2016年10月

  • 別役みか朗読 「少年探偵団」3人さらい江戸川乱歩

    少年探偵団

    江戸川乱歩

    人さらい

    墓地のできごとがあってから二日の後、やっぱり夜の八時ごろ、篠崎始君のおうちの、りっぱなご門から、三十歳ぐらいの上品な婦人と、五つぐらいのかわいらしい洋装の女の子とが、出てきました。婦人は始君のおばさん、女の子は小さいいとこですが、ふたりは夕方から篠崎君のおうちへ遊びに来ていて、今、帰るところなのです。
    おばさんは、大通りへ出て自動車をひろうつもりで、女の子の手を引いて、うす暗いやしき町を、急ぎ足に歩いていきました。
    すると、またしても、ふたりのうしろから、例の黒い影があらわれたのです。
    怪物は塀から塀へと伝わって、足音もなく、少しずつ、少しずつ、ふたりに近づいていき、一メートルばかりの近さになったかと思うと、いきなり、かわいらしい女の子にとびかかって、小わきにかかえてしまいました。
    「アレ、なにをなさるんです。」
    婦人はびっくりして、相手にすがりつこうとしましたが、黒い影は、すばやく片足をあげて、婦人をけたおし、その上にのしかかるようにして、あの白い歯をむきだし、ケラケラケラ……と笑いました。
    婦人はたおれながら、はじめて相手の姿を見ました。そして、うわさに聞く黒い魔物だということがわかると、あまりのおそろしさに、アッとさけんだまま、地面にうつぶしてしまいました。
    そのあいだに、怪物は女の子をつれて、どこかへ走りさってしまったのですが、では、黒い魔物は、おそろしい人さらいだったのかといいますと、べつにそうでもなかったことが、その夜ふけになってわかりました。

    青空文庫より

     

     

  • 物袋綾子朗読「納豆の茶漬け」北大路魯山人

    納豆の茶漬けは意想外に美味いものである。しかも、ほとんど人の知らないところである。食通間といえども、これを知る人は意外に少ない。と言って、私の発明したものではないが、世上これを知らないのはふしぎである。

    納豆の拵え方

    ここでいう納豆のこしらえ方とは、ねり方のことである。このねり方がまずいと、納豆の味が出ない。納豆を器に出して、それになにも加えないで、そのまま、二本の箸でよくねりまぜる。そうすると、納豆の糸が多くなる。蓮から出る糸のようなものがふえて来て、かたくて練りにくくなって来る。この糸を出せば出すほど納豆は美味くなるのであるから、不精をしないで、また手間を惜しまず、極力ねりかえすべきである。
    かたく練り上げたら、醤油を数滴落としてまた練るのである。また醤油数滴を落として練る。要するにほんの少しずつ醤油をかけては、ねることを繰り返し、糸のすがたがなくなってどろどろになった納豆に、辛子を入れてよく攪拌する。この時、好みによって薬味(ねぎのみじん切り)を少量混和すると、一段と味が強くなって美味い。茶漬けであってもなくても、納豆はこうして食べるべきものである。
    最初から醤油を入れてねるようなやり方は、下手なやり方である。納豆食いで通がる人は、醤油の代りに生塩を用いる。納豆に塩を用いるのは、さっぱりして確かに好ましいものである。しかし、一般にはふつうの醤油を入れる方が無難なものが出来上がるであろう。

    お茶潰けのやり方

    そこで以上のように出来上がったものを、まぐろの茶漬けなどと同様に、茶碗に飯を少量盛った上へ、適当にのせる。納豆の場合は、とりわけ熱飯がよい。煎茶をかけ、納豆に混和した醤油で塩加減が足りなければ、飯の上に醤油を数滴たらすのもいい。最初から納豆の茶漬けのためにねる時は、はじめから醤油を余計まぜた方がいい。元来、いい味わいを持つ納豆に対して、化学調味料を加えたりするのは好ましいやり方ではない。そうして飯の中に入れる納豆の量は、飯の四分の一程度がもっとも美味しい。納豆は少なきに過ぎては味がわるく、多きに過ぎては口の中でうるさくて食べにくい。
    これはたやすいやり方で、簡単にできるものである。早速、秋の好ましいたべものとして、口福を満たさるべきではなかろうか。

    納豆のよしあし

    納豆には美味いものと不味いものとある。不味いのは、ねっても糸をひかないで、ざくざくとしている。それは納豆として充分に発酵していない未熟な品である。糸をひかずに豆がざくざくぽくぽくしている。充分にかもされている納豆は、豆の質がこまかく、豆がねちねちしていないものは、手をいかに下すとも救い難いものである。だから、糸をひかない納豆は食べられない。一番美味いのは、仙台、水戸などの小粒の納豆である。神田で有名な大粒の納豆も美味い。しかし、昔のように美味くなくなったのは遺憾である。豆が多くて、素人目にはよい納豆にはなっているが。

    (昭和七年)

  • 海渡みなみ朗読、「利休と遠州」薄田泣菫

    利休と遠州

    薄田泣菫

    むかし、堺衆の一人に某といふ数寄者がありました。その頃の流行にかぶれて、大枚の金子を払つて出入りの道具屋から、雲山といふ肩衝かたつきの茶入を手に入れました。太閤様御秘蔵の北野肩衝も、徳川家御自慢の初花肩衝も、よもやこれに見勝るやうなことはあるまいと思ふにつけて、某はその頃の名高い茶博士から、何とか折紙つきの歎賞の言葉を得て、雲山の誉れとしたいものだと思つてゐました。
    機会は来ました。ある日のこと、某は当時の大宗匠千利休を招いて、茶会を催すこととなりました。
    かねて主人の口から、この茶入について幾度ならず吹聴せられてゐた利休は、主人の手から若狭盆に載せられたこの茶入を受け取つてぢつと見入りました。名だたる宗匠の口から歎美の一言を待ち設けた主人の眼は、火のやうに燃えながら、利休の眼を追つて幾度か茶入の肩から置形おきがたの上を走りました。
    あらゆる物の形をとほしてその心を見、その心の上に物の調和を味はふことに馴れてゐる利休の眼は、最初にちらとこの肩衝を見た時から、この茶入の持つ心持がどうも気に入らなかつた。しかしできるだけその物の持つてゐる美しい点を見逃すまいとする利休の平素ふだんからの心掛けは、隠れた美しさを求めて、幾度か掌面てのひらの茶入を見直さしました。肩の張りやうにも難がありました。置形にも批の打ちどころがありました。一口に言へば衒気げんきに満ちた作品でした。
    利休は何にも言はないで、静かにその肩衝を若狭盆の上に返さうとしました。その折でした。利休が自分に注がれた主人の鋭い眼付きを発見しましたのは。その眼には驕慢けうまんと押しつけがましさとが光つてゐました。利休はその一刹那に、主人の表情に茶入の心持を見てとりました。茶入の表情に主人の心持を味はひました。
    主人は得意さうに利休の一言を待ち構へてゐました。利休は何にも言ひませんでした。狭い茶室はこの沈黙に息づまるやうに感ぜられました。
    湯はしづかに煮えたぎつてゐました。主人の顔からはいつのまにか押しつけがましさが消えて、物を頼むときのやうな弱々しい表情が見え出しました。利休は眼ざとくそれを見て取りましたが、何事にも気のつかない振りをしてゐました。いつだつたか、利休は前田玄以げんいの茶会で、主人の玄以が胴高どうたかの茶入を持ち出してきて、
    「この肩衝が……」
    と、茶入の胴高なのに気がつかないで、しきりと肩衝を繰り返して、利休の意見を聞きたがつてゐるのに出会つたことがありました。利休はいまさらそれを胴高だと教へもならず、をかしさをこらへてただ黙つてゐると、それがひどく玄以の機嫌を損じたかして、その後はうばうで自分のことを悪様あしざまに言ひふらし、果ては太閤殿下にまで讒訴ざんそを試みてゐるといふことを聞いてゐるので、こんな場合の沈黙が、どうかすると自分の一身にとんでもない災難をもたらさないものでもないことをよく知つてゐました。しかし自分はこの道の宗匠である。自分の一挙手一投足は長くこの道の規範として残り、自分の一言は器の真の価値を定める最後の判断であるのを思ふと、滅多なことは口に出せませんでした。利休はただ黙つてゐました。

  • 萩柚月朗読 銭形平次捕り物控 「迷子札5,6 」野村胡堂

    萩柚月朗読銭形平次捕り物「控迷子札7.8」野村胡堂

    「御免下さいまし」
    「誰ぢや」
    御徒町の吉田一學、御徒士頭おかちがしらで一千石をむ大身ですが、平次はその御勝手口へ、遠慮もなく入つて行つたのです。
    「御用人樣に御目に掛りたう御座いますが」
    「お前は何だ」
    「左官の伊之助の弟――え、その、平次と申す者で」
    「もう遲いぞ、明日出直して參れ」
    お勝手に居る爺父おやぢは、恐ろしく威猛高ゐたけだけです。
    「さう仰しやらずに、ちよいとお取次を願ひます。御用人樣は、屹度御逢ひ下さいます」
    「いやな奴だな、此處を何と心得る」
    「へエ、吉田樣のお勝手口で」
    どうもこの押し問答は平次の勝です。
    やがて通されたのは、内玄關の突當りの小部屋。
    「私は用人の後閑武兵衞こがぶへゑぢやが――平次といふのはお前か」
    六十年配の穩やかな仁體です。
    「へエ、私は左官の伊之助の弟で御座いますが、兄の遺言ゆゐごんで、今晩お伺ひいたしました」
    「遺言?」
    老用人は一寸眼を見張りました。
    「兄の伊之助が心掛けて果し兼ねましたが、一つ見て頂きたいものが御座います。――なアに、つまらない迷子札で、へエ」
    平次がさう言ひ乍ら、懷から取出したのは、眞鍮しんちうの迷子札が一枚、後閑こが武兵衞の手の屆きさうもないところへ置いて、上眼使ひに、そつと見上げるのでした。
    色の淺黒い、苦み走つた男振りも、わざと狹く着た單衣ひとへもすつかり板に付いて、名優の強請場ゆすりばに見るやうな、一種拔き差しのならぬ凄味さへ加はります。
    「それを何うしようと言ふのだ」
    「へ、へ、へ、この迷子札に書いてある、甲寅きのえとら四月生れの乙松といふ伜を引渡して頂きたいんで、たゞそれ丈けの事で御座いますよ、御用人樣」
    「――」
    「何んなもんで御座いませう」
    「暫らく待つてくれ」
    こまぬいた腕をほどくと、後閑武兵衞、深沈たる顏をして奧に引込みました。
    待つこと暫時ざんじ
    何處から槍が來るか、何處から鐵砲が來るか、それは全く不安極まる四半刻でしたが、平次は小判形の迷子札と睨めつこをしたまゝ、大した用心をするでもなくひかへて居ります。
    「大層待たせたな」
    二度目に出て來た時の用人は、何となくニコニコして居りました。
    「どういたしまして、どうせ夜が明けるか、斬られて死骸だけ歸るか――それ位の覺悟はいたして參りました」
    と平次。
    「大層いさぎよい事だが、左樣な心配はあるまい――ところで、その迷子札ぢや。私の一存で、此場で買ひ取らうと思ふ、どうぢや、これ位では」
    出したのは、二十五兩包の小判が四つ。
    「――」
    「不足かな」
    「――」
    「これつ切り忘れてくれるなら、此倍出してもよいが」
    武兵衞は此取引の成功をうたがつても居ない樣子です。
    「御用人樣、私は金が欲しくて參つたのぢや御座いません」
    「何だと」
    平次の言葉の豫想外よさうぐわいさ。
    「百兩二百兩はおろか、千兩箱を積んでもこの迷子札は賣りやしません――乙松といふ伜を頂戴して、兄伊之助の後を立てさへすれば、それでよいので」
    「それは言ひ掛りと言ふものだらう、平次とやら」
    「――」
    「私に免じて、我慢をしてくれぬか、この通り」
    後閑武兵衞は疊へ手を落すのでした。
    「それぢや、一日考へさして下さいまし。めひのお北とも相談をして、明日の晩又參りませう」
    平次は目的が達した樣子でした。迷子札を懷へ入れると、丁寧にいとまを告げて、用心深く屋敷の外へ出ました。

    青空文庫より

  • 物袋綾子朗読「二ひきの蛙」新美南吉

    二ひきの蛙

    新美南吉

    緑のかえると黄色のかえるが、はたけのまんなかでばったりゆきあいました。
    「やあ、きみは黄色だね。きたない色だ。」
    と緑のかえるがいいました。
    「きみは緑だね。きみはじぶんを美しいと思っているのかね。」
    と黄色のかえるがいいました。
    こんなふうに話しあっていると、よいことはこりません。二ひきのかえるはとうとうけんかをはじめました。
    緑のかえるは黄色のかえるの上にとびかかっていきました。このかえるはとびかかるのが得意とくいでありました。
    黄色のかえるはあとあしですなをけとばしましたので、あいてはたびたび目玉からすなをはらわねばなりませんでした。
    するとそのとき、寒い風がふいてきました。
    二ひきのかえるは、もうすぐ冬のやってくることをおもいだしました。かえるたちは土の中にもぐって寒い冬をこさねばならないのです。
    「春になったら、このけんかの勝負しょうぶをつける。」
    といって、緑のかえるは土にもぐりました。
    「いまいったことをわすれるな。」
    といって、黄色のかえるももぐりこみました。
    寒い冬がやってきました。かえるたちのもぐっている土の上に、びゅうびゅうと北風がふいたり、霜柱しもばしらが立ったりしました。
    そしてそれから、春がめぐってきました。
    土の中にねむっていたかえるたちは、せなかの上の土があたたかくなってきたのでわかりました。
    さいしょに、緑のかえるが目をさましました。土の上に出てみました。まだほかのかえるは出ていません。
    「おいおい、おきたまえ。もう春だぞ。」
    と土の中にむかってよびました。
    すると、黄色のかえるが、
    「やれやれ、春になったか。」
    といって、土から出てきました。
    去年きょねんのけんか、わすれたか。」
    と緑のかえるがいいました。
    「待て待て。からだの土をあらいおとしてからにしようぜ。」
    と黄色のかえるがいいました。
    二ひきのかえるは、からだから泥土どろつちをおとすために、いけのほうにいきました。
    いけには新しくわきでて、ラムネのようにすがすがしい水がいっぱいにたたえられてありました。そのなかへかえるたちは、とぶんとぶんととびこみました。
    からだをあらってから緑のかえるが目をぱちくりさせて、
    「やあ、きみの黄色は美しい。」
    といいました。
    「そういえば、きみの緑だってすばらしいよ。」
    と黄色のかえるがいいました。
    そこで二ひきのかえるは、
    「もうけんかはよそう。」
    といいあいました。
    よくねむったあとでは、人間でもかえるでも、きげんがよくなるものであります。
    青空文庫より

     

  • 西村俊彦,朗読「風博士」坂口安吾1935年版

    風博士

    坂口安吾

    諸君は、東京市某町某番地なる風博士の邸宅を御存じであろう? 御存じない。それは大変残念である。そして諸君は偉大なる風博士を御存知であろうか? ない。嗚呼ああ。では諸君は遺書だけが発見されて、偉大なる風博士自体はようとして紛失したことも御存知ないであろうか? ない。嗟乎ああ。では諸君は僕が其筋そのすじの嫌疑のために並々ならぬ困難を感じていることも御存じあるまい。しかし警察は知っていたのである。そして其筋の計算に由れば、偉大なる風博士は僕と共謀のうえ遺書を捏造ねつぞうして自殺を装い、かくてかの憎むべきたこ博士の名誉毀損をたくらんだに相違あるまいとにらんだのである。諸君、これは明らかに誤解である。何となれば偉大なる風博士は自殺したからである。果して自殺した乎? しかり、偉大なる風博士は紛失したのである。諸君は軽率に真理を疑っていいのであろうか? なぜならば、それは諸君の生涯に様々な不運をもたらすに相違ないからである。真理は信ぜらるべき性質のものであるから、諸君は偉大なる風博士の死を信じなければならない。そして諸君は、かの憎むべき蛸博士の――あ、諸君はかの憎むべき蛸博士を御存知であろうか? 御存じない。噫呼ああ、それは大変残念である。では諸君は、まず悲痛なる風博士の遺書を一読しなければなるまい。

  • 田中智之朗読 「朝飯」島崎藤村

  • 岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻吉川英治 張飛卒三


    岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻吉川英治 張飛卒四

    三国志

    桃園の巻

    吉川英治

    卒の張飛が、いきなり李朱氾をつまみ上げて、宙へ投げ飛ばしたので、
    「やっ、こいつが」と、賊の小方たちは、劉備もそっちのけにして、彼へ総掛りになった。
    「やい張卒、なんで貴様は、味方の李小方を投げおったか。また、おれ達のすることを邪魔だてするかっ」
    「ゆるさんぞ。ふざけた真似すると」
    「党の軍律に照らして、成敗してくれる。それへ直れ」
    ひしめき寄ると、張は、
    「わははははは。吠えろ吠えろ。きもをつぶした野良犬めらが」
    「なに、野良犬だと」
    「そうだ。その中に一匹でも、人間らしいのがおるつもりか」
    「うぬ。新米しんまいの卒の分際で」
    おめいた一人が、槍もろとも、躍りかかると、張飛は、団扇うちわのような大きな手で、その横顔をはりつけるや否や、槍を引ッたくって、よろめく尻をしたたかに打ちのめした。
    槍の柄は折れ、打たれた賊は、腰骨がくだけたように、ぎゃっともんどり打った。
    思わぬ裏切者が出て、賊は狼狽したが、日頃から図抜けた巨漢おおおとこの鈍物と、小馬鹿にしていた卒なので、その怪力を眼に見ても、まだ張飛の真価を信じられなかった。
    張飛は、さながら岩壁のような胸いたをそらして、
    「まだ来るか。むだ生命いのちを捨てるより、おとなしく逃げ帰って、鴻家こうけの姫と劉備りゅうびの身は、先頃、県城を焼かれて鴻家の亡びた時、降参といつわって、黄巾賊の卒にはいっていた張飛という者の手に渡しましたと、有態ありていに報告しておけ」
    青空文庫より

  • 青空文庫より萩柚月朗読 銭形平次捕り物控 迷子札1.2 野村胡堂

    萩柚月朗読 銭形平次捕り物控 迷子札 7.8 野村胡堂

    萩柚月朗読 銭形平次捕り物控 迷子札3,4 野村胡堂


    錢形平次捕物控

    +目次

    「親分、お願ひがあるんだが」
    ガラツ八の八五郎は言ひ憎さうに、長いあごを撫でて居ります。
    「又お小遣ひだらう、お安い御用みたいだが、たんとはねえよ」
    錢形の平次はさう言ひ乍ら、立ち上がりました。
    「親分、冗談ぢやない。又お靜さんの着物なんかいぢや殺生だ。――あわてちやいけねえ、今日は金が欲しくて來たんぢやありませんよ。金なら小判というものを、うんと持つて居ますぜ」
    八五郎はこんな事を言ひ乍ら、泳ぐやうな手付きをしました。うつかり金の話をすると、お靜の髮の物までもねない、錢形平次の氣性が、八五郎に取つては、嬉しいやうな悲しいやうな、まことに變てこなものだつたのです。
    「馬鹿野郎、お前が膝つ小僧を隱してお辭儀をすると、何時もの事だから、又金の無心と早合點するぢやないか」
    「へツ、勘辨しておくんなさい――今日は金ぢやねえ、ほんの少しばかり、智慧の方を貸して貰ひてえんで」
    ガラツ八は掌のくぼみで、額をピタリピタリと叩きます。
    「何だ。智慧ならあらたまるに及ぶものか、小出しの口で間に合ふなら、うんと用意してあるよ」
    「大きく出たね、親分」
    「金ぢや大きな事が言へねえから、ホツとしたところさ。少しは附合つていゝ心持にさしてくれ」
    「親分子分の間柄だ」
    「馬鹿ツ、まるで掛合噺かけあひばなし見たいな事を言やがる、手つ取り早く筋を申し上げな」
    「親分の智慧を借りてえといふのが、外に待つて居るんで」
    誰方どなただい」
    「大根畑の左官の伊之助親方を御存じでせう」
    「うん――知つてるよ、あの酒の好きな、六十年配の」
    「その伊之助親方の娘のお北さんなんで」
    ガラツ八はさう言ひ乍ら、入口に待たして置いた、十八九の娘をせうじ入れました。
    「親分さん、お邪魔をいたします。――實は大變なことが出來ましたので、お力を拜借に參りましたが――」
    お北はさう言ひ乍ら、淺黒いキリヽとした顏を擧げました。決して綺麗ではありませんが、氣性者きしやうものらしいうちに愛嬌があつて地味な木綿の單衣ひとへも、こればかりは娘らしい赤い帶も、言ふに言はれぬ一種の魅力でした。
    「大した手傳ひは出來ないが、一體どんな事があつたんだ、お北さん」
    「他ぢや御座いませんが、私の弟の乙松おとまつといふのが、七日ばかり前から行方不明ゆくへしれずになりました」
    「幾つなんで」
    「五つになつたばかりですが、智慧の遲い方で何にも解りません」
    「心當りは搜したんだらうな」
    「それはもう、親類から遊び仲間の家まで、私一人で何遍も/\搜しましたが、此方から搜す時は何處へ隱れて居るのか、少しも解りません」
    お北の言葉には、妙にからんだところがあります。
    「搜さない時は出て來るとでも言ふのかい」
    「幽靈ぢやないかと思ひますが」
    かしこさうなお北も、そつと後を振り向きました。眞晝の明るい家の中には、もとより何の變つたこともあるわけはありません。
    「幽靈?」
    「昨夜、お勝手口の暗がりから、――そつと覗いて居りました」
    「その弟さんが?」
    「え」
    「をかしな話だな、本物の弟さんぢやないのか」
    「いえ、乙松はあんな樣子をして居る筈はありません。芝居へ出て來る先代萩せんだいはぎの千松のやうに、たもとの長い絹物の紋附を着て、頭も顏もお稚兒ちごさんのやうに綺麗になつて居ましたが、不思議なことに、はかまの裾はぼけて、足は見えませんでした」
    お北は氣性者でも、迷信でこり固まつた江戸娘でした。かう言ふうちにも、何やらおびやかされるやうに襟をかき合せて、ぞつと肩をすくめます。
    「そいつは氣の迷ひだらう――物は言はなかつたかい」
    「言ひ度さうでしたが、何にも言はずに見えなくなつてしまひました」
    「フーム」
    平次もこれだけでは、智慧の小出しを使ひやうもありません。
    「私はもう悲しくなつて、いきなり飛出さうとすると、父親が――あれは狐か狸だらう、乙松はあんな樣子をして居る筈はないから――つて無理に引止めました。一體これはどうしたことでせう、親分さん」
    弟思ひらしいお北の顏は、言ひやうもない悲みと不安がありました。七日の間、相談する相手もなく、何彼と思ひ惱んだことでせう。

    青空文庫より

  • 二宮隆朗読,芥川龍之介「沼」

    芥川龍之介

    おれは沼のほとりを歩いてゐる。
    昼か、よるか、それもおれにはわからない。唯、どこかで蒼鷺あをさぎの啼く声がしたと思つたら、蔦葛つたかづらおほはれた木々のこずゑに、薄明りのほのめく空が見えた。
    沼にはおれのたけよりも高いあしが、ひつそりと水面をとざしてゐる。水も動かない。も動かない。水の底にんでゐる魚も――魚がこの沼に棲んでゐるであらうか。
    昼か、夜か、それもおれにはわからない。おれはこの五六日、この沼のほとりばかり歩いてゐた。寒い朝日の光と一しよに、水の※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)にほひあし※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)ひがおれの体を包んだ事もある。と思ふと又枝蛙えだかはづの声が、蔦葛つたかづらおほはれた木々の梢から、一つ一つかすかな星を呼びさました覚えもあつた。
    おれは沼のほとりを歩いてゐる。
    沼にはおれのたけよりも高い芦が、ひつそりと水面をとざしてゐる。おれは遠い昔から、その芦の茂つた向うに、不思議な世界のある事を知つてゐた。いや、今でもおれの耳には、Invitation au Voyage の曲が、絶え絶えに其処そこからただよつて来る。さう云へば水の※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)や芦の※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)と一しよに、あの「スマトラの忘れなぐさの花」も、蜜のやうな甘い※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)を送つて来はしないであらうか。
    昼か、夜か、それもおれにはわからない。おれはこの五六日、その不思議な世界にあこがれて、蔦葛つたかづらに掩はれた木々のあひだを、夢現ゆめうつつのやうに歩いてゐた。が、此処ここに待つてゐても、唯芦と水とばかりがひつそりと拡がつてゐる以上、おれは進んで沼の中へ、あの「スマトラの忘れなぐさの花」を探しにかなければならぬ。見ればさいはひ、芦の中からなかば沼へさし出てゐる、年経としへた柳が一株ある。あすこから沼へ飛びこみさへすれば、造作ざうさなく水の底にある世界へかれるのに違ひない。
    おれはとうとうその柳の上から、思ひ切つて沼へ身を投げた。
    おれのたけより高い芦が、その拍子ひやうしに何かしやべり立てた。水がつぶやく。が身ぶるひをする。あの蔦葛つたかづらおほはれた、枝蛙えだかはづの鳴くあたりの木々さへ、一時はさも心配さうに吐息といきらし合つたらしい。おれは石のやうに水底みなそこへ沈みながら、数限りもない青い焔が、目まぐるしくおれの身のまはりに飛びちがふやうな心もちがした。
    昼か、夜か、それもおれにはわからない。
    おれの死骸は沼の底のなめらかな泥によこたはつてゐる。死骸の周囲にはどこを見ても、まつさをな水があるばかりであつた。この水の下にこそ不思議な世界があると思つたのは、やはりおれのまよひだつたのであらうか。事によると Invitation au Voyage の曲も、この沼の精が悪戯いたづらに、おれの耳をだましてゐたのかも知れない。が、さう思つてゐる内に、何やら細い茎が一すぢ、おれの死骸の口の中から、すらすらと長く伸び始めた。さうしてそれが頭の上の水面へやつと届いたと思ふと、忽ち白い睡蓮すゐれんの花が、丈の高い芦に囲まれた、藻の※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)のする沼の中に、※(「白+樂」、第3水準1-88-69)てきれきあざやかつぼみを破つた。
    これがおれのあこがれてゐた、不思議な世界だつたのだな。――おれの死骸はかう思ひながら、その玉のやうな睡蓮すゐれんの花を何時いつまでもぢつと仰ぎ見てゐた。

    青空文庫より