別役みか

  • 倉沢はすみ「魂の花」別役みか朗読

    倉沢はすみ作「魂の花」別役みかさんの朗読 タイトル画 はajicoさんです。

    倉沢はすみさんの作品掲載ブログはこちらです。 『コンペイトウ文庫』
    http://konpeito12.exblog.jp/

    2018年10月8日 14:20

  • 芥川龍之介「桃太郎」別役みか朗読

    Aug 29, 2018

    むかし、むかし、大むかし、ある深い山の奥に大きいももの木が一本あった。大きいとだけではいい足りないかも知れない。この桃の枝は雲の上にひろがり、この桃の根は大地だいちの底の黄泉よみの国にさえ及んでいた。何でも天地開闢かいびゃくころおい、伊弉諾いざなぎみこと黄最津平阪よもつひらさかやっつのいかずちしりぞけるため、桃のつぶてに打ったという、――その神代かみよの桃の実はこの木の枝になっていたのである。
    この木は世界の夜明以来、一万年に一度花を開き、一万年に一度実をつけていた。花は真紅しんく衣蓋きぬがさ黄金おうごん流蘇ふさを垂らしたようである。実は――実もまた大きいのはいうを待たない。が、それよりも不思議なのはその実はさねのあるところに美しい赤児あかごを一人ずつ、おのずからはらんでいたことである。
    むかし、むかし、大むかし、この木は山谷やまたにおおった枝に、累々るいるいと実をつづったまま、静かに日の光りに浴していた。一万年に一度結んだ実は一千年の間は地へ落ちない。しかしある寂しい朝、運命は一羽の八咫鴉やたがらすになり、さっとその枝へおろして来た。と思うともう赤みのさした、小さい実を一つついばみ落した。実は雲霧くもきりの立ちのぼる中にはるか下の谷川へ落ちた。谷川は勿論もちろん峯々の間に白い水煙みずけぶりをなびかせながら、人間のいる国へ流れていたのである。
    この赤児あかごはらんだ実は深い山の奥を離れたのち、どういう人の手に拾われたか?――それはいまさら話すまでもあるまい。谷川の末にはおばあさんが一人、日本中にほんじゅうの子供の知っている通り、柴刈しばかりに行ったおじいさんの着物か何かを洗っていたのである。……

    桃から生れた桃太郎ももたろうおにしま征伐せいばつを思い立った。思い立ったわけはなぜかというと、彼はお爺さんやお婆さんのように、山だの川だの畑だのへ仕事に出るのがいやだったせいである。その話を聞いた老人夫婦は内心この腕白わんぱくものに愛想あいそをつかしていた時だったから、一刻も早く追い出したさにはたとか太刀たちとか陣羽織じんばおりとか、出陣の支度したく入用にゅうようのものは云うなり次第に持たせることにした。のみならず途中の兵糧ひょうろうには、これも桃太郎の註文ちゅうもん通り、黍団子きびだんごさえこしらえてやったのである。
    桃太郎は意気揚々ようようと鬼が島征伐ののぼった。すると大きい野良犬のらいぬが一匹、えた眼を光らせながら、こう桃太郎へ声をかけた。
    「桃太郎さん。桃太郎さん。お腰に下げたのは何でございます?」
    「これは日本一にっぽんいちの黍団子だ。」
    桃太郎は得意そうに返事をした。勿論実際は日本一かどうか、そんなことは彼にもあやしかったのである。けれども犬は黍団子と聞くと、たちまち彼の側へ歩み寄った。
    「一つ下さい。おともしましょう。」
    桃太郎は咄嗟とっさ算盤そろばんを取った。
    「一つはやられぬ。半分やろう。」
    犬はしばらく強情ごうじょうに、「一つ下さい」を繰り返した。しかし桃太郎は何といっても「半分やろう」を撤回てっかいしない。こうなればあらゆる商売のように、所詮しょせん持たぬものは持ったものの意志に服従するばかりである。犬もとうとう嘆息たんそくしながら、黍団子を半分貰う代りに、桃太郎のともをすることになった。
    桃太郎はそののち犬のほかにも、やはり黍団子の半分を餌食えじきに、さるきじ家来けらいにした。しかし彼等は残念ながら、あまりなかい間がらではない。丈夫なきばを持った犬は意気地いくじのない猿を莫迦ばかにする。黍団子の勘定かんじょう素早すばやい猿はもっともらしい雉を莫迦にする。地震学などにも通じた雉は頭のにぶい犬を莫迦にする。――こういういがみ合いを続けていたから、桃太郎は彼等を家来にした後も、一通り骨の折れることではなかった。
    その上猿は腹が張ると、たちまち不服をとなえ出した。どうも黍団子の半分くらいでは、鬼が島征伐の伴をするのも考え物だといい出したのである。すると犬はえたけりながら、いきなり猿をみ殺そうとした。もし雉がとめなかったとすれば、猿はかに仇打あだうちを待たず、この時もう死んでいたかも知れない。しかし雉は犬をなだめながら猿に主従の道徳を教え、桃太郎の命に従えと云った。それでも猿は路ばたの木の上に犬の襲撃を避けた後だったから、容易に雉の言葉を聞き入れなかった。その猿をとうとう得心とくしんさせたのは確かに桃太郎の手腕である。桃太郎は猿を見上げたまま、日の丸のおうぎを使い使いわざと冷かにいい放した。
    「よしよし、では伴をするな。その代り鬼が島を征伐しても宝物たからものは一つも分けてやらないぞ。」
    欲の深い猿はまるをした。
    「宝物? へええ、鬼が島には宝物があるのですか?」
    「あるどころではない。何でも好きなものの振り出せる打出うちで小槌こづちという宝物さえある。」
    「ではその打出の小槌から、幾つもまた打出の小槌を振り出せば、一度に何でも手にはいるわけですね。それは耳よりな話です。どうかわたしもつれて行って下さい。」
    桃太郎はもう一度彼等を伴に、鬼が島征伐のみちを急いだ。

    鬼が島は絶海の孤島だった。が、世間の思っているように岩山ばかりだったわけではない。実は椰子やしそびえたり、極楽鳥ごくらくちょうさえずったりする、美しい天然てんねん楽土らくどだった。こういう楽土にせいけた鬼は勿論平和を愛していた。いや、鬼というものは元来我々人間よりも享楽きょうらく的に出来上った種族らしい。こぶ取りの話に出て来る鬼は一晩中踊りを踊っている。一寸法師いっすんぼうし[#ルビの「いっすんぼうし」は底本では「いっすんぽうし」]の話に出てくる鬼も一身の危険を顧みず、物詣ものもうでの姫君に見とれていたらしい。なるほど大江山おおえやま酒顛童子しゅてんどうじ羅生門らしょうもん茨木童子いばらぎどうじ稀代きだいの悪人のように思われている。しかし茨木童子などは我々の銀座を愛するように朱雀大路すざくおおじを愛する余り、時々そっと羅生門へ姿をあらわしたのではないであろうか? 酒顛童子も大江山の岩屋いわやに酒ばかり飲んでいたのは確かである。その女人にょにんを奪って行ったというのは――真偽しんぎはしばらく問わないにもしろ、女人自身のいう所に過ぎない。女人自身のいう所をことごとく真実と認めるのは、――わたしはこの二十年来、こういう疑問を抱いている。あの頼光らいこう四天王してんのうはいずれも多少気違いじみた女性崇拝家すうはいかではなかったであろうか?
    鬼は熱帯的風景のうちこといたり踊りを踊ったり、古代の詩人の詩を歌ったり、すこぶ安穏あんのんに暮らしていた。そのまた鬼の妻や娘もはたを織ったり、酒をかもしたり、らんの花束をこしらえたり、我々人間の妻や娘と少しも変らずに暮らしていた。殊にもう髪の白い、きばけた鬼の母はいつも孫のりをしながら、我々人間の恐ろしさを話して聞かせなどしていたものである。――
    「お前たちも悪戯いたずらをすると、人間の島へやってしまうよ。人間の島へやられた鬼はあの昔の酒顛童子のように、きっと殺されてしまうのだからね。え、人間というものかい? 人間というものはつのえない、生白なまじろい顔や手足をした、何ともいわれず気味の悪いものだよ。おまけにまた人間の女と来た日には、その生白い顔や手足へ一面になまりをなすっているのだよ。それだけならばまだいのだがね。男でも女でも同じように、※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)うそはいうし、欲は深いし、焼餅やきもちは焼くし、己惚うぬぼれは強いし、仲間同志殺し合うし、火はつけるし、泥棒どろぼうはするし、手のつけようのない毛だものなのだよ……」

    桃太郎はこういう罪のない鬼に建国以来の恐ろしさを与えた。鬼は金棒かなぼうを忘れたなり、「人間が来たぞ」と叫びながら、亭々ていていそびえた椰子やしの間を右往左往うおうざおうに逃げまどった。
    「進め! 進め! 鬼という鬼は見つけ次第、一匹も残らず殺してしまえ!」
    桃太郎は桃のはたを片手に、日の丸の扇を打ち振り打ち振り、犬猿雉いぬさるきじの三匹に号令した。犬猿雉の三匹は仲の家来けらいではなかったかも知れない。が、えた動物ほど、忠勇無双むそうの兵卒の資格を具えているものはないはずである。彼等は皆あらしのように、逃げまわる鬼を追いまわした。犬はただ一噛ひとかみに鬼の若者を噛み殺した。雉も鋭いくちばしに鬼の子供を突き殺した。猿も――猿は我々人間と親類同志の間がらだけに、鬼の娘を絞殺しめころす前に、必ず凌辱りょうじょくほしいままにした。……
    あらゆる罪悪の行われたのち、とうとう鬼の酋長しゅうちょうは、命をとりとめた数人の鬼と、桃太郎の前に降参こうさんした。桃太郎の得意は思うべしである。鬼が島はもう昨日きのうのように、極楽鳥ごくらくちょうさえずる楽土ではない。椰子やしの林は至るところに鬼の死骸しがいき散らしている。桃太郎はやはり旗を片手に、三匹の家来けらいを従えたまま、平蜘蛛ひらぐものようになった鬼の酋長へおごそかにこういい渡した。
    「では格別の憐愍れんびんにより、貴様きさまたちの命はゆるしてやる。その代りに鬼が島の宝物たからものは一つも残らず献上けんじょうするのだぞ。」
    「はい、献上致します。」
    「なおそのほかに貴様の子供を人質ひとじちのためにさし出すのだぞ。」
    「それも承知致しました。」
    鬼の酋長はもう一度ひたいを土へすりつけた後、恐る恐る桃太郎へ質問した。
    「わたくしどもはあなた様に何か無礼ぶれいでも致したため、御征伐ごせいばつを受けたことと存じて居ります。しかし実はわたくしを始め、鬼が島の鬼はあなた様にどういう無礼を致したのやら、とんと合点がてんが参りませぬ。ついてはその無礼の次第をおあかし下さるわけには参りますまいか?」
    桃太郎は悠然ゆうぜんうなずいた。
    日本一にっぽんいち[#ルビの「にっぽんいち」は底本では「にっぼんいち」]の桃太郎は犬猿雉の三匹の忠義者を召しかかえた故、鬼が島へ征伐に来たのだ。」
    「ではそのおさんかたをお召し抱えなすったのはどういうわけでございますか?」
    「それはもとより鬼が島を征伐したいと志した故、黍団子きびだんごをやっても召し抱えたのだ。――どうだ? これでもまだわからないといえば、貴様たちも皆殺してしまうぞ。」
    鬼の酋長は驚いたように、三尺ほどうしろへ飛びさがると、いよいよまた丁寧ていねいにお時儀じぎをした。

    日本一の桃太郎は犬猿雉の三匹と、人質に取った鬼の子供に宝物の車を引かせながら、得々とくとくと故郷へ凱旋がいせんした。――これだけはもう日本中にほんじゅうの子供のとうに知っている話である。しかし桃太郎は必ずしも幸福に一生を送ったわけではない。鬼の子供は一人前いちにんまえになると番人の雉をみ殺した上、たちまち鬼が島へ逐電ちくでんした。のみならず鬼が島に生き残った鬼は時々海を渡って来ては、桃太郎の屋形やかたへ火をつけたり、桃太郎の寝首ねくびをかこうとした。何でも猿の殺されたのは人違いだったらしいといううわさである。桃太郎はこういうかさがさねの不幸に嘆息たんそくらさずにはいられなかった。
    「どうも鬼というものの執念しゅうねんの深いのには困ったものだ。」
    「やっと命を助けて頂いた御主人の大恩だいおんさえ忘れるとはしからぬ奴等でございます。」
    犬も桃太郎の渋面じゅうめんを見ると、口惜くやしそうにいつもうなったものである。
    その間も寂しい鬼が島のいそには、美しい熱帯の月明つきあかりを浴びた鬼の若者が五六人、鬼が島の独立を計画するため、椰子やしの実に爆弾を仕こんでいた。やさしい鬼の娘たちに恋をすることさえ忘れたのか、黙々と、しかし嬉しそうに茶碗ちゃわんほどの目の玉をかがやかせながら。……

    人間の知らない山の奥に雲霧くもきりを破った桃の木は今日こんにちもなお昔のように、累々るいるいと無数のをつけている。勿論桃太郎をはらんでいた実だけはとうに谷川を流れ去ってしまった。しかし未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。あの大きい八咫鴉やたがらすは今度はいつこの木のこずえへもう一度姿をあらわすであろう? ああ、未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。……

  • 海野十三「宇宙女囚第一号」別役みか朗読

    Jul 22, 2018

    宇宙女囚第一号

    海野十三

    イー・ペー・エル研究所に絵里子をたずねた僕は、ついに彼女に会うことができず、そのかわり普段はろくに口をきいたこともない研究所長マカオ博士に手をとられんばかりにして、その室に招じられたものである。この思いがけない博士の待遇に、僕は面くらったばかりか、なんだか変な気持さえ生じた。
    「おうほ、絵里子はね、――」
    おうほと、博士独特の妙な感歎詞をなげるごとに、博士の頤髯がごそりとうごいた。
    「おうほ、絵里子はね、女性にはめずらしい学究だ。君と絵里子とは結婚する約束があるそうだが、君は世界一の令夫人を迎えるわけで、世界一の名誉を得るわけだ。しかしねえ、――」
    といって博士はちょっと小首をかしげ、
    「しかしねえ、絵里子を妻にした君が、家庭的にはたして幸福者といえるかどうかはわからないよ。第一わしはいつもこう考えている。絵里子の科学的天才を区々たる家庭的の仕事――コーヒーをいれたり、ベッドのシーツを敷きなおしたり、それから馬鈴薯の皮をむいたりするようなことで曇らせるのは、世界の学術のためにたいへんな損失である、――」
    「まあ待ってください、マカオ博士」
    と僕は、胸の下からつきあげてくる憤りを一生懸命こらえながら叫んだ。
    「博士、するとあなたは、僕たちの結婚に反対されるわけなのですか」
    博士は、ごそりと頤髯をうごかし、
    「おうほ、なにもわしが君がたの結婚に反対とはいっていない。しかしだ、君がたは自発的に天の理にしたがうのが賢明じゃろうというものだ」
    博士は僕たちが結婚することを非常に忌みきらっているものと思われる。僕は、非常に不満だ。
    「まあ、そう脣をふるわせんでもいい。いや君の不満なのはよう分っている。しかしじゃ、科学というものは君が考えているより、もっと重大なものだ。時には、結婚とか家庭生活とかよりも重大なものだ。――そう、わしをこわい目で睨むな。よくわかっているよ、君はわしの説に反対だというんだろう。ところがそれはわしの目から見ると君が若いというか、君がまだ多くを知らないというか、それから発したことだ」
    「マカオ博士、――」
    「こら待たんか。その大きな拳で、わしの頤をつきあげようというのだろう。そしてわしの頸をぎゅーっと締めつけようというのだろう。それくらいのことはわかっているぞ。だが待て、ちょっと待ってくれ。わしが君に殴り殺される前に、ぜひ君に見せてやりたいものがある」
    博士は、まだ頸をしめつけられてもいないのに、くるしそうにあえぎあえぎ言う。
    「僕に見せるって、いったいそれは何を見せるというのですか」
    僕はさすがに気になった。絵里子に関係のあることではないかと、すぐそのように思ったのであった。
    博士は僕を制して、自分のあとについてくるようにと合図をおくった。
    博士の後に従って、僕は小暗い長廊下をずんずん奥へあるいていった。
    そのうちに博士は、廊下の途中から横についている急な階段をのぼりはじめた。
    (おお、これは、マカオ博士の秘密研究塔に通じる階段だ)
    と、僕はひそかに胸をおどらせた。
    博士は僕を秘密研究塔につれこんで、いったいなにを見せるつもりなんだろう。
    この研究塔は、往来からもよく見えた。研究所のまわりは分厚い背の高い壁にとりかこまれ、その境内は欝蒼たる森林でおおわれていた。そしてところどころに、研究所の古風な赤煉瓦の建物が頭を出していたが、それとはまた別に一棟、すばらしく背の高い白壁づくりの塔が天空を摩してそびえていた。それは遠くから見ると、まるで白い編上靴を草の上においてあるように見えた。螺旋階段の明りとりらしい円窓がいくつも同じ形をして、上から下へとつづいていた。それはまるで八つ目鰻の腮のように見えたが、その窓枠はよく見ると臙脂色に塗ってあった。
    博士は、螺旋階段をことことと、先にたってのぼっていった。僕は黙々としてその後につきしたがったが、階段を一つのぼるごとに、僕の心臓はまた一段とたかく動悸をうつのであった。
    「さあ、しばらく入口で待っていてくれたまえ」
    博士は、塔の頂上をしめている大実験室の扉の前に立ち停ると、僕の方をふりかえってそういった。そして自分は、入口の暗号錠をしきりにがちゃがちゃやっていたが、やがてそれをがちゃりと開いて、ひとり室内に姿を消した。
    僕は入口にたたずみながら、異常な好奇心でもって室内の様子をうかがった。なにかしら、ひゅーんという高い唸り音をあげて、廻転機がまわっていた。
    ことと、ことと、ことと。
    カムがしきりにピッチをきざんでいる。
    ぴかり――と、紫色の電光が、扉の間から閃いた。じいじいじいと、放電のような音もきこえる。
    それにひきかえ、マカオ博士はなにをしているのか、しわぶきの声さえ聞えてこない。
    僕の心臓は、なんだか急に氷のように冷たくなったのを感じた。
    ごとごとごとごとごと。そのとき博士の姿が入口にぬっと現われた。
    「さあ、おはいり。だが始めから断っておくよ。どんなものを見ても、気絶なんかしちゃいけないぜ」
    僕は大きくうなずいて、そんなことは平気ですと博士に合図したが、内心ではきょう々としていた。これはなにかよほど意外なものが、この室内にあるらしい。いったいなにであろう。僕はおずおずと室内に足をふみいれた。
    「いいかね。こっちの小さい室に入っているんだ。檻があればいいのだが、生憎そんなものはない。まさかこんな怪物がとびこもうとは、想像だにしなかったのでね」
    そういって博士は、室内の一隅にある小さな扉を指さした。
    (怪物? 怪物って、なんだろう)
    博士は額に手をあげて、しばらく沈思してから、
    「おい君。これから君が見る怪物は、いったい何者であるか、当ててみたまえ。もし当てることができれば、この研究所をそっくり君にあげてもいいよ。つまり、いくら君が考えてもわけのわからない生物が、この小さな室に入っているんだ」
    「僕はあててみますよ。なに、人間の頭脳で考えられることなら、僕にだって――」
    「いや、そうはいうが、こればかりは、人間の想像力を超越している。地球ができて以来、こういう生物を見たのはわしが最初、絵里子が二番め、そして三番めが君だ」
    ああ絵里子!
    僕はひそかにこう考えていた。ひょっとして、僕は絵里子の死骸でもみせられるのではないかと考えていたのだ。博士は、実験の都合で、ふと彼女を殺害してしまい、その死骸を僕に見せてなんとかいいわけをするのではあるまいかと。――しかしどうやらそれはちがっていたらしい。絵里子は、その怪物とやらをみたのち、今はなにをしているのだろうか。
    「愕いてはいけない。さあ、ここに反射窓がある。これをのぞけば、この室内の様子ははっきりわかる」
    博士は、普通魔法鏡といわれる反射窓を指さした。僕はすぐさま決心して、指さされるままに、その窓をのぞいてみた。
    そのなかに見た刹那の光景!
    ああ、これほど世の中に奇しき見世物があるであろうか。僕ははっと息をのんだまま、その場に硬直してしまった。
    おそろしい生物いきものよ!
    その別室の床に、大の字なりに死んだようになって寝そべっていたのは、最初の一目では、一個の裸形の女と見えた。
    だが、次の瞬間、僕はそれを早速訂正しなければならなかった。
    (女体らしい。しかしそれは絶対に人間ではない!)
    絶対に人間ではありえないのだ。
    なるほど四肢は豊満に発達し、皮膚の色はぬけるほど白く、乳房はゴムまりのようにもりあがり、金髪はゆたかに肩のあたりにもつれているところは女性人間のようであるが、よく見ると顔がのっぺらぼうだ。そして頭髪の間から三本の角が出ていて、その尖端にたしかに眼玉と思うようなものがついている。そいつはぐるぐるとうごめいていたが、おどろいたことに、眼瞼と思われるものがぱちぱちと眼をしばたたいたのには愕いた。こんな人間は絶対にありえない。
    それから四肢だ。これをよく観察していると、腕はありながら、手首とか指などがない。その代り手首のあたりから先が、きゅうりの蔓のようにぐるぐる巻いていて、それがときどきぬーっと長く床の上にのびて、そこらをしきりにのたうちまわる。
    こんな形の生物は、人間の畸型例にも見たことがない。怪物というよりほか、呼びようがないであろう。
    まだもう一つ気のついたことがある。
    それは真白な肢体の膚に、点々として小さい斑点がついていることだ。そういうとそばかすみたいに聞えるが、そばかすではない。そばかすよりもずっとずっと小さい斑点で、そしていやに黒いのである。電送写真というものがあるが、あの写真を空電の多いときに受信すると、画面におびただしく小さな黒い空電斑点というものが印せられるが、どっちかというと、その空電斑点によく似ているのであった。(後で分ったことであるが、その怪物の肢体についている黒斑が、僕の第一印象のとおり、やはり本当の空電斑点であると分ったときには、さすがの僕も腰がぬけたかと思ったほど愕いた)
    「あの怪物は、どうしたのですか。博士はどこからあれを持ってこられたのですか」
    僕はマカオ博士の方をふりかえって、はげしく詰問の言葉をおくった。
    「おうほ、そのことそのこと」
    と、博士はハンカチで額の汗をふきながら、
    「あれをなんというか、とにかくあの怪物が実験室の中の、なんにもない空間に足の方からむくむくと姿をあらわしはじめたときには、わしの総身の毛が一本一本逆だち、背中に大きな氷の板を背負ったように、ぶるぶると顫えがきて停めようがなかったものさ」
    「え、なんですって」
    と僕は思わず博士の言葉を聞きかえした。なんという怪奇、僕にはちょっと了解に苦しむことだ。
    「おうほ、理解ができないのも無理ではない。つまり、もっと前から話をしなければ分らないだろう。なぜそういう怪物を、この実験室内に生ぜしめるようになったかということを。――」
    そういって博士は、戸棚の上から、一束の青写真をおろし、テーブルの上にひろげてみせた。
    「これを見たまえ。これがこの室にある立体分解電子機と、もう一つ立体組成電子機の縮図だ。わしは十五年かかって、この器械を発明し、そして実物をつくりあげたのだ」
    「なんです、この立体分解とか立体組成とかいうのは」
    「うん、そのことだ。この説明はなかなかむつかしい。君はテレビジョンというものを知っているかね。あれは一つの写真面を、小さな素子に走査スキャンニングして、電流に直して送りだすのだ。それを受影する方では、まず受信した電流を増幅して、ブラウン管のフィラメントに加える。すると強い電流がきたときは、フィラメントは明るく輝き、たくさんの熱電子を出すし、弱い電流がきたときはフィラメントは暗く光って、熱電子は少ししか出てこない。この熱電子の進路を、ブラウン管の制御電極でもって、はじめと同じように走査スキャンニングしてやると、電光板の上に、最初と同じような写真が現われる。これがテレビジョンの原理だ」
    僕はなんのことだと思った。テレビジョンの原理などは、博士にきくまでもないことである。
    「テレビジョンと、博士のご発明の立体分解電子機とは、どういう関係があるのですか」
    「つまりそれは、一口にいうと、テレビジョンとか電送写真とかは、いまもいったとおり平面である写真を遠方に送るのであるが、わしの発明した電子機では、立体を送ったりまた受けたりするのさ」
    「立体を送ったり受けたりといいますと――」
    僕にはなんのことだか分らないので、問いかえした。
    「つまり物体をだね、たとえばここに鉄の灰皿がある。これを電気的方法によって遠方へおくったり、また遠方にあるアルミニュームの金だらいを電気的方法によってここへ持ってきたりするのさ。あっはっはっ、いっこう解せぬという顔つきだね。考えだけならなんでもないではないか。平面がテレビジョンや電送写真として送れるものなら、立体もまた送ったり受けたりできるわけではないか」
    僕には、博士のいうことがすこしずつわかってきた。
    「しかし博士、写真などはいと簡単ですが、鉄の灰皿などとなると、これは物質ではありませんか。電気になおすたって、なおせますか」
    「なあに訳のないことさ。鉄にしろアルミニュームにしろ、これをだんだん小さくしてゆくと分子になり、原子になりそれをさらに小さくわってゆくと電子とプロトンとになる。ところがプロトンとは、電子のぬけ穀のことであって、結局、この世の中には電子のほかになにものもないのさ。すべての物質は空間をいかに電子が構成しているかによって、鉄ともなりアルミニュームともなるんだ。だからすべての物質は、最後においては電荷に帰することができる。そうではないか。平面であろうと立体であろうと、走査スキャンニングの原理には変りはない。平面走査スキャンニングができれば立体走査スキャンニングもできるわけだ。鉄の灰皿を立体走査スキャンニングすれば、これはすなわち一連の電信符号とかわりないものとなる。どうだ、わかったろうが」
    「ふーむ、そういう理屈ですか。いや、おそろしいことになったものだ」
    僕は長大息とともにそういった。
    平面走査スキャンニングをする電送写真やテレビジョンがあれば、灰皿や金だらいを立体走査スキャンニングすることも案外似かよった立体走査スキャンニングの原理でもって達成しえられるように思う。
    灰皿ができれば、なにも金属にかぎらない。すべての物質物体は、電子に変じて送ったり受けとったりできるわけだ。すると、隣室の床にころがっている怪奇きわまるあの生物は――?
    「あれも、博士の器械で吸いよせたのですか」
    と、僕は気もちのよくないことを、博士にきいてみた。
    「うむ、やっと気がついたようだね」と博士は頤髯をごそりとうごかし、「君の察したとおり、あの怪物は、実は、今月はじめて立体組成電子機をうごかしてみたところ、いきなり器械のはたらきでもって、台の上に現われてきたんだ。いや、実に愕いた。どのくらい愕いたといって、形容ができないほどだ。はじめはね、あのぬらぬらした触手というか触足というか、つまり人間でいえば足の方から現われてきたんだ。それまでにはなにもない空間にだよ、怪物の足が現われてきたんだ。器械がまわり、時間がたつにつれ、足の先に腰が現われ、それからその先に胴中やら、胸やら肩やら、そしてあの醜い首やらがむくむくと、まるで畳んであったゴム風船をふくらますように現われてきたではないか。自分の発明した器械であるとはいえ、またそういうことが起ることも予想していたけれど、いよいよそういうふうに実物が現われたときには、いかに気丈夫なわしでも、ぞーっと身ぶるいした」
    ものがたる博士の顔は、さすがに青ざめていた。
    「博士、いったいあの怪物は、どこにいたものが、こうしてここへやってきたのでしょうか」
    「多分、火星の生物だろうと思うよ。火星の生物も、いまわしがこしらえたと似たような器械をもっていて、それを使っているらしい。だから、火星において、たまたま走査スキャンニングをして電気になった女体を、わしの器械が吸いとってしまったわけらしい」
    「おどろくべきことですね。そんなことができるとは、想像もおよばない」
    と、僕は心の底から感嘆のことばをはなった。
    博士は、それほど得意そうに見えなかった。博士の眉毛の間にはふかい溝がきざまれていた。
    「博士はこんな大発明をしながら、あまりよろこんでいらっしゃらないのは、どういうわけですか」
    と、僕はつい気になって、たずねてみた。
    「ああ、君の目にも、わしの苦痛がわかるかね。そうだ、君の見るとおり、わしはまだ喜んでいないのだ。というのは、まだ分らないことがたくさんあるのだ。たとえば、いま君がみた宇宙女囚――と、かりに名づけておこう――あの宇宙女囚は、三つの眼をぴくりぴくりとうごかしている。つまりあの生物は、たしかに生きているのだ。しかし残念なことに、意識を失っている。宇宙を電気になってとんでいるところをわしの器械に吸いよせ、そしてあのように立体化してみたところが、肉体は現われたが、意識がないというのでは、研究者としてこれが悲しまずにいられるだろうか」
    博士はしんみりと述懐した。
    なるほど、あの怪物は生きてはいるが、意識がないようである。僕から見れば、博士は千古不朽の大発明をしたように思うが、当の博士としては、これではまだ研究を完成していないわけで、それでははずかしいといっているのであろう。
    僕は博士に、宇宙女囚をもっとそばぢかくでみたいといったところ、博士はそれを承諾し、ついに小さい扉をひらき、宇宙女囚ののたうちまわるそばに、僕をつれていった。
    反射鏡から見たときとはちがって、そばぢかくでみた宇宙女囚の肢体といい容貌といいあまりながく見ていると脳髄がきゅーっと縮まり発狂するのではないかといったような恐怖にさえ襲われるのであった。
    そのとき僕は、ゆくりもなく、女囚の白い膚の上に、例の空電斑点をはっきりとみとめたのであった。この女体が一連の電気と化して空間をはしりゆくとき、宇宙の雲助ともいうべき空電に禍いされても不思議ではない。そして生れもつかぬ黒い斑点を身体中に印せられた結果、もとの立体にかえっても、この斑点はなにか意識の恢復を邪魔するようにはたらいているのではなかろうか。
    僕がそのことを博士に話すと、博士は手をうってよろこんだ。
    「そうだ。君の考えは実にすばらしい。わしはそこまで考えつかなかったよ。うむ、分るぞ分るぞ。たとえば、脳髄の中にその黒い異物である斑点が交っていれば、脳髄の働きを害するにちがいない。――うむ、それはすばらしい発見だ。そういうことなら、なにも冒険をやって、絵里子を宇宙に飛ばさないでもよかったのだ。ああもう時すでにおそしだ」
    絵里子?
    僕は博士の言葉を聞きとがめた。
    「博士、くわしくいってください。絵里子をどうしたというのですか。――博士、さあいってください。なぜあなたは黙っていられる――」
    博士は僕の顔をしばし無言のままみつめていた。やがて博士は慄えをおびた声で、
    「絵里子は、いまごろ火星へついているだろう。わしは絵里子に命じ、自分の研究力の足りないところを、火星へ調査にやったのだ。絵里子は一連の電波となって宇宙をとんでいったよ。わしはあまりに成功を急ぎすぎた。それがよくなかったのだ。君にも絵里子にもすまないことをした」
    といって僕の前にこうべを垂れた。

  • 織田作之助「天衣無縫」別役みか朗読

    45.13 Jun 23, 2018

    天衣無縫

    織田作之助

    みんなは私が鼻の上に汗をためて、息を弾ませて、小鳥みたいにちょんちょんとして、つまりいそいそとして、見合いに出掛けたといって嗤ったけれど、そんなことはない。いそいそなんぞ私はしやしなかった。といって、そんな時私たちの年頃の娘がわざとらしく口にする「いやでいやでたまらなかった」――それは嘘だ。恥かしいことだけど、どういう訳かその年になるまでついぞ縁談がなかったのだもの、まるでおろおろ小躍りしているはたの人たちほどではなかったにしても、矢張り二十四の年並みに少しは灯のつく想いに心が温まったのは事実だ。けれど、いそいそだなんて、そんなことはなかった。なんという事を言う人達だろう。
    想っただけでもいやな言葉だけど、華やかな結婚、そんなものを夢みているわけではなかった。貴公子や騎士の出現、ここにこうして書くだけでもぞっとする。けれど、私だって世間並みに一人の娘、矢張り何かが訪れて来そうな、思いも掛けぬことが起りそうな、そんな憧れ、といって悪ければ、期待はもっていた。だから、いきなり殺風景な写真を見せつけられ、うむを言わさず、見合いに行けと言われて、はいと承知して、いいえ、承知させられて、――そして私がいそいそと――、あんまりだ。殺風景ななどと、男の人の使うような言葉をもちいたが、全くその写真を見たときの私の気持はそれより外に現わせない。それとも、いっそ惨めと言おうか。それを考えてくれたら、鼻の上に汗をためて――そんな陰口は利けなかった筈だ。
    その写真の人は眼鏡を掛けていたのだ。と言ってもひとにはわかるまい。けれど、とにかく私にとっては、その人は眼鏡を掛けていたのだ。いや、こんな気障な言い方はよそう。――ほんとうに、まだ二十九だというのに、どうしてあんな眼鏡の掛け方をするのだろう。何故もっとしゃんと、――この頃は相当年輩の人だって随分お洒落で、太いセルロイドの縁を青年くさく皺の上に見せているのに、――まるでその人と来たら、わざとではないかとはじめ思った、思いたかったくらい、今にもずり落ちそうな、ついでに水洟も落ちそうな、泣くとき紐でこしらえた輪を薄い耳の肉から外して、硝子のくもりを太短い親指の先でこすって、はれぼったい瞼をちょっと動かす、――そんな仕種まで想像される、――一口に言えば爺むさい掛け方、いいえ、そんな言い方では言い足りない。風采の上がらぬ人といってもいろいろあるけれど、本当にどこから見ても風采が上がらぬ人ってそうたんとあるものではない、それをその人ばかりは、誰が見たって、この私の欲眼で見たって、――いや、止そう。私だってちょっとも綺麗じゃない。歯列を矯正したら、まだいくらか見られる、――いいえ、どっちみち私は醜女、しこめです。だから、その人だって、私の写真を見て、さぞがっかりしたことだろう。私の生れた大阪の方言でいえばおんべこちゃ、そう思って私はむしろおかしかった。あんまりおかしくて、涙が出て、折角縁談にありついたという気持がいっぺんに流されて、ざまあ見ろ。はしたない言葉まで思わず口ずさんで、悲しかった。浮々した気持なぞありようがなかった。くどいようだけれど、それだのにいそいそなんて、そんな……。
    もっとも、その当日、まるでお芝居に出るみたいに、生れてはじめて肌ぬぎになって背中にまでお白粉をつけるなど、念入りにお化粧したので、もう少しで約束の時間に遅れそうになり、大急ぎでかけつけたものだから、それを見合いはともかくそんな大袈裟な化粧をしたということにさすがに娘らしい興奮もあったものだから、いくらかいそいそしているように、はた眼には見えたのかも知れない。と、こう言い切ってしまっては至極あっけないが、いや、そう誤解されたと思っていることにしよう。
    とにかく出掛けた。ところが、約束の場所へそれこそ大急ぎでかけつけてみると、その人はまだ来ていなかった。別室とでもいうところでひっそり待っていると、仲人さんが顔を出し、実は親御さん達はとっくに見えているのだが、本人さんは都合で少し遅れることになった、というのは、本人さんは今日も仕事の関係上欠勤するわけにいかず、平常どおり出勤し、社がひけてからここへやって来ることになっているのだが、たぶん急に用事ができて脱けられぬと思う、よってもう暫らく待っていただけないか、いま社へ電話しているから、それにしても今日は良いお天気で本当に――、ぼうっとして顔もよう見なかったなんて恥かしいことにはなるまい、いいえ、ネクタイの好みが良いか悪いかまでちゃんと見届けてやるんだなどと、まるで浅ましく肚の中で眼をきょろつかせた意気込んだ気持がいっぺんにすかされたようで、いやだわ、いやだわ、こんなことなら来るんじゃなかったと、わざと二十歳前の娘みたいにくねくねとすね、それをはたの者がなだめる、――そんな騒ぎの、しかしどちらかといえば、ひそびそした時間が一時間経って、やっとその人は来た。赤い顔でふうふう息を弾ませ、酒をのんでいると一眼でわかった。
    あとで聞いたことだが、その人はその日社がひけて、かねての手筈どおり見合いの席へ行こうとしたところを、友達に一杯やろうかと誘われたのだった。見合いがあるからと断ればよいものを、そしてまたその口実なら立派に通る筈だのに、また、当然そう言わねばならぬのに、その人はそれが言えなかった。これは私にとって、どういうことになるんだろう。日頃、附合いの良いたちで、無理に誘われると断り切れなかったなんて、浅い口実だ。何ごとにつけてもいやと言い切れぬ気の弱いたちで……などといってみたところで、しかし外の場合と違うではないか。それとも見合いなんかどうでも良かったのだろうか。私なんかと見合いするのが恥かしくて、見合いに行くと言えなかったのだろうか。いずれにしても私は聞いて口惜しかった。けれど、いいえ、そんな風には考えたくなかった。矢張り見合いは気になっていたのだが、まだいくらか時間の余裕はあったから、少しだけつきあって、いよいよとなれば席を外して駈けつけよう、そんな風な虫のよいことを考えてついて行ったところ、こんどはその席を外すということが容易でなく、結局ずるずると引っ張られて、到頭遅刻してしまったのだ――と、そんな風に考えたかった。つまりは底抜けに気の弱い人、決して私との見合いを軽々しく考えたのでも、またわざと遅刻したのでもないと、ずっとあとになってからだが、そう考えることにした。するといくらか心慰まったが、それにしても随分頼りない人だということには変りはない。全くそれを聞かされた時は、何という頼りない人かとあきれるほど情けなかった。いや、頼りないといえば、そんな事情をきかされるまでもなく、既にその見合いの席上で簡単にわかってしまったことなのだ。遅刻はするし、酔っぱらっては来るし、もうこんな人とは結婚なんかするものかと思ったが、そう思ったことがかえって気が楽になったのか、相手が口を利かぬ前にこちらから物を言う気になり、大学では何を専攻されましたかと訊くと、はあ、線香ですか、好きです。頼りないというより、むしろ滑稽なくらいだった。誰も笑わず、けれど皆びっくりした。私は何故だか気の毒で、暫らく父御さんの顔を見られなかったが、やがて見ると、律義そうなその顔に猛烈な獅子鼻がさびしくのっかっており、そしてまたそれとそっくりの鼻がその人の顔にも野暮ったくくっついているのが、笑いたいほどおかしく分って、私は何ということもなしに憂鬱になり、結婚するものかという気持がますます強くなった。それでもう私はあと口も利かず、陰気な唇をじっと噛み続けたまま、そして見合いは終った。

  • 江戸川乱歩 「少年探偵団24「大爆発」」別役みか朗読

    15.40
    Oct 20, 2017

    大爆発

    二十面相は、十一体の仏像のピストルにかこまれ、明智探偵の監視をうけながら、もうあきらめはてたように美術室の中を、フラフラと歩きまわりました。
    「ああ、せっかくの苦心も水のあわか。おれは何よりも、この美術品をうしなうのがつらいよ。明智君、武士のなさけだ。せめて名ごりをおしむあいだ、外の警官を呼ぶのを待ってくれたまえね。」
    二十面相は、早くもそれをさとっていました。いかにも彼の推察すいさつしたとおり、この洋館の外は、数十人の警官隊によって、アリのはいでるすきもなく、ヒシヒシと四ほうからとりかこまれていたのです。
    明智探偵も、怪人のしおらしいなげきには、いささかあわれをもよおしたのでしょう。「さあ、ぞんぶんに名ごりをおしむがいい。」といわぬばかりに、じっともとの場所にたたずんだまま、腕組みをしています。
    二十面相は、しおしおとして、部屋の中を行きつもどりつしていましたが、いつとはなしに明智探偵から遠ざかって、部屋の向こうのすみにたどりつくと、いきなりそこへうずくまって、何か床板をゴトゴトとやっていましたが、とつぜん、ガタンというはげしい音がして、ハッと思うまに、彼の姿は、かき消すように見えなくなってしまいました。
    ああ、これこそ賊の最後の切り札だったのです。美術室の下には、さらに一段深い地下の穴ぐらが用意してあったのです。二十面相は明智のゆだんを見すまして、すばやく穴ぐらのかくしぶたをひらき、その暗やみの中へころがりこんでしまったのです。
    われらの名探偵は、またしても賊のためにまんまとはかられたのでしょうか。このどたん場まで追いつめながら、ついに二十面相をとりにがしてしまったのでしょうか。
    読者諸君、ご安心ください。明智探偵は少しもさわぎませんでした。そして、さもゆかいそうにニコニコと笑っているのです。探偵はゆっくりその穴ぐらの上まで歩いていきますと、あいたままになっている入り口をのぞきこんで、二十面相によびかけました。
    「おいおい、二十面相君、きみは何を血まよったんだい。この穴ぐらをぼくが知らなかったとでも思っているのかい。知らないどころか、ぼくはここをちゃんと牢屋ろうやに使っていたんだよ。よくそのへんを見てごらん。きみの三人の部下が、手足をしばられ、さるぐつわをはめられて、穴ぐらのそこにころがっているはずだぜ。その三人はぼくの仕事のじゃまになったので、ゆうべからそこに引きこもってもらったのさ。その中にひとり、シャツ一枚のやつがいるだろう。ぼくが洋服を拝借したんだよ。そして、つけひげをして、お化粧をして、まんまときみの部下になりすましたのさ。
    ぼくはね、そいつが、大鳥時計店の例の地下道から、にせものの黄金塔をはこびだすのを尾行したんだぜ。そして、きみのかくれがをつきとめたってわけさ。ハハハ……。
    二十面相君、きみはとんだところへ逃げこんだものだね。まるで、われとわが身を牢屋へとじこめたようなものじゃないか。その穴ぐらにはほかに出口なんてありゃしない。つまり地の底の墓場のようなものさ。おかげできみをしばる手数がはぶけたというものだよ。ハハハ……。」
    明智はさもおかしそうに笑いながら、十一体の仏像どものほうをふりむきました。
    「小林君、もうここはいいから、みんなをつれて外へ出たまえ。そして、警官隊に、二十面相を引きとりにくるよう伝えてくれたまえ。」
    それを聞きますと、将軍の号令でも受けたように、十一体の仏像は、サッとれんげ台をとびおりて、部屋の中央に整列しました。仏像が少年探偵団員のきばつな変装姿であったことは、読者諸君も、とっくにお察しになっていたでしょうね。
    団員たちは、うらみかさなる二十面相の逮捕を、指をくわえて見ていることができなかったのです。たとえ明智探偵の足手まといになろうとも、何か一役引きうけないでは、気がすまなかったのです。
    そこで、小林団長のいつかの知恵にならって、賊の美術室にちょうど十一体の仏像があるのをさいわい、そのうす暗い地下室で、団員ぜんぶが仏像にけ、にくい二十面相をゾッとさせる計略を思いたちました。そして小林少年を通じて、明智探偵にせがんだすえ、とうとうその念願をはたしたのです。
    その夜明け、賊の部下に変装した明智探偵のあいずを受け、林の中をかけだした黒い人かげは、ほかならぬ小林少年でした。小林君はそれからしばらくして、少年探偵団員を引きつれ、賊のかくれがにやってきたのでした。
    十一体の仏像は正しく三列にならんで、明智探偵をみつめ、そろって挙手きょしゅの礼をしたかとおもうと、
    「明智先生、ばんざーい。少年探偵団、ばんざーい。」
    と、かわいい声をはりあげてさけびました。そして、まわれ右をすると、小林少年を先頭に、奇妙な仏像の一群は、サーッと地下室をかけだしていったのです。
    あとには、穴ぐらの入り口と、その底とで、名探偵と怪盗とのさし向かいでした。
    「かわいい子どもたちだよ。あれらが、どれほど深くきみをにくんでいたと思う。それはおそろしいほどだったぜ。あたりまえならば、こんなところへ来させるものではないけれど、あまり熱心にせがまれるので、ぼくもいじらしくなってね。それに、相手は紳士の二十面相君だ。血のきらいな美術愛好者だ。まさか危険もあるまいと、ついゆるしてしまったのだが、あの子どもたちのおかげで、ぼくは、すっかりきみの機先きせんを制することができた。仏像が動きだしたときの、きみの顔といったらなかったぜ。ハハハ……、子どもだといってばかにできないものだね。」
    明智探偵は、警官隊が来るまでのあいだを、まるでしたしい友だちにでもたいするように、何かと話しかけるのでした。
    「フフフ……、二十面相は紳士泥棒か。二十面相は血がきらいか。ありがたい信用をはくしたもんだな。しかしね、探偵さん、その信用もばあいによりけりだぜ。」
    地底の暗やみから、二十面相の陰気な声が、すてばちのようにひびいてきました。
    「ばあいによりけりとは?」
    「たとえばさ……。今のようなばあいさ。つまり、おれはここでいくらじたばたしたって、もうのがれられっこはない。しかも、その頭の上には、知恵でも腕力でもとてもかなわない敵がいるんだ。やつざきにしてもあきたりないやつがいるんだ。」
    「ハハハ……、そこできみとぼくと、真剣勝負をしようとでもいうのか。」
    「今になって、そんなことがなんになる。この家はおまわりにかこまれているんだ。いや、そういううちにも、ここへおれをひっとらえに来るんだ。おれのいうのは、勝負をあらそうのじゃない。まあ早くいえばさしちがえだね。」
    怪盗の声はいよいよ陰にこもって、すごみをましてきました。
    「え、さしちがえだって?」
    「そうだよ。おれは紳士泥棒だから、飛び道具も刃物も持っちゃいない。だから、むかしの侍みたいなさしちがえをやるわけにはいかん。そのかわりにね、すばらしいことがあるんだ。ね、探偵さん、きみはとんでもない見おとしをやっているぜ。
    フフフ……、わかるまい。この穴ぐらの中にはね、二つ三つの洋酒のたるがころがっている。きみはそれを見ただろうね。ところが、探偵さん。このたるの中には、いったい何がはいっていると思うね。
    フフフ……、おれはこういうこともあろうかと、ちゃんとわが身のしまつを考えておいたんだ。きみはさっき、この穴ぐらを墓場だといったっけねえ。いかにも墓場だよ。おれは墓場と知ってころがりこんだのさ。骨も肉もみじんも残さず、ふっとんでしまう墓場だぜ。
    わかるかい。火薬だよ。このたるの中にはいっぱい火薬がつまっているのさ。
    おれは刃物を持っていないけれど、マッチは持っているんだぜ。そいつをシュッとすって、たるの中に投げこめば、きみもおれも、たちまちこっぱみじんさ。フフフ……。」
    そして、二十面相は、その火薬のつまっているというたるを、ゴロゴロと穴ぐらのまんなかにころがして、そのふたをとろうとしているようすなのです。
    さすがの名探偵も、これにはアッと声をたてないではいられませんでした。
    「しまった。しまった。なぜあのたるの中をしらべて見なかったのだろう。」
    くやんでも、いまさらしかたがありません。
    いくらなんでも、二十面相の死の道づれになることはできないのです。名探偵には、まだまだ世の中のために、はたさなければならぬ仕事が、山のようにあるのです。逃げるほかにてだてはありません。探偵の足が早いか、賊が火薬のふたをあけ、火を点じるのが早いか、命がけの競争です。
    明智はパッととびあがると、まるで弾丸だんがんのように、地下室を走りぬけ、階段を三段ずつ一とびにかけあがって、洋館の玄関にかけだしました。ドアをひらくと、出あいがしらに、十数名の制服警官が、二十面相逮捕のために、いま屋内にはいろうとするところでした。
    「いけないっ、賊は火薬に火をつけるのです。早くお逃げなさい。」
    探偵は警官たちをつきとばすようにして、林の中へ走りこみました。あっけにとられた警官たちも、「火薬」ということばに、きもをつぶして、同じように林の中へ。
    「みんな、建物をはなれろ! 爆発がおこるんだ。早く、逃げるんだ。」
    建物の四ほうをとりまいていた警官隊は、そのただならぬさけび声に、みな丘のふもとへかけおりました。どうして、そんなよゆうがあったのか、あとになって考えてみると、ふしぎなほどでした。二十面相はたるのふたをあけるのにてまどったのでしょうか。それともマッチがしめってでもいたのでしょうか。ちょうど人々が危険区域から遠ざかったころ、やっと爆発がおこりました。
    それはまるで地震のような地ひびきでした。洋館ぜんたいが宙天ちゅうてんにふっとんだかとうたがわれるほどの大音響でした。でも、閉じていた目をおずおずとひらいてみると、賊のかくれがは、べつじょうなく目の前に立っていました。爆発はただ地下室から一階の床をつらぬいただけで、建物の外部には、なんの異状もないのでした。
    しかし、やがて、一階の窓から、黒い煙がムクムクと吹きだしはじめました。そして、それがだんだん濃くなって、建物をつつみはじめるころには、まっ赤なかえんが、まるで巨大な魔物の舌のように、どの窓からも、メラメラとたちのぼり、みるみる建物ぜんたいが火のかたまりとなってしまいました。
    このようにして、二十面相はさいごをとげたのでした。
    火災が終わってから、焼けあとのとりしらべがおこなわれたのは申すまでもありません。しかし、二十面相がいったとおり、肉も骨もこっぱみじんにくだけ散ってしまったのか、ふしぎなことに怪盗の死がいはもちろん、三人の部下の死がいも、まったく、発見することができませんでした。

    青空文庫より

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  • 江戸川乱歩 少年探偵団24「「大爆発」」別役みか朗読

    15.40
    Oct 20, 2017

  • 江戸川乱歩 少年探偵団23「美術室の怪」別役みか朗読

    18.85
    Oct 14, 2017

    美術室の怪

    二十面相がドアをあけて、玄関のホールに立ちますと、その物音を聞きつけて、ひとりの部下が顔を出しました。頭の毛をモジャモジャにのばして、顔いちめんに無精ぶしょうひげのはえた、きたならしい洋服男です。
    「お帰りなさい……。大成功ですね。」
    部下の男はニヤニヤしながらいいました。何も知らないらしいのです。
    「大成功? おやいや、何を寝ぼけているんだ。おれはマンホールの中で夜を明かしてきたんだぜ。近ごろにない大失敗さ。」
    二十面相はおそろしいけんまくでどなりつけました。
    「だって、黄金塔はちゃんと手にはいったじゃござんせんか。」
    「黄金塔か、あんなもの、どっかへうっちゃっちまえ。おれたちは、にせものをつかまされたんだよ。またしても、明智のやつのおせっかいさ、それに、こにくらしいのは、あの小林という小僧だ。お手伝いに化けたりして、チビのくせに、いやに知恵のまわる野郎だ。」
    部下の男は、首領のやつあたりにヘドモドしながら、
    「いったいどうしたっていうんですか? あっしゃ、まるでわけがわかりませんが。」
    とふしん顔です。
    「まあ、すんだことはどうだっていい。それより、おれはねむくってしかたがないんだ。何もかもねむってからのこと。それから、新規しんきまきなおしだ。あーあ……。」
    二十面相は大きなあくびをして、フラフラと廊下をたどり、奥まった寝室へはいってしまいました。
    部下の男は、二十面相を送って、寝室の外まで来ましたが、中からドアがしまっても、そこのうす暗い廊下に、長いあいだたたずんで、何か考えていました。
    やや五分ほども、そうしてじっとしていますと、つかれきった二十面相は、服も着かえないでベッドにころがったものとみえ、もうかすかないびきの音が聞こえてきました。
    それを聞きますと、ひげむじゃの部下は、なぜかニヤニヤと笑いながら、寝室の前を立ちさりましたが、ふたたび玄関に引きかえし、入り口のドアの外へ出て、向こうの林のしげみへ向かって、右手を二三度大きくふりうごかしました。なんだか、その林の中にかくれている人に、あいずでもしているようなかっこうです。
    夜が明けたばかりの、五時少しまえです。林の中は、まだゆうべのやみが残っているように、うす暗いのです。こんなに朝早くから、いったい何者が、そこにかくれているというのでしょう。
    ところが、部下の男が手をふったかと思うと、その林の下のしげった木の葉が、ガサガサと動いて、その間から、何かほの白い丸いものが、ぼんやりとあらわれました。うす暗いのでよくわかりませんが、どうやら人の顔のようにも思われます。
    すると、建物の入口に立っている部下の男が、こんどは両手をまっすぐにのばして、左右にあげたりさげたり、鳥の羽ばたきのようなまねを、三度くりかえしました。
    いよいよへんです。この男はたしかに何か秘密のあいずをしているのです。相手は何者でしょう。二十面相の敵か味方か、それさえもはっきりわかりません。
    その奇妙なあいずが終わりますと、こんどはいっそうふしぎなことがおこりました。今まで林のしげみの中にぼんやり見えていた、人の顔のようなものが、スッとかくれたかと思うと、まるで大きなけだものでも走っているように、木の葉がはげしくざわめき、何かしら黒い影が、木立ちの間を向こうのほうへ、とぶようにかけおりていくのが見えました。
    その黒い影はいったい何者だったのでしょう。そして、あのひげむじゃの部下はなんのあいずをしたのでしょう。
    さて、お話は、それから七時間ほどたった、その日のお昼ごろのできごとにうつります。
    そのころになって、寝室の二十面相はやっと目をさましました。じゅうぶんねむったものですから、ゆうべのつかれもすっかりとれて、いつもの快活な二十面相にもどっていました。まず浴室にはいって、さっぱりと顔を洗いますと、毎朝の習慣にしたがって、廊下の奥のかくし戸をひらいて、地底の美術室へと、おりていきました。
    その洋館には広い地下室があって、そこが怪盗の秘密の美術陳列室になっているのです。読者諸君もごぞんじのとおり、二十面相は、世間の悪漢のように、お金をぬすんだり、人を殺したり、傷つけたりはしないのです。ただいろいろな美術品をぬすみあつめるのが念願なのです。
    以前の巣くつは、国立博物館事件のとき、明智探偵のために発見され、ぬすみあつめた宝物を、すっかりうばいかえされてしまいましたが、それからのち、二十面相は、また、おびただしい美術品をぬすみためて、この新しいかくれがの地下室に、秘密の宝庫をこしらえていたのです。
    そこは二十畳敷きぐらいの広さで、地下室とは思われぬほど、りっぱな飾りつけをした部屋です。四ほうの壁には、日本画の掛け軸や、大小さまざまの西洋画の額などが、ところせましとかけてありますし、その下にはガラスばりの台がズッとならんでいて、目もまばゆい貴金属、宝石類の小美術品が陳列してあります。また、壁のところどころには、古い時代の木彫りの仏像が、つごう十一体、れんげ台の上に安置されています。それらの美術品は、どれを見ても、みな由緒ゆいしょのある品ばかり、私設博物館といってもいいほどのりっぱさです。
    地下室のことですから、窓というものがなく、わずかに、天井のすみに、厚いガラス張りの天窓のようなものがあり、そこからにぶい光がさしこんでいるばかりですから、美術室は昼間でも、夕方のようにうす暗いのです。
    部屋の天井には、りっぱな装飾電燈がさがっていますけれど、二十面相は、新しい宝物を手に入れたときででもなければ、めったに電燈をつけません。大寺院のお堂の中のような、おもおもしいうす暗さが大すきだからです。そのうす暗い中でながめますと、古い絵や仏像がいっそう古めかしく尊く感じられるからです。
    二十面相は、いま、その美術室のまんなかに立って、ぬすみためた宝物を、さも楽しそうに見まわしていました。
    「フフン、明智先生、おれの裏をかいたと思って、得意になっているが、黄金塔がなんだ、あんなもの一つぐらいしくじったって、おれはこんなに宝物を集めているんだ。さすがの明智先生も、ここにこんなりっぱな美術室があろうとは、ごぞんじあるまいて、フフフ……。」
    怪盗はひとりごとをいって、さもゆかいらしく笑うのでした。
    二十面相は部屋のすみの一つの仏像の前に近づきました。
    「じつによくできているなあ。なにしろ国宝だからね。まるで生きているようだ。」
    そんなことをつぶやきながら、仏像の肩のへんをなでまわしていましたが、なにを思ったのか、ふと、その手をとめて、びっくりしたように、しげしげと仏像の顔をのぞきこみました。
    その仏像はいやになまあたたかかったからです。あたたかいばかりでなく、からだがドキンドキンと脈うっていたからです。まるで息でもしているように、胸のへんがふくれたりしぼんだりしていたからです。
    いくら生きているような仏像だって、息をしたり、脈をうったりするはずはありません。なんだかへんです。お化けみたいな感じです。
    二十面相は、ふしぎそうな顔をして、その仏像の胸をたたいてみました。ところが、いつものようにコツコツという音がしないで、なんだかやわらかい手ごたえです。
    たちまち、二十面相の頭に、サッと、ある考えがひらめきました。
    「やいっ、きさま、だれだっ!」
    彼はいきなり、おそろしい声で、仏像をどなりつけたのです。
    すると、ああ、なんということでしょう。どなりつけられた仏像が、ムクムクと動きだしました。そして、まっ黒になったやぶれ衣の下から、ニューッとピストルの筒口があらわれ、ピッタリと怪盗の胸にねらいがさだめられたではありませんか。
    「きさま、小林の小僧だなッ。」
    二十面相は、すぐさまそれとさとりました。この手は以前に一度経験していたからです。
    しかし、仏像は何も答えませんでした。無言のまま、左手をあげて、二十面相のうしろを指さしました。
    そのようすがひどくぶきみだったものですから、怪盗は思わずヒョイと、うしろをふりむきましたが、すると、これはどうしたというのでしょう。部屋中の仏像がみな、れんげ台の上で、むくむくと動きだしたではありませんか。そして、それらの仏像の右手には、どれもこれも、ピストルが光っているのです。十一体の仏像が、四ほうから、怪盗めがけて、ピストルのねらいをさだめているのです。
    さすがの二十面相も、あまりのことに、アッと立ちすくんだまま、キョロキョロとあたりを見まわすばかりです。
    「夢をみているんじゃないかしら。それともおれは気でもちがったのかしら。十一体の仏像が十一体とも、生きて動きだして、ピストルをつきつけるなんて、そんなばかなことが、ほんとうにおこるものかしら。」
    二十面相は、頭の中がこんぐらかって、何がなんだかわけがわからなくなってしまいました。フラフラと目まいがして、今にもたおれそうな気持です。
    「おや、どうかなすったのですかい。顔色がひどく悪いじゃございませんか。」
    とつぜん声がして、けさのひげむじゃの部下の男が、美術室へはいってきました。
    「ウン、少し、目まいがするんだ。おまえ、この仏像をよくしらべてみてくれ、おれにはなんだかみょうなものに見えるんだが……。」
    二十面相は頭をかかえて、弱音よわねをはきました。
    すると部下の男は、いきなり笑いだして、
    「ハハハ……、仏さまが生きて動きだしたというんでしょう。天罰てんばつですぜ。二十面相に天罰がくだったんですぜ。」
    と、みょうなことをいいだしました。
    「エッ、なんだって?」
    「天罰だといっているんですよ。とうとう二十面相の運のつきが来たといっているんですよ。」
    二十面相は、あっけにとられて相手の顔を見つめました。木彫りの仏像が動きだしたばかりでなく、信じきっていた部下までが、気でもちがったように、おそろしいことをいいだしたのです。いよいよ、何がなんだかわからなくなってしまいました。
    「ハハハ……、おいおい、二十面相ともあろうものが、みっともないじゃないか、こんなことでびっくりするなんて。ハハハ……、まるでハトが豆鉄砲をくらったような顔だぜ。」
    部下の男の声が、すっかりかわってしまいました。今までのしわがれ声が、たちまちよく通る美しい声にかわってしまったのです。
    二十面相は、どうやらこの声に聞きおぼえがありました。ああ、ひょっとしたら、あいつじゃないかしら。きっとあいつだ。ちくしょうめ、あいつにちがいない。しかし、彼はおそろしくて、その名を口にだすこともできないのでした。
    「ハハハ……、まだわからないかね。ぼくだよ。ぼくだよ。」
    部下の男は、ほがらかに笑いながら、顔いちめんのつけひげを、皮をはぐようにめくりとりました。
    すると、その下から、にこやかな青年紳士の顔があらわれてきたのです。
    「アッ、きさま、明智小五郎!」
    「そうだよ、ぼくも変装はまずくはないようだね。本家本元のきみをごまかすことができたんだからね。もっとも、けさは夜が明けたばかりで、まだうす暗かったし、この地下室も、ひどく暗いのだから、そんなにいばれたわけでもないがね。」
    ああ、それは意外にもわれらの明智探偵だったのです。
    二十面相は、一時はギョッと顔色をかえましたが、相手が化けものでもなんでもなく、明智探偵とわかりますと、さすがは怪人、やがてだんだん落ちつきをとりもどしました。
    「で、おれをどうしようというのだね。探偵さん。」
    彼はにくにくしく言いながら、傍若無人に地下室の出口のほうへ歩いていこうとするのです。
    「とらえようというのさ。」
    探偵は二十面相の胸を、グイグイとおしもどしました。
    「で、いやだといえば? 仏像どもがピストルをうつというしかけかね。フフフ……、おどかしっこなしだぜ。」
    怪盗は、たかをくくって、なおも明智をおしのけようとします。
    「いやだといえばこうするのさ!」
    肉弾と肉弾とがはげしい勢いでもつれあったかと思うと、おそろしい音をたてて、二十面相のからだが床の上に投げたおされていました。背負い投げがみごとにきまったのです。
    二十面相は投げたおされたまま、あっけにとられたように、キョトンとしていました。明智探偵にこれほどの腕力があろうとは、今の今まで、夢にも知らなかったからです。
    二十面相は少し柔道のこころえがあるだけに、段ちがいの相手の力量がはっきりわかるのです。そして、これではいくら手むかいしてみても、とてもかなうはずはないとさとりました。
    「こんどこそはおれの負けだね。フフフ……、二十面相もみじめな最期をとげたもんさねえ。」
    彼は、にが笑いをうかべながら、しぶしぶ立ちあがると、「さあ、どうでもしろ。」というように、明智探偵をにらみつけました。

    青空文庫より

     

  • 江戸川乱歩 少年探偵団22「逃走」別役みか朗読

    26.73
    Sep 11, 2017

    逃走

    「ハハハ……、何もおどろくことはありませんよ。二十面相は土の下へ逃げたのです。」
    明智小五郎は、少しもさわがず、あっけにとられている人々を見まわして、説明しました。
    「エッ、土の中へ? いったいそれはどういう意味です。」
    大鳥氏がびっくりして聞きかえします。
    「土の中に秘密のぬけ穴が掘ってあったのです。」
    「エッ、ぬけ穴が?」
    「そうですよ。二十面相は黄金塔をぬすみだすために、あらかじめ、ここの床下へぬけ穴を掘っておいて、支配人に化けて、さも忠義顔に、あなたにほんものの塔を、この床下へうずめることをすすめたのです。そして、部下のものがぬけ穴からしのんできて、ちょうどその穴の入り口にある塔を、なんのぞうさもなく持ちさったというわけですよ。賊の足あとが見あたらなかったのはあたりまえです。土の上を歩いたのではなく、土の中をはってきたのですからね。」
    「しかし、わたしはあれを床下へうずめるのを見ておりましたが、べつにぬけ穴らしいものはなかったようですが。」
    「それはふたがしてあったからですよ。ま、ま、ここへ来てよくごらんなさい。大きな鉄板てっぱんで穴の上をふたして、土がかぶせてあったのです。今、二十面相はその鉄板をひらいて、穴の中にとびこんだのです。かき消すように見えなくなったのは、そのためですよ。」
    大鳥氏も門野老人も小林少年も、急いでそばによって、床下をながめましたが、いかにもそこには一枚の鉄板が投げだしてあって、そのそばに古井戸のような大きな穴が、まっ黒な口をひらいていました。
    「いったい、この穴はどこへつづいているのでしょう。」
    大鳥氏があきれはてたようにたずねますと、明智はそくざに答えました。何から何まで知りぬいているのです。
    「この裏手にあき家があるでしょう。ぬけ穴はそのあき家の床へぬけているのです。」
    「では早く追いかけないと、逃げてしまうじゃありませんか。先生、早くそのあき家のほうへまわってください。」
    大鳥氏は、もう気が気でないというちょうしです。
    「ハハハ……。そこにぬかりがあるものですか。そのあき家のぬけ穴の出口のところには、中村捜査係長の部下が、五人も見はりをしていますよ。今ごろあいつをひっとらえている時分です。」
    「ああ、そうでしたか。よくそこまで準備ができましたねえ、ありがとう、ありがとう、おかげで、私も今夜からまくらを高くして寝られるというものです。」
    大鳥氏は安堵の胸をなでおろして、名探偵のぬけめのない処置を感謝するのでした。
    しかし、二十面相は、明智の予想のとおり、はたして五名の警官に、逮捕されてしまったでしょうか。名にしおう魔術賊のことです。もしや、意外の悪知恵をはたらかせて、名探偵の計略の裏をかくようなことはないでしょうか。ああ、なんとなく心がかりではありませんか。
    そのとき、やみのぬけ穴では、いったいどんなことがおこっていたのでしょう。
    門野老人に化けた二十面相は、人々のゆだんを見すまして、パッとぬけ穴の中にとびこみますと、せまい穴の中をはうようにして、まるでもぐらのようなかっこうで、反対の出口へと急ぎました。
    時計店の裏通りの、あき家というのは、奥座敷からは、せまい庭と塀とをへだててすぐのところにあるのですから、ぬけ穴の長さは二十メートルほどしかありません。二十面相は、まずそのあき家を借りたうえ、部下に命じて、人に知られぬように、大急ぎでぬけ穴を掘らせたのです。ですから、内がわを石がきやレンガできずくひまはなく、ちょうど旧式な炭坑のように、丸太のわくで、土の落ちるのをふせいであるという、みすぼらしいぬけ穴です。広さも、やっとひとり、はって歩けるほどなのです。
    二十面相は、土まみれになって、そこをはっていきましたが、あき家の中の出口の下まで来て、ヒョイと外をのぞいたかと思うと、何かギョッとしたようすで首をひっこめてしまいました。
    「ちくしょうめ、もう手がまわったか。」
    彼は、いまいましそうに舌打ちして、しかたなく、またあともどりをはじめました。
    穴の外の暗やみの中に、大ぜいの黒い人かげが見えたからです。しかも、それがみんな制服の警官らしく、制帽のひさしと拳銃のにぎりが、やみの中にもかすかにピカピカと光って見えたのです。
    ああ、二十面相はとうとう、袋のネズミになってしまいました。いや、穴の中のもぐらになってしまいました。さすがの凶賊きょうぞくももはや運のつきです。前に進めば五人の警官、うしろにもどれば、だれよりもこわい明智名探偵が待ちかまえているのです。進むこともしりぞくこともできません。といって、もぐらではない二十面相は、こんなジメジメした、まっくらな穴の中に、いつまでじっとしていられましょう。
    しかし、なぜか怪盗はさしてこまったようすも見えません。彼はやみの中を、ぬけ穴の中ほどまで引きかえしますと、そこの壁のくぼみになった個所から、何かふろしき包みのようなものを、とりだしました。
    「ヘヘン、どうだい。二十面相はどんなことがあったって、へこたれやしないぞ。敵が五と出せばこちらは十だ。十と出せば二十だ。ここにこんな用意がしてあろうとは、さすがの名探偵どのも、ごぞんじあるまいて。二十面相の字引きに不可能の文字なしっていうわけさ。フフフ……。」
    彼は、そんなふてぶてしいひとりごとをいいながら、ふろしき包みらしいものをひらきました。すると、その中から、警官の制服制帽、警棒、靴などがあらわれました。
    ああ、なんという用心ぶかさでしょう。まんいちのばあいのために、彼はぬけ穴の中へ、こんな変装用の衣装をかくしておいたのです。
    「おっと、わすれちゃいけない。まず髪の毛の染料と顔のしわを落とさなくっちゃあ。」
    二十面相は、じょうだんのようにつぶやきながら、懐中から銀色のケースをとりだし、その中の揮発油きはつゆをしみこませた綿をちぎって頭と顔をていねいにふきとるのです。綿をちぎってはふき、ちぎってはふき、何度となくくりかえしているうちに、老人のしらが頭は、いつのまにか黒々とした頭髪となり、顔のしわもあとかたもなくとれて、若々しい青年にかわってしまいました。
    「これでよしと、さあ、いよいよおまわりさんになるんだ。泥棒がおまわりさんに早がわりとござあい。」
    二十面相は、きゅうくつな思いをして、やみの中の着がえをしながら、さもうれしくてたまらないというように、低く口笛さえ吹きはじめるのでした。

    裏のあき家というのは、日本建ての商家でしたが、その奥座敷でも、ちょうど大鳥時計店の奥座敷と同じように、一枚の畳があげられ、床板がはずされ、その下に黒い土があらわれていました。
    その土のまんなかに、ここには鉄板のふたなどなくて、ポッカリとぬけ穴の口が大きくひらいているのです。
    ぬけ穴のまわりには、五名の制服警官が、あるいは床下に立ち、あるいは畳にこしかけ、あるいは座敷につっ立って、じっと見はりをつづけていました。むろん電燈はつけず、いざというときの用意には、中のふたりが懐中電燈をたずさえているのです。
    「明智さんがもう少し早く、このぬけ穴を発見してくれたら、塔をぬすみだした手下のやつも、ひっとらえることができたんだがなあ。」
    ひとりの警官が、ささやき声で、ざんねんそうにいいました。
    「だが、二十面相さえとらえてしまえば、手下なんか一網打尽いちもうだじんだよ。それにぬすまれた塔はにせものだっていうじゃないか。ともかく親玉さえつかまえてしまえば、こっちのもんだ。ああ、早く出てこないかなあ。」
    べつの警官が、腕をさすりながら、待ちどおしそうに答えるのです。
    たばこをすうのもえんりょして、じっと暗やみの中に待っている待ちどおしさ。まるで時間が止まってしまったような感じです。
    「おい、何か音がしたようだぜ。」
    「エッ、どこに?」
    思わず懐中電燈をつかんで立ちあがったことが、いく度あったでしょう。
    「なあんだ、ネズミじゃないか。」
    当の二十面相は、いつまでたっても、姿をあらわさないのでした。
    しかし、おお、こんどこどは、人間です。人間が穴の中からはいだしてくる物音です。サラサラと土のくずれる音、ハッハッという息づかい、いよいよ二十面相がやってきたのです。
    五名の警官はいっせいに立ちあがって、身がまえました。二つの懐中電燈の丸い光が、左右からパッと穴の入り口を照らしました。
    「おい、ぼくだよ、ぼくだよ。」
    意外にも、穴をはいだしてきた人物が、したしそうな声をかけるではありませんか。
    それは怪盗ではなくて、ひとりの若い警官だったのです。見知らぬ顔ですけれど、きっとこの区の警察署の警官なのでしょう。
    「賊はどうしました。逃げたんですか。」
    見はりをしていた警官のひとりが、ふしんそうにたずねました。
    「いや、もうとらえました。明智さんの手引きで、ぼくの署のものが、しゅびよく逮捕たいほしたのです。あなたがたも早くあちらへ行ってください……。ぼくはこのぬけ穴の検分をおおせつかったのです。もしや同類がかくれてやしないかというのでね。しかし、だれもいなかったですよ。」
    若い警官は、手錠をガチャガチャいわせながら、やっと穴をはいだして、五人の前に立ちました。
    「なあんだ、もう逮捕したんだって?」
    こちらは、せっかく意気ごんだのにむだになったと知って、がっかりしてしまいました。いや、がっかりしたというよりも、他署のものに手がらをうばわれて、すくなからず不平なのです。
    「明智さんから、あなたがたに、もう見はりをしなくっていいから、早くこちらへ来てくださいということでしたよ……。ぼくはちょっと、署まで用事がありますから、これで失敬しっけいします。」
    若い警官はテキパキといって、暗やみの中を、グングンあき家の表口のほうへ歩いていきました。
    とりのこされた五人の警官は、なんとなくふゆかいな気持で、きゅうに動く気にもなれず、
    「なあんだ、つまらない。」
    などとつぶやきながら、ぐずぐずしていましたが、やがて、その中のひとりが、ハッと気づいたようにさけびました。
    「おい、へんだぜ。あの男、ぬけ穴の調査を命じられたといいながら、報告もしないで、署に帰るなんて、少しつじつまがあわないじゃないか。」
    「そういえば、おかしいね。あいつ穴の中をしらべるのに、懐中電燈もつけていなかったじゃないか。」
    警官たちは、なんとも形容のできない、みょうな不安におそわれはじめました。
    「おい、二十面相というやつは、なんにだって化けるんだぜ。いつかは国立博物館長にさえ化けたんだ。もしや今のは……。」
    「エッ、なんだって、それじゃ、あいつが二十面相だっていうのか。」
    「おい、追っかけてみよう。もしそうだったら、ぼくらは係長にあわす顔がないぜ。」
    「よしッ、追っかけろ。ちくしょう逃がすものか。」
    五人は、あわただしくあき家の入り口にかけだして、深夜の町を見わたしました。
    「アッ、あすこを走っている。ためしによんでみようじゃないか。」
    そこで一同声をそろえて、
    「オーイ、オーイ。」とどなったのですが、それを聞きつけた相手は、ヒョイとふりかえったかと思うと、立ちどまるどころか、まえにも増した勢いで、いちもくさんに逃げだしたではありませんか。
    「アッ、やっぱりそうだ。あいつだ。あいつが二十面相だっ。」
    「ちくしょう、逃がすものか。」
    五人はやにわに走りだしました。
    もう一時をすぎた真夜中です。昼間はにぎやかな商店街も、廃墟はいきょのように静まりかえり、光といってはまばらに立ちならぶ街燈ばかり、人っ子ひとり通らないアスファルト道が、はるかにやみの中へ消えています。
    その中を、逃げるひとりの警官、追いかける五人の警官、キツネにでもつままれたような奇妙な追跡がはじまりました。若い警官は、おそろしく足が早いのです。町かどに来るたび、あるいは右に、あるいは左に、めちゃくちゃに方角をかえて、追っ手をまこうとします。
    そして、さしかかったのが、中央区内の、とある小公園の塀外へいそとでした。右がわは公園のコンクリートべい、左がわはすぐ川に面している、さびしい場所です。
    二十面相は、そこまで走ってきますと、ヒョイと立ちどまって、うしろをふりかえりましたが、五人のおまわりさんはまだ町かどの向こうがわを走っているとみえて、追っ手らしい姿はどこにも見えません。
    それをたしかめたうえ、二十面相は何を思ったのか、いきなりそこにうずくまって、地面に手をかけ、ウンとりきみますと、さしわたし五十センチほどの丸い鉄板が、ふたをひらくように持ちあがり、その下に大きな黒い穴があきました。水道のマンホールなのです。
    東京の読者諸君は、水道の係りの人たちが、あの丸い鉄のふたをとって、地中へもぐりこんで、工事をしているのを、よくお見かけになるでしょう。今、二十面相は、その鉄のふたをひらいたのです。そして、ヒョイとそこへとびこむと、すばやく中から、ふたをもとのとおりにしめてしまいました。
    鉄のふたがしまるのと、五人のおまわりさんが町かどをまがるのと、ほとんど同時でした。
    「おや、へんだぞ。たしかにあいつはここをまがったんだが。」
    おまわりさんたちは立ちどまって、死んだように静まりかえった夜ふけの町を見わたしました。
    「向こうのまがりかどまでは百メートル以上もあるんだから、そんなに早く姿が見えなくなるはずはない。塀を乗りこして、公園の中へかくれたんじゃないか。」
    「それとも、川へとびこんだのかもしれんぜ。」
    そんなことをいいかわして、おまわりさんたちは、注意ぶかく左右を見まわしながら、急ぎ足に例のマンホールの上を通りすぎて、公園の入り口のほうへ遠ざかっていきました。
    マンホールの鉄ぶたは、五人の靴でふまれるたびに、ガンガンとにぶい響きをたてました。おまわりさんたちは、そうして、二十面相の頭の上を通りながら、少しもそれと気づかなかったのです。東京の人は、マンホールなどには、なれっこになっていて、そのうえを歩いても、気のつかぬことが多いのです。
    五人の警官がしょうぜんとして大鳥時計店にたちかえり、事のしだいを明智に報告したのは、それから二十分ほどのちのことでした。
    それを聞いて、明智探偵は失望したでしょうか。警官たちの失策にかんしゃくをおこしたでしょうか。いやいや、けっしてそうではありませんでした。読者諸君、ご安心ください。われわれの名探偵はこれしきの失敗に勇気をうしなうような人物ではありません。彼のすばらしい脳髄のうずいに、まだまだとっておきの奥の手が、ちゃんと用意されていたのです。
    「いや、ご苦労でした。ぼくもあいつがぬけ穴の中に変装の衣装をかくしていようとは思いもおよばなかった。しかし、諸君、失望なさることはありませんよ。こういうこともあろうかと、ぼくはちゃんと、もう一だん奥の用意がしてあるのです。
    二十面相はしゅびよく逃げおおせたつもりでいても、まだぼくの張った網の中からのがれることができないのです。見ていてください。明朝までには、きっと諸君のかたきをとってあげますよ。
    ほんとうをいえば、あいつが逃げてくれたのは思うつぼなのです。ぼくはゆかいでたまらないくらいです。なぜといって、そのぼくの奥の手というのは、じつにすばらしい手段なのですからね。諸君、見ていてください。二十面相がどんなに泣きつらをするか。ぼくの部下たちが、どんなみごとなはたらきをするか。
    さあ、小林君、二十面相の最後の舞台へ、急いで出かけるとしよう。」
    名探偵はいつにかわらぬほがらかな笑顔をうかべて、愛弟子小林君をまねきました。そして、大鳥時計店をたちいでますと、そこに待たせてあった自動車に乗って、夜霧の中を、いずこともなく走りさったのでありました。

    さて、わたしたちは、もう一度、あの公園の前に立ちもどって、マンホールの中へかくれた二十面相が、どんなことをするか、それを見さだめなければなりません。
    警官たちがたちさってしまいますと、そのあたりはまた、ヒッソリともとの静けさにかえりました。深夜の二時です。人通りなどあるはずはありません。
    遠くのほうから、犬の鳴き声が聞こえていましたが、それもしばらくしてやんでしまうと、この世から音というものがなくなってしまったような静けさです。
    黒く夜空にそびえている公園の林のこずえが、風もないのにガサガサと動いたかと思うと、夜の鳥が、あやしい声で、ゲ、ゲ、と二声鳴きました。
    空は一面にくもって、星もないやみ夜です。光といっては、ところどころの電柱にとりつけてある街燈ばかり。その街燈の一つが二十面相のかくれたマンホールの黒い鉄板の上を、うすぼんやりと照らしています。
    でも、マンホールのふたは、いつまでたっても動かないのです。ああ、二十面相は、あの暗やみの土の中で、いったい何をしているのでしょう。
    長い長い二時間がすぎて、四時となりました。東の空がうっすらとしらみはじめています。遠い江東区こうとうくの空から、徹夜作業てつやさぎょうの工場の汽笛が夜明けの近づいたことを知らせるように、もの悲しく、かすかにひびいてきました。
    すると、街燈に照らされたマンホールのふたが、生きものででもあるかのように、少しずつ動きはじめました。やがて、鉄板はカタンとみぞをはずれて、ジリジリと地面を横へすべっていきます。そして、その下から、まっ黒な穴の口が、一センチ、二センチと、だんだん大きくひらいていくのです。
    長いあいだかかって、鉄のふたはすっかりひらきました。すると、そこの丸い穴から、新しいネズミ色のソフト帽がニューッとあらわれてきたではありませんか。そして、そのつぎには、鼻の下に黒いひげをはやしたりっぱな青年紳士の顔、それからまっ白なソフト・カラー、はでなネクタイ、折り目の正しい上等の背広服と、胸のへんまで姿を見せて、その紳士は、注意ぶかくあたりを見まわしましたが、どこにも人かげのないのをたしかめると、パッと穴の中から地上にとびだし、すばやく鉄のふたをもとのとおりにしめて、そのまま何くわぬ顔で、歩きはじめました。
    この青年紳士が怪盗二十面相の変装姿であったことは、申すまでもありません。ああ、なんという用心ぶかいやり口でしょう。二十面相は、何か仕事をもくろみますと、まんいちのばあいのために、いつもその付近のマンホールの中へ、変装用の衣装をかくしておくのです。そして、もし警官に追われるようなことがあれば、すばやく、そのマンホールの中へ身をかくし、まったくちがった顔と服装とになって、そしらぬ顔で逃げてしまうのです。
    読者諸君のおうちの近所にも、マンホールがあることでしょうが、もしかすると、その中に、大きな黒いふろしき包みがかくしてあるかもしれませんよ。まんいちそんなふろしき包みが見つかるようなことがあれば、それは二十面相が、そのへんで何かおそろしいもくろみをしたしょうこなのです。
    さて、二十面相の青年紳士は、急ぎ足に近くの大通りへ出ますと、そこの駐車場にならんでいたいちばん前の自動車に近づき、居ねむりをしている運転手を呼びおこしました。
    そして運転手がドアをひらくのを待ちかねて、客席へとびこみ、早口に行く先をつげるのでした。
    自動車は、ガランとした夜明けの町を、ひじょうな速力で走っていきます。銀座通りを出て、新橋しんばしをすぎ、環状線を品川へ、品川から京浜けいひん国道を、西に向かって一キロほど、とある枝道を北へはいってしばらく行きますと、だんだん人家がまばらになり、まがりくねった坂道の向こうに、林につつまれた小さな丘があって、その上にポツンと一軒の古風な洋館が、建っているのがながめられました。
    「よし、ここでいい。」
    二十面相の青年紳士は、自動車をとめさせて、料金をはらいますと、そのまま丘の上へとのぼっていき、木立ちをくぐって、洋館の玄関へはいってしまいました。
    読者諸君、ここが二十面相のかくれがでした。賊はとうとう安全な巣くつへ逃げこんでしまったのです。では、明智探偵のせっかくの苦心も水のあわとなったのでしょうか。二十面相は、かんぜんに探偵の目をくらますことができたのでしょうか。

    青空文庫より

  • 「走馬灯~海外援助 その2」カトウ先生のミニ・エッセイより 別役みか朗読

    11.07 Aug 18, 2017