2015年9月

  • 青空文庫名作文学の朗読、朗読カフェSTUDIO、岡田慎平朗読「三国志」

    桃園の巻 吉川英治

    黄巾賊こうきんぞく

    後漢ごかん建寧けんねい元年のころ。
    今から約千七百八十年ほど前のことである。
    一人の旅人があった。
    腰に、一剣をいているほか、身なりはいたって見すぼらしいが、まゆひいで、くちあかく、とりわけ聡明そうめいそうなひとみや、ゆたかな頬をしていて、つねにどこかに微笑をふくみ、総じていやしげな容子ようすがなかった。
    年の頃は二十四、五。
    草むらの中に、ぽつねんと坐って、膝をかかえこんでいた。
    悠久ゆうきゅうと水は行く――
    微風はさわやかにびんをなでる。
    涼秋の八月だ。
    そしてそこは、黄河のほとりの――黄土層の低いぎしであった。
    「おーい」
    誰か河でよんだ。
    「――そこの若い者ウ。なにを見ているんだい。いくら待っていても、そこは渡し舟の着く所じゃないぞ」
    小さな漁船から漁夫りょうしがいうのだった。
    青年はくぼを送って、
    「ありがとう」と、少し頭を下げた。
    漁船は、下流へ流れ去った。けれど青年は、同じ所に、同じ姿をしていた。膝をかかえて坐ったまま遠心的な眼をうごかさなかった。

    青空文庫

     


    青空文庫名作文学の朗読、朗読カフェSTUDIO、岡田慎平朗読「三国志」

    桃園の巻 吉川英治

    劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。
    とがめた者は、
    「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨ようしゃなくつかんでいた。
    「……?」
    見ると、役人であろう、胸に県の吏章りしょうをつけている。近頃は物騒ぶっそうな世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓てっきゅうを持ち、一名は半月槍はんげつそうをかかえていた。
    ※(「さんずい+(冢-冖)」、第3水準1-86-80)たくけんの者です」
    劉備青年が答えると、
    ※(「さんずい+(冢-冖)」、第3水準1-86-80)県はどこか」と、たたみかけていう。
    「はい、※(「さんずい+(冢-冖)」、第3水準1-86-80)県の楼桑村ろうそうそん(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」
    「商売は」
    むしろったりすだれをつくって、売っておりますが」
    「なんだ、行商人ぎょうしょうにんか」
    「そんなものです」
    「だが……」
    と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。
    「この剣には、黄金の佩環はいかんに、※(「王+干」、第3水準1-87-83)ろうかん緒珠おだまがさがっているのではないか、蓆売むしろうりには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」
    「これだけは、父の遺物かたみで持っているのです。盗んだ物などではありません」
    素直ではあるが、りんとした答えである。役人は、劉備青年の眼を見ると、急に眼をそらして、
    「しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群れがせて、掠奪りゃくだつを働いて逃げた所だ。――見るところ大人しそうだし、賊徒とは思われぬが、一応疑ってみねばならん」
    「ごもっともです。……実は私が待っているのは、今日あたりこうを下ってくると聞いている洛陽船らくようぶねでございます」
    「ははあ、誰か身寄りの者でもそれへ便乗して来るのか」
    「いいえ、茶を求めたいと思って。――待っているのです」
    「茶を」
    役人は眼をみはった。

    青空文庫


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    岩見聖次朗読

    「義人の姿」田中貢太郎


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    海渡みなみ朗読、

    芥川龍之介「雛」全編

    芥川龍之介

    箱を出る顔忘れめやひなつゐ  蕪村

    これは或老女の話である。

    ……横浜の或亜米利加アメリカ人へひなを売る約束の出来たのは十一月頃のことでございます。紀の国屋と申したわたしの家は親代々諸大名のお金御用を勤めて居りましたし、こと紫竹しちくとか申した祖父は大通だいつうの一人にもなつて居りましたから、雛もわたしのではございますが、中々見事に出来て居りました。まあ、申さば、内裏雛だいりびな女雛めびなの冠の瓔珞やうらくにも珊瑚さんごがはひつて居りますとか、男雛をびな塩瀬しほぜ石帯せきたいにも定紋ぢやうもんと替へ紋とが互違ひにひになつて居りますとか、さう云ふ雛だつたのでございます。
    それさへ売らうと申すのでございますから、わたしの父、十二代目の紀の国屋伊兵衛はどの位手もとが苦しかつたか、大抵御推量にもなれるでございませう。何しろ徳川家とくせんけ御瓦解ごぐわかい以来、御用金を下げて下すつたのは加州様ばかりでございます。それも三千両の御用金の中、百両しか下げては下さいません。因州様などになりますと、四百両ばかりの御用金のかたに赤間あかまが石のすずりを一つ下すつただけでございました。その上火事には二三度も遇ひますし、蝙蝠傘屋かうもりがさやなどをやりましたのも皆手違ひになりますし、当時はもう目ぼしい道具もあらかた一家の口すごしに売り払つてゐたのでございます。
    其処そこへ雛でも売つたらと父へ勧めてくれましたのは丸佐と云ふ骨董屋こつとうやの、……もう故人になりましたが、禿あたまの主人でございます。この丸佐の禿げ頭位、可笑をかしかつたものはございません。と申すのは頭のまん中に丁度按摩膏あんまかうを貼つた位、入れ墨がしてあるのでございます。これは何でも若い時分、ちよいと禿げを隠す為に彫らせたのださうでございますが、生憎あいにくその後頭の方は遠慮なしに禿げてしまひましたから、この脳天の入れ墨だけ取り残されることになつたのだとか、当人自身申して居りました。……さう云ふことは兎も角も、父はまだ十五のわたしを可哀さうに思つたのでございませう、度々丸佐に勧められても、雛を手放すことだけはためらつてゐたやうでございます。
    それをとうとう売らせたのは英吉と申すわたしの兄、……やはり故人になりましたが、その頃まだ十八だつた、かんの強い兄でございます。兄は開化人とでも申しませうか、英語の読本とくほんを離したことのない政治好きの青年でございました。これが雛の話になると、雛祭などは旧弊だとか、あんな実用にならない物は取つて置いても仕方がないとか、いろいろけなすのでございます。その為に兄は昔風の母とも何度口論をしたかわかりません。しかし雛を手放しさへすれば、この大歳おほとししのぎだけはつけられるのに違ひございませんから、母も苦しい父の手前、さうは強いことばかりも申されなかつたのでございませう。雛は前にも申しました通り、十一月の中旬にはとうとう横浜の亜米利加アメリカ人へ売り渡すことになつてしまひました。何、わたしでございますか? それは駄々もこねましたが、お転婆だつたせゐでございませう。その割にはあまり悲しいとも思はなかつたものでございます。父は雛を売りさへすれば、紫繻子むらさきじゆすの帯を一本買つてやると申して居りましたから。


  • 朗読カフェSTUDIO 兼定将司朗読、田島 秀彦「瞳の中の子どもたち」


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    海渡みなみ朗読、芥川龍之介「雛」三


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    兼定将司朗読

    ANY WHERE OUT OF THE WORLD

    ボードレール富永太郎訳


  • 青空文庫名作文学の朗読

    朗読カフェSTUDIO

    二宮隆朗読「微笑」夢野久作

    微笑

    夢野久作

    それは可愛らしい、お河童かっぱさんの人形であった。丸裸体まるはだかのまま……どこをみつめているかわからないまま……ニッコリと笑っていた。
    ……時間と空間とを無視した……すべての空虚を代表した微笑であった。
    ……真実無上の美くしさ……私は、その美くしさが羨ましくなった。云い知れず憎々しくなった。そのスベスベした肌の光りが無性に悲しく、腹立たしく、自烈度じれったくなった。
    その人形を壊してしまいたくなった。その微笑をメチャメチャにしたくなった。私は人形を抱き上げて、静かに首をねじって見た。するとその首は、殆んど音も立てないで、ポックリと折れた中から、竹の咽喉笛のどぶえがヒョイと出て来た……人を馬鹿にしたように……。
    私は面白くなった。
    拳固げんこを固めてポカリと頭をたたき割ったら、鋸屑おがくずの脳味噌がバラバラと崩れ落ちて来た。胴を掴み破ると、ボール紙の肋骨ろっこつが飛び出した。その下から又、薄板の隔膜と反故紙ほごがみの腸があらわれた。手足をポキポキとヘシ折ったら、中味は灰色の土の肉ばかりで、骨のとこ空虚うつろになっていることがわかった。
    けれども人形は死ななかった。何もかもバラバラになったまま、可愛らしくニコニコしていた。
    私はいよいよ苛立いらだたしくなった。人形の破片かけらを残らず古新聞に包んで、グルグルと押し丸めて、庭の隅のハキダメにタタキ込んだ。……こんな下らないものを作った人形師をのろいながら…………。
    その古新聞紙はハキダメの中で雨にたたかれて破れた。メチャメチャになった人形の手足が、ゴミクタの中に散らばった。その中から可愛らしい硝子ガラスの片眼だけが、高い高い青空を見詰めながら、いつまでもいつまでも微笑していた。私はずっと後になってそれを発見した。そうして何かしらドキンとさせられた。
    私は履物のかかとで、その片眼を踏みつけた。全身の重みをかけてキリキリと廻転した。
    白い太陽がキラキラと笑った


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    岩見聖次朗読「寒さ」芥川龍之介

    寒さ

    芥川龍之介

    ある雪上ゆきあがりの午前だった。保吉やすきちは物理の教官室の椅子いすにストオヴの火を眺めていた。ストオヴの火は息をするように、とろとろと黄色きいろに燃え上ったり、どす黒い灰燼かいじんに沈んだりした。それは室内にただよう寒さと戦いつづけている証拠だった。保吉はふと地球の外の宇宙的寒冷を想像しながら、赤あかと熱した石炭に何か同情に近いものを感じた。
    堀川ほりかわ君。」
    保吉はストオヴの前に立った宮本みやもとと云う理学士の顔を見上げた。近眼鏡きんがんきょうをかけた宮本はズボンのポケットへ手を入れたまま、口髭くちひげの薄いくちびるに人のい微笑を浮べていた。
    「堀川君。君は女も物体だと云うことを知っているかい?」
    「動物だと云うことは知っているが。」
    「動物じゃない。物体だよ。――こいつは僕も苦心の結果、最近発見した真理なんだがね。」
    「堀川さん、宮本さんの云うことなどを真面目まじめに聞いてはいけませんよ。」
    これはもう一人の物理の教官、――長谷川はせがわと云う理学士の言葉だった。保吉は彼をふり返った。長谷川は保吉のうしろの机に試験の答案を調べかけたなり、額の禿あがった顔中に当惑そうな薄笑いをみなぎらせていた。
    「こりゃしからん。僕の発見は長谷川君を大いに幸福にしているはずじゃないか?――堀川君、君は伝熱作用の法則を知っているかい?」
    「デンネツ? 電気の熱か何かかい?」
    「困るなあ、文学者は。」
    宮本はそう云うあいだにも、火のうつったストオヴの口へ一杯の石炭をさらいこんだ。
    「温度の異なる二つの物体を互に接触せっしょくせしめるとだね、熱は高温度の物体から低温度の物体へ、両者の温度の等しくなるまで、ずっと移動をつづけるんだ。」
    「当り前じゃないか、そんなことは?」
    「それを伝熱作用の法則と云うんだよ。さて女を物体とするね。いかい? もし女を物体とすれば、男も勿論物体だろう。すると恋愛は熱に当るわけだね。今この男女を接触せしめると、恋愛の伝わるのも伝熱のように、より逆上ぎゃくじょうした男からより逆上していない女へ、両者の恋愛の等しくなるまで、ずっと移動をつづけるはずだろう。長谷川君の場合などは正にそうだね。……」
    「そおら、はじまった。」
    長谷川はむしろ嬉しそうに、くすぐられる時に似た笑い声を出した。
    「今Sなる面積を通し、T時間内に移る熱量をEとするね。すると――いかい? Hは温度、Xは熱伝導ねつでんどうの方面にはかった距離、Kは物質により一定されたる熱伝導率だよ。すると長谷川君の場合はだね。……」
    宮本は小さい黒板へ公式らしいものを書きはじめた。が、突然ふり返ると、さもがっかりしたように白墨はくぼくかけほうり出した。

    青空文庫より