橋畔風談「三国志」吉川英治岡田慎平朗読

岡田慎平朗読『三国志』吉川英治 橋畔風談1,2


橋畔風談「三国志」 吉川英治 岡田慎平朗読

橋畔風談きょうはんふうだん

 

蟠桃河ばんとうがの水は紅くなった。両岸の桃園は紅霞こうかをひき、夜は眉のような月が香った。
けれど、その水にも、詩をむ人を乗せた一艘の舟もないし、杖をひいて逍遥する雅人がじんの影もなかった。
「おっ母さん、行ってきますよ」
「ああ、行っておいで」
「なにか城内からおいしい物でも買ってきましょうかね」
劉備は、家を出た。
くつむしろをだいぶ納めてある城内の問屋へ行って、あたいを取ってくる日だった。
ひるから出ても、用達をすまして陽のあるうちに、らくに帰れる道のりなので、劉備はにものらなかった。
いつか羊仙のおいて行った山羊がよく馴れて、劉備の後についてくるのを、母が後ろで呼び返していた。
城内は、ほこりッぽい。
雨が久しくなかったので、くつの裏がぽくぽくする。劉備は、問屋から銭を受け取って、あぶら光りのしているいちの軒なみを見て歩いていた。
蓮根れんこんの菓子があった。劉備はそれを少し買い求めた。――けれど少し歩いてから、
「蓮根は、母の持病に悪いのじゃないか」と、取換えに戻ろうかと迷っていた。
がやがやと沢山な人が辻に集まっている。いつもそこは、野鴨のがもの丸揚げや餅など売っている場所なので、その混雑かと思うていたが、ふと見ると、大勢の頭の上に、高々と、立札が見えている。
「何だろ?」
彼も、好奇にかられて、人々のあいだから高札こうさつを仰いだ。
見ると――

あまねく天下に義勇の士をつの

という布告の文であった。

黄巾こうきん、諸州に蜂起してより、年々の害、鬼畜の毒、惨として蒼生そうせい青田せいでんなし。
今にして、鬼賊をちゅうせずんば、天下知るべきのみ。
太守たいしゅ劉焉りゅうえん、遂に、子民の泣哭きゅうこくに奮って討伐の天鼓を鳴らさんとす。故に、隠れたる草廬そうろの君子、野にひそむの義人、旗下に参ぜよ。
欣然、各子の武勇に依って、府に迎えん。

※(「さんずい+(冢-冖)」、第3水準1-86-80)たくぐん校尉こうい鄒靖すうせい

「なんだね、これは」
「兵隊をつのっているのさ」
「ああ、兵隊か」
「どうだ、志願して行って、ひと働きしては」
「おれなどはだめだ。武勇もなにもない。ほかの能もないし」
「誰だって、そう能のある者ばかり集まるものか。こう書かなくては、勇ましくないからだよ」
「なるほど」
にく黄匪こうひめを討つんだ、槍の持ち方が分らないうちは、馬の飼糧かいばを刈ってもいくさの手伝いになる。おれは行く」
ひとりがつぶやいて去ると、そのつぶやきに決心を固めたように、二人去り、三人去り、皆、城門の役所のほうへ力のある足で急いで行った。
「…………」
劉備は、時勢の跫音あしおとを聞いた。民心のおもむくうしおを見た。
――が。蓮根の菓子を手に持ったまま、いつまでも、考えていた。誰もいなくなるまで、高札と睨み合って考えていた。
「……ああ」
気がついて、間がわるそうに、そこから離れかけた。すると、誰か、楊柳ようりゅうのうしろから、
「若人。待ち給え」
と、呼んだ者があった。

 

2016年12月31日

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