江戸川乱歩

  • 江戸川乱歩「灰神楽」二宮 隆朗読

    59.80 Jun 25, 2018

    アッと思う間に、相手は、まるで泥でこしらえた人形がくずれでもする様に、グナリと、前の机の上に平たくなった。顔は、鼻柱がくだけはしないかと思われる程、ペッタリと真正面に、机におしつけられていた。そして、その顔の黄色い皮膚ひふと、机掛つくえかけの青い織物おりものとの間から、椿つばきの様に真赤な液体が、ドクドクと吹き出していた。
    今の騒ぎで鉄瓶てつびんがくつがえり、大きなきり角火鉢かくひばちからは、噴火山の様に灰神楽はいかぐらが立昇って、それが拳銃ピストルの煙と一緒に、まるで濃霧の様に部屋の中をとじ込めていた。
    覗きからくりの絵板が、カタリと落ちた様に、一刹那いっせつなに世界が変ってしまった。庄太郎しょうたろうはいっそ不思議な気がした。
    「こりゃまあ、どうしたことだ」
    彼は胸のうちで、さも暢気相のんきそうにそんなことをっていた。
    しかし、数秒間の後には、彼は右の手先が重いのを意識した。見ると、そこには、相手の奥村一郎おくむらいちろう所有の小型拳銃ピストルが光っていた。「おれが殺したんだ」ギョクンとのどがつかえた様な気がした。胸の所がガランどうになって、心臓がいやに上の方へ浮上って来た。そして、あごの筋肉がツーンとしびれて、やがて、歯の根がガクガクと動き始めた。
    意識の恢復かいふくした彼が第一に考えたことは、いうまでもなく「銃声」についてであった。彼自身には、ただ変な手答えのほか何の物音も聞えなかったけれど、拳銃ピストルが発射された以上、「銃声」が響かぬはずはなく、それを聞きつけて、誰かがここへやって来はしないかという心配であった。
    彼はいきなり立上って、グルグルと部屋の中を歩きまわった。時々立止っては耳をすました。
    隣の部屋には階段の降り口があった。だが庄太郎には、そこへ近づく勇気がなかった。今にもヌッと人の頭が、そこへ現れそうな気がした。彼は階段の方へ行きかけては引返した。
    併し、しばらくそうしていても、誰も来る気勢けはいがなかった。一方では、時間がつにつれて、庄太郎の記憶力がよみがえって来た、「何をこわがっているのだ。階下には誰もいなかった筈じゃないか」奥村の細君さいくんは里へ帰っているのだし、ばあやは彼の来る以前に、可也かなり遠方へ使つかいに出されたというではないか。「だが待てよ、しや近所の人が……」ようやく冷静を取返した庄太郎は、死人のすぐ前に開け放された障子しょうじから、そっと半面を出してのぞいて見た。広い庭をへだてて左右に隣家の二階が見えた。一方は不在らしく雨戸が閉っているし、もう一方はガランと開け放した座敷に、人影もなかった。正面は茂った木立を通して、へいの向うに広っぱがあり、そこに、数名の青年が鞠投まりなげをやっているのがチラチラと見えていた。彼等は何も知らないらしく、夢中になって遊んでいた。秋の空に、鞠を打つバットの音がえて響いた。
    彼は、これ程の大事件を知らぬ顔に、静まり返っている世間が、不思議でたまらなかった。「ひょっとしたら、俺は夢を見ているのではないか」そんなことを考えて見たりした。併し振り返ると、そこにはあけそまった死人が無気味な人形の様にもくしていた。その様子が明らかに夢ではなかった。
    やがて彼は、ふとある事に気づいた。丁度稲の取入れ時で、附近の田畑たはたには、鳥おどしのから鉄砲があちこちで鳴り響いていた。さっき奥村との対談中、あんなに激している際にも、彼は時々その音を聞いた。今彼が奥村を打殺うちころした銃声も、遠方の人々には、その鳥おどしの銃声と区別がつかなかったに相違ない。
    家には誰もいない、銃声は疑われなかった。とすると、うまく行けば彼は助かるかも知れないのである。
    「早く、早く、早く」
    耳の奥で半鐘はんしょうの様なものが、ガンガンと鳴り出した。
    彼はその時もまだ手にしていた拳銃ピストルを、死人のそばへ投げ出すと、ソロソロと階段の方へ行こうとした。そして、一歩足を踏み出した時である。庭の方でバサッというひどい音がして、樹の枝がザワザワと鳴った。
    「人!」
    彼は吐き気の様なものを感じて、その方を振り向いた。だが、そこには彼の予期した様な人影はなかった。今の物音は一体何事であったろう。彼は判断を下しねて、むしろ判断をしようともせず、一瞬間そこに立往生たちおうじょうをしていた。
    「庭の中だよ」
    すると、外の広っぱの方から、そんな声が聞えて来た。
    「中かい。じゃ俺が取って来よう」
    それは聞き覚えのある、奥村の弟の中学生の声であった。彼はさっき広っぱの方を覗いた時に、その奥村二郎じろうがバットを振り廻しているのを、頭のすみで認めたことを思出した。
    やがて、快活な跫音あしおとと、バタンと裏木戸のく音とが聞え、それから、ガサガサと植込みの間を歩き廻る様子が、二郎のはげしい呼吸いきづかいまでも、手に取る様に感じられるのであった。庄太郎には殊更ことさらそう思われたのか知れぬけれど、ボールを探すのは可也手間取った。二郎は、さも暢気相に口笛など吹きながら、いつまでもゴソゴソという音をやめなかった。
    「あったよう」
    やっとしてから、二郎の突拍子とっぴょうしもない大声が、庄太郎を飛上らせた。そして、彼はそのまま、二階の方など見向きもしないで、外の広っぱへと駈け出して行く様子であった。
    「あいつは、きっと知っているのだ。この部屋で何かがあったことを知っているのだ。それをわざとそ知らぬ振りで、ボールを探す様な顔をして、その実は二階の様子をうかがいに来たのだ」
    庄太郎はふとそんな事を考えた。
    「だが、あいつは、仮令たとい銃声をうたぐったとしても、俺がこのうちへ来ていることは知る筈がない。あいつは、俺が来る以前から、あすこで遊んでいたのだ。この部屋の様子は、広っぱの方からは、杉の木立が邪魔じゃまになってよくは見えないし、たとえ見えたところで、遠方のことだから、俺の顔まで見別みわけられる筈はない」
    彼は一方では、そんな風にも考えた。そして、その疑いを確めるために、障子から半面を出して、広っぱの方を覗いて見た。そこには、木立の隙間すきまから、バットを振り振り走って行く、二郎の後姿うしろすがたが眺められた。彼は元の位置に帰るとすぐ、何事もなかった様に打球の遊戯を始めるのであった。
    「大丈夫、大丈夫、あいつはにも知らないのだ」
    庄太郎は、さっきのおろか邪推じゃすいを笑うどころではなく、いて自分自身を安心させる様に、大丈夫、大丈夫と繰返くりかえした。

  • 江戸川乱歩「指」二宮 隆朗読

    6.85 Jun 25, 2018

  • 江戸川乱歩「盗難」二宮 隆朗読

    49.82 May 26, 2018

    「ハハハハハハ、分ったかね。じゃ、これで失敬するよ」
    突然巡査はそういって立上りました。さつ束は手に持ったままですよ。それから、もう一方の手には、ポケットから取出したピストルを油断なく私達の方へ向けながらですよ。にくらしいじゃありませんか。そんな際にも巡査の句調くちょうを改めないで、失敬するよなんていってるんです。よっぽどたんのすわった奴ですね。
    無論、主任も私も、声を立てることも出来ないでぼんやり坐ったままでした。どぎもを抜かれましたよ。まさか戸籍調べに来て顔なじみになっておくという新手しんてがあろうとは気がつきませんや。もうほんとうの巡査だと信じ切っていたのですからね。

  • 江戸川乱歩「お勢登場」海渡みなみ朗読

    50.63
    May 06, 2018

    肺病やみの格太郎かくたろうは、今日も又細君さいくんにおいてけぼりを食って、ぼんやりと留守を守っていなければならなかった。最初の程は、如何いかなお人しの彼も、激憤を感じ、それをたねに離別を目論もくろんだことさえあったのだけれど、やまいという弱味が段々彼をあきらめっぽくしてしまった。先の短い自分の事、可愛い子供のことなど考えると、乱暴な真似まねはできなかった。その点では、第三者であるけ、弟の格二郎かくじろうなどの方がテキパキしたかんがえを持っていた。彼は兄の弱気を歯痒はがゆがって、時々意見めいた口をくこともあった。
    「なぜ兄さんは左様そうなんだろう。僕だったらとっくに離縁にしてるんだがな。あんな人にあわれみをかける所があるんだろうか」
    だが、格太郎にとっては、単に憐みという様なことばかりではなかった。成程なるほど、今おせいを離別すれば、もんなしの書生っぽに相違ない彼女の相手と共に、たちまち其日そのひにも困る身の上になることは知れていたけれど、その憐みもさることながら、彼にはもっとほかの理由があったのだ。子供の行末も無論案じられたし、それに、恥しくて弟などには打開うちあけられもしないけれど、彼には、そんなにされても、まだおせいをあきらめかねる所があった。それゆえ、彼女が彼から離れ切って了うのを恐れて、彼女の不倫を責めることさえ遠慮している程なのであった。
    おせいの方では、この格太郎の心持を、知り過ぎる程知っていた。大げさに云えば、そこには暗黙の妥協に似たものが成り立っていた。彼女は隠し男との遊戯の暇には、その余力をもって格太郎を愛撫することを忘れないのだった。格太郎にして見れば、この彼女のわずかばかりのおなさけに、不甲斐ふがいなくも満足している外はない心持だった。
    「でも、子供のことを考えるとね。そう一概いちがいなことも出来ないよ。この先一年もつか二年もつか知れないが、おれの寿命はきまっているのだし、そこへ持って来て母親までなくしては、あんまり子供が可哀相かわいそうだからね。まあもうちっと我慢して見るつもりだ。なあに、その内にはおせいだって、きっと考え直す時が来るだろうよ」
    格太郎はそう答えて、一層弟を歯痒がらせるのを常とした。
    だが、格太郎の仏心に引かえて、おせいは考え直すどころか、一日一日と、不倫の恋におぼれて行った。それには、窮迫して、長病ながわずらいで寝た切りの、彼女の父親がだしに使われた。彼女は父親を見舞いに行くのだと称しては、三日にあげずうちそとにした。果して彼女が里へ帰っているかどうかをしらべるのは、無論わけのないことだったけれど、格太郎はそれすらしなかった。妙な心持である。彼は自分自身に対してさえ、おせいをかばう様な態度を取った。
    今日もおせいは、朝から念入りの身じまいをして、いそいそと出掛けて行った。
    「里へ帰るのに、お化粧はいらないじゃないか」
    そんないやみが、口まで出かかるのを、格太郎はじっとこらえていた。此頃このごろでは、そうしていことも云わないでいる、自分自身のいじらしさに、一種の快感をさえ覚える様になっていた。
    細君が出て行って了うと、彼は所在なさに趣味を持ち出した盆栽ぼんさいいじりを始めるのだった。跣足はだしで庭へ下りて、土にまみれていると、それでもいくらか心持が楽になった。又一つには、そうして趣味に夢中になっているさまを装うことが、他人に対しても自分に対しても、必要なのであった。
    おひる時分になると、女中が御飯を知らせに来た。
    「あのおひるの用意が出来ましたのですが、もうちっとのちになさいますか」
    女中さえ、遠慮勝ちにいたいたしそうな目で自分を見るのが、格太郎はつらかった。
    「ああ、もうそんな時分かい。じゃおひるとしようか。坊やを呼んで来るといい」
    彼は虚勢きょせいを張って、快活らしく答えるのであった。此頃このごろでは、何につけても虚勢が彼の習慣になっていた。
    そういう日に限って、女中達の心づくしか、食膳しょくぜんにはいつもより御馳走ごちそうが並ぶのであった。でも格太郎はこの一月ばかりというもの、おいしい御飯をたべたことがなかった。子供の正一しょういちも家の冷い空気に当ると、外の餓鬼大将がきだいしょうにわかにしおしおして了うのだった。
    「ママどこへ行ったの」
    彼はある答えを予期しながら、でも聞いて見ないでは安心しないのである。
    「おじいちゃまの所へいらっしゃいましたの」
    女中が答えると、彼は七歳の子供に似合わぬ冷笑の様なものを浮べて、「フン」と云ったきり、御飯をかき込むのであった。子供ながら、それ以上質問を続けることは、父親に遠慮するらしく見えた。それと彼には又彼丈けの虚勢があるのだ。
    「パパ、お友達を呼んで来てもいい」
    御飯がすんで了うと、正一は甘える様に父親の顔をのぞき込んだ。格太郎は、それがいたいけな子供の精一杯の追従ついしょうの様な気がして、涙ぐましいいじらしさと、同時に自分自身に対する不快とを感じないではいられなかった。でも、彼の口をついて出た返事は、いつもの虚勢以外のものではないのだった。
    「アア、呼んで来てもいいがね。おとなしく遊ぶんだよ」
    父親の許しを受けると、これも又子供の虚勢かも知れないのだが、正一は「うれしい嬉しい」と叫びながら、さも快活に表の方へ飛び出して行って、間もなく三四人の遊び仲間を引っぱって来た。そして、格太郎がお膳の前で楊枝ようじを使っているところへ、子供部屋の方から、もうドタンバタンという物音が聞え始めた。

  • 江戸川乱歩「モノグラム」二宮 隆朗読

    45.67
    Apr 15, 2018

    私が、私の勤めていたある工場の老守衛(といっても、まだ五十歳にはのある男なのですが、何となく老人みたいな感じがするのです)栗原くりはらさんと心安くなって間もなく、恐らくこれは栗原さんの取って置きの話のたねで、彼は誰にでも、そうした打開うちあけ話をしても差支さしつかえのない間柄あいだがらになると、待兼まちかねた様に、それを持出すのでありましょうが、私もある晩のこと、守衛室のストーブを囲んで、その栗原さんの妙な経験談を聞かされたのです。
    栗原さんは話上手な上に、なかなか小説家でもあるらしく、この小噺こばなしめいた経験談にも、どうやら作為の跡が見えぬではありませんが、それならそれとして、やっぱり捨て難い味があり、そうした種類の打開け話としては、私はいまだに忘れることの出来ないものの一つなのです。栗原さんの話しっぷりを真似まねて、次にそれを書いて見ることに致しましょうか。

    いやはや、落しばなしみたいなお話なんですよ。でも、先にそれを云ってしまっちゃ御慰おなぐさみが薄い。まあ当り前の、エー、お惚気のろけのつもりで聞いて下さいよ。
    私が四十の声を聞いて間もなく、四五年あとのことなんです。いつもお話する通り、私はこれで相当の教育は受けながら、妙に物事に飽きっぽいたちだものですから、何かの職業に就いても、大抵たいてい一年とはもたない。次から次と商売替えをして、到頭とうとうこんなものに落ちぶれて了ったわけなんですが、その時もやっぱり、一つの職業をして、次の職業をめっける間の、つまり失業時代だったのですね。御承知のこの年になって子供はなし、ヒステリーの家内と狭いうちに差し向いじゃやりきれませんや。私はよく浅草公園へ出掛けて、所在のない時間をつぶしたものです。
    いますね、あすこには。公園といっても六区ろっくの見世物小屋の方でなく、池から南の林になった、共同ベンチの沢山たくさん並んでいる方ですよ。あの風雨にさらされて、ペンキがはげ、白っぽくなったベンチに、又は捨て石や木の株などに、丁度それらにふさわしく、浮世の雨風に責めさいなまれて、気の抜けた様な連中が、すき間もなく、こう、思案に暮れたという恰好かっこうで腰をかけていますね。自分もその一人として、あの光景を見ていますと、あなた方にはお分りにならないでしょうが、まあ何とも云えない、物悲しい気持になるものですよ。
    ある日のこと、私はそれらのベンチの一つに腰をおろして、いつもの通りぼんやり物思いにふけっていました。丁度春なんです。桜はもう過ぎていましたが、池を越して向うの活動小屋の方は、大変な人出で、ドーッという物音、楽隊、それに交っておもちゃの風船玉の笛の音だとか、アイスクリーム屋の呼び声だとかが、甲高かんだかく響いて来るのです。それに引きかえて、私達の居る林の中は、まるで別世界の様にしずかで、恐らく活動を見るお金さえ持合せていない、みすぼらしい風体ふうていの人々が、飢えた様な物憂ものうい目を見合せ、いつまでもいつまでも、じっと一つ所に腰をおろしている。こんな風にして罪悪というものが醗酵はっこうするのではないかと思われるばかり、実に陰気で、物悲しい光景なのです。
    そこは、林の中の、丸くなった空地で、私達の腰かけている前を、私達と無関係な、幸福そうな人々が、絶えず通り抜けています。それが着かざった女なんかだと、それでも、ベンチの落伍者らくごしゃ共の顔が、一斉いっせいにその方を見たりなんかするのですね。そうした人通りが一寸ちょっと途絶とだえて、空地がからっぽになっていた時でした、ですから自然私も注意した訳でしょうが、一方のすみのアーク燈の鉄柱の所へ、ヒョッコリ一人の人物が現れたのです。
    三十前後の若者でしたが、風体はさしてみすぼらしいというではないのに、どことなくさびし気な、少くとも顔つきだけは、決して行楽の人ではなく、私共落伍者のお仲間らしく見えるのです。彼はベンチの明いた所でも探す様に、しばらくそこに立ち止まっていましたが、どこを見ても一杯な上に、彼の風采ふうさいに比べては、段違いに汚らしくこわらしい連中ばかりなので、恐らく辟易へきえきしたのでしょう、あきらめて立去りそうにした時、ふと彼の視線と私の視線とがぶつかりました。
    すると彼は、やっと安心した様に、私の隣のわずかばかりのベンチの空間あきまを目がけて近づいて来るのです。そうした連中の中では、私の風体は、古ぼけた銘仙めいせんかなんか着ていて、おかしな云い方ですがいくらか立勝たちまさって見えたでしょうし、決してほかの人達の様に険悪ではなかったのですから、それが彼を安心させたと見えます。それとも、これはあとになって思い当ったことですが、彼は最初から私の顔に気がついていたのかも知れません。イエ、その訳はじきにお話ししますよ。
    どうも私のくせで、お話が長くなっていけませんな、で、その男は私の隣へ腰をかけると、たもとから敷島の袋を出して、煙草たばこい始めましたのですが、そうしている内に、段々、変な予感みたいなものが、私を襲って来るのです。妙だなと思って、気をつけて見ると、男が煙草をふかしながら、横の方から、ジロジロと私を眺めている、その眺め方が決して気まぐれでなく、何とやら意味ありげなんですね。
    相手が病身らしいおとなし相な男なので、気味が悪いよりは、好奇心の方が勝ち、私はそれとなく彼の挙動に注意しながら、じっとしていました。あの騒がしい浅草公園の真中にいて、色々な物音はたしかに聞えているのですが、不思議にシーンとした感じで、長い間そうしていました。相手の男が、今にも何か云い出すかと、待構える気持だったのです。
    すると、やっと男が口を切るのですね。「どっかで御目にかかりましたね」って、おどおどした小さな声です。多少予期していたので、私は別に驚きはしませんでしたが、不思議と思い出せないのですよ。そんな男、まるで知らないのです。
    「人違いでしょう。私は一向いっこう御目にかかった様に思いませんが」って返事をすると、それでも、相手はどうも不得心な顔で、又しても、ジロジロと私を眺め出すではありませんか。ひょっとしたら、こいつ何かたくらんでるんじゃないかと、流石さすがに気持がよくはありませんや、「どこでお逢いしました」ってもう一度尋ねたものです。
    「サア、それが私も思い出せないのですよ」男が云うのですね。「おかしい、どうもおかしい」小首をかしげて「昨今のことではないのです。もうずっとせんから、ちょくちょく御目にかかっている様に思うのですが、本当に御記憶ありませんか」そういって、かえって私を疑う様に、そうかと思うと、変になつかし相な様子でニコニコしながら私の顔を見るじゃありませんか。
    「人違いですよ。そのあなたの御存じの方は何とおっしゃるのです。お名前は」って聞きますと、それが変なんです。「私もさいぜんから一生懸命思い出そうとしているのですが、どういう訳か、出て来ません。でも、お名前を忘れる様な方じゃないと思うのですが」
    「私は栗原一造いちぞうて云います」私ですね。
    「アア左様さようですか、私は田中三良たなかさぶろうって云うのです」これが男の名前なんです。
    私達はそうして、浅草公園の真中で名乗り合いをした訳ですが、妙なことに、私の方は勿論もちろん、相手の男も、その名前にちっとも覚えがないというのです。馬鹿馬鹿しくなって、私達は大声を上げて笑い出しました。すると、するとですね、相手の男の、つまり田中三良のその笑い顔が、ふと私の注意をいたのです。おかしなことには、私までが、何だか彼に見覚えがある様な気がし出したのです。しかも、それがごく親しい旧知にでもめぐった様に、妙に懐しい感じなんですね。
    そこで、突然笑いをめて、もう一度その田中と名乗る男の顔を、つくづく眺めた訳ですが、同時に田中の方でも、ピッタリとわらいを納め、やっぱり笑いごとじゃないといった表情なんです。これがほかの時だったら、それ以上話を進めないで別れて了ったことでしょうが、今云う失業時代で、退屈で困っていた際ですし、時候はのんびりとした春なんです。それに、見た所私よりも風体のととのった若い男と話すことは、悪い気持もしないものですから、まあひまつぶしといった鹽梅あんばいで、変てこな会話を続けて行きました。こういう工合ぐあいにね。
    「妙ですね、お話ししてる内に、私も何だかあなたを見たことがある様な気がして来ましたよ」これは私です。
    「そうでしょう。やっぱりそうなんだ。しかも道で行違ったという様な、一寸顔を合せた位のとこじゃありませんよ、確に」
    「そうかも知れませんね。あなたお国はどちらです」
    三重みえ県です。最近始めてこちらへ出て来まして、今勤め口を探している様な訳です」
    して見ると、彼もやっぱり一種の失業者なんですね。
    「私は東京の者なんだが、で、御上京なすったのはいつ頃なんです」
    「まだ一月ばかりしかたちません」
    「その間にどっかでお逢いしたのかも知れませんね」
    「いえ、そんな昨日今日のことじゃないのですよ。確に数年ぜんから、あなたのもっとお若い時分から知ってますよ」
    「そう、私もそんな気がする。三重県と。私は一体旅行嫌いで、若い時分から東京をはなれたことはほとんどないのですが、ことに三重県なんて上方かみがただということを知っている位で、はっきり地理もわきまえない始末ですから、お国で逢ったはずはなし、あなたも東京は始めてだと云いましたね」
    箱根はこねからこっちは、本当に始めてなんです。大阪おおさかで教育を受けて、これまであちらで働いていたものですから」
    「大阪ですか、大阪なら行ったことがある。でも、もう十年も前になるけれど」
    「それじゃ大阪でもありませんよ。私は七年ぜんまで、つまり中学を出るまで国にいたのですから」
    こんな風にお話すると、何だかくどい様ですけれど、その時はおたがいになかなか緊張していて、何年から何年までどこにいて、何年の何月にはどこそこへ旅行したと、こまかいことまで思出し、比べ合って見ても、一つもそれがぶつからない。たまに同じ地方へ旅行しているかと思うと、まるで年代が違ったりするのです。さあそうなると、不思議で仕様しようがないのですね。人違いではないかと云っても相手は、こんなによく似た人が二人いるとは考えられぬと主張しますし、それが一方だけならまだしも、私の方でも、見覚えがある様な気がするのですから、一概に人違いと云い切る訳にも行きません。話せば話す程、相手が昔馴染むかしなじみの様に思え、それにもかかわらず、どこで逢ったかは愈々いよいよ分らなくなる。あなたにはこんな御経験はありませんか、実際変てこな気持のものですよ。神秘的、そうです。何だか神秘的な感じなんです。ひまつぶしや、退屈をまぎらす為ばかりではなく、そういう風に疑問が漸層的ぜんそうてきに高まって来ると、執拗しつようにどこまでもしらべて見たくなるのが人情でしょうね。
    が、結局分らないのです。多少あせり気味で、思い出そうとすればする程、頭が混乱して、二人が以前から知合いであることは、分り過ぎる程分っているではないか、なんて思われて来たりするのです。でも、いくら話して見ても、要領を得ないので、私達は又々笑い出す外はないのでした。
    しかし要領は得ないながらも、そうして話し込んでいる内に、お互に好意を感じ、以前はいざ知らず、少くともその場からは忘れ難い馴染になって了った訳です。それから田中のおごりで、池のそばの喫茶店に入り、お茶をのみながら、そこでも暫く私達の奇縁を語り合ったのち、その日は何事もなくわかれました。そして分れる時には、お互の住所を知らせ、ちとお遊びにと云い交す程の間柄になっていたのです。
    それが、これっきりで済んで了えば、別段お話する程のことはないのですが、それから四五日たって、妙なことが分ったのです。田中と私とは、やっぱりある種のつながりを持っていたことが分ったのです。始めに云った私のお惚気というのはこれからなんですよ。(栗原さんはここで一寸笑って見せるのです)田中の方では、これは当てのある就職運動に忙しいと見えて、一向いっこう訪ねて来ませんでしたが、私は例によって時間つぶしに困っていたものですから、ある日、ふと思いついて、彼の泊っている上野公園裏の下宿屋を訪問したのです。もう夕方で、彼は丁度外出から帰った所でしたが、私の顔を見ると、待っていたと云わぬばかりに、いきなり「分りました、分りました」と叫ぶのです。
    「例のことね。すっかり分りましたよ。昨夜ゆうべです。昨夜とこの中でね、ハッと気がついたのです。どうも済みません。やっぱり私の思い違いでした。一度も御逢いしたことはないのです。併し、御逢いはしていないけれど、満更まんざら御縁がなくはないのですよ。あなたはもしや、北川きたがわすみという女を御存じじゃないでしょうか」
    やぶからぼうの質問で一寸驚きましたが、北川すみ子という名を聞くと、遠い遠い昔の、華やかな風が、そよそよと吹いて来る様な感じで、数日来の不思議な謎が、いくらかは解けた気がしました。
    「知ってます。でも、随分ずいぶん古いことですよ。十四五年も前でしょうか、私の学生時代なんですから」
    というのは、いつかもお話ししました通り、私は学校にいた時分は、これでなかなか交際家でして、女の友達などもいくらかあったのですが、北川すみ子というのはその内の一人で、特別に私の記憶に残っている女性なのです。××女学校に通っていましたがね。美しい人で、我々の仲間の歌留多会かるたかいなんかでは、いつでも第一の人気者、というよりはクィーンですね、美人な代りにはどことなくけんがあり、こう近寄りがたい感じの女でした。その女にね(栗原さんは一寸云いしぶって、頭をかくのです)実は私はれていたのですよ。しかもそれが、恥しながら片思いという訳なんです。そして、私が結婚したのは、やっぱり同じ女学校を出た、仲間では第二流の美人、イヤ今じゃ美人どころか、手におえないヒステリィ患者ですが、当時はまあまあ十人並だった御承知のおそのなんです。手頃な所で我慢しちまった訳ですね。つまり、北川すみ子という女は、私の昔の恋人であり、家内にとっては学校友達であったのです。

  • 江戸川乱歩「双生児」二宮 隆朗読

    52.07
    Nov 06, 2017

     

  • 江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」朗読カフェ 青空文庫名作文学の朗読

    104.85
    Oct 27, 2017

    多分それは一種の精神病ででもあったのでしょう。郷田三郎ごうださぶろうは、どんな遊びも、どんな職業も、何をやって見ても、一向この世が面白くないのでした。
    学校を出てから――その学校とても一年に何日と勘定の出来る程しか出席しなかったのですが――彼に出来そうな職業は、片端かたっぱしからやって見たのです、けれど、これこそ一生を捧げるに足ると思う様なものには、まだ一つもでっくわさないのです。恐らく、彼を満足させる職業などは、この世に存在しないのかも知れません。長くて一年、短いのは一月位で、彼は職業から職業へと転々しました。そして、とうとう見切りをつけたのか、今では、もう次の職業を探すでもなく、文字通り何もしないで、面白くもない其日そのひ其日を送っているのでした。
    遊びの方もその通りでした。かるた、球突き、テニス、水泳、山登り、碁、将棊しょうぎ、さては各種の賭博とばくに至るまで、とてもここには書き切れない程の、遊戯という遊戯は一つ残らず、娯楽百科全書という様な本まで買込んで、探し廻っては試みたのですが、職業同様、これはというものもなく、彼はいつも失望させられていました。だが、この世には「女」と「酒」という、どんな人間だって一生涯飽きることのない、すばらしい快楽があるではないか。諸君はきっとそう仰有おっしゃるでしょうね。ところが、我が郷田三郎は、不思議とその二つのものに対しても興味を感じないのでした。酒は体質に適しないのか、一滴も飲めませんし、女の方は、無論むろんその慾望がない訳ではなく、相当遊びなどもやっているのですが、そうかとって、これあるがため甲斐がいを感じるという程には、どうしても思えないのです。
    「こんな面白くない世の中に生きながらえているよりは、いっそ死んでしまった方がましだ」
    ともすれば、彼はそんなことを考えました。しかし、そんな彼にも、生命いのちしむ本能けはそなわっていたと見えて、二十五歳の今日が日まで「死ぬ死ぬ」といいながら、つい死切れずに生き長えているのでした。
    親許おやもとから月々いくらかの仕送りを受けることの出来る彼は、職業を離れても別に生活には困らないのです。一つはそういう安心が、彼をこんな気まま者にして了ったのかも知れません。そこで彼は、その仕送り金によって、せめていくらかでも面白く暮すことに腐心しました。例えば、職業や遊戯と同じ様に、頻繁ひんぱんに宿所を換えて歩くことなどもその一つでした。彼は、少し大げさに云えば、東京中の下宿屋を、一軒残らず知っていました。一月か半月もいると、すぐに次の別の下宿屋へと住みかえるのです。無論その間には、放浪者の様に旅をして歩いたこともあります。あるいは又、仙人の様に山奥へ引込んで見たこともあります。でも、都会にすみなれた彼には、迚も淋しい田舎に長くいることは出来ません。一寸ちょっと旅に出たかと思うと、いつのまにか、都会の燈火に、雑沓ざっとうに、引寄せられる様に、彼は東京へ帰ってくるのでした。そして、その度毎たびごとに下宿を換えたことは云うまでもありません。

  • 江戸川乱歩 「少年探偵団24「大爆発」」別役みか朗読

    15.40
    Oct 20, 2017

    大爆発

    二十面相は、十一体の仏像のピストルにかこまれ、明智探偵の監視をうけながら、もうあきらめはてたように美術室の中を、フラフラと歩きまわりました。
    「ああ、せっかくの苦心も水のあわか。おれは何よりも、この美術品をうしなうのがつらいよ。明智君、武士のなさけだ。せめて名ごりをおしむあいだ、外の警官を呼ぶのを待ってくれたまえね。」
    二十面相は、早くもそれをさとっていました。いかにも彼の推察すいさつしたとおり、この洋館の外は、数十人の警官隊によって、アリのはいでるすきもなく、ヒシヒシと四ほうからとりかこまれていたのです。
    明智探偵も、怪人のしおらしいなげきには、いささかあわれをもよおしたのでしょう。「さあ、ぞんぶんに名ごりをおしむがいい。」といわぬばかりに、じっともとの場所にたたずんだまま、腕組みをしています。
    二十面相は、しおしおとして、部屋の中を行きつもどりつしていましたが、いつとはなしに明智探偵から遠ざかって、部屋の向こうのすみにたどりつくと、いきなりそこへうずくまって、何か床板をゴトゴトとやっていましたが、とつぜん、ガタンというはげしい音がして、ハッと思うまに、彼の姿は、かき消すように見えなくなってしまいました。
    ああ、これこそ賊の最後の切り札だったのです。美術室の下には、さらに一段深い地下の穴ぐらが用意してあったのです。二十面相は明智のゆだんを見すまして、すばやく穴ぐらのかくしぶたをひらき、その暗やみの中へころがりこんでしまったのです。
    われらの名探偵は、またしても賊のためにまんまとはかられたのでしょうか。このどたん場まで追いつめながら、ついに二十面相をとりにがしてしまったのでしょうか。
    読者諸君、ご安心ください。明智探偵は少しもさわぎませんでした。そして、さもゆかいそうにニコニコと笑っているのです。探偵はゆっくりその穴ぐらの上まで歩いていきますと、あいたままになっている入り口をのぞきこんで、二十面相によびかけました。
    「おいおい、二十面相君、きみは何を血まよったんだい。この穴ぐらをぼくが知らなかったとでも思っているのかい。知らないどころか、ぼくはここをちゃんと牢屋ろうやに使っていたんだよ。よくそのへんを見てごらん。きみの三人の部下が、手足をしばられ、さるぐつわをはめられて、穴ぐらのそこにころがっているはずだぜ。その三人はぼくの仕事のじゃまになったので、ゆうべからそこに引きこもってもらったのさ。その中にひとり、シャツ一枚のやつがいるだろう。ぼくが洋服を拝借したんだよ。そして、つけひげをして、お化粧をして、まんまときみの部下になりすましたのさ。
    ぼくはね、そいつが、大鳥時計店の例の地下道から、にせものの黄金塔をはこびだすのを尾行したんだぜ。そして、きみのかくれがをつきとめたってわけさ。ハハハ……。
    二十面相君、きみはとんだところへ逃げこんだものだね。まるで、われとわが身を牢屋へとじこめたようなものじゃないか。その穴ぐらにはほかに出口なんてありゃしない。つまり地の底の墓場のようなものさ。おかげできみをしばる手数がはぶけたというものだよ。ハハハ……。」
    明智はさもおかしそうに笑いながら、十一体の仏像どものほうをふりむきました。
    「小林君、もうここはいいから、みんなをつれて外へ出たまえ。そして、警官隊に、二十面相を引きとりにくるよう伝えてくれたまえ。」
    それを聞きますと、将軍の号令でも受けたように、十一体の仏像は、サッとれんげ台をとびおりて、部屋の中央に整列しました。仏像が少年探偵団員のきばつな変装姿であったことは、読者諸君も、とっくにお察しになっていたでしょうね。
    団員たちは、うらみかさなる二十面相の逮捕を、指をくわえて見ていることができなかったのです。たとえ明智探偵の足手まといになろうとも、何か一役引きうけないでは、気がすまなかったのです。
    そこで、小林団長のいつかの知恵にならって、賊の美術室にちょうど十一体の仏像があるのをさいわい、そのうす暗い地下室で、団員ぜんぶが仏像にけ、にくい二十面相をゾッとさせる計略を思いたちました。そして小林少年を通じて、明智探偵にせがんだすえ、とうとうその念願をはたしたのです。
    その夜明け、賊の部下に変装した明智探偵のあいずを受け、林の中をかけだした黒い人かげは、ほかならぬ小林少年でした。小林君はそれからしばらくして、少年探偵団員を引きつれ、賊のかくれがにやってきたのでした。
    十一体の仏像は正しく三列にならんで、明智探偵をみつめ、そろって挙手きょしゅの礼をしたかとおもうと、
    「明智先生、ばんざーい。少年探偵団、ばんざーい。」
    と、かわいい声をはりあげてさけびました。そして、まわれ右をすると、小林少年を先頭に、奇妙な仏像の一群は、サーッと地下室をかけだしていったのです。
    あとには、穴ぐらの入り口と、その底とで、名探偵と怪盗とのさし向かいでした。
    「かわいい子どもたちだよ。あれらが、どれほど深くきみをにくんでいたと思う。それはおそろしいほどだったぜ。あたりまえならば、こんなところへ来させるものではないけれど、あまり熱心にせがまれるので、ぼくもいじらしくなってね。それに、相手は紳士の二十面相君だ。血のきらいな美術愛好者だ。まさか危険もあるまいと、ついゆるしてしまったのだが、あの子どもたちのおかげで、ぼくは、すっかりきみの機先きせんを制することができた。仏像が動きだしたときの、きみの顔といったらなかったぜ。ハハハ……、子どもだといってばかにできないものだね。」
    明智探偵は、警官隊が来るまでのあいだを、まるでしたしい友だちにでもたいするように、何かと話しかけるのでした。
    「フフフ……、二十面相は紳士泥棒か。二十面相は血がきらいか。ありがたい信用をはくしたもんだな。しかしね、探偵さん、その信用もばあいによりけりだぜ。」
    地底の暗やみから、二十面相の陰気な声が、すてばちのようにひびいてきました。
    「ばあいによりけりとは?」
    「たとえばさ……。今のようなばあいさ。つまり、おれはここでいくらじたばたしたって、もうのがれられっこはない。しかも、その頭の上には、知恵でも腕力でもとてもかなわない敵がいるんだ。やつざきにしてもあきたりないやつがいるんだ。」
    「ハハハ……、そこできみとぼくと、真剣勝負をしようとでもいうのか。」
    「今になって、そんなことがなんになる。この家はおまわりにかこまれているんだ。いや、そういううちにも、ここへおれをひっとらえに来るんだ。おれのいうのは、勝負をあらそうのじゃない。まあ早くいえばさしちがえだね。」
    怪盗の声はいよいよ陰にこもって、すごみをましてきました。
    「え、さしちがえだって?」
    「そうだよ。おれは紳士泥棒だから、飛び道具も刃物も持っちゃいない。だから、むかしの侍みたいなさしちがえをやるわけにはいかん。そのかわりにね、すばらしいことがあるんだ。ね、探偵さん、きみはとんでもない見おとしをやっているぜ。
    フフフ……、わかるまい。この穴ぐらの中にはね、二つ三つの洋酒のたるがころがっている。きみはそれを見ただろうね。ところが、探偵さん。このたるの中には、いったい何がはいっていると思うね。
    フフフ……、おれはこういうこともあろうかと、ちゃんとわが身のしまつを考えておいたんだ。きみはさっき、この穴ぐらを墓場だといったっけねえ。いかにも墓場だよ。おれは墓場と知ってころがりこんだのさ。骨も肉もみじんも残さず、ふっとんでしまう墓場だぜ。
    わかるかい。火薬だよ。このたるの中にはいっぱい火薬がつまっているのさ。
    おれは刃物を持っていないけれど、マッチは持っているんだぜ。そいつをシュッとすって、たるの中に投げこめば、きみもおれも、たちまちこっぱみじんさ。フフフ……。」
    そして、二十面相は、その火薬のつまっているというたるを、ゴロゴロと穴ぐらのまんなかにころがして、そのふたをとろうとしているようすなのです。
    さすがの名探偵も、これにはアッと声をたてないではいられませんでした。
    「しまった。しまった。なぜあのたるの中をしらべて見なかったのだろう。」
    くやんでも、いまさらしかたがありません。
    いくらなんでも、二十面相の死の道づれになることはできないのです。名探偵には、まだまだ世の中のために、はたさなければならぬ仕事が、山のようにあるのです。逃げるほかにてだてはありません。探偵の足が早いか、賊が火薬のふたをあけ、火を点じるのが早いか、命がけの競争です。
    明智はパッととびあがると、まるで弾丸だんがんのように、地下室を走りぬけ、階段を三段ずつ一とびにかけあがって、洋館の玄関にかけだしました。ドアをひらくと、出あいがしらに、十数名の制服警官が、二十面相逮捕のために、いま屋内にはいろうとするところでした。
    「いけないっ、賊は火薬に火をつけるのです。早くお逃げなさい。」
    探偵は警官たちをつきとばすようにして、林の中へ走りこみました。あっけにとられた警官たちも、「火薬」ということばに、きもをつぶして、同じように林の中へ。
    「みんな、建物をはなれろ! 爆発がおこるんだ。早く、逃げるんだ。」
    建物の四ほうをとりまいていた警官隊は、そのただならぬさけび声に、みな丘のふもとへかけおりました。どうして、そんなよゆうがあったのか、あとになって考えてみると、ふしぎなほどでした。二十面相はたるのふたをあけるのにてまどったのでしょうか。それともマッチがしめってでもいたのでしょうか。ちょうど人々が危険区域から遠ざかったころ、やっと爆発がおこりました。
    それはまるで地震のような地ひびきでした。洋館ぜんたいが宙天ちゅうてんにふっとんだかとうたがわれるほどの大音響でした。でも、閉じていた目をおずおずとひらいてみると、賊のかくれがは、べつじょうなく目の前に立っていました。爆発はただ地下室から一階の床をつらぬいただけで、建物の外部には、なんの異状もないのでした。
    しかし、やがて、一階の窓から、黒い煙がムクムクと吹きだしはじめました。そして、それがだんだん濃くなって、建物をつつみはじめるころには、まっ赤なかえんが、まるで巨大な魔物の舌のように、どの窓からも、メラメラとたちのぼり、みるみる建物ぜんたいが火のかたまりとなってしまいました。
    このようにして、二十面相はさいごをとげたのでした。
    火災が終わってから、焼けあとのとりしらべがおこなわれたのは申すまでもありません。しかし、二十面相がいったとおり、肉も骨もこっぱみじんにくだけ散ってしまったのか、ふしぎなことに怪盗の死がいはもちろん、三人の部下の死がいも、まったく、発見することができませんでした。

    青空文庫より

  • 江戸川乱歩 少年探偵団24「「大爆発」」別役みか朗読

    15.40
    Oct 20, 2017

  • 江戸川乱歩「一枚の切符」二宮 隆朗読

    54.97
    Oct 16, 2017

    「イヤ、僕も多少は知っているさ。あれは先ず、近来の珍事だったからな。世間はあの噂で持切っている。が、多分君程詳敷くわしくはないんだ。少し話さないか」
    一人の青年紳士が、こういって、赤い血のしたたる肉の切れを口へ持って行った。
    「じゃ、一つ話すかな。オイ、ボーイさん、ビールの御代りだ」
    身形みなりの端正なのにそぐわず、髪の毛を馬鹿にモジャモジャとのばした、相手の青年は、次の様に語り出した。
    「時は――大正――年十月十日午前四時、所は――ちょうの町外れ、富田とみた博士邸裏の鉄道線路、これが舞台面だ。冬の、(イヤ、秋かな、マアどっちでもいいや)まだ薄暗いあかつきの、静寂せいじゃくを破って、上り第○号列車が驀進ばくしんして来たと思い給え。すると、どうした訳か、突然けたたましい警笛が鳴ったかと思うと、非常制動機の力で、列車は出し抜けに止められたが、少しの違いで車が止まる前に、一人の婦人が轢殺ひきころされてしまったんだ。僕はその現場げんじょうを見たんだがね。初めての経験だが、実際いやな気持のものだ。
    それが問題の博士令夫人だったのさ。車掌の急報で其筋そのすじの連中がやって来る。野次馬が集る。そのうちに誰れかが博士邸に知らせる、驚いた主人の博士や召使達が飛出して来る、丁度その騒ぎの最中へ、君も知っている様に、当時――町へ遊びに出掛けていた僕が、僕の習慣である所の、早朝の散歩の途次、通り合せたという訳さ。で、検死が始まる。警察医らしい男が傷口を検査する。一通り済むと直ぐに死体は博士邸へ担込かつぎこまれて了う。傍観者の眼には、きわめて簡単に、事は落着したようであった。
    僕の見たのはこれけだ。あとは新聞記事を綜合して、それに僕の想像を加えての話だから、その積りで聞いてくれ給え。さて警察医の観察によると、死因は無論轢死れきしであって、右の太腿を根許ねもとから切断されたのによるというのだ。そして、ことここに至った理由わけはというと、それを説明してれる所の、実に有力な手懸りが、死人の懐中から出て来た。それは夫人が夫博士に宛てた一通の書置かきおきであって中の文句は、永年の肺病で、自分も苦しみ、周囲にも迷惑を掛けていることが、最早や耐えられなくなったから、茲に覚悟の自殺をとげる。ザッとマアこういう意味だったのだ。実にありふれた事件だ。若し、ここに一人の名探偵が現れなかったなら、お話はそれでお仕舞で、博士夫人の厭世えんせい自殺とか何とか、三面記事の隅っこに小さい記事を留めるに過ぎなかったが、その名探偵のお蔭で、我々もすばらしい話題が出来たというものだ。