岡田慎平

  • 岡田慎平朗読「白昼夢」江戸川乱歩

    あれは、白昼の悪夢であったか、それとも現実の出来事であったか。
    晩春の生暖い風が、オドロオドロと、火照ほてった頬に感ぜられる、蒸し暑い日の午後であった。
    用事があって通ったのか、散歩のみちすがらであったのか、それさえぼんやりとして思い出せぬけれど、私は、ある場末の、見る限り何処どこまでも何処までも、真直まっすぐに続いている、広いほこりっぽい大通りを歩いていた。
    洗いざらした単衣物ひとえものの様に白茶けた商家が、黙ってのきを並べていた。三尺のショーウインドウに、埃でだんだら染めにした小学生の運動シャツが下っていたり、碁盤の様に仕切った薄っぺらな木箱の中に、赤や黄や白や茶色などの、砂の様な種物を入れたのが、店一杯に並んでいたり、狭い薄暗い家中うちじゅうが、天井からどこから、自転車のフレームやタイヤで充満していたり、そして、それらの殺風景な家々の間に挟まって、細い格子戸の奥にすすけた御神燈の下った二階家が、そんなに両方から押しつけちゃいやだわという恰好をして、ボロンボロンと猥褻わいせつ三味線しゃみせんもらしていたりした。
    「アップク、チキリキ、アッパッパア……アッパッパア……」
    お下げを埃でお化粧した女の子達が、道の真中に輪を作って歌っていた。アッパッパアアアア……という涙ぐましい旋律が、霞んだ春の空へのんびりと蒸発して行った。
    男の子等は繩飛びをして遊んでいた。長い繩のつるが、ねばり強く地を叩いては、空に上った。田舎縞の前をはだけた一人の子が、ピョイピョイと飛んでいた。その光景ありさまは、高速度撮影機を使った活動写真の様に、如何にも悠長に見えた。
    時々、重い荷馬車がゴロゴロと道路や、家々を震動させて私を追い越した。
    ふと私は、行手に当って何かが起っているのを知った。十四五人の大人や子供が、道ばたに不規則な半円を描いて立止っていた。
    それらの人々の顔には、皆一種の笑いが浮んでいた。喜劇を見ている人の笑いが浮んでいた。ある者は大口を開いてゲラゲラ笑っていた。
    好奇心が、私をそこへ近付かせた。
    近付ちかづくに従って、大勢の笑顔と際立った対照を示している一つの真面目くさった顔を発見した。その青ざめた顔は、口をとがらせて、何事か熱心に弁じ立てていた。香具師やしの口上にしては余りに熱心過ぎた。宗教家の辻説法にしては見物の態度が不謹慎だった。一体、これは何事が始まっているのだ。
    私は知らず知らず半円の群集に混って、聴聞者の一人となっていた。
    演説者は、青っぽいくすんだ色のセルに、黄色の角帯をキチンと締めた、風采ふうさいのよい、見た所相当教養もありそうな四十男であった。かつらの様に綺麗に光らせた頭髪かみの下に、中高なかだか薤形らっきょうがたの青ざめた顔、細い眼、立派な口髭でくまどった真赤なくちびる、その脣が不作法につばきを飛ばしてバクバク動いているのだ。汗をかいた高い鼻、そして、着物の裾からは、砂埃にまみれた跣足はだしの足が覗いていた。

  • 吉川英治 岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻 桑の家一 二

    吉川英治 岡田慎平朗読,「三国志」桃園の巻 桑の家 三 四

    吉川英治 岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻 桑の家五.六

    吉川英治 岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻 桑の家 七 八 九

    桑の家

    ※(「さんずい+(冢-冖)」、第3水準1-86-80)たくけん楼桑村ろうそうそんは、戸数二、三百の小駅であったが、春秋は北から南へ、南から北へと流れる旅人の多くが、この宿場でをつなぐので、酒を売る旗亭きていもあれば、胡弓こきゅうくひなびたおんななどもいて相当に賑わっていた。
    この地はまた、太守たいしゅ劉焉りゅうえんの領内で、校尉こうい鄒靖すうせいという代官が役所をおいて支配していたが、なにぶん、近年の物情騒然たる黄匪こうひ跳梁ちょうりょうおびやかされているので、楼桑村も例にもれず、夕方になると明るいうちから村はずれの城門をかたく閉めて、旅人も居住者も、いっさいの往来は止めてしまった。
    城門の鉄扉てっぴが閉まる時刻は、大陸の西※(「涯のつくり」、第3水準1-14-82)さいがいにまっ赤な太陽が沈みかける頃で、望楼の役人が、六つのを叩くのが合図だった。
    だからこの辺の住民は、そこの門のことを、六鼓門こもんと呼んでいたが、今日もまた、赤い夕陽が鉄のにさしかける頃、望楼の鼓が、もう二つ三つ四つ……と鳴りかけていた。
    「待って下さい。待って下さいっ」
    彼方から驢を飛ばしてきたひとりの旅人は、危うく一足ちがいで、一夜を城門の外に明かさなければならない間ぎわだったので、手をあげながら馳けてきた。
    最後の鼓の一つが鳴ろうとした時、からくも旅人は、城門へ着いて、
    「おねがい致します。通行をおゆるし下さいまし」
    と、驢をそこで降りて、型のごとく関門かんもん調べを受けた。
    役人は、旅人の顔を見ると、「やあ、お前は劉備りゅうびじゃないか」と、いった。
    劉備は、ここ楼桑村の住民なので、誰とも顔見知りだった。
    「そうです。今、旅先から帰って参ったところです」
    「お前なら、顔が手形てがただ、何も調べはいらないが、いったい何処へ行ったのだ。こんどの旅はまた、ばかに長かったじゃないか」
    「はい、いつもの商用ですが、なにぶん、どこへ行っても近頃は、黄匪こうひの横行で、思うようにあきないもできなかったものですから」
    「そうだろう。関門を通る旅人も、毎日へるばかりだ。さあ、早く通れ」
    「ありがとう存じます」
    再び驢にのりかけると、
    「そうそう、お前の母親だろう、よく関門まで来ては、きょうもまだ息子は帰りませぬか、今日も劉備は通りませぬかと、夕方になると訊ねにきたのが、この頃すがたが見えぬと思ったらわずらって寝ているのだぞ。はやく帰って顔を見せてやるがよい」
    「えっ。では母は、留守中に、病気で寝ておりますか」
    劉備はにわかに胸さわぎを覚え、驢を急がせて、関門から城内へ馳けた。
    久しく見ない町の暮色にも、眼もくれないで彼は驢を家路へ向けた。道幅の狭い、そして短い宿場町はすぐとぎれて、道はふたたび悠長な田園へかかる。
    ゆるい小川がある。水田がある。秋なのでもう村の人々は刈入れにかかっていた。そして所々に見える農家のほうへと、田の人影も水牛の影も戻って行く。
    「ああ、わが家が見える」
    劉備は、驢の上から手をかざした。うすずのなかに黒くぽつんと見える一つの屋根と、そして遠方から見ると、まるで大きな車蓋しゃがいのように見える桑の木。劉備の生れた家なのである。
    「どんなに自分をお待ちなされておることやら。……思えば、わしは孝養を励むつもりで、実は不孝ばかり重ねているようなもの。母上、済みません」
    彼の心を知るか、驢も足を早めて、やがてなつかしい桑の大樹の下までたどりついた。

    青空文庫より

  • 岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻吉川英治 張飛卒三


    岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻吉川英治 張飛卒四

    三国志

    桃園の巻

    吉川英治

    卒の張飛が、いきなり李朱氾をつまみ上げて、宙へ投げ飛ばしたので、
    「やっ、こいつが」と、賊の小方たちは、劉備もそっちのけにして、彼へ総掛りになった。
    「やい張卒、なんで貴様は、味方の李小方を投げおったか。また、おれ達のすることを邪魔だてするかっ」
    「ゆるさんぞ。ふざけた真似すると」
    「党の軍律に照らして、成敗してくれる。それへ直れ」
    ひしめき寄ると、張は、
    「わははははは。吠えろ吠えろ。きもをつぶした野良犬めらが」
    「なに、野良犬だと」
    「そうだ。その中に一匹でも、人間らしいのがおるつもりか」
    「うぬ。新米しんまいの卒の分際で」
    おめいた一人が、槍もろとも、躍りかかると、張飛は、団扇うちわのような大きな手で、その横顔をはりつけるや否や、槍を引ッたくって、よろめく尻をしたたかに打ちのめした。
    槍の柄は折れ、打たれた賊は、腰骨がくだけたように、ぎゃっともんどり打った。
    思わぬ裏切者が出て、賊は狼狽したが、日頃から図抜けた巨漢おおおとこの鈍物と、小馬鹿にしていた卒なので、その怪力を眼に見ても、まだ張飛の真価を信じられなかった。
    張飛は、さながら岩壁のような胸いたをそらして、
    「まだ来るか。むだ生命いのちを捨てるより、おとなしく逃げ帰って、鴻家こうけの姫と劉備りゅうびの身は、先頃、県城を焼かれて鴻家の亡びた時、降参といつわって、黄巾賊の卒にはいっていた張飛という者の手に渡しましたと、有態ありていに報告しておけ」
    青空文庫より

  • 海渡みなみ朗読、六の宮の姫君 芥川龍之介

    六の宮の姫君

    芥川龍之介

    六の宮の姫君の父は、古い宮腹みやばらの生れだつた。が、時勢にも遅れ勝ちな、昔気質むかしかたぎの人だつたから、官も兵部大輔ひやうぶのたいふより昇らなかつた。姫君はさう云ふ父母ちちははと一しよに、六の宮のほとりにある、木高こだか屋形やかたに住まつてゐた。六の宮の姫君と云ふのは、その土地の名前につたのだつた。
    父母は姫君を寵愛ちようあいした。しかしやはり昔風に、進んでは誰にもめあはせなかつた。誰か云ひ寄る人があればと、心待ちに待つばかりだつた。姫君も父母の教へ通り、つつましい朝夕を送つてゐた。それは悲しみも知らないと同時に、喜びも知らない生涯だつた。が、世間見ずの姫君は、格別不満も感じなかつた。「父母さへ達者でゐてくれれば好い。」――姫君はさう思つてゐた。
    古い池に枝垂しだれた桜は、年毎に乏しい花を開いた。その内に姫君も何時いつの間にか、大人寂おとなさびた美しさを具へ出した。が、頼みに思つた父は、年頃酒を過ごした為に、突然故人になつてしまつた。のみならず母も半年ほどの内に、返らない歎きを重ねた揚句、とうとう父の跡を追つて行つた。姫君は悲しいと云ふよりも、途方に暮れずにはゐられなかつた。実際ふところ子の姫君にはたつた一人の乳母うばの外に、たよるものは何もないのだつた。
    乳母はけなげにも姫君の為に、骨身を惜まず働き続けた。が、家に持ち伝へた螺鈿らでん手筥てばこや白がねの香炉は、何時か一つづつ失はれて行つた。と同時に召使ひの男女も、誰からか暇をとり始めた。姫君にも暮らしのつらい事は、だんだんはつきりわかるやうになつた。しかしそれをどうする事も、姫君の力には及ばなかつた。姫君は寂しい屋形のたいに、やはり昔と少しも変らず、琴を引いたり歌をんだり、単調な遊びを繰返してゐた。
    すると或秋の夕ぐれ、乳母は姫君の前へ出ると、考へ考へこんな事を云つた。
    をひの法師の頼みますには、丹波たんば前司ぜんじなにがしの殿が、あなた様に会はせて頂きたいとか申して居るさうでございます。前司はかたちも美しい上、心ばへも善いさうでございますし、前司の父も受領ずりやうとは申せ、近い上達部かんだちめの子でもございますから、お会ひになつては如何いかがでございませう? かやうに心細い暮しをなさいますよりも、少しはしかと存じますが。……」
    姫君は忍びに泣き初めた。その男に肌身を任せるのは、不如意な暮しをたすける為に、体を売るのも同様だつた。勿論それも世の中には多いと云ふ事は承知してゐた。が、現在さうなつて見ると、悲しさは又格別だつた。姫君は乳母と向き合つた儘、くずの葉を吹き返す風の中に、何時までも袖を顔にしてゐた。……

    青空文庫より

  • 青空文庫名作文学の朗読 朗読カフェ 宮沢賢治 いちょうの実

    西村俊彦/二宮隆朗読「一人舞台」ストリンドベルヒ August Strindberg 森鴎外訳


    岡田慎平朗読 菊池寛「形」


    別役みか朗読島崎藤村「足袋」

     

  • 岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻吉川英治

    どういう悪日とわるい方位をたどってきたものだろうか。
    黄河のほとりから、ここまでの間というものは、劉備は、幾たび死線を彷徨ほうこうしたことか知れない。これでもかこれでもかと、彼を試さんとする百難が、次々に形を変えて待ちかまえているようだった。
    「もうこれまで」
    劉備もついに観念した。避けようもない賊の包囲だ。斬りじにせんものと覚悟をきめた。
    けれど身には寸鉄も帯びていない。少年時代から片時もはなさず持っていた父の遺物かたみの剣も、先に賊将の馬元義にられてしまった。
    劉備は、しかし、
    「ただは死なぬ」と思い、石ころをつかむが早いか、近づく者の顔へ投げつけた。
    見くびっていた賊の一名は、不意を喰らって、
    「あッ」と、鼻ばしらをおさえた。
    劉備は、飛びついて、その槍を奪った。そして大音に、
    「四民を悩ます害虫ども、もはやゆるしはおかぬ。※(「さんずい+(冢-冖)」、第3水準1-86-80)たくけん劉備玄徳りゅうびげんとくが腕のほどを見よや」
    といって、捨身になった。
    賊の小方、李朱氾りしゅはんは笑って、
    「この百姓めが」と半月槍をふるってきた。
    もとより劉備はさして武術の達人ではない。田舎の楼桑村ろうそうそんで、多少の武技の稽古はしたこともあるが、それとて程の知れたものだ。武技を磨いて身を立てることよりも、むしろを織って母を養うことのほうが常に彼の急務であった。
    でも、必死になって、七人の賊を相手に、ややしばらくは、一命をささえていたが、そのうちに、槍を打落され、よろめいて倒れたところを、李朱氾に馬のりに組み敷かれて、李の大剣は、ついに、彼の胸いたに突きつけられた。

     

    張飛卒ちょうひそつ

    白馬は疎林そりんの細道を西北へ向ってまっしぐらに駆けて行った。秋風に舞う木の葉は、鞍上の劉備りゅうび芙蓉ふようの影を、征箭そやのようにかすめた。
    やがてひろい野に出た。
    野に出ても、二人の身をなお、うなりがかすめた。今度のは木の葉のそれではなく、鋭いやじりをもった鉄弓の矢であった。
    「オ。あれへ行くぞ」
    「女をのせて――」
    「では違うのか」
    「いや、やはり劉備だ」
    「どっちでもいい。逃がすな。女も逃がすな」
    賊兵の声々であった。
    疎林の陰を出たとたんに、黄巾賊の一隊は早くも見つけてしまったのである。
    獣群の声が、ときをつくって、白馬の影を追いつめて来た。
    劉備は、振り向いて、
    「しまった!」
    思わずつぶやいたので、彼と白馬の脚とを唯一の頼みにしがみついていた芙蓉は、
    「ああ、もう……」
    消え入るようにおののいた。
    万が一つも、助からぬものとは観念しながらも、劉備は励まして、
    「大丈夫、大丈夫。ただ、振り落されないように、駒のたてがみと、私の帯に、必死でつかまっておいでなさい」と、いって、むち打った。
    芙蓉はもう返事もしない。ぐったりと鬣に顔をうつ伏せている。その容貌かんばせの白さはおののく白芙蓉びゃくふようの花そのままだった。

     

    劉備りゅうびが、眼をくばると、
    「いや、動かぬがよい。しばらくは、かえってここに、じっとしていたほうが……」
    と、老僧が彼の袖をとらえ、そんな危急の中になお、語りつづけた。
    県の城長の娘は、名を芙蓉ふようといい姓はこうということ。また、今夜近くの河畔にきて宿陣している県軍は、きっと先に四散した城長の家臣が、残兵を集めて、黄巾賊へ報復を計っているに違いないということ。
    だから、芙蓉の身を、そこまで届けてくれさえすれば、後は以前の家来たちが守護してくれる――白馬の背へ二人してのって、抜け道から一気に逃げのびて行くように――と、いのるようにいうのだった。

     

     足の先で、短剣を寄せた。そしてようやく、それを手にして、自身の縄目を断ち切ると、劉備は、窓の下に立った。

    (早く。早く)といわんばかりに、無言の縄は外から意志を伝えて、ゆれうごいている。
    劉備は、それにつかまった。石壁に足をかけて、窓から外を見た。
    「……オオ」
    外にたたずんでいたのは、昼間、ただひとりで※(「碌のつくり」、第3水準1-84-27)きょくろくに腰かけていたあの老僧だ。骨と皮ばかりのような彼の細い影であった。
    「――今だよ」
    その手がさしまねく。
    劉備はすぐ地上へ跳びおりた。待っていた老僧は、彼の身を抱えるようにして、物もいわず馳けだした。
    寺の裏に、疎林そりんがあった。樹の間の細道さえ、銀河の秋はほの明るい。
    「老僧、老僧。いったいどっちへ逃げるんですか」
    「まだ、逃げるのじゃない」
    「では、どうするんです」
    「あのとうまで行ってもらうのじゃよ」
    走りながら、老僧は指さした。
    見るとなるほど、疎林の奥に、疎林のこずえよりも、高くそびえている古い塔がある。老僧は、あわただしく古塔のをひらいて中へ隠れた。そしてあんなに急いだのに、なかなか出てこなかった。
    「どうしたのだろう?」
    劉備は気を揉んでいる。そして賊兵が追ってきはしまいかと、あちこち見まわしているとやがて、
    「青年、青年」
    小声で呼びながら、塔の中から老僧は何かひきながら出てきた。
    「おや?」
    劉備は眼をみはった。老僧が引っぱっているのは駒の手綱だった。銀毛のように美しい白馬がひかれだしたのである。

     

    劉備はいましめられて、斎堂さいどうの丸柱にくくりつけられた。
    そこは床に瓦を敷き詰め、太い丸柱と、小さい窓しかない石室だった。
    「やい劉。貴様は、おれの眼をかすめて、逃げようとしたそうだな。察するところ、てめえは官の密偵だろう。いいや違えねえ。きっと県軍のまわし者だ。――今夜、十里ほど先まで、県軍がきて野陣を張っているそうだから、それへ連絡を取るために、け出そうとしたのだろう」
    馬元義と李朱氾は、かわるがわるに来て、彼を拷問ごうもんした。
    「――道理で、貴様の面がまえは、凡者ただものでないはずだ。県軍のまわし者でなければ、洛陽の直属の隠密か。いずれにしても、官人だろうてめえは。――さ、泥を吐け。いわねば、痛い思いをするだけだぞ」
    しまいには、馬と李と、二人がかりで、劉を蹴ってののしった。
    劉は一口も物をいわなかった。こうなったからには、天命にまかせようと観念しているふうだった。
    「こりゃひと筋縄では口をあかんぞ」
    李は、持てあまし気味に、へ向ってこう提議した。

    青空文庫より

  • 岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻吉川英治 白芙蓉一

    びゃくふよう

    白芙蓉

    それは約五十名ほどの賊の小隊であった。中にに乗っている二、三の賊将が鉄鞭てつべんして、何かいっていたように見えたが、やがて、馬元義の姿を見かけたか、寺のほうへ向って、一散に近づいてきた。
    「やあ、李朱氾りしゅはん。遅かったじゃないか」
    こなたの馬元義も、石段から伸び上がっていうと、
    「おう大方だいほう、これにいたか」と、李と呼ばれた男も、そのほかの仲間も、つづいて驢の鞍から降りながら、
    「峠の孔子廟こうしびょうで待っているというから、あれへ行った所、姿が見えないので、俺たちこそ、大まごつきだ。遅いどころじゃない」と、汗をふきふき、かえって馬元義に向って、不平を並べたが、同類の冗談半分とみえて、責められたのほうも、げらげら笑うのみだった。
    「ところで、ゆうべの収穫みいりはどうだな。洛陽船をあてに、だいぶ諸方の商人あきんどが泊っていた筈だが」
    「大していう程の収穫もなかったが、一村焼き払っただけの物はあった。その財物は皆、荷駄にして、例の通りわれわれの営倉へ送っておいたが」
    「近頃は人民どもも、金はけて隠しておく方法をおぼえたり、商人なども、隊伍を組んで、俺たちが襲うまえに、うまく逃げ散ってしまうので、だんだん以前のようにうまいわけには行かなくなったなあ」
    「ウム、そういえば、先夜も一人惜しいやつを取逃がしたよ」
    「惜しい奴? ――それは何か高価な財宝でも持っていたのか」
    「なあに、砂金や宝石じゃないが、洛陽船から、茶を交易した男があるんだ。知っての通り、盟主張角様には、茶ときては、眼のない好物。これはぜひかすめとって、大賢良師だいけんりょうしへご献納もうそうと、そいつの泊った旅籠はたごも目ぼしをつけておき、その近所から焼き払って踏みこんだところ、いつの間にか、逃げせてしまって、とうとう見つからない。――こいつあ近頃の失策だったよ」
    賊の李朱氾りしゅはんは、劉備のすぐそばで、それを大声で話しているのだった。
    劉備は、驚いた。
    そして思わず、懐中ふところに秘していたすずの小さい茶壺ちゃつぼをそっとさわってみた。
    すると、馬元義は、
    「ふーむ」と、うめきながら、改めて後ろにいる劉青年を振向いてから、さらに、李へ向って、
    「それは、幾歳いくつぐらいな男か」
    「そうさな。俺も見たわけでないが、ぎつけた部下のはなしによると、まだ若いみすぼらしい風態ふうていの男だが、どこか凛然りんぜんとしているから、油断のならない人間かも知れないといっていたが」
    「じゃあ、この男ではないのか」
    馬元義は、すぐ傍らにいる劉備を指さして、いった。
    「え?」
    李は、意外な顔をしたが、馬元義から仔細しさいを聞くとにわかに怪しみ疑って、
    「そいつかもしれない。――おういっ、丁峰ていほう、丁峰」
    と、池畔にたむろさせてある部下の群れへ向ってどなった。
    手下の丁峰は、呼ばれて、屯の中から馳けてきた。李は、黄河で茶を交易した若者は、この男ではないかと、劉の顔を指さして、質問した。
    丁は、劉青年を見ると、惑うこともなくすぐ答えた。
    「あ。この男です。この若い男に違いありません」
    「よし」
    李は、そういって、丁峰を退けると、馬元義と共に、いきなり劉備の両手を左右からねじあげた。

    「こら、貴様は茶をかくしているというじゃないか。その茶壺をこれへ出してしまえ」
    馬元義も責め、李朱氾りしゅはんも共に、劉備のきき腕を、ねじ抑えながらおどした。
    「出さぬと、ぶった斬るぞ。今もいった通り、張角良師のご好物だが、良師のご威勢でさえ、めったに手にはいらぬ程の物だ。貴様のような下民げみんなどが、茶を持ったところで、何となるものか。われわれの手を経て、良師へ献納してしまえ」
    劉備は、云いのがれのきかないことを、はやくも観念した。しかし、故郷くにの母が、いかにそれを楽しみに待っているかを思うと、自分の生命いのちを求められたより辛かった。
    (何とか、ここをのがれる工夫はないものか)
    となお、未練をもって、両手の痛みをこらえていると、李朱氾の靴は、気早に劉備の腰を蹴とばして、「おしか、つんぼか、おのれは」と、ののしった。
    そして、よろめく劉備の襟がみを、つかみもどして、
    「あれに、血に飢えている五十の部下がこちらを見て、を欲しがっているのが、眼に見えないか。返辞をしろ」と、威猛高いたけだかにいった。
    劉備は二人の土足の前へ、そうしてひれ伏したまま、まだ、母の歓びを売って、この場を助かる気持になれないでいたが、ふと、眼を上げると、寺門の陰にたたずんで、こちらを覗いていた最前の老僧が、
    (物など惜しむことはない。求める物は、何でも与えてしまえ、与えてしまえ)
    と、手真似をもって、しきりと彼の善処をうながしている。
    劉備もすぐ、(そうだ。この身体を傷つけたら、母にも大不孝となる)と思って、心をきめたが、それでもまだ懐中ふところの茶壺は出さなかった。腰にいている剣の帯革を解いて、
    「これこそは、父の遺物かたみですから、自分の生命いのちの次の物ですが、これを献上します。ですから、茶だけは見のがして下さい」と哀願した。
    すると、馬元義は、
    「おう、その剣は、俺がさっきから眼をつけていたのだ。貰っておいてやる」とり上げて、「茶のことは、俺は知らん」と、空うそぶいた。
    李朱氾りしゅはんは、前にもまして怒りだして、一方へ剣を渡して、俺になぜ茶壺を渡さないかと責めた。
    劉備は、やむなく、肌深く持っていたすずの小壺まで出してしまった。李は、宝珠ほうしゅをえたように、両掌りょうてを捧げて、
    「これだ、これだ。洛陽の銘葉めいように違いない。さだめし良師がおよろこびになるだろう」と、いった。
    賊の小隊はすぐ先へ出発する予定らしかったが、ひとりの物見が来て、ここから十里ほどの先の河べりに、県の吏軍が約五百ほど野陣を張り、われわれを捜索しているらしいという報告をもたらした。で、にわかに、「では、今夜はここへ泊れ」となって、約五十の黄巾賊は、そのまま寺を宿舎にして、携帯の糧嚢りょうのうを解きはじめた。
    夕方の炊事の混雑をうかがって、劉備は今こそ逃げるによいしおと、薄暮の門を、そっと外へ踏みだしかけた。
    「おい。どこへ行く」
    賊の哨兵しょうへいは、見つけるとたちまち、大勢して彼を包囲し、奥にいる馬元義と李朱氾へすぐ知らせた。

    青空文庫より

     

  • 岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻 吉川英治 流行る童歌

     

     

     

     

     

    流行童歌

    驢は、北へ向いて歩いた。
    鞍上の馬元義は、ときどき南を振り向いて、
    「奴らはまだ追いついてこないがどうしたのだろう」と、つぶやいた。
    彼の半月槍をかついで、驢の後からついてゆく手下の甘洪かんこうは、
    「どこかで道を取っ違えたのかも知れませんぜ。いずれ冀州きしゅう(河北省保定の南方)へ行けば落ち合いましょうが」と、いった。
    いずれ賊の仲間のことをいっているのであろう――と劉備りゅうびは察した。とすれば、自分がのがれてきた黄河の水村を襲ったあの連中を待っているのかも知れない、と思った。
    (何しろ、従順をよそおっているに如しくはない。そのうちには、逃げる機会があるだろう)
    劉備は、賊の荷物を負って、黙々と、驢と半月槍のあいだに挟まれながら歩いた。丘陵と河と平原ばかりの道を、四日も歩きつづけた。
    幸い雨のない日が続いた。十方碧落へきらく、一朶だの雲もない秋だった。黍きびのひょろ長い穂に、時折、驢も人の背丈せたけもつつまれる。
    「ああ――」
    旅に倦うんで、馬元義は大きなあくびを見せたりした。甘も気けだるそうに居眠り半分、足だけを動かしていた。
    そんな時、劉備はふと、
    ――今だっ。
    という衝動にかられて、幾度か剣に手をやろうとしたが、もし仕損じたらと、母を想い、身の大望を考えて、じっと辛抱していた。
    「おう、甘洪」
    「へえ」
    「飯が食えるぞ。冷たい水にありつけるぞ――見ろ、むこうに寺があら」
    「寺が」
    黍の間から伸び上がって、
    「ありがてえ。大方だいほう、きっと酒もありますぜ。坊主は酒が好きですからね」
    夜は冷え渡るが、昼間は焦げつくばかりな炎熱であった。――水と聞くと、劉備も思わず伸び上がった。
    低い丘陵が彼方に見える。
    丘陵に抱かれている一叢ひとむらの木立と沼があった。沼には紅白の蓮花はちすがいっぱい咲いていた。
    そこの石橋を渡って、荒れはてた寺門の前で、馬元義は驢をおりた。門の扉は、一枚はこわれ、一枚は形だけ残っていた。それに黄色の紙が貼ってあって、次のような文が書いてあった。
    青空文庫

  • 青空文庫名作文学の朗読
    岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻 黄巾賊五吉川英治


    岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻吉川英治流行る童歌


    三国志

    桃園の巻
    吉川英治
    黄巾賊こうきんぞく

     後漢ごかんの建寧けんねい元年のころ。
     今から約千七百八十年ほど前のことである。
     一人の旅人があった。
     腰に、一剣を佩はいているほか、身なりはいたって見すぼらしいが、眉まゆは秀ひいで、唇くちは紅あかく、とりわけ聡明そうめいそうな眸ひとみや、豊ゆたかな頬をしていて、つねにどこかに微笑をふくみ、総じて賤いやしげな容子ようすがなかった。
     年の頃は二十四、五。
     草むらの中に、ぽつねんと坐って、膝をかかえこんでいた。
     悠久ゆうきゅうと水は行く――
     微風は爽さわやかに鬢びんをなでる。
     涼秋の八月だ。
     そしてそこは、黄河の畔ほとりの――黄土層の低い断きり岸ぎしであった。
    「おーい」
     誰か河でよんだ。
    「――そこの若い者ウ。なにを見ているんだい。いくら待っていても、そこは渡し舟の着く所じゃないぞ」
     小さな漁船から漁夫りょうしがいうのだった。
     青年は笑えくぼを送って、
    「ありがとう」と、少し頭を下げた。
     漁船は、下流へ流れ去った。けれど青年は、同じ所に、同じ姿をしていた。膝をかかえて坐ったまま遠心的な眼をうごかさなかった。
    「おい、おい、旅の者」
     こんどは、後ろを通った人間が呼びかけた。近村の百姓であろう。ひとりは鶏の足をつかんでさげ、ひとりは農具をかついでいた。
    「――そんな所で、今朝からなにを待っているんだね。このごろは、黄巾賊こうきんぞくとかいう悪徒が立ち廻るからな。役人衆に怪あやしまれるぞよ」
     青年は、振りかえって、
    「はい、どうも」
     おとなしい会釈えしゃくをかえした。
     けれどなお、腰を上げようとはしなかった。
     そして、幾千万年も、こうして流れているのかと思われる黄河の水を、飽あかずに眺めていた。
    (――どうしてこの河の水は、こんなに黄色いのか?)
     汀みぎわの水を、仔細に見ると、それは水その物が黄色いのではなく、砥石といしを粉にくだいたような黄色い沙すなの微粒びりゅうが、水に混まじっていちめんにおどっているため、濁にごって見えるのであった。
    「ああ……、この土も」
     青年は、大地の土を、一つかみ掌てに掬すくった。そして眼を――はるか西北の空へじっと放った。
     支那の大地を作ったのも、黄河の水を黄色くしたのも、みなこの沙の微粒である。そしてこの沙は中央亜細亜アジアの沙漠から吹いてきた物である。まだ人類の生活も始まらなかった何万年も前の大昔から――不断に吹き送られて、積り積った大地である。この広い黄土こうどと黄河の流れであった。
    「わたしのご先祖も、この河を下くだって……」
     彼は、自分の体に今、脈うっている血液がどこからきたか、その遠い根元までを想像していた。
     支那を拓ひらいた漢民族も、その沙の来る亜細亜の山岳を越えてきた。そして黄河の流れに添いつつ次第にふえ、苗族びょうぞくという未開人を追って、農業を拓ひらき、産業を興おこし、ここに何千年の文化を植えてきたものだった。
    「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備りゅうびを、鞭むち打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」
     天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。
     するとすぐ後ろへ、誰か突っ立って、彼の頭からどなった。
    「うさんな奴やつだ。やいっ、汝は、黄巾賊こうきんぞくの仲間だろう?」
    青空文庫より

  • 青空文庫名作文学の朗読、朗読カフェSTUDIO、岡田慎平朗読「三国志」

    桃園の巻 吉川英治

    黄巾賊こうきんぞく

    後漢ごかん建寧けんねい元年のころ。
    今から約千七百八十年ほど前のことである。
    一人の旅人があった。
    腰に、一剣をいているほか、身なりはいたって見すぼらしいが、まゆひいで、くちあかく、とりわけ聡明そうめいそうなひとみや、ゆたかな頬をしていて、つねにどこかに微笑をふくみ、総じていやしげな容子ようすがなかった。
    年の頃は二十四、五。
    草むらの中に、ぽつねんと坐って、膝をかかえこんでいた。
    悠久ゆうきゅうと水は行く――
    微風はさわやかにびんをなでる。
    涼秋の八月だ。
    そしてそこは、黄河のほとりの――黄土層の低いぎしであった。
    「おーい」
    誰か河でよんだ。
    「――そこの若い者ウ。なにを見ているんだい。いくら待っていても、そこは渡し舟の着く所じゃないぞ」
    小さな漁船から漁夫りょうしがいうのだった。
    青年はくぼを送って、
    「ありがとう」と、少し頭を下げた。
    漁船は、下流へ流れ去った。けれど青年は、同じ所に、同じ姿をしていた。膝をかかえて坐ったまま遠心的な眼をうごかさなかった。

    青空文庫

     


    青空文庫名作文学の朗読、朗読カフェSTUDIO、岡田慎平朗読「三国志」

    桃園の巻 吉川英治

    劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。
    とがめた者は、
    「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨ようしゃなくつかんでいた。
    「……?」
    見ると、役人であろう、胸に県の吏章りしょうをつけている。近頃は物騒ぶっそうな世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓てっきゅうを持ち、一名は半月槍はんげつそうをかかえていた。
    ※(「さんずい+(冢-冖)」、第3水準1-86-80)たくけんの者です」
    劉備青年が答えると、
    ※(「さんずい+(冢-冖)」、第3水準1-86-80)県はどこか」と、たたみかけていう。
    「はい、※(「さんずい+(冢-冖)」、第3水準1-86-80)県の楼桑村ろうそうそん(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」
    「商売は」
    むしろったりすだれをつくって、売っておりますが」
    「なんだ、行商人ぎょうしょうにんか」
    「そんなものです」
    「だが……」
    と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。
    「この剣には、黄金の佩環はいかんに、※(「王+干」、第3水準1-87-83)ろうかん緒珠おだまがさがっているのではないか、蓆売むしろうりには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」
    「これだけは、父の遺物かたみで持っているのです。盗んだ物などではありません」
    素直ではあるが、りんとした答えである。役人は、劉備青年の眼を見ると、急に眼をそらして、
    「しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群れがせて、掠奪りゃくだつを働いて逃げた所だ。――見るところ大人しそうだし、賊徒とは思われぬが、一応疑ってみねばならん」
    「ごもっともです。……実は私が待っているのは、今日あたりこうを下ってくると聞いている洛陽船らくようぶねでございます」
    「ははあ、誰か身寄りの者でもそれへ便乗して来るのか」
    「いいえ、茶を求めたいと思って。――待っているのです」
    「茶を」
    役人は眼をみはった。

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