更けに、円池の平吉という当主が便所に立ったところ、その晩はカラッ風のない晩で、そういうときのシンシンとした寒さ静けさはまた一入ひとしおなものだ。思わず足音を殺すようにして廊下を歩いていると、庭でコツンバシャンとかすかな音がする。立ち止って耳をすますと、どうも氷をわる音だ。まだ氷が厚くないらしく、竹竿ようのもので誰かが池の氷をわっているようである。

  • 野村胡堂 「銭形平次捕物控 南蛮秘法箋」全編萩柚月朗読

    小石川水道端に、質屋渡世で二萬兩の大身代をきづき上げた田代屋又左衞門、年は取つて居るが、昔は二本差だつたさうで恐ろしいきかん氣。
    「やい/\こんな湯へ入られると思ふか。風邪を引くぢやないか、馬鹿々々しい」
    風呂場から町内中響き渡るやうに怒鳴どなつて居ります。
    「ハイ、唯今、直ぐ參ります」
    女中も庭男も居なかつたと見えて、奧から飛出したのは伜の嫁のお冬、外から油障子を開けて、手頃のまきを二三本投げ込みましたが、頑固な鐵砲風呂で、急にはうまく燃えつかない上、煙突などといふ器用なものがありませんから、忽ち風呂場一杯にみなぎる煙です。
    「あツ、これはたまらぬ。エヘン/\/\、其處を開けて貰はう。エヘン/\/\、寒いのは我慢するが、年寄に煙は大禁物だ」
    「何うしませう、ちよつと、お持ち下さい。燃え草を持つて參りますから」
    若い嫁は、風呂場の障子を一パイに開けたまゝ、面喰らつて物置の方へ飛んで行つて了ひました。
    底冷のする梅二月、宵と言つても身を切られるやうな風が又左衞門の裸身を吹きますが、すつかり煙にせ入つた又左衞門は、流しにうづくまつたまゝ、大汗を掻いて咳入せきいつて居ります。
    その時でした。
    何處からともなく飛んで來た一本の吹矢、咳き込むはずみに、少し前屈みになつた又左衞門の二の腕へ深々と突つ立つたのです。
    「あツ」
    心得のない人ではありませんが、全く闇のつぶてです。思はず悲鳴をあげると、
    「何うした何うした、大旦那の聲のやうだが」
    店からも奧からも、一ぺんに風呂場に雪崩なだれ込みます。
    見ると、裸體のまゝ、流しに突つ起つた主人又左衞門の左の腕に、白々と立つたのは、羽ごと六寸もあらうと思ふ一本の吹矢、引拔くと油で痛めた竹の根は、鋼鐵の如く光つて、美濃紙みのがみを卷いた羽を染めたのは、斑々はん/\たる血潮です。
    「俺は構はねえ、外を見ろ、誰が一體こんな事をしあがつた」
    豪氣な又左衞門に勵まされるともなく、二三人バラバラと外へ飛出すと、庭先に呆然立つて居るのは、埃除ほこりよけの手拭を吹流しに冠つて、燃え草の木片を抱へた嫁のお冬、美しい顏を硬張らせて、宵闇の中に何處ともなく見詰めて居ります。
    「御新造樣、何うなさいました」
    「あ、誰か彼方へ逃げて行つたよ。追つ驅けて御覽」
    と言ひますが、庭にも、木戸にも、往來にも人影らしいものは見當りません。
    「こんな物が落ちて居ます」
    丁稚の三吉がお冬の足元から拾ひ上げたのは、四尺あまりの本式の吹矢筒ふきやづつ、竹の節を拔いて狂ひを止めた上に、磨きをかけたものですが、鐵砲の不自由な時代には、これでも立派な飛道具で、江戸の初期には武士もたしなんだと言はれる位、後には子供の玩具おもちやや町人の遊び道具になりましたが、この時分はまだ/\、吹矢も相當に幅を利かせた頃です。
    餘事はさておき――、
    引拔いたあとは、つまらない瘡藥きずぐすりか何かを塗つて、其儘にして置きましたが、其晩から大熱を發して、枕も上がらぬ騷ぎ、曉方かけて又左衞門の腕は樽のやうにれ上がつて了ひました。
    麹町から名高い外科を呼んで診て貰ふと、
    「これは大變だ。併し破傷風はしやうふうにしてもこんなに早く毒が廻る筈はない――吹矢を拜見」
    仔細らしく坊主頭を振ります。
    昨夜の吹矢を、後で詮索せんさくをする積りで、ほんの暫らく風呂場の棚の上へ置いたのを、誰の仕業か知りませんが、瞬くうちになくなつて了つたのです。
    「誰だ、吹矢を捨てたのは」
    と言つたところで、もう後の祭り、故意か過ちか、兎に角、又左衞門に大怪我をさした當人が、後のたゝりを恐れて、隱して了つたことだけは確かです。
    「それは惜しいことをした。ことによると、その吹矢の根に、毒が塗つてあつたかも知れぬて」
    「え、そんな事があるでせうか」
    又左衞門の伜又次郎、これは次男に生れて家督かとくを相續した手堅い一方の若者、今では田代屋の用心棒と言つていゝ程の男です。
    「さうでもなければ、こんなにふくれるわけがない。この毒が胴に廻つては、お氣の毒だが命が六づかしい。今のうちに、腕を切り落す外はあるまいと思ふが、如何でせうな」
    斯う言はれると、又次郎はすつかり蒼くなりましたが、父の又左衞門は、武士の出といふだけあつて思ひの外驚きません。
    「それは何でもないことだ。右の腕一本あれば不自由はしない、サア」
    千貫目のおもりを掛けられたやうな腕を差出して、苦痛にゆがむ頬に、我慢の微笑を浮べます。

    青空文庫より

  • 坂口安吾「アンゴウ」萩柚月朗読

    アンゴウ

    坂口安吾

    矢島は社用で神田へでるたび、いつもするように、古本屋をのぞいて歩いた。すると、太田亮氏著「日本古代に於ける社会組織の研究」が目についたので、とりあげた。
    一度は彼も所蔵したことのある本であるが、出征中戦火でキレイに蔵書を焼き払ってしまった。失われた書物に再会するのはなつかしいから手にとらずにいられなくなるけれども、今さら一冊二冊買い戻してみてもと、買う気持にもならない。そのくせ別れづらくもあり、ほろにがいものだ。
    頁をくると、扉に「神尾蔵書」と印がある。見覚えのある印である。戦死した旧友の蔵本に相違ない。彼の留守宅も戦火にやかれ、その未亡人は仙台の実家にもどっている筈であった。
    矢島はなつかしさに、その本を買った。社へもどって、ひらいてみると、頁の間から一枚の見覚えのある用箋が現れた。魚紋書館の用箋だ。矢島も神尾も出征まではそこの編輯部につとめていたのだ。紙面には次のように数字だけ記されていた。
    [#ここから横組み]
    34 14 14
    37 1 7
    36 4 10
    54 11 2
    370 1 2
    366 2 4
    370 1 1
    369 3 1
    367 9 6
    365 10 3
    365 10 7
    365 11 4
    365 10 9
    368 6 2
    370 10 7
    367 6 1
    370 4 1
    心覚えに頁を控えたものかと思ったが、同じ数字がそろっているから、そうでもないらしい。まさか暗号ではあるまいが、ヒマな時だから、ふとためす気持になって、三十四頁十四行十四宇目、四字まですゝむと、彼はにわかに緊張した。語をなしているからだ。
    「いつもの処にいます七月五日午後三時」
    全部でこういう文句になる。あきらかに暗号だ。
    神尾は達筆な男であったが、この数字はあまり見事な手蹟じゃなく、どうやら女手らしい様子である。然し、この本が疎開に当って他に売られたにしても、魚紋書館の用箋だから、この暗号が神尾に関係していることは先ず疑いがないようだ。
    用箋は四つに折られている。すると彼の恋人からの手紙らしい。
    矢島は神尾と最も親しい友達だった。それというのも二人の趣味が同じで、歴史、特に神代の民族学的研究に興味をそゝいでいた。文献を貸し合ったり、研究を報告し合ったり、お揃いで研究旅行にでかけることも屡々しばしばだった。それはどの親しさだから、お互に生活の内幕も知りあい、友人もほゞ共通していたが、さて、ふりかえると、趣味上の友人は二人だけで、魚紋書館の社員の中に同好の士は見当らない。のみならず、この本は殆ど市場に見かけることのできなかったもので、矢島は古くから蔵していたが、たしか神尾が手に入れたのは、矢島が出征する直前ぐらいであったような記憶がある。
    それに矢島が出征するまで、神尾に恋人があったという話をきかない。そのことがあれば、細君には隠しても、矢島にだけは告白している筈であった。
    矢島の出征は昭和十九年三月二日、神尾は翌二十年二月に出征して、北支へ渡って戦死している。してみると、この七月五日は、矢島が出征したあとの十九年のその日であるに相違ない。
    矢島は社の用箋を持ち帰って使っていた。他の社員もみなそうで、当時は紙が店頭にないのであるから、銘々が自宅へ持ちこむ量も長期のストックを見こんでおり、矢島の出征後の留守宅にも少からぬこの用箋が残されていた筈であった。
    矢島は妻のタカ子のことを考える。神尾の知人にこの本を蔵しているのは矢島の留守宅だけであり、そして、そこにはこの用箋もあったのだ。
    神尾は軽薄な人ではなかった。漁色漢でもなかった。然し、浮気心のない人間は存在せず、その可能性をもたない人は有り得ない。
    矢島が復員してみると、タカ子は失明して実家にいた。自宅に直撃をうけ、その場に失明して倒れたタカ子はタンカに運ばれて助かったが、そのドサクサに二人の子供と放れたまゝ、どこで死んだか、二人の子供の消息はそのまゝ絶えてしまっていた。
    病院へ収容されたタカ子が実家とレンラクがついて、父が上京した時は罹災の日から二週間あまりすぎており、父に焼跡を見てもらったが、何一つ手がゝりはなかったそうだ。
    タカ子の顔の焼痕は注意して眺めなければ認めることができないほど昔のまゝに治っていたが、両眼の失明は取り返すことができなかった。
    神尾は戦死した。タカ子は失明した。天罰の致すところだと考えている自分に気づいて、矢島はあさましいと思ったが、苦痛の念はやりきれないものがあった。
    タカ子の書いた暗号だという確証はないのだから、まして一人は失明し、一人は死んだ今となって、過去をほじくることもない。戦争が一つの悪夢なんだから、と気持をととのえるように努力して、買った本は家へ持って帰ったが、片隅へ押しこんで、タカ子に一切知らせないつもりであった。けれども、そういう心労が却って重荷になってきて、なまじいに自分の胸ひとつにたたんでおくために、秘密になやむ苦しさが積み重なってくるように思われた。
    そのうちに、矢島はふと気がついた。出征するまで、タカ子はいつも矢島の左側に寄りそってきた。新婚のころの甘い追憶がタカ子に残り、ひとつの習性をなしているのだ。
    夜ふけて矢島が机に向い読書にふけっている。タカ子が寄りそう。矢島は読書の手をやすめて、タカ子にくちづけをしてやる。そして、くすぐったり、キャア/\笑いさざめいて、たあいもない新婚の日夜を明け暮れしたが、当時から、タカ子は必ず矢島の左側に寄り添うのであった。寝室でも、タカ子はいつも良人の左側に自分の枕を用意した。
    新婚は、新しい世界をひらいてくれる。矢島はタカ子がひらいてくれた女の世界を賞玩した。時には、好奇し、探究慾を起しもした。そういう新しい好奇の世界で、タカ子がいつも左側へ寄りそい、左側へねる、ハンで捺したように狂いのないその習性について思いめぐらしてみたものだ。本能である筈はない。古来からのシキタリがあり、タカ子はそれを教えられており、自分だけが知らないのかとも考えたが、二十年ちかくも史書に親しんでそれらしい故実を読んだこともないから、たぶんそうでもないのだろう。
    してみると、男の右手が愛撫の手というわけであろうか。そう考えると、タカ子の左側ということが、あまり動物の本能めいて、たのしい想像ではなかったが、事実に於て右側では自分自身カッコウがつかないような感じもするから、別に深い意味のない感じの世界から発して、二人の習慣が自然に固定しただけのことかも知れなかった。
    ところが戦争から戻ってみると、タカ子は左側へ寄りそったり、右側へ寄りそったり、ねむる時にも左右不定になっていた。然し、それもムリがない。タカ子は失明しているのだから。矢島はそう考えていた。
    然し、暗号の手紙から、それからそれへと思いめぐらすうち、矢島はふと怖しいことに気がついて、一時は混乱のために茫然としたものである。
    神尾は左ギッチョであった。

    青空文庫より

  • 野村胡堂錢形平次捕物控「酒屋火事」(一)(ニ)


    野村胡堂錢形平次捕物控「酒屋火事三四」萩柚月朗読


    野村胡堂錢形平次捕物控「酒屋火事」五,六萩柚月朗読


    野村胡堂錢形平次捕物控「酒屋火事」七萩柚月朗読

  • 萩柚月朗読銭形平次捕り物控えお篠姉妹全編通し 野村胡堂

  • 萩柚月朗読「夜長姫と耳男」その1坂口安吾

    萩柚月朗読「夜長姫と耳男」その2坂口安吾

    夜長姫と耳男 坂口安吾 その3朗読萩柚月

    坂口安吾「夜長姫と耳男」4萩柚月朗読

    坂口安吾「夜長姫と耳男5」朗読萩柚月

    坂口安吾「夜長姫と耳男」六萩柚月朗読

    夜長姫と耳男

    坂口安吾

    オレの親方はヒダ随一の名人とうたわれたタクミであったが、夜長の長者に招かれたのは、老病で死期の近づいた時だった。親方は身代りにオレをスイセンして、
    「これはまだ二十の若者だが、小さいガキのころからオレの膝元に育ち、特に仕込んだわけでもないが、オレが工夫の骨法は大過なく会得している奴です。五十年仕込んでも、ダメの奴はダメのものさ。青笠アオガサ古釜フルカマにくらべると巧者ではないかも知れぬが、力のこもった仕事をしますよ。宮を造ればツギ手や仕口にオレも気附かぬ工夫を編みだしたこともあるし、仏像を刻めば、これが小僧の作かと訝かしく思われるほど深いイノチを現します。オレが病気のために余儀なく此奴を代理に差出すわけではなくて、青笠や古釜と技を競って劣るまいとオレが見込んで差出すものと心得て下さるように」
    きいていてオレが呆れてただ目をまるくせずにいられなかったほどの過分の言葉であった。
    オレはそれまで親方にほめられたことは一度もなかった。もっとも、誰をほめたこともない親方ではあったが、それにしても、この突然のホメ言葉はオレをまったく驚愕させた。当のオレがそれほどだから、多くの古い弟子たちが親方はモウロクして途方もないことを口走ってしまったものだと云いふらしたのは、あながち嫉みのせいだけではなかったのである。
    夜長の長者の使者アナマロも兄弟子たちの言い分に理があるようだと考えた。そこでオレをひそかに別室へよんで、
    「お前の師匠はモウロクしてあんなことを云ったが、まさかお前は長者の招きに進んで応じるほど向う見ずではあるまいな」
    こう云われると、オレはムラムラと腹が立った。その時まで親方の言葉を疑ったり、自分の腕に不安を感じていたのが一時に掻き消えて、顔に血がこみあげた。
    「オレの腕じゃア不足なほど、夜長の長者は尊い人ですかい。はばかりながら、オレの刻んだ仏像が不足だという寺は天下に一ツもない筈だ」
    オレは目もくらみ耳もふさがり、叫びたてるわが姿をトキをつくる※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)のようだと思ったほどだ。アナマロは苦笑した。
    「相弟子どもと鎮守のホコラを造るのとはワケがちがうぞ。お前が腕くらべをするのは、お前の師と並んでヒダの三名人とうたわれている青ガサとフル釜だぞ」
    「青ガサもフル釜も、親方すらも怖ろしいと思うものか。オレが一心不乱にやれば、オレのイノチがオレの造る寺や仏像に宿るだけだ」
    アナマロはあわれんで溜息をもらすような面持であったが、どう思い直してか、オレを親方の代りに長者の邸へ連れていった。
    「キサマは仕合せ者だな。キサマの造った品物がオメガネにかなう筈はないが、日本中の男という男がまだ見ぬ恋に胸をこがしている夜長姫サマの御身ちかくで暮すことができるのだからさ。せいぜい仕事を長びかせて、一時も長く逗留の工夫をめぐらすがよい。どうせかなわぬ仕事の工夫はいらぬことだ」
    道々、アナマロはこんなことを云ってオレをイラだたせた。
    「どうせかなわぬオレを連れて行くことはありますまい」
    「そこが虫のカゲンだな。キサマは運のいい奴だ」
    オレは旅の途中でアナマロに別れて幾度か立ち帰ろうと思った。しかし、青ガサやフル釜と技を競う名誉がオレを誘惑した。彼らを怖れて逃げたと思われるのが心外であった。オレは自分に云いきかせた。