海渡みなみ

  • 横光利一「妻」海渡みなみ朗読

    13.50
    May 20, 2018

    雨がやむと風もやむだ。小路こうぢの兩側の花々は倒れたまま地に頭をつけてゐた。今迄揺れつづけてゐた葡萄棚の蔓は靜まつて、垂れ下つた葡萄の實の先端からまだ雨の滴りがゆるやかに落ちてゐた。どこからか人の話し聲が久し振りに聞えて來た。
    「まア、人の聲つて懷しいものね。」と妻は床の中から云つた。
    妻はもう長らく病んで寢てゐた。彼女は姑が死ぬと直ぐ病ひになつた。
    遠くの荒れた茫々とした空地の雜草の中で、置き忘れられた椅子がぼんやりと濡れた頭を傾けてゐた。その向ふの曇つた空の下では竹林の縁が深ぶかと重さうに垂れてゐた。
    私は門の小路の方へ倒れた花を踏まないやうに足を浮かせて歩いてみた。傾き勝ちな小路の肌は滑かに青く光つてゐた。その上を細い流れが縮れながら蟲や花瓣を浮べて流れてゐた。すると私の足は不意に辷つた。私は亂れた花の上へ仰向きに倒れた。冷たい草の葉がはツしと頬を打つた。雨が降るといつも私はそこで辷るのだ。
    格子の向ふで妻が身體を振つて笑つてゐた。私は馬鹿げた口を開けて着物を着返へるために家の中へ這入つた。
    「どうも早や、參つた、參つた。」
    「あなたの、あなたの。」さう云ふと妻は笑つたまま急に咳き出した。
    「俺が惡いんぢやないぞ。花めが惡いんだ。」
    「あなたが周章てるからよ。」
    「俺は花を踏まないやうに氣をつけてやつたんだ。」
    「あの格好つたらなかつたわ。」
    私は芝居の口調で、
    「いやいや、」と云つた。
    「もう一度辷つてらつしやいな。」
    私は默つてゐた。
    「まるで新感覺よ。」
    「生意氣ぬかすな。」
    私は光つた縁側で裸體になつた。病める妻にとつて、靜けさの中で良人の辷つた格好は何よりも興趣があつたに相違ない。初めの頃は私が辷ると妻の顏色も青くなつた。それがだんだんと平氣になり、第三段の形態は哄笑に變つて來た。私達は此の形態の變化を曳き摺つて此の家へ移つて來た。
    「赤ちやんがほしいわ。」と、突然妻が云ひ出すことがある。
    さう云ひ出す頃になると、妻は何物よりも、ユーモラスな良人の辷つた格好から愛すべき風格を見附け出す。その次ぎの第四の形態は何か。私は次ぎに來る左樣なことを考へるものではないと考へる。
    次の日の朝雲は晴れた。私は起きると直ぐ葡萄棚の下へ行つて仰いでみた。葉の叢から洩れた一條の光りが鋭く眼を貫いた。私は顏を傾け變へた。露に濡れた葡萄の房が朝の空の中で克明な陰影を振りかざし、一粒づつ滿腔の光りを放つて靜まつてゐた。私は手を延ばすと一粒とつた。
    「うまい。」
    床の上へ起き直つた妻が、
    「私にもよ、私にもよ。」と云つて手を差し出した。
    「喜べ。うまいぞ。」
    私は露で冷めたくなつた手に一房の葡萄を攫んで妻の床の傍へ持つていつた。
    「あらあら、重いわね。」
    「ベテレヘムの女ごらよ。ああ汝の髮は紫の葡萄のごとし。」
    「もう直ぐ蟲がつくから、今とらないと駄目だわね。」
    「汝は汝の床もて我を抱け。我の願ひを入れよ。」
    「まア、おいしい。口がとれさうよ。」と妻は云つた。
    見ると、妻の髮に白いにらの花がこの朝早くから刺さつてゐた。
    私はまた葡萄棚の下へ戻つて來た。それから井戸傍で身體を拭いた。雇つてある老婆が倒れた垣根の草花を起してゐた。
    私はふと傍の薔薇の葉の上にゐる褐色のめすの鎌切りを見附けた。よく見ると、それは別の青いをすの鎌切りの首を大きな鎌で押しつけて早や半分ほどそれを食つてゐる雌の鎌切りだつた。
    「なるほど、これや夫婦生活の第四段の形態だ。」と私は思つた。
    雄は雌に腹まで食はれながらまだ頭をゆるく左右に振つてゐた。その雄の容子が私には苦痛を訴へてゐる表情だとは思へなかつた。どこかむしろ悠長な歡喜を感じた。その眼の表情には確に身を締めつけられるやうな恍惚とした喜びがあつた。婆やが曲つた腰つきで箒を持つて無花果の樹の下から私の方へ歩いて來た。
    「おい、婆さん。一寸來て見な。」と私は云つた。
    婆やは私の指差してゐる鎌切りを覗き込むと、
    「ははア。」と云つた。
    「これ、何んだか知つてるかね。」
    「旦那さま、これや二疋ですな。」と老婆は急に大きな聲を出した。
    「さうだ。」
    すると老婆はまた「あらツ」と聲を上げた。
    「何んだ?」
    「これや旦那さま、食はれてゐますのぢや。」
    「それやさうさ。」
    「ははア。これや、旦那樣、食はれてをりますのぢや。」
    「食つてゐるのはめすなんだよ。鎌切りの女は亭主が入らなくなると食ひ殺すんだ。」
    「ほんたうでございますか。」
    「本當さ。」
    「まア奥樣、來て見なさい。憎い奴がをりますわ。自分の亭主を食ひやがつて、これやツ、これやツ。」と老婆は云つて足で地を打つた。
    私は身體を拭きながら無花果の樹の下へ來た。無花果は厚い葉の陰から色づいた實を差し出してゐた。不氣嫌さうに栗のいがは膨れてゐた。
    私はまだ鎌切りに心から腹を立ててゐるらしい老婆の容子が面白かつた。彼女は二十臺に良人に別れた。それから四十年、獨身で來ながらもその間何をして來たか分らなかつた。彼女は今も烈しい毒を體内に持つてゐた。その老婆が亭主を食つたと云ふので雌の鎌切りに必死に腹を立ててゐるのである。
    暫くすると、老婆が箒を持つたまま私の傍へ來た。
    「旦那さま、殺してやりましたわ。」
    「食つて了つたか?」
    「食つて了ひましたよ。すつかり食ひました。」
    「さうか。」
    「憎ツくい奴でございますな。あんな奴は、ひどい目に合はしてやりませんと腹が立ちますよ。」
    「食はれてゐる奴は喜んでゐたんだぜ。」
    「冗談を云ひなさんな。」
    「女に食はれたら誰だつて喜ぶさ。」
    「へへへへへへ。」と老婆は笑ひ出した。
    彼女は私の言葉を下品な意味にとつたと見えた。
    彼女は直ぐまた妻のゐる方へ引き返して行くと、
    「奥さん、あの旦那さまは油斷なりませんよ。なかなか、どうしてあなた。」
    そんなことを云つてゐる老婆の聲が耳に這入つた。
    私はそのまま裾を捲つて露の溜つてゐるきらきらした雜草の穗の中へ降りて行つた。
    微風が朝の香りを籠めて草の上を渡つて來た。草玉が青い實を靜に搖つた。數列の葱が露に輝きながら劍のやうに垂直に立つてゐた。
    「おーい。」
    「はーい。」と妻の低い聲がした。
    「無花果、入らないか。」
    「はーい。」
    遠くの草の中で、幼い子供が母の云ふことをよくきいてゐる清らかな姿が見えた。

  • 江戸川乱歩「お勢登場」海渡みなみ朗読

    50.63
    May 06, 2018

    肺病やみの格太郎かくたろうは、今日も又細君さいくんにおいてけぼりを食って、ぼんやりと留守を守っていなければならなかった。最初の程は、如何いかなお人しの彼も、激憤を感じ、それをたねに離別を目論もくろんだことさえあったのだけれど、やまいという弱味が段々彼をあきらめっぽくしてしまった。先の短い自分の事、可愛い子供のことなど考えると、乱暴な真似まねはできなかった。その点では、第三者であるけ、弟の格二郎かくじろうなどの方がテキパキしたかんがえを持っていた。彼は兄の弱気を歯痒はがゆがって、時々意見めいた口をくこともあった。
    「なぜ兄さんは左様そうなんだろう。僕だったらとっくに離縁にしてるんだがな。あんな人にあわれみをかける所があるんだろうか」
    だが、格太郎にとっては、単に憐みという様なことばかりではなかった。成程なるほど、今おせいを離別すれば、もんなしの書生っぽに相違ない彼女の相手と共に、たちまち其日そのひにも困る身の上になることは知れていたけれど、その憐みもさることながら、彼にはもっとほかの理由があったのだ。子供の行末も無論案じられたし、それに、恥しくて弟などには打開うちあけられもしないけれど、彼には、そんなにされても、まだおせいをあきらめかねる所があった。それゆえ、彼女が彼から離れ切って了うのを恐れて、彼女の不倫を責めることさえ遠慮している程なのであった。
    おせいの方では、この格太郎の心持を、知り過ぎる程知っていた。大げさに云えば、そこには暗黙の妥協に似たものが成り立っていた。彼女は隠し男との遊戯の暇には、その余力をもって格太郎を愛撫することを忘れないのだった。格太郎にして見れば、この彼女のわずかばかりのおなさけに、不甲斐ふがいなくも満足している外はない心持だった。
    「でも、子供のことを考えるとね。そう一概いちがいなことも出来ないよ。この先一年もつか二年もつか知れないが、おれの寿命はきまっているのだし、そこへ持って来て母親までなくしては、あんまり子供が可哀相かわいそうだからね。まあもうちっと我慢して見るつもりだ。なあに、その内にはおせいだって、きっと考え直す時が来るだろうよ」
    格太郎はそう答えて、一層弟を歯痒がらせるのを常とした。
    だが、格太郎の仏心に引かえて、おせいは考え直すどころか、一日一日と、不倫の恋におぼれて行った。それには、窮迫して、長病ながわずらいで寝た切りの、彼女の父親がだしに使われた。彼女は父親を見舞いに行くのだと称しては、三日にあげずうちそとにした。果して彼女が里へ帰っているかどうかをしらべるのは、無論わけのないことだったけれど、格太郎はそれすらしなかった。妙な心持である。彼は自分自身に対してさえ、おせいをかばう様な態度を取った。
    今日もおせいは、朝から念入りの身じまいをして、いそいそと出掛けて行った。
    「里へ帰るのに、お化粧はいらないじゃないか」
    そんないやみが、口まで出かかるのを、格太郎はじっとこらえていた。此頃このごろでは、そうしていことも云わないでいる、自分自身のいじらしさに、一種の快感をさえ覚える様になっていた。
    細君が出て行って了うと、彼は所在なさに趣味を持ち出した盆栽ぼんさいいじりを始めるのだった。跣足はだしで庭へ下りて、土にまみれていると、それでもいくらか心持が楽になった。又一つには、そうして趣味に夢中になっているさまを装うことが、他人に対しても自分に対しても、必要なのであった。
    おひる時分になると、女中が御飯を知らせに来た。
    「あのおひるの用意が出来ましたのですが、もうちっとのちになさいますか」
    女中さえ、遠慮勝ちにいたいたしそうな目で自分を見るのが、格太郎はつらかった。
    「ああ、もうそんな時分かい。じゃおひるとしようか。坊やを呼んで来るといい」
    彼は虚勢きょせいを張って、快活らしく答えるのであった。此頃このごろでは、何につけても虚勢が彼の習慣になっていた。
    そういう日に限って、女中達の心づくしか、食膳しょくぜんにはいつもより御馳走ごちそうが並ぶのであった。でも格太郎はこの一月ばかりというもの、おいしい御飯をたべたことがなかった。子供の正一しょういちも家の冷い空気に当ると、外の餓鬼大将がきだいしょうにわかにしおしおして了うのだった。
    「ママどこへ行ったの」
    彼はある答えを予期しながら、でも聞いて見ないでは安心しないのである。
    「おじいちゃまの所へいらっしゃいましたの」
    女中が答えると、彼は七歳の子供に似合わぬ冷笑の様なものを浮べて、「フン」と云ったきり、御飯をかき込むのであった。子供ながら、それ以上質問を続けることは、父親に遠慮するらしく見えた。それと彼には又彼丈けの虚勢があるのだ。
    「パパ、お友達を呼んで来てもいい」
    御飯がすんで了うと、正一は甘える様に父親の顔をのぞき込んだ。格太郎は、それがいたいけな子供の精一杯の追従ついしょうの様な気がして、涙ぐましいいじらしさと、同時に自分自身に対する不快とを感じないではいられなかった。でも、彼の口をついて出た返事は、いつもの虚勢以外のものではないのだった。
    「アア、呼んで来てもいいがね。おとなしく遊ぶんだよ」
    父親の許しを受けると、これも又子供の虚勢かも知れないのだが、正一は「うれしい嬉しい」と叫びながら、さも快活に表の方へ飛び出して行って、間もなく三四人の遊び仲間を引っぱって来た。そして、格太郎がお膳の前で楊枝ようじを使っているところへ、子供部屋の方から、もうドタンバタンという物音が聞え始めた。

  • 樋口一葉「この子」海渡みなみ朗読

    26.93
    Oct 28, 2017

     くちしてわたし我子わがこ可愛かあいいといふことまをしたら、さぞ皆樣みなさま大笑おほわらひをあそばしましやう、それは何方どなただからとて我子わがこにくいはありませぬもの、とりたてゝなに自分じぶんばかり美事みごとたからつてるやうにほこがほまをすことの可笑をかしいをおわらひにりましやう、だからわたしくちして其樣そん仰山ぎやうさんらしいことひませぬけれど、こゝろのうちではほんに/\可愛かあいいのにくいのではありませぬ、あはせてをがまぬばかりかたじけないとおもふてりまする。
    わたし此子このこはゞわたしためまもがみで、此樣こん可愛かあい笑顏ゑがほをして、無心むしんあそびをしてますけれど、此無心このむしん笑顏ゑがほわたしをしへてれましたこと大層たいそうなは、のこりなくくちにはくされませぬ、學校がくかうみました書物しよもつ教師けうしからかしてれました樣々さま/″\ことは、それはたしかにわたしためにもなり、ことあるごとおもしてはあゝでつた、うでつたと一々いち/\かへりみられまするけれど、此子このこ笑顏ゑがほのやうに直接ぢかに、眼前まのあたり、かけあしとゞめたり、くるこゝろしづめたはありませぬ、此子このこなん小豆枕あづきまくらをして、兩手りやうてかたのそばへ投出なげだして寢入ねいつてとき其顏そのかほといふものは、大學者だいがくしやさまがつむりうへから大聲おほごゑ異見いけんをしてくださるとはちがふて、しんからそこからすほどのなみだがこぼれて、いかに強情がうじやうまんのわたしでも、子供こどもなんぞちつとも可愛かあいくはありませんと威張ゐばつたことはれませんかつた。

  • 田山花袋「少女病」海渡みなみ朗読

    50.88
    Oct 08, 2017

  • 林芙美子「あひびき」海渡みなみ朗読

    38.55 Jul 12, 2017

    火の氣がないので、私は鷄介と二人で寢床にはいつてゐた。朝から喋つてゐたので、寢床へはいると喋ることもなく、私は、あをむけになつて、眼の上に兩手をそろへて眺めてゐた。鷄介も兩の手を出した。私は鷄介の大きい掌に自分の手を合はせてみた。「冷い?」鷄介は默つて私の手を大きい掌で包みこむやうに握つた。朝から雨が降つてゐるので、私は落ちついてしまつた。何もする氣がしなかつた。草におく露のやうに、きらきらと光つてゐる男の心が無性に私の心をはずませた。二人はお互ひの指と指をからませあつて、のびのびと體をのばして天井を見てゐた。硝子窓に、横なぐりの雨が吹きつけてゐる。樋をつたふ雨のこぼつ、こぼつと、石穴にでも溢れてゐるやうな音がして、空は黄灰色に薄昏く、水氣がこもつてゐた。晴れた日は、窓の向うに富士山が見えると女中が云つてゐたけれども、昨夜、この宿へ着くなり雨で、富士山は見えなかつた。――戰爭の頃は、此宿は寮にでもなつてゐたらしく、荒れ放題に荒れた部屋の中で、疊も汚れ、蒲團も重い。二人出鱈目に甲府まで來てしまつた。そして、出鱈目に湯の宿を探して泊つた旅館だけれども、結局は二人にとつては、そんな、むさくるしい部屋も氣にはかゝらなかつた。――私は鷄介の子供を宿してゐた。私は珊瑚色の寢卷きを着てゐた。身幅を廣く縫つた寢卷きを着てゐるので、みごもつてゐる女のみにくさは案外めだたないでゐる。鷄介は思ひ出したやうに、時々、私のおなかに耳をあてて、胎内の子の息を聽いた。鷄介にはおくさんがあつた。私にも良人があつた。そして、戰爭は濟んでゐるのに、私たちの重たい環境は、この戰爭とは何のかゝはりもなく崩れてはゐなかつた。ただ何ヶ月か先には、私は、子供を産む支度をしなければならない。

  • 芥川龍之介「おしの」海渡みなみ朗読

    19.13 Jun 03, 2017

    ここは南蛮寺なんばんじの堂内である。ふだんならばまだ硝子画ガラスえの窓に日の光の当っている時分であろう。が、今日は梅雨曇つゆぐもりだけに、日の暮の暗さと変りはない。その中にただゴティック風の柱がぼんやり木のはだを光らせながら、高だかとレクトリウムを守っている。それからずっと堂の奥に常燈明じょうとうみょう油火あぶらびが一つ、がんの中にたたずんだ聖者の像を照らしている。参詣人はもう一人もいない。
    そう云う薄暗い堂内に紅毛人こうもうじん神父しんぷが一人、祈祷きとうの頭をれている。年は四十五六であろう。額のせまい、顴骨かんこつの突き出た、頬鬚ほおひげの深い男である。ゆかの上に引きずった着物は「あびと」ととなえる僧衣らしい。そう云えば「こんたつ」ととなえる念珠ねんじゅ手頸てくび一巻ひとまき巻いたのち、かすかに青珠あおたまを垂らしている。
    堂内は勿論ひっそりしている。神父はいつまでも身動きをしない。
    そこへ日本人の女が一人、静かに堂内へはいって来た。もんを染めた古帷子ふるかたびらに何か黒い帯をしめた、武家ぶけの女房らしい女である。これはまだ三十代であろう。が、ちょいと見たところは年よりはずっとふけて見える。第一妙に顔色が悪い。目のまわりも黒いかさをとっている。しかし大体だいたいの目鼻だちは美しいと言っても差支えない。いや、端正に過ぎる結果、むしろけんのあるくらいである。
    女はさも珍らしそうに聖水盤せいすいばんや祈祷机を見ながら、ず堂の奥へ歩み寄った。すると薄暗い聖壇の前に神父が一人ひざまずいている。女はやや驚いたように、ぴたりとそこへ足を止めた。が、相手の祈祷していることはただちにそれと察せられたらしい。女は神父を眺めたまま、黙然もくねんとそこにたたずんでいる

  • 永井荷風 「寐顔」海渡みなみ朗読

  • 林芙美子「幸福の彼方」海渡みなみ朗読

    幸福の彼方

    林芙美子

     一
    西陽の射してゐる洗濯屋の狭い二階で、絹子ははじめて信一に逢つた。
    十二月にはいつてから、珍らしく火鉢もいらないやうな暖かい日であつた。信一は始終ハンカチで額を拭いてゐた。
    絹子は時々そつと信一の表情を眺めてゐる。
    長らくの病院生活で、色は白かつたけれども少しもくつたくのないやうな顔をしてゐて、耳朶の豊かなひとであつた。顎が四角な感じだつたけれども、西陽を眩しさうにして、時々壁の方へ向ける信一の横顔が、絹子には何だか昔から知つてゐるひとででもあるかのやうに親しみのある表情だつた。
    信一はきちんと背広を着て窓のところへ坐つてゐた。仲人格の吉尾が、禿げた頭を振りながら不器用な手つきで寿司や茶を運んで来た。
    「絹子さん、寿司を一つ、信一さんにつけてあげて下さい」
    さう云つて、吉尾は用事でもあるのか、また階下へ降りて行つてしまつた。寿司の上をにぶい羽音をたてて大きい蝿が一匹飛んでゐる。絹子はそつとその蝿を追ひながら、素直に寿司皿のそばへにじり寄つて行つて小皿へ寿司をつけると、その皿をそつと信一の膝の上へのせた。信一は皿を両手に取つて赧くなつてゐる。絹子はまた割箸を割つてそれを黙つたまま信一の手へ握らせたのだけれども、信一はあわててその箸を押しいただいてゐた。
    ふつと触れあつた指の感触に、絹子は胸に焼けるやうな熱さを感じてゐた。
    信一を好きだと思つた。
    何がどうだと云ふやうな、きちんとした説明のしやうのない、みなぎるやうな強い愛情のこころが湧いて来た。
    信一は皿を膝に置いたまま黙つてゐる。
    硝子戸越しにビール会社の高い煙突が見えた。絹子は黙つてゐるのが苦しかつたので、小皿へ醤油を少しばかりついで、信一の持つてゐる寿司皿の寿司の一つ一つへ丁寧に醤油を塗つた。
    「いや、どうも有難う‥‥」
    醤油の香りで、一寸下を向いた信一はまた赧くなつてもじもじしてゐた。絹子は信一をいいひとだと思つてゐる。何かいい話をしなければならないと思つた。さうして心のなかには色々な事を考へるのだけれども、何を話してよいのか、少しも話題がまとまらない。
    信一は薄い色眼鏡をかけてゐたので、一寸眼の悪いひととは思へないほど元気さうだつた。絹子は一生懸命で、
    「村井さんは何がお好きですか?」
    と訊いてみた。
    「何ですか? 食べるものなら、僕は何でも食べます」
    「さうですか、でも、一番、お好きなものは何ですの?」
    「さア、一番好きなもの‥‥僕はうどんが好きだな‥‥」
    絹子は、
    「まア」
    と云つてくすくす笑つた。自分もうどんは大好きだつたし、二宮の家にゐた頃は、お嬢さまもうどんが好きで、絹子がほとんど毎日のやうにうどんを薄味で煮たものであつた。
    うどんと云はれて、急に御前崎の白い濤の音が耳もとへ近々ときこえてくるやうであつた。絹子と信一は同郷人で、信一は絹子とは七ツ違ひの二十八である。去年戦場から片眼をうしなつて戻つて来たのであつた

  • 芥川龍之介 「二人小町」海渡みなみ 田中智之朗読

    二人小町

    芥川龍之介

     一

    小野おの小町こまち几帳きちょうの陰に草紙そうしを読んでいる。そこへ突然黄泉よみ使つかいが現れる。黄泉の使は色の黒い若者。しかも耳はうさぎの耳である。
    小町 (驚きながら)誰です、あなたは?
    使 黄泉の使です。
    小町 黄泉の使! ではもうわたしは死ぬのですか? もうこの世にはいられないのですか? まあ、少し待って下さい。わたしはまだ二十一です。まだ美しい盛りなのです。どうか命は助けて下さい。
    使 いけません。わたしは一天万乗いってんばんじょうの君でも容赦ようしゃしない使なのです。
    小町 あなたはなさけを知らないのですか? わたしが今死んで御覧なさい。深草ふかくさ少将しょうしょうはどうするでしょう? わたしは少将と約束しました。天に在っては比翼ひよくの鳥、地に在っては連理れんりの枝、――ああ、あの約束を思うだけでも、わたしの胸は張りけるようです。少将はわたしの死んだことを聞けば、きっとなげじにに死んでしまうでしょう。
    使 (つまらなそうに)歎き死が出来れば仕合せです。とにかく一度は恋されたのですから、……しかしそんなことはどうでもよろしい。さあ地獄へおともしましょう。
    小町 いけません。いけません。あなたはまだ知らないのですか? わたしはただの体ではありません。もう少将のたねを宿しているのです。わたしが今死ぬとすれば、子供も、――可愛いわたしの子供も一しょに死ななければなりません。(泣きながら)あなたはそれでもいと云うのですか? やみから闇へ子供をやっても、かまわないと云うのですか?
    使 (ひるみながら)それはお子さんにはお気の毒です。しかし閻魔王えんまおうの命令ですから、どうか一しょに来て下さい。何、地獄も考えるほど、悪いところではありません。昔から名高い美人や才子はたいてい地獄へ行っています。
    小町 あなたはおにです。羅刹らせつです。わたしが死ねば少将も死にます。少将のたねの子供も死にます。三人ともみんな死んでしまいます。いえ、そればかりではありません。年とったわたしの父や母もきっと一しょに死んでしまいます。(一層泣き声を立てながら)わたしは黄泉よみの使でも、もう少し優しいと思っていました。
    使 (迷惑めいわくそうに)わたしはお助け申したいのですが、……
    小町 (生き返ったように顔を上げながら)ではどうか助けて下さい。五年でも十年でもかまいません。どうかわたしの寿命じゅみょうを延ばして下さい。たった五年、たった十年、――子供さえ成人すればいのです。それでもいけないと云うのですか?
    使 さあ、年限はかまわないのですが、――しかしあなたをつれて行かなければ代りが一人入るのです。あなたと同じ年頃の、……
    小町 (興奮こうふんしながら)では誰でもつれて行って下さい。わたしの召使めしつかいの女の中にも、同じ年の女は二三人います。阿漕あこぎでも小松こまつでもかまいません。あなたの気に入ったのをつれて行って下さい。
    使 いや、名前もあなたのように小町と云わなければいけないのです。
    小町 小町! 誰か小町と云う人はいなかったかしら。ああ、います。います。(発作的ほっさてきに笑い出しながら)玉造たまつくり小町こまちと云う人がいます。あの人を代りにつれて行って下さい。
    使 年もあなたと同じくらいですか?
    小町 ええ、ちょうど同じくらいです。ただ綺麗きれいではありませんが、――器量きりょうなどはどうでもかまわないのでしょう?
    使 (愛想あいそよく)悪い方がいのです。同情しずにすみますから。
    小町 (生き生きと)ではあの人に行って貰って下さい。あの人はこの世にいるよりも、地獄に住みたいと云っています。誰もう人がいないものですから。
    使 よろしい。その人をつれて行きましょう。ではお子さんを大事にして下さい。(得々とくとくと)黄泉の使もなさけだけは心得ているつもりなのです。
    使、突然また消え失せる。
    小町 ああ、やっと助かった! これも日頃信心する神や仏のおはからいであろう。(手を合せる)八百万やおよろずの神々、十方じっぽう諸菩薩しょぼさつ、どうかこのうそげませぬように。

  • 太宰治 「燈籠」海渡みなみ朗読

    燈籠

    太宰治

     言えば言うほど、人は私を信じてれません。逢うひと、逢うひと、みんな私を警戒いたします。ただ、なつかしく、顔を見たくて訪ねていっても、なにしに来たというような目つきでもって迎えて呉れます。たまらない思いでございます。
    もう、どこへも行きたくなくなりました。すぐちかくのお湯屋へ行くのにも、きっと日暮をえらんでまいります。誰にも顔を見られたくないのです。ま夏のじぶんには、それでも、夕闇ゆうやみの中に私のゆかたが白く浮んで、おそろしく目立つような気がして、死ぬるほど当惑いたしました。きのう、きょう、めっきり涼しくなって、そろそろセルの季節にはいりましたから、早速、黒地の単衣ひとえに着換えるつもりでございます。こんな身の上のままに秋も過ぎ、冬も過ぎ、春も過ぎ、またぞろ夏がやって来て、ふたたび白地のゆかたを着て歩かなければならないとしたなら、それは、あんまりのことでございます。せめて来年の夏までには、この朝顔の模様のゆかたをおくすることなく着て歩ける身分になっていたい、縁日の人ごみの中を薄化粧して歩いてみたい、そのときのよろこびを思うと、いまから、もう胸がときめきいたします。
    盗みをいたしました。それにちがいはございませぬ。いいことをしたとは思いませぬ。けれども、――いいえ、はじめから申しあげます。私は、神様にむかって申しあげるのだ、私は、人を頼らない、私の話を信じられる人は、信じるがいい。
    私は、まずしい下駄屋げたやの、それも一人娘でございます。ゆうべ、お台所にすわって、ねぎを切っていたら、うらの原っぱで、ねえちゃん! と泣きかけて呼ぶ子供の声があわれに聞えて来ましたが、私は、ふっと手を休めて考えました。私にも、あんなに慕って泣いて呼びかけて呉れる弟か妹があったならば、こんなわびしい身の上にならなくてよかったのかも知れない、と思われて、ねぎのにおいのみる眼に、熱い涙がいて出て、手の甲で涙をいたら、いっそうねぎの匂いに刺され、あとからあとから涙が出て来て、どうしていいかわからなくなってしまいました。
    あの、わがまま娘が、とうとう男狂いをはじめた、と髪結さんのところからうわさが立ちはじめたのは、ことしの葉桜のころで、なでしこの花や、あやめの花が縁日の夜店に出はじめて、けれども、あのころは、ほんとうに楽しゅうございました。水野さんは、日が暮れると、私を迎えに来て呉れて、私は、日の暮れぬさきから、もう、ちゃんと着物を着かえて、お化粧もすませ、何度も何度も、家の門口を出たりはいったりいたします。近所の人たちは、そのような私の姿を見つけて、それ、下駄屋のさき子の男狂いがはじまったなど、そっと指さしささやき交して笑っていたのが、あとになって私にもわかってまいりました。父も母も、うすうす感づいていたのでしょうが、それでも、なんにも言えないのです。私は、ことし二十四になりますけれども、それでもお嫁に行かず、おむこさんも取れずにいるのは、うちの貧しいゆえもございますが、母は、この町内での顔ききの地主さんのおめかけだったのを、私の父と話合ってしまって、地主さんの恩を忘れて父の家へけこんで来て間もなく私を産み落し、私の目鼻立ちが、地主さんにも、また私の父にも似ていないとやらで、いよいよ世間を狭くし、一時はほとんど日陰者あつかいを受けていたらしく、そんな家庭の娘ゆえ、縁遠いのもあたりまえでございましょう。もっとも、こんな器量では、お金持の華族さんの家に生れてみても、やっぱり、縁遠いさだめなのかも知れませぬけれど。それでも、私は、私の父をうらんでいません。母をもうらんでりませぬ。私は、父の実の子です。誰がなんと言おうと、私は、それを信じて居ります。父も母も、私を大事にして呉れます。私もずいぶん両親を、いたわります。父も母も、弱い人です。実の子の私にさえ、何かと遠慮をいたします。弱いおどおどした人を、みんなでやさしく、いたわらなければならないと存じます。私は、両親のためには、どんな苦しいさびしいことにでも、堪え忍んでゆこうと思っていました。けれども、水野さんと知り合いになってからは、やっぱり、すこし親孝行を怠ってしまいました。
    申すも恥かしいことでございます。水野さんは、私より五つも年下の商業学校の生徒なのです。けれども、おゆるし下さい。私には、ほかに仕様がなかったのです。水野さんとは、ことしの春、私が左の眼をわずらって、ちかくの眼医者へ通って、その病院の待合室で、知り合いになったのでございます。私は、ひとめで人を好きになってしまうたちの女でございます。やはり私と同じように左の眼に白い眼帯がんたいをかけ、不快げにまゆをひそめて小さい辞書のペエジをあちこち繰ってしらべて居られる御様子は、たいへんお可哀かわいそうに見えました。私もまた、眼帯のために、うつうつ気がうっして、待合室の窓からそとのしいの若葉をながめてみても、椎の若葉がひどい陽炎かげろうに包まれてめらめら青く燃えあがっているように見え、外界のものがすべて、遠いお伽噺とぎばなしの国の中に在るように思われ、水野さんのお顔が、あんなにこの世のものならず美しく貴く感じられたのも、きっと、あの、私の眼帯の魔法が手伝っていたと存じます。
    青空文庫より