岡田慎平

  • 吉川英治「三国志」 三花一瓶一二 朗読岡田慎平

    吉川英治「三国志」 三花一瓶三四 朗読岡田慎平

    吉川英治「三国志」 三花一瓶五 六 朗読岡田慎平

    ぺい

     

    母と子は、仕事の庭に、きょうも他念なく、蓆機むしろばたに向って、蓆を織っていた。
    がたん……
    ことん
    がたん
    水車のまわるような単調な音がくり返されていた。
    だが、その音にも、きょうはなんとなく活気があり、歓喜のがあった。
    黙々、仕事に精だしてはいるが、母の胸にも、劉備りゅうびの心にも、今日この頃の大地のように、希望の芽が生々と息づいていた。
    ゆうべ。
    劉備は、城内の市から帰ってくると、まっ先に、二つの吉事を告げた。
    一人の良き友に出会った事と、かねて手放した家宝の剣が、計らず再び、自分の手へ返ってきた事と。
    そう二つの歓びを告げると、彼の母は、
    「一陽来復ようらいふく。おまえにも時節が来たらしいね。劉備や……心の支度もよいかえ」
    と、かえって静かに声を低め、劉備の覚悟をただすようにいった。
    時節。……そうだ。
    長い長い冬を経て、桃園の花もようやくつぼみを破っている。土からも草の芽、木々の枝からも緑の芽、生命のあるもので、え出ない物はなに一つない。
    がたん……
    ことん……
    蓆機むしろばたは単調な音をくりかえしているが、劉備の胸は単調でない。こんな春らしい春をおぼえたことはない。
    ――我は青年なり。
    空へ向って言いたいような気持である。いやいや、老いたる母の肩にさえ、どこからか舞ってきた桃花の一片ひとひらが、あかく点じているではないか。
    すると、どこかで、歌う者があった。十二、三歳の少女の声だった。

    ショウガ髪初メテヒタイオオ
    花ヲ折ッテ門前ニタワム
    ロウハ竹馬ニ騎シテキタ
    ショウメグッテ青梅ヲロウ

    劉備は、耳を澄ました。
    少女の美音は、近づいてきた。

    ……十四キミノ婦トッテ
    羞顔シュウガンイマカツテ開カズ
    十五初メテマユ
    願ワクバチリト灰トヲ共ニセン
    常ニ抱柱ホウチュウノ信ヲソン
    アニノボランヤ望夫台ボウフダイ
    十六キミ遠クヘ行ク

    近所に住む少女であった。早熟な彼女はまだ青いなつめみたいに小粒であったが、劉備の家のすぐ墻隣かきどなりの息子に恋しているらしく、星の晩だの、人気ない折の真昼などうかがっては、墻の外へきて、よく歌をうたっていた。
    「…………」
    劉備は、木蓮の花に黄金きん耳環みみわを通したような、少女のかおを眼にえがいて、隣の息子を、なんとなくうらやましく思った。
    そしてふと、自分の心の底からも一人の麗人を思い出していた。それは、三年前の旅行中、古塔の下であの折の老僧にひき合わされた鴻家こうけの息女、鴻芙蓉こうふようのその後の消息であった。
    ――どうしたろう。あれから先。
    張飛に訊けば、知っている筈である。こんど張飛に会ったら――など独り考えていた。
    すると、かきの外で、しきりに歌をうたっていた少女が、犬にでも噛まれたのか、突然、きゃっと悲鳴をあげて、どこかへ逃げて行った。

    青空文庫より

  • 芥川龍之介「カルメン」西村俊彦 岡田慎平 二宮隆朗読

    カルメン

    芥川龍之介

     革命ぜんだったか、革命後だったか、――いや、あれは革命前ではない。なぜまた革命前ではないかと言えば、僕は当時小耳こみみはさんだダンチェンコの洒落しゃれを覚えているからである。
    ある蒸し暑いあまもよいの、舞台監督のT君は、帝劇ていげき露台バルコニーたたずみながら、炭酸水たんさんすいのコップを片手に詩人のダンチェンコと話していた。あの亜麻色あまいろの髪の毛をした盲目もうもく詩人のダンチェンコとである。
    「これもやっぱり時勢ですね。はるばる露西亜ロシアのグランド・オペラが日本の東京へやって来ると言うのは。」
    「それはボルシェヴィッキはカゲキ派ですから。」
    この問答のあったのは確か初日から五日いつか目の晩、――カルメンが舞台へ登った晩である。僕はカルメンにふんするはずのイイナ・ブルスカアヤに夢中になっていた。イイナは目の大きい、小鼻の張った、肉感の強い女である。僕は勿論カルメンにふんするイイナをることを楽しみにしていた、が、第一幕が上ったのを見ると、カルメンに扮したのはイイナではない。水色の目をした、鼻の高い、なんとか云う貧相ひんそうな女優である。僕はT君と同じボックスにタキシイドの胸を並べながら、落胆らくたんしないわけには行かなかった。
    「カルメンは僕等のイイナじゃないね。」
    「イイナは今夜は休みだそうだ。その原因がまたすこぶるロマンティックでね。――」
    「どうしたんだ?」
    なんとか云う旧帝国の侯爵こうしゃくが一人、イイナのあとを追っかけて来てね、おととい東京へ着いたんだそうだ。ところがイイナはいつのまにか亜米利加アメリカ人の商人の世話になっている。そいつを見た侯爵は絶望したんだね、ゆうべホテルの自分の部屋で首をくくって死んじまったんだそうだ。」
    僕はこの話を聞いているうちに、ある場景じょうけいを思い出した。それはけたホテルの一室に大勢おおぜい男女なんにょかこまれたまま、トランプをもてあそんでいるイイナである。黒と赤との着物を着たイイナはジプシイうらないをしていると見え、T君にほほみかけながら、「今度はあなたのうんを見て上げましょう」と言った。(あるいは言ったのだと云うことである。ダア以外の露西亜ロシア語を知らない僕は勿論十二箇国の言葉に通じたT君に翻訳して貰うほかはない。)それからトランプをまくって見たのち、「あなたはあの人よりも幸福ですよ。あなたの愛する人と結婚出来ます」と言った。あの人と云うのはイイナの側に誰かと話していた露西亜ロシア人である。僕は不幸にも「あの人」の顔だの服装だのを覚えていない。わずかに僕が覚えているのは胸にしていた石竹せきちくだけである。イイナの愛を失ったために首をくくって死んだと云うのはあの晩の「あの人」ではなかったであろうか?……
    「それじゃ今夜は出ないはずだ。」
    い加減に外へ出て一杯いっぱいやるか?」
    T君も勿論イイナ党である。
    「まあ、もう一幕見て行こうじゃないか?」
    僕等がダンチェンコと話したりしたのは恐らくはこの幕合まくあいだったのであろう。
    次の幕も僕等には退屈だった。しかし僕等が席についてまだ五分とたたないうちに外国人が五六人ちょうど僕等の正面に当る向う側のボックスへはいって来た。しかも彼等のまっ先に立ったのはまぎれもないイイナ・ブルスカアヤである。イイナはボックスの一番前に坐り、孔雀くじゃくの羽根の扇を使いながら、悠々と舞台を眺め出した。のみならず同伴の外国人の男女なんにょと(その中には必ず彼女の檀那だんなの亜米利加人もまじっていたのであろう。)愉快そうに笑ったり話したりし出した。
    「イイナだね。」
    「うん、イイナだ。」
    僕等はとうとう最後の幕まで、――カルメンの死骸しがいようしたホセが、「カルメン! カルメン!」と慟哭どうこくするまで僕等のボックスを離れなかった。それは勿論舞台よりもイイナ・ブルスカアヤを見ていたためである。この男を殺したことを何とも思っていないらしい露西亜のカルメンを見ていたためである。

    ×          ×          ×

    それから二三日たったある晩、僕はあるレストランの隅にT君とテエブルを囲んでいた。
    「君はイイナがあの晩以来、確か左の薬指くすりゆび繃帯ほうたいしていたのに気がついているかい?」
    「そう云えば繃帯していたようだね。」
    「イイナはあの晩ホテルへ帰ると、……」
    駄目だめだよ、君、それを飲んじゃ。」
    僕はT君に注意した。薄い光のさしたグラスの中にはまだ小さい黄金虫こがねむしが一匹、仰向あおむけになってもがいていた。T君は白葡萄酒しろぶどうしゅゆかへこぼし、妙な顔をしてつけ加えた。
    「皿を壁へ叩きつけてね、そのまた欠片かけらをカスタネットの代りにしてね、指から血の出るのもかまわずにね、……」
    「カルメンのように踊ったのかい?」
    そこへ僕等の興奮とは全然つり合わない顔をした、頭の白い給仕が一人、静にさけの皿を運んで来た。……

  • 吉川英治「三国志」童学草舎一二 朗読岡田慎平


    吉川英治「三国志」童学草舎三四五 朗読岡田慎平

  • 谷崎潤一郎「恐怖」朗読岡田慎平

  • 岡田慎平朗読「白昼夢」江戸川乱歩

    あれは、白昼の悪夢であったか、それとも現実の出来事であったか。
    晩春の生暖い風が、オドロオドロと、火照ほてった頬に感ぜられる、蒸し暑い日の午後であった。
    用事があって通ったのか、散歩のみちすがらであったのか、それさえぼんやりとして思い出せぬけれど、私は、ある場末の、見る限り何処どこまでも何処までも、真直まっすぐに続いている、広いほこりっぽい大通りを歩いていた。
    洗いざらした単衣物ひとえものの様に白茶けた商家が、黙ってのきを並べていた。三尺のショーウインドウに、埃でだんだら染めにした小学生の運動シャツが下っていたり、碁盤の様に仕切った薄っぺらな木箱の中に、赤や黄や白や茶色などの、砂の様な種物を入れたのが、店一杯に並んでいたり、狭い薄暗い家中うちじゅうが、天井からどこから、自転車のフレームやタイヤで充満していたり、そして、それらの殺風景な家々の間に挟まって、細い格子戸の奥にすすけた御神燈の下った二階家が、そんなに両方から押しつけちゃいやだわという恰好をして、ボロンボロンと猥褻わいせつ三味線しゃみせんもらしていたりした。
    「アップク、チキリキ、アッパッパア……アッパッパア……」
    お下げを埃でお化粧した女の子達が、道の真中に輪を作って歌っていた。アッパッパアアアア……という涙ぐましい旋律が、霞んだ春の空へのんびりと蒸発して行った。
    男の子等は繩飛びをして遊んでいた。長い繩のつるが、ねばり強く地を叩いては、空に上った。田舎縞の前をはだけた一人の子が、ピョイピョイと飛んでいた。その光景ありさまは、高速度撮影機を使った活動写真の様に、如何にも悠長に見えた。
    時々、重い荷馬車がゴロゴロと道路や、家々を震動させて私を追い越した。
    ふと私は、行手に当って何かが起っているのを知った。十四五人の大人や子供が、道ばたに不規則な半円を描いて立止っていた。
    それらの人々の顔には、皆一種の笑いが浮んでいた。喜劇を見ている人の笑いが浮んでいた。ある者は大口を開いてゲラゲラ笑っていた。
    好奇心が、私をそこへ近付かせた。
    近付ちかづくに従って、大勢の笑顔と際立った対照を示している一つの真面目くさった顔を発見した。その青ざめた顔は、口をとがらせて、何事か熱心に弁じ立てていた。香具師やしの口上にしては余りに熱心過ぎた。宗教家の辻説法にしては見物の態度が不謹慎だった。一体、これは何事が始まっているのだ。
    私は知らず知らず半円の群集に混って、聴聞者の一人となっていた。
    演説者は、青っぽいくすんだ色のセルに、黄色の角帯をキチンと締めた、風采ふうさいのよい、見た所相当教養もありそうな四十男であった。かつらの様に綺麗に光らせた頭髪かみの下に、中高なかだか薤形らっきょうがたの青ざめた顔、細い眼、立派な口髭でくまどった真赤なくちびる、その脣が不作法につばきを飛ばしてバクバク動いているのだ。汗をかいた高い鼻、そして、着物の裾からは、砂埃にまみれた跣足はだしの足が覗いていた。

  • 吉川英治 岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻 桑の家一 二

    吉川英治 岡田慎平朗読,「三国志」桃園の巻 桑の家 三 四

    吉川英治 岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻 桑の家五.六

    吉川英治 岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻 桑の家 七 八 九

    桑の家

    ※(「さんずい+(冢-冖)」、第3水準1-86-80)たくけん楼桑村ろうそうそんは、戸数二、三百の小駅であったが、春秋は北から南へ、南から北へと流れる旅人の多くが、この宿場でをつなぐので、酒を売る旗亭きていもあれば、胡弓こきゅうくひなびたおんななどもいて相当に賑わっていた。
    この地はまた、太守たいしゅ劉焉りゅうえんの領内で、校尉こうい鄒靖すうせいという代官が役所をおいて支配していたが、なにぶん、近年の物情騒然たる黄匪こうひ跳梁ちょうりょうおびやかされているので、楼桑村も例にもれず、夕方になると明るいうちから村はずれの城門をかたく閉めて、旅人も居住者も、いっさいの往来は止めてしまった。
    城門の鉄扉てっぴが閉まる時刻は、大陸の西※(「涯のつくり」、第3水準1-14-82)さいがいにまっ赤な太陽が沈みかける頃で、望楼の役人が、六つのを叩くのが合図だった。
    だからこの辺の住民は、そこの門のことを、六鼓門こもんと呼んでいたが、今日もまた、赤い夕陽が鉄のにさしかける頃、望楼の鼓が、もう二つ三つ四つ……と鳴りかけていた。
    「待って下さい。待って下さいっ」
    彼方から驢を飛ばしてきたひとりの旅人は、危うく一足ちがいで、一夜を城門の外に明かさなければならない間ぎわだったので、手をあげながら馳けてきた。
    最後の鼓の一つが鳴ろうとした時、からくも旅人は、城門へ着いて、
    「おねがい致します。通行をおゆるし下さいまし」
    と、驢をそこで降りて、型のごとく関門かんもん調べを受けた。
    役人は、旅人の顔を見ると、「やあ、お前は劉備りゅうびじゃないか」と、いった。
    劉備は、ここ楼桑村の住民なので、誰とも顔見知りだった。
    「そうです。今、旅先から帰って参ったところです」
    「お前なら、顔が手形てがただ、何も調べはいらないが、いったい何処へ行ったのだ。こんどの旅はまた、ばかに長かったじゃないか」
    「はい、いつもの商用ですが、なにぶん、どこへ行っても近頃は、黄匪こうひの横行で、思うようにあきないもできなかったものですから」
    「そうだろう。関門を通る旅人も、毎日へるばかりだ。さあ、早く通れ」
    「ありがとう存じます」
    再び驢にのりかけると、
    「そうそう、お前の母親だろう、よく関門まで来ては、きょうもまだ息子は帰りませぬか、今日も劉備は通りませぬかと、夕方になると訊ねにきたのが、この頃すがたが見えぬと思ったらわずらって寝ているのだぞ。はやく帰って顔を見せてやるがよい」
    「えっ。では母は、留守中に、病気で寝ておりますか」
    劉備はにわかに胸さわぎを覚え、驢を急がせて、関門から城内へ馳けた。
    久しく見ない町の暮色にも、眼もくれないで彼は驢を家路へ向けた。道幅の狭い、そして短い宿場町はすぐとぎれて、道はふたたび悠長な田園へかかる。
    ゆるい小川がある。水田がある。秋なのでもう村の人々は刈入れにかかっていた。そして所々に見える農家のほうへと、田の人影も水牛の影も戻って行く。
    「ああ、わが家が見える」
    劉備は、驢の上から手をかざした。うすずのなかに黒くぽつんと見える一つの屋根と、そして遠方から見ると、まるで大きな車蓋しゃがいのように見える桑の木。劉備の生れた家なのである。
    「どんなに自分をお待ちなされておることやら。……思えば、わしは孝養を励むつもりで、実は不孝ばかり重ねているようなもの。母上、済みません」
    彼の心を知るか、驢も足を早めて、やがてなつかしい桑の大樹の下までたどりついた。

    青空文庫より

  • 岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻吉川英治 張飛卒三


    岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻吉川英治 張飛卒四

    三国志

    桃園の巻

    吉川英治

    卒の張飛が、いきなり李朱氾をつまみ上げて、宙へ投げ飛ばしたので、
    「やっ、こいつが」と、賊の小方たちは、劉備もそっちのけにして、彼へ総掛りになった。
    「やい張卒、なんで貴様は、味方の李小方を投げおったか。また、おれ達のすることを邪魔だてするかっ」
    「ゆるさんぞ。ふざけた真似すると」
    「党の軍律に照らして、成敗してくれる。それへ直れ」
    ひしめき寄ると、張は、
    「わははははは。吠えろ吠えろ。きもをつぶした野良犬めらが」
    「なに、野良犬だと」
    「そうだ。その中に一匹でも、人間らしいのがおるつもりか」
    「うぬ。新米しんまいの卒の分際で」
    おめいた一人が、槍もろとも、躍りかかると、張飛は、団扇うちわのような大きな手で、その横顔をはりつけるや否や、槍を引ッたくって、よろめく尻をしたたかに打ちのめした。
    槍の柄は折れ、打たれた賊は、腰骨がくだけたように、ぎゃっともんどり打った。
    思わぬ裏切者が出て、賊は狼狽したが、日頃から図抜けた巨漢おおおとこの鈍物と、小馬鹿にしていた卒なので、その怪力を眼に見ても、まだ張飛の真価を信じられなかった。
    張飛は、さながら岩壁のような胸いたをそらして、
    「まだ来るか。むだ生命いのちを捨てるより、おとなしく逃げ帰って、鴻家こうけの姫と劉備りゅうびの身は、先頃、県城を焼かれて鴻家の亡びた時、降参といつわって、黄巾賊の卒にはいっていた張飛という者の手に渡しましたと、有態ありていに報告しておけ」
    青空文庫より

  • 海渡みなみ朗読、六の宮の姫君 芥川龍之介

    六の宮の姫君

    芥川龍之介

    六の宮の姫君の父は、古い宮腹みやばらの生れだつた。が、時勢にも遅れ勝ちな、昔気質むかしかたぎの人だつたから、官も兵部大輔ひやうぶのたいふより昇らなかつた。姫君はさう云ふ父母ちちははと一しよに、六の宮のほとりにある、木高こだか屋形やかたに住まつてゐた。六の宮の姫君と云ふのは、その土地の名前につたのだつた。
    父母は姫君を寵愛ちようあいした。しかしやはり昔風に、進んでは誰にもめあはせなかつた。誰か云ひ寄る人があればと、心待ちに待つばかりだつた。姫君も父母の教へ通り、つつましい朝夕を送つてゐた。それは悲しみも知らないと同時に、喜びも知らない生涯だつた。が、世間見ずの姫君は、格別不満も感じなかつた。「父母さへ達者でゐてくれれば好い。」――姫君はさう思つてゐた。
    古い池に枝垂しだれた桜は、年毎に乏しい花を開いた。その内に姫君も何時いつの間にか、大人寂おとなさびた美しさを具へ出した。が、頼みに思つた父は、年頃酒を過ごした為に、突然故人になつてしまつた。のみならず母も半年ほどの内に、返らない歎きを重ねた揚句、とうとう父の跡を追つて行つた。姫君は悲しいと云ふよりも、途方に暮れずにはゐられなかつた。実際ふところ子の姫君にはたつた一人の乳母うばの外に、たよるものは何もないのだつた。
    乳母はけなげにも姫君の為に、骨身を惜まず働き続けた。が、家に持ち伝へた螺鈿らでん手筥てばこや白がねの香炉は、何時か一つづつ失はれて行つた。と同時に召使ひの男女も、誰からか暇をとり始めた。姫君にも暮らしのつらい事は、だんだんはつきりわかるやうになつた。しかしそれをどうする事も、姫君の力には及ばなかつた。姫君は寂しい屋形のたいに、やはり昔と少しも変らず、琴を引いたり歌をんだり、単調な遊びを繰返してゐた。
    すると或秋の夕ぐれ、乳母は姫君の前へ出ると、考へ考へこんな事を云つた。
    をひの法師の頼みますには、丹波たんば前司ぜんじなにがしの殿が、あなた様に会はせて頂きたいとか申して居るさうでございます。前司はかたちも美しい上、心ばへも善いさうでございますし、前司の父も受領ずりやうとは申せ、近い上達部かんだちめの子でもございますから、お会ひになつては如何いかがでございませう? かやうに心細い暮しをなさいますよりも、少しはしかと存じますが。……」
    姫君は忍びに泣き初めた。その男に肌身を任せるのは、不如意な暮しをたすける為に、体を売るのも同様だつた。勿論それも世の中には多いと云ふ事は承知してゐた。が、現在さうなつて見ると、悲しさは又格別だつた。姫君は乳母と向き合つた儘、くずの葉を吹き返す風の中に、何時までも袖を顔にしてゐた。……

    青空文庫より

  • 青空文庫名作文学の朗読 朗読カフェ 宮沢賢治 いちょうの実

    西村俊彦/二宮隆朗読「一人舞台」ストリンドベルヒ August Strindberg 森鴎外訳


    岡田慎平朗読 菊池寛「形」


    別役みか朗読島崎藤村「足袋」

     

  • 岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻吉川英治

    どういう悪日とわるい方位をたどってきたものだろうか。
    黄河のほとりから、ここまでの間というものは、劉備は、幾たび死線を彷徨ほうこうしたことか知れない。これでもかこれでもかと、彼を試さんとする百難が、次々に形を変えて待ちかまえているようだった。
    「もうこれまで」
    劉備もついに観念した。避けようもない賊の包囲だ。斬りじにせんものと覚悟をきめた。
    けれど身には寸鉄も帯びていない。少年時代から片時もはなさず持っていた父の遺物かたみの剣も、先に賊将の馬元義にられてしまった。
    劉備は、しかし、
    「ただは死なぬ」と思い、石ころをつかむが早いか、近づく者の顔へ投げつけた。
    見くびっていた賊の一名は、不意を喰らって、
    「あッ」と、鼻ばしらをおさえた。
    劉備は、飛びついて、その槍を奪った。そして大音に、
    「四民を悩ます害虫ども、もはやゆるしはおかぬ。※(「さんずい+(冢-冖)」、第3水準1-86-80)たくけん劉備玄徳りゅうびげんとくが腕のほどを見よや」
    といって、捨身になった。
    賊の小方、李朱氾りしゅはんは笑って、
    「この百姓めが」と半月槍をふるってきた。
    もとより劉備はさして武術の達人ではない。田舎の楼桑村ろうそうそんで、多少の武技の稽古はしたこともあるが、それとて程の知れたものだ。武技を磨いて身を立てることよりも、むしろを織って母を養うことのほうが常に彼の急務であった。
    でも、必死になって、七人の賊を相手に、ややしばらくは、一命をささえていたが、そのうちに、槍を打落され、よろめいて倒れたところを、李朱氾に馬のりに組み敷かれて、李の大剣は、ついに、彼の胸いたに突きつけられた。

     

    張飛卒ちょうひそつ

    白馬は疎林そりんの細道を西北へ向ってまっしぐらに駆けて行った。秋風に舞う木の葉は、鞍上の劉備りゅうび芙蓉ふようの影を、征箭そやのようにかすめた。
    やがてひろい野に出た。
    野に出ても、二人の身をなお、うなりがかすめた。今度のは木の葉のそれではなく、鋭いやじりをもった鉄弓の矢であった。
    「オ。あれへ行くぞ」
    「女をのせて――」
    「では違うのか」
    「いや、やはり劉備だ」
    「どっちでもいい。逃がすな。女も逃がすな」
    賊兵の声々であった。
    疎林の陰を出たとたんに、黄巾賊の一隊は早くも見つけてしまったのである。
    獣群の声が、ときをつくって、白馬の影を追いつめて来た。
    劉備は、振り向いて、
    「しまった!」
    思わずつぶやいたので、彼と白馬の脚とを唯一の頼みにしがみついていた芙蓉は、
    「ああ、もう……」
    消え入るようにおののいた。
    万が一つも、助からぬものとは観念しながらも、劉備は励まして、
    「大丈夫、大丈夫。ただ、振り落されないように、駒のたてがみと、私の帯に、必死でつかまっておいでなさい」と、いって、むち打った。
    芙蓉はもう返事もしない。ぐったりと鬣に顔をうつ伏せている。その容貌かんばせの白さはおののく白芙蓉びゃくふようの花そのままだった。

     

    劉備りゅうびが、眼をくばると、
    「いや、動かぬがよい。しばらくは、かえってここに、じっとしていたほうが……」
    と、老僧が彼の袖をとらえ、そんな危急の中になお、語りつづけた。
    県の城長の娘は、名を芙蓉ふようといい姓はこうということ。また、今夜近くの河畔にきて宿陣している県軍は、きっと先に四散した城長の家臣が、残兵を集めて、黄巾賊へ報復を計っているに違いないということ。
    だから、芙蓉の身を、そこまで届けてくれさえすれば、後は以前の家来たちが守護してくれる――白馬の背へ二人してのって、抜け道から一気に逃げのびて行くように――と、いのるようにいうのだった。

     

     足の先で、短剣を寄せた。そしてようやく、それを手にして、自身の縄目を断ち切ると、劉備は、窓の下に立った。

    (早く。早く)といわんばかりに、無言の縄は外から意志を伝えて、ゆれうごいている。
    劉備は、それにつかまった。石壁に足をかけて、窓から外を見た。
    「……オオ」
    外にたたずんでいたのは、昼間、ただひとりで※(「碌のつくり」、第3水準1-84-27)きょくろくに腰かけていたあの老僧だ。骨と皮ばかりのような彼の細い影であった。
    「――今だよ」
    その手がさしまねく。
    劉備はすぐ地上へ跳びおりた。待っていた老僧は、彼の身を抱えるようにして、物もいわず馳けだした。
    寺の裏に、疎林そりんがあった。樹の間の細道さえ、銀河の秋はほの明るい。
    「老僧、老僧。いったいどっちへ逃げるんですか」
    「まだ、逃げるのじゃない」
    「では、どうするんです」
    「あのとうまで行ってもらうのじゃよ」
    走りながら、老僧は指さした。
    見るとなるほど、疎林の奥に、疎林のこずえよりも、高くそびえている古い塔がある。老僧は、あわただしく古塔のをひらいて中へ隠れた。そしてあんなに急いだのに、なかなか出てこなかった。
    「どうしたのだろう?」
    劉備は気を揉んでいる。そして賊兵が追ってきはしまいかと、あちこち見まわしているとやがて、
    「青年、青年」
    小声で呼びながら、塔の中から老僧は何かひきながら出てきた。
    「おや?」
    劉備は眼をみはった。老僧が引っぱっているのは駒の手綱だった。銀毛のように美しい白馬がひかれだしたのである。

     

    劉備はいましめられて、斎堂さいどうの丸柱にくくりつけられた。
    そこは床に瓦を敷き詰め、太い丸柱と、小さい窓しかない石室だった。
    「やい劉。貴様は、おれの眼をかすめて、逃げようとしたそうだな。察するところ、てめえは官の密偵だろう。いいや違えねえ。きっと県軍のまわし者だ。――今夜、十里ほど先まで、県軍がきて野陣を張っているそうだから、それへ連絡を取るために、け出そうとしたのだろう」
    馬元義と李朱氾は、かわるがわるに来て、彼を拷問ごうもんした。
    「――道理で、貴様の面がまえは、凡者ただものでないはずだ。県軍のまわし者でなければ、洛陽の直属の隠密か。いずれにしても、官人だろうてめえは。――さ、泥を吐け。いわねば、痛い思いをするだけだぞ」
    しまいには、馬と李と、二人がかりで、劉を蹴ってののしった。
    劉は一口も物をいわなかった。こうなったからには、天命にまかせようと観念しているふうだった。
    「こりゃひと筋縄では口をあかんぞ」
    李は、持てあまし気味に、へ向ってこう提議した。

    青空文庫より