横光利一「妻」海渡みなみ朗読

横光利一「妻」海渡みなみ朗読

13.50
May 20, 2018

雨がやむと風もやむだ。小路こうぢの兩側の花々は倒れたまま地に頭をつけてゐた。今迄揺れつづけてゐた葡萄棚の蔓は靜まつて、垂れ下つた葡萄の實の先端からまだ雨の滴りがゆるやかに落ちてゐた。どこからか人の話し聲が久し振りに聞えて來た。
「まア、人の聲つて懷しいものね。」と妻は床の中から云つた。
妻はもう長らく病んで寢てゐた。彼女は姑が死ぬと直ぐ病ひになつた。
遠くの荒れた茫々とした空地の雜草の中で、置き忘れられた椅子がぼんやりと濡れた頭を傾けてゐた。その向ふの曇つた空の下では竹林の縁が深ぶかと重さうに垂れてゐた。
私は門の小路の方へ倒れた花を踏まないやうに足を浮かせて歩いてみた。傾き勝ちな小路の肌は滑かに青く光つてゐた。その上を細い流れが縮れながら蟲や花瓣を浮べて流れてゐた。すると私の足は不意に辷つた。私は亂れた花の上へ仰向きに倒れた。冷たい草の葉がはツしと頬を打つた。雨が降るといつも私はそこで辷るのだ。
格子の向ふで妻が身體を振つて笑つてゐた。私は馬鹿げた口を開けて着物を着返へるために家の中へ這入つた。
「どうも早や、參つた、參つた。」
「あなたの、あなたの。」さう云ふと妻は笑つたまま急に咳き出した。
「俺が惡いんぢやないぞ。花めが惡いんだ。」
「あなたが周章てるからよ。」
「俺は花を踏まないやうに氣をつけてやつたんだ。」
「あの格好つたらなかつたわ。」
私は芝居の口調で、
「いやいや、」と云つた。
「もう一度辷つてらつしやいな。」
私は默つてゐた。
「まるで新感覺よ。」
「生意氣ぬかすな。」
私は光つた縁側で裸體になつた。病める妻にとつて、靜けさの中で良人の辷つた格好は何よりも興趣があつたに相違ない。初めの頃は私が辷ると妻の顏色も青くなつた。それがだんだんと平氣になり、第三段の形態は哄笑に變つて來た。私達は此の形態の變化を曳き摺つて此の家へ移つて來た。
「赤ちやんがほしいわ。」と、突然妻が云ひ出すことがある。
さう云ひ出す頃になると、妻は何物よりも、ユーモラスな良人の辷つた格好から愛すべき風格を見附け出す。その次ぎの第四の形態は何か。私は次ぎに來る左樣なことを考へるものではないと考へる。
次の日の朝雲は晴れた。私は起きると直ぐ葡萄棚の下へ行つて仰いでみた。葉の叢から洩れた一條の光りが鋭く眼を貫いた。私は顏を傾け變へた。露に濡れた葡萄の房が朝の空の中で克明な陰影を振りかざし、一粒づつ滿腔の光りを放つて靜まつてゐた。私は手を延ばすと一粒とつた。
「うまい。」
床の上へ起き直つた妻が、
「私にもよ、私にもよ。」と云つて手を差し出した。
「喜べ。うまいぞ。」
私は露で冷めたくなつた手に一房の葡萄を攫んで妻の床の傍へ持つていつた。
「あらあら、重いわね。」
「ベテレヘムの女ごらよ。ああ汝の髮は紫の葡萄のごとし。」
「もう直ぐ蟲がつくから、今とらないと駄目だわね。」
「汝は汝の床もて我を抱け。我の願ひを入れよ。」
「まア、おいしい。口がとれさうよ。」と妻は云つた。
見ると、妻の髮に白いにらの花がこの朝早くから刺さつてゐた。
私はまた葡萄棚の下へ戻つて來た。それから井戸傍で身體を拭いた。雇つてある老婆が倒れた垣根の草花を起してゐた。
私はふと傍の薔薇の葉の上にゐる褐色のめすの鎌切りを見附けた。よく見ると、それは別の青いをすの鎌切りの首を大きな鎌で押しつけて早や半分ほどそれを食つてゐる雌の鎌切りだつた。
「なるほど、これや夫婦生活の第四段の形態だ。」と私は思つた。
雄は雌に腹まで食はれながらまだ頭をゆるく左右に振つてゐた。その雄の容子が私には苦痛を訴へてゐる表情だとは思へなかつた。どこかむしろ悠長な歡喜を感じた。その眼の表情には確に身を締めつけられるやうな恍惚とした喜びがあつた。婆やが曲つた腰つきで箒を持つて無花果の樹の下から私の方へ歩いて來た。
「おい、婆さん。一寸來て見な。」と私は云つた。
婆やは私の指差してゐる鎌切りを覗き込むと、
「ははア。」と云つた。
「これ、何んだか知つてるかね。」
「旦那さま、これや二疋ですな。」と老婆は急に大きな聲を出した。
「さうだ。」
すると老婆はまた「あらツ」と聲を上げた。
「何んだ?」
「これや旦那さま、食はれてゐますのぢや。」
「それやさうさ。」
「ははア。これや、旦那樣、食はれてをりますのぢや。」
「食つてゐるのはめすなんだよ。鎌切りの女は亭主が入らなくなると食ひ殺すんだ。」
「ほんたうでございますか。」
「本當さ。」
「まア奥樣、來て見なさい。憎い奴がをりますわ。自分の亭主を食ひやがつて、これやツ、これやツ。」と老婆は云つて足で地を打つた。
私は身體を拭きながら無花果の樹の下へ來た。無花果は厚い葉の陰から色づいた實を差し出してゐた。不氣嫌さうに栗のいがは膨れてゐた。
私はまだ鎌切りに心から腹を立ててゐるらしい老婆の容子が面白かつた。彼女は二十臺に良人に別れた。それから四十年、獨身で來ながらもその間何をして來たか分らなかつた。彼女は今も烈しい毒を體内に持つてゐた。その老婆が亭主を食つたと云ふので雌の鎌切りに必死に腹を立ててゐるのである。
暫くすると、老婆が箒を持つたまま私の傍へ來た。
「旦那さま、殺してやりましたわ。」
「食つて了つたか?」
「食つて了ひましたよ。すつかり食ひました。」
「さうか。」
「憎ツくい奴でございますな。あんな奴は、ひどい目に合はしてやりませんと腹が立ちますよ。」
「食はれてゐる奴は喜んでゐたんだぜ。」
「冗談を云ひなさんな。」
「女に食はれたら誰だつて喜ぶさ。」
「へへへへへへ。」と老婆は笑ひ出した。
彼女は私の言葉を下品な意味にとつたと見えた。
彼女は直ぐまた妻のゐる方へ引き返して行くと、
「奥さん、あの旦那さまは油斷なりませんよ。なかなか、どうしてあなた。」
そんなことを云つてゐる老婆の聲が耳に這入つた。
私はそのまま裾を捲つて露の溜つてゐるきらきらした雜草の穗の中へ降りて行つた。
微風が朝の香りを籠めて草の上を渡つて來た。草玉が青い實を靜に搖つた。數列の葱が露に輝きながら劍のやうに垂直に立つてゐた。
「おーい。」
「はーい。」と妻の低い聲がした。
「無花果、入らないか。」
「はーい。」
遠くの草の中で、幼い子供が母の云ふことをよくきいてゐる清らかな姿が見えた。

2018年5月27日

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