二宮隆
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江戸川乱歩「灰神楽」二宮 隆朗読
59.80 Jun 25, 2018
アッと思う間に、相手は、まるで泥で拵えた人形がくずれでもする様に、グナリと、前の机の上に平たくなった。顔は、鼻柱がくだけはしないかと思われる程、ペッタリと真正面に、机におしつけられていた。そして、その顔の黄色い皮膚と、机掛の青い織物との間から、椿の様に真赤な液体が、ドクドクと吹き出していた。
今の騒ぎで鉄瓶がくつがえり、大きな桐の角火鉢からは、噴火山の様に灰神楽が立昇って、それが拳銃の煙と一緒に、まるで濃霧の様に部屋の中をとじ込めていた。
覗きからくりの絵板が、カタリと落ちた様に、一刹那に世界が変って了った。庄太郎はいっそ不思議な気がした。
「こりゃまあ、どうしたことだ」
彼は胸の中で、さも暢気相にそんなことを云っていた。
併し、数秒間の後には、彼は右の手先が重いのを意識した。見ると、そこには、相手の奥村一郎所有の小型拳銃が光っていた。「俺が殺したんだ」ギョクンと喉がつかえた様な気がした。胸の所がガラン洞になって、心臓がいやに上の方へ浮上って来た。そして、顎の筋肉がツーンとしびれて、やがて、歯の根がガクガクと動き始めた。
意識の恢復した彼が第一に考えたことは、いうまでもなく「銃声」についてであった。彼自身には、ただ変な手答えの外何の物音も聞えなかったけれど、拳銃が発射された以上、「銃声」が響かぬ筈はなく、それを聞きつけて、誰かがここへやって来はしないかという心配であった。
彼はいきなり立上って、グルグルと部屋の中を歩き廻った。時々立止っては耳をすました。
隣の部屋には階段の降り口があった。だが庄太郎には、そこへ近づく勇気がなかった。今にもヌッと人の頭が、そこへ現れ相な気がした。彼は階段の方へ行きかけては引返した。
併し、暫くそうしていても、誰も来る気勢がなかった。一方では、時間が立つにつれて、庄太郎の記憶力が蘇って来た、「何を怖がっているのだ。階下には誰もいなかった筈じゃないか」奥村の細君は里へ帰っているのだし、婆やは彼の来る以前に、可也遠方へ使に出されたというではないか。「だが待てよ、若しや近所の人が……」漸く冷静を取返した庄太郎は、死人のすぐ前に開け放された障子から、そっと半面を出して覗いて見た。広い庭を隔てて左右に隣家の二階が見えた。一方は不在らしく雨戸が閉っているし、もう一方はガランと開け放した座敷に、人影もなかった。正面は茂った木立を通して、塀の向うに広っぱがあり、そこに、数名の青年が鞠投げをやっているのがチラチラと見えていた。彼等は何も知らないらしく、夢中になって遊んでいた。秋の空に、鞠を打つバットの音が冴えて響いた。
彼は、これ程の大事件を知らぬ顔に、静まり返っている世間が、不思議で耐らなかった。「ひょっとしたら、俺は夢を見ているのではないか」そんなことを考えて見たりした。併し振り返ると、そこには血に染った死人が無気味な人形の様に黙していた。その様子が明らかに夢ではなかった。
やがて彼は、ふとある事に気づいた。丁度稲の取入れ時で、附近の田畑には、鳥おどしの空鉄砲があちこちで鳴り響いていた。さっき奥村との対談中、あんなに激している際にも、彼は時々その音を聞いた。今彼が奥村を打殺した銃声も、遠方の人々には、その鳥おどしの銃声と区別がつかなかったに相違ない。
家には誰もいない、銃声は疑われなかった。とすると、うまく行けば彼は助かるかも知れないのである。
「早く、早く、早く」
耳の奥で半鐘の様なものが、ガンガンと鳴り出した。
彼はその時もまだ手にしていた拳銃を、死人の側へ投げ出すと、ソロソロと階段の方へ行こうとした。そして、一歩足を踏み出した時である。庭の方でバサッというひどい音がして、樹の枝がザワザワと鳴った。
「人!」
彼は吐き気の様なものを感じて、その方を振り向いた。だが、そこには彼の予期した様な人影はなかった。今の物音は一体何事であったろう。彼は判断を下し兼ねて、寧ろ判断をしようともせず、一瞬間そこに立往生をしていた。
「庭の中だよ」
すると、外の広っぱの方から、そんな声が聞えて来た。
「中かい。じゃ俺が取って来よう」
それは聞き覚えのある、奥村の弟の中学生の声であった。彼はさっき広っぱの方を覗いた時に、その奥村二郎がバットを振り廻しているのを、頭の隅で認めたことを思出した。
やがて、快活な跫音と、バタンと裏木戸の開く音とが聞え、それから、ガサガサと植込みの間を歩き廻る様子が、二郎の烈しい呼吸づかいまでも、手に取る様に感じられるのであった。庄太郎には殊更そう思われたのか知れぬけれど、ボールを探すのは可也手間取った。二郎は、さも暢気相に口笛など吹きながら、いつまでもゴソゴソという音をやめなかった。
「あったよう」
やっとしてから、二郎の突拍子もない大声が、庄太郎を飛上らせた。そして、彼はそのまま、二階の方など見向きもしないで、外の広っぱへと駈け出して行く様子であった。
「あいつは、きっと知っているのだ。この部屋で何かがあったことを知っているのだ。それを態とそ知らぬ振りで、ボールを探す様な顔をして、その実は二階の様子を伺いに来たのだ」
庄太郎はふとそんな事を考えた。
「だが、あいつは、仮令銃声を疑ったとしても、俺がこの家へ来ていることは知る筈がない。あいつは、俺が来る以前から、あすこで遊んでいたのだ。この部屋の様子は、広っぱの方からは、杉の木立が邪魔になってよくは見えないし、たとえ見えたところで、遠方のことだから、俺の顔まで見別けられる筈はない」
彼は一方では、そんな風にも考えた。そして、その疑いを確める為に、障子から半面を出して、広っぱの方を覗いて見た。そこには、木立の隙間から、バットを振り振り走って行く、二郎の後姿が眺められた。彼は元の位置に帰るとすぐ、何事もなかった様に打球の遊戯を始めるのであった。
「大丈夫、大丈夫、あいつは何にも知らないのだ」
庄太郎は、さっきの愚な邪推を笑うどころではなく、強いて自分自身を安心させる様に、大丈夫、大丈夫と繰返した。 -
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江戸川乱歩「盗難」二宮 隆朗読
49.82 May 26, 2018
「ハハハハハハ、分ったかね。じゃ、これで失敬するよ」
突然巡査はそういって立上りました。さつ束は手に持ったままですよ。それから、もう一方の手には、ポケットから取出したピストルを油断なく私達の方へ向けながらですよ。にくらしいじゃありませんか。そんな際にも巡査の句調を改めないで、失敬するよなんていってるんです。よっぽど胆のすわった奴ですね。
無論、主任も私も、声を立てることも出来ないでぼんやり坐ったままでした。どぎもを抜かれましたよ。まさか戸籍調べに来て顔なじみになっておくという新手があろうとは気がつきませんや。もうほんとうの巡査だと信じ切っていたのですからね。 -
江戸川乱歩「モノグラム」二宮 隆朗読
45.67
Apr 15, 2018私が、私の勤めていたある工場の老守衛(といっても、まだ五十歳には間のある男なのですが、何となく老人みたいな感じがするのです)栗原さんと心安くなって間もなく、恐らくこれは栗原さんの取って置きの話の種で、彼は誰にでも、そうした打開け話をしても差支のない間柄になると、待兼ねた様に、それを持出すのでありましょうが、私もある晩のこと、守衛室のストーブを囲んで、その栗原さんの妙な経験談を聞かされたのです。
栗原さんは話上手な上に、なかなか小説家でもあるらしく、この小噺めいた経験談にも、どうやら作為の跡が見えぬではありませんが、それならそれとして、やっぱり捨て難い味があり、そうした種類の打開け話としては、私は未だに忘れることの出来ないものの一つなのです。栗原さんの話しっぷりを真似て、次にそれを書いて見ることに致しましょうか。いやはや、落しばなしみたいなお話なんですよ。でも、先にそれを云って了っちゃ御慰みが薄い。まあ当り前の、エー、お惚気のつもりで聞いて下さいよ。
私が四十の声を聞いて間もなく、四五年あとのことなんです。いつもお話する通り、私はこれで相当の教育は受けながら、妙に物事に飽きっぽいたちだものですから、何かの職業に就いても、大抵一年とはもたない。次から次と商売替えをして、到頭こんなものに落ちぶれて了った訳なんですが、その時もやっぱり、一つの職業を止して、次の職業をめっける間の、つまり失業時代だったのですね。御承知のこの年になって子供はなし、ヒステリーの家内と狭い家に差し向いじゃやりきれませんや。私はよく浅草公園へ出掛けて、所在のない時間をつぶしたものです。
いますね、あすこには。公園といっても六区の見世物小屋の方でなく、池から南の林になった、共同ベンチの沢山並んでいる方ですよ。あの風雨にさらされて、ペンキがはげ、白っぽくなったベンチに、又は捨て石や木の株などに、丁度それらにふさわしく、浮世の雨風に責めさいなまれて、気の抜けた様な連中が、すき間もなく、こう、思案に暮れたという恰好で腰をかけていますね。自分もその一人として、あの光景を見ていますと、あなた方にはお分りにならないでしょうが、まあ何とも云えない、物悲しい気持になるものですよ。
ある日のこと、私はそれらのベンチの一つに腰をおろして、いつもの通りぼんやり物思いに耽っていました。丁度春なんです。桜はもう過ぎていましたが、池を越して向うの活動小屋の方は、大変な人出で、ドーッという物音、楽隊、それに交っておもちゃの風船玉の笛の音だとか、アイスクリーム屋の呼び声だとかが、甲高く響いて来るのです。それに引きかえて、私達の居る林の中は、まるで別世界の様に静で、恐らく活動を見るお金さえ持合せていない、みすぼらしい風体の人々が、飢えた様な物憂い目を見合せ、いつまでもいつまでも、じっと一つ所に腰をおろしている。こんな風にして罪悪というものが醗酵するのではないかと思われるばかり、実に陰気で、物悲しい光景なのです。
そこは、林の中の、丸くなった空地で、私達の腰かけている前を、私達と無関係な、幸福そうな人々が、絶えず通り抜けています。それが着かざった女なんかだと、それでも、ベンチの落伍者共の顔が、一斉にその方を見たりなんかするのですね。そうした人通りが一寸途絶えて、空地がからっぽになっていた時でした、ですから自然私も注意した訳でしょうが、一方の隅のアーク燈の鉄柱の所へ、ヒョッコリ一人の人物が現れたのです。
三十前後の若者でしたが、風体はさしてみすぼらしいというではないのに、どことなく淋し気な、少くとも顔つき丈は、決して行楽の人ではなく、私共落伍者のお仲間らしく見えるのです。彼はベンチの明いた所でも探す様に、暫くそこに立ち止まっていましたが、どこを見ても一杯な上に、彼の風采に比べては、段違いに汚らしく怖らしい連中ばかりなので、恐らく辟易したのでしょう、あきらめて立去り相にした時、ふと彼の視線と私の視線とがぶつかりました。
すると彼は、やっと安心した様に、私の隣の僅ばかりのベンチの空間を目がけて近づいて来るのです。そうした連中の中では、私の風体は、古ぼけた銘仙かなんか着ていて、おかしな云い方ですがいくらか立勝って見えたでしょうし、決して外の人達の様に険悪ではなかったのですから、それが彼を安心させたと見えます。それとも、これはあとになって思い当ったことですが、彼は最初から私の顔に気がついていたのかも知れません。イエ、その訳はじきにお話ししますよ。
どうも私の癖で、お話が長くなっていけませんな、で、その男は私の隣へ腰をかけると、袂から敷島の袋を出して、煙草を喫い始めましたのですが、そうしている内に、段々、変な予感みたいなものが、私を襲って来るのです。妙だなと思って、気をつけて見ると、男が煙草をふかしながら、横の方から、ジロジロと私を眺めている、その眺め方が決して気まぐれでなく、何とやら意味ありげなんですね。
相手が病身らしいおとなし相な男なので、気味が悪いよりは、好奇心の方が勝ち、私はそれとなく彼の挙動に注意しながら、じっとしていました。あの騒がしい浅草公園の真中にいて、色々な物音は確に聞えているのですが、不思議にシーンとした感じで、長い間そうしていました。相手の男が、今にも何か云い出すかと、待構える気持だったのです。
すると、やっと男が口を切るのですね。「どっかで御目にかかりましたね」って、おどおどした小さな声です。多少予期していたので、私は別に驚きはしませんでしたが、不思議と思い出せないのですよ。そんな男、まるで知らないのです。
「人違いでしょう。私は一向御目にかかった様に思いませんが」って返事をすると、それでも、相手はどうも不得心な顔で、又しても、ジロジロと私を眺め出すではありませんか。ひょっとしたら、こいつ何か企らんでるんじゃないかと、流石に気持がよくはありませんや、「どこでお逢いしました」ってもう一度尋ねたものです。
「サア、それが私も思い出せないのですよ」男が云うのですね。「おかしい、どうもおかしい」小首をかしげて「昨今のことではないのです。もうずっと先から、ちょくちょく御目にかかっている様に思うのですが、本当に御記憶ありませんか」そういって、却って私を疑う様に、そうかと思うと、変に懐し相な様子でニコニコしながら私の顔を見るじゃありませんか。
「人違いですよ。そのあなたの御存じの方は何とおっしゃるのです。お名前は」って聞きますと、それが変なんです。「私もさい前から一生懸命思い出そうとしているのですが、どういう訳か、出て来ません。でも、お名前を忘れる様な方じゃないと思うのですが」
「私は栗原一造て云います」私ですね。
「アア左様ですか、私は田中三良って云うのです」これが男の名前なんです。
私達はそうして、浅草公園の真中で名乗り合いをした訳ですが、妙なことに、私の方は勿論、相手の男も、その名前にちっとも覚えがないというのです。馬鹿馬鹿しくなって、私達は大声を上げて笑い出しました。すると、するとですね、相手の男の、つまり田中三良のその笑い顔が、ふと私の注意を惹いたのです。おかしなことには、私までが、何だか彼に見覚えがある様な気がし出したのです。しかも、それがごく親しい旧知にでも廻り合った様に、妙に懐しい感じなんですね。
そこで、突然笑いを止めて、もう一度その田中と名乗る男の顔を、つくづく眺めた訳ですが、同時に田中の方でも、ピッタリと笑を納め、やっぱり笑いごとじゃないといった表情なんです。これが外の時だったら、それ以上話を進めないで別れて了ったことでしょうが、今云う失業時代で、退屈で困っていた際ですし、時候はのんびりとした春なんです。それに、見た所私よりも風体のととのった若い男と話すことは、悪い気持もしないものですから、まあひまつぶしといった鹽梅で、変てこな会話を続けて行きました。こういう工合にね。
「妙ですね、お話ししてる内に、私も何だかあなたを見たことがある様な気がして来ましたよ」これは私です。
「そうでしょう。やっぱりそうなんだ。しかも道で行違ったという様な、一寸顔を合せた位のとこじゃありませんよ、確に」
「そうかも知れませんね。あなたお国はどちらです」
「三重県です。最近始めてこちらへ出て来まして、今勤め口を探している様な訳です」
して見ると、彼もやっぱり一種の失業者なんですね。
「私は東京の者なんだが、で、御上京なすったのはいつ頃なんです」
「まだ一月ばかりしかたちません」
「その間にどっかでお逢いしたのかも知れませんね」
「いえ、そんな昨日今日のことじゃないのですよ。確に数年前から、あなたのもっとお若い時分から知ってますよ」
「そう、私もそんな気がする。三重県と。私は一体旅行嫌いで、若い時分から東京を放れたことは殆どないのですが、殊に三重県なんて上方だということを知っている位で、はっきり地理も弁えない始末ですから、お国で逢った筈はなし、あなたも東京は始めてだと云いましたね」
「箱根からこっちは、本当に始めてなんです。大阪で教育を受けて、これまであちらで働いていたものですから」
「大阪ですか、大阪なら行ったことがある。でも、もう十年も前になるけれど」
「それじゃ大阪でもありませんよ。私は七年前まで、つまり中学を出るまで国にいたのですから」
こんな風にお話すると、何だかくどい様ですけれど、その時はお互になかなか緊張していて、何年から何年までどこにいて、何年の何月にはどこそこへ旅行したと、細いことまで思出し、比べ合って見ても、一つもそれがぶつからない。たまに同じ地方へ旅行しているかと思うと、まるで年代が違ったりするのです。さあそうなると、不思議で仕様がないのですね。人違いではないかと云っても相手は、こんなによく似た人が二人いるとは考えられぬと主張しますし、それが一方丈ならまだしも、私の方でも、見覚えがある様な気がするのですから、一概に人違いと云い切る訳にも行きません。話せば話す程、相手が昔馴染の様に思え、それにも拘らず、どこで逢ったかは愈々分らなくなる。あなたにはこんな御経験はありませんか、実際変てこな気持のものですよ。神秘的、そうです。何だか神秘的な感じなんです。ひまつぶしや、退屈をまぎらす為ばかりではなく、そういう風に疑問が漸層的に高まって来ると、執拗にどこまでも検べて見たくなるのが人情でしょうね。
が、結局分らないのです。多少あせり気味で、思い出そうとすればする程、頭が混乱して、二人が以前から知合いであることは、分り過ぎる程分っているではないか、なんて思われて来たりするのです。でも、いくら話して見ても、要領を得ないので、私達は又々笑い出す外はないのでした。
併し要領は得ないながらも、そうして話し込んでいる内に、お互に好意を感じ、以前はいざ知らず、少くともその場からは忘れ難い馴染になって了った訳です。それから田中のおごりで、池の側の喫茶店に入り、お茶をのみながら、そこでも暫く私達の奇縁を語り合った後、その日は何事もなく分れました。そして分れる時には、お互の住所を知らせ、ちとお遊びにと云い交す程の間柄になっていたのです。
それが、これっきりで済んで了えば、別段お話する程のことはないのですが、それから四五日たって、妙なことが分ったのです。田中と私とは、やっぱりある種のつながりを持っていたことが分ったのです。始めに云った私のお惚気というのはこれからなんですよ。(栗原さんはここで一寸笑って見せるのです)田中の方では、これは当てのある就職運動に忙しいと見えて、一向訪ねて来ませんでしたが、私は例によって時間つぶしに困っていたものですから、ある日、ふと思いついて、彼の泊っている上野公園裏の下宿屋を訪問したのです。もう夕方で、彼は丁度外出から帰った所でしたが、私の顔を見ると、待っていたと云わぬばかりに、いきなり「分りました、分りました」と叫ぶのです。
「例のことね。すっかり分りましたよ。昨夜です。昨夜床の中でね、ハッと気がついたのです。どうも済みません。やっぱり私の思い違いでした。一度も御逢いしたことはないのです。併し、御逢いはしていないけれど、満更御縁がなくはないのですよ。あなたはもしや、北川すみ子という女を御存じじゃないでしょうか」
藪から棒の質問で一寸驚きましたが、北川すみ子という名を聞くと、遠い遠い昔の、華やかな風が、そよそよと吹いて来る様な感じで、数日来の不思議な謎が、いくらかは解けた気がしました。
「知ってます。でも、随分古いことですよ。十四五年も前でしょうか、私の学生時代なんですから」
というのは、いつかもお話ししました通り、私は学校にいた時分は、これでなかなか交際家でして、女の友達などもいくらかあったのですが、北川すみ子というのはその内の一人で、特別に私の記憶に残っている女性なのです。××女学校に通っていましたがね。美しい人で、我々の仲間の歌留多会なんかでは、いつでも第一の人気者、というよりはクィーンですね、美人な代りにはどことなく険があり、こう近寄り難い感じの女でした。その女にね(栗原さんは一寸云い渋って、頭をかくのです)実は私は惚れていたのですよ。しかもそれが、恥しながら片思いという訳なんです。そして、私が結婚したのは、やっぱり同じ女学校を出た、仲間では第二流の美人、イヤ今じゃ美人どころか、手におえないヒステリィ患者ですが、当時はまあまあ十人並だった御承知のお園なんです。手頃な所で我慢しちまった訳ですね。つまり、北川すみ子という女は、私の昔の恋人であり、家内にとっては学校友達であったのです。 -
大阪圭吉「デパートの絞刑吏」二宮隆朗読
52.07
Mar 26, 2018デパートの絞刑吏
大阪圭吉
多分独逸物であったと思うが、或る映画の試写会で、青山喬介――と知り合いになってから、二カ月程後の事である。
早朝五時半。社からの電話を受けた私は、喬介と一緒にRデパートへ、その朝早く起こった飛降り自殺のニュースを取るために、フルスピードでタクシーを飛ばしていた。
喬介は私よりも三年も先輩で、かつては某映画会社の異彩ある監督として特異な地位を占めてはいたが、日本のファンの一般的な趣向と会社の営利主義とに迎合する事が出来ず、映画界を隠退して、一個の自由研究家として静かな生活を送っていた。勤勉で粘強な彼は、一面に於て、メスの如く鋭敏な感受性と豊富な想像力を以てしばしば私を驚かした。とは言え彼は又あらゆる科学の分野に亙って、周到な洞察力と異状に明晰な分析的智力を振い宏大な価値深い学識を貯えていた。
私は喬介とのこの交遊の当初に於てその驚くべき彼の学識を私の職業的な活動の上に利用しようとたくらんだ。が、日を経るにつれて私の野心は限りない驚嘆と敬慕の念に変って行った。そうして間もなく私は、本郷の下宿を引き払って彼の住んでいるアパートへ、しかも彼と隣合せの部屋へ移住してしまった。それ程この青山喬介と言う男は、私にとって犯し難い魅力を持っていたのである。六時十分前に、私達はRデパートへ着いた。墜死の現場はこのデパートの裏に当る東北側の露地で、血痕の凝結したアスファルトの道路の上には、附近の店員や労働者や早朝の通行人が、建物の屋上を見上げたり、口々に喧ましく喋り合ったりしていた。
死体は仕入部の商品置場に仮収容され、当局の一行が検死を終わった処であった。私達が其処へ入って行くと、今度○○署の司法主任に栄進した私の従兄弟が快く私達を迎えながら、この事件は自殺でなく絞殺による他殺事件である事、被害者はこの店の貴金属部のレジスター係で野口達市と言う二十八歳の独身店員である事、死体の落下点付近に幾つかのダイヤの混じった高価な真珠の首飾が落ちていた事、そしてその首飾は、一昨日被害者の勤務する貴金属部で紛失した二品の内の一つである事、更に又、死体及び首飾は今朝四時に巡廻中の警官に依って発見されたものなる事、そして最後に、この事件は自分が担任している事を附け加えて、少々得意気に話してくれた。説明が終わると、私達は許しを得て死体に接近し、罌粟の花の様なその姿に見入る事が出来た。
頭蓋骨は粉砕され、極度に歪められた顔面は、凝結した赤黒い血痕に依って物凄く色彩られていた。頸部には荒々しい絞殺の瘡痕が見え、土色に変色した局部の皮膚は所々破れて少量の出血がタオル地の寝巻の襟に染み込んでいた。検死のために露出された胸部には、同じ様な土色の蚯蚓腫れが怪しく斜に横たわり、その怪線に沿う左胸部の肋骨の一本は、無惨にもヘシ折られていた。更に又、屍体の所々――両方の掌、肩、下顎部、肘等の露出個所には、無数の軽い擦過傷が痛々しく残り、タオル地の寝巻にも二、三の綻ろびが認められた。
私がこの無惨な光景をノートに取っている間、喬介は大胆にも直接死体に手を触れて掌中その他の擦過傷や頸胸部の絞痕を綿密に観察していた。
「死後何時間を経過していますか?」
喬介は立上がると、物好きにも側にいた警察医に向ってこう質問した。
「六、七時間を経ていますね」
「すると、昨晩の十時から十一時までの間に殺された訳ですね。そしていつ頃に投げ墜されたものでしょう?」
「路上に残された血痕、又は頭部の血痕の凝結状態から見てどうしても午前三時より前の事です。それから、少くとも十二時頃まではあの露地にも通行人がありますから、結局時間の範囲は零時から三時頃までの間に限定されますね」
「私もそう思います。それから被害者が寝巻を着ているのは何故でしょうか? 被害者は宿直員ではないのでしょう?」
喬介のこの質問に警察医は黙ってしまった。今まで司法主任に何事か訊問されていた寝巻姿の六人の店員の一人が、警察医に代って喬介の質問に答えた。
「野口君は昨夜宿直だったのです。と言うのは、各々違った売場から毎晩順番の交代で宿直するのが、この店の特種な[#「特種な」はママ]規則と言いますかまあキマリになっているのです。昨晩の宿直は、店員の中ではこの野口君と私と、其処に立っている五人と、都合七人でした。それから雑役の用務員さんの方で彼処にいる三人を加え、全部で十人の宿直でした。そんなわけで同じ宿直室へ寝ながら、宿直員の中ではお互に馴染の少い顔ばかりと言う事になるのです。昨晩の様子ですか? 御承知の通り只今では毎晩九時まで夜間営業をしていますので、九時に閉店してからすっかり静かになるまでには四十分は充分に掛ります。昨晩私達が、各々手分けをして戸締りを改めてから消燈して寝に就いた時は、もう十時に近い頃でした。野口君は、寝巻に着換えてから一人で出て行かれたようですが多分便所へでも行くのだろうと思って別に気にも留めませんでした。それから今朝の四時にお巡りさんに起されるまでは、何にも知らずにぐっすり眠ってしまったのです。……ええ、宿直室は、用務員さん達のが地階で、私達のは三階の裏側に当っています。六階から屋上に通ずるドアーですか? 別に錠は下しません」
この宿直店員の供述が終ると、喬介は他の八人の宿直員に向って、昨晩の事に関して今の供述以外のニュースを持っている人はないかを質問した。が、別に新しい報告を齎らした者はなかった。ただ、子供服部に属していると言う一人が、昨晩は歯痛のために一時頃まで眠られなかった事、その間野口達市のベッドが空である事には少しも気が附かなかった事、怪し気な物音なぞは少しも聞えなかった事等、ちょっとした陳述をなしたに過ぎなかった。
次に首飾に関する喬介の質問に対して鼻先の汗をハンカチで拭いながら、貴金属部の主任が次の様に語った。
「只今知らせを受け驚いて出勤したばかりです。野口君はいい人でしたが残念な事をしました。決して他人から恨みを受ける様な人ではありません。首飾の盗難事件ですか? どうも野口君に限って首飾とは関係ないと思いますね。とにかく首飾は一昨晩の閉店時に紛失したのです。これこれ二品です。合わせてちょうど二万円の代物です。で当時の状況から推して確かにお客さんの中に犯人が混じっていたと思われます。従って貴金属部の店員は申すに及ばず、全店員の身体検査をするやら建物の上から下まで細密な捜索をするやら、いや全くこの一両日は大騒ぎでした。それがこの始末です。全く不思議です」
丁度主任の供述が終った時、屍体の運搬車が来て、三人の雑役係の宿直用務員が屍体を重そうに提げ、臆病そうにヨタヨタした足取りで運び出して行った。その様子を暫く名残り惜し気に見詰めていた喬介は、やがて振り返るや私の肩を叩きながら元気よく叫んだ。
「君、屋上へ行こう」