中島敦
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中島敦「鏡花氏の文章」西村俊彦朗読
13.97 Jul 23, 2017
鏡花氏の文章
中島敦
日本には花の名所があるように、日本の文学にも情緒の名所がある。泉鏡花氏の芸術が即ちそれだ。と誰かが言って居たのを私は覚えている。併し、今時の女学生諸君の中に、鏡花の作品なぞを読んでいる人は殆んどないであろうと思われる。又、もし、そんな人がいた所で、そういう人はきっと今更鏡花でもあるまいと言うに違いない。にもかかわらず、私がここで大威張りで言いたいのは、日本人に生れながら、あるいは日本語を解しながら、鏡花の作品を読まないのは、折角の日本人たる特権を抛棄しているようなものだ。ということである。しかも志賀直哉氏のような作家は之を知らないことが不幸であると同様に、之を知ることも(少くとも文学を志すものにとっては)不幸であると(いささか逆説的ではあるが)言えるのだが、鏡花氏の場合は之と異る。鏡花氏の作品については之を知らないことは不幸であり、之を知ることは幸である。とはっきり言い切れるのである。ここに、氏の作品の近代的小説でない所以があり、又それが永遠に新しい魅力を有つ所以もある。
鏡花氏こそは、まことに言葉の魔術師。感情装飾の幻術者。「芥子粒を林檎のごとく見すという欺罔の器」と「波羅葦僧の空をも覗く、伸び縮む奇なる眼鏡」とを持った奇怪な妖術師である。氏の芸術は一箇の麻酔剤であり、阿片であるともいえよう。
事実、氏の芸術境は、日本文学中にあって特異なものであるばかりでなく、又世界文学中に於てもユニイクなものと言えるであろう。その神秘性に於て、ポオ(彼の科学性は全くなしとするも)にまさり、その縹渺たる情趣に於てはるかにホフマンを凌ぐものがあると考えるのは単なる私の思いすごしであろうか。空想的なるものの中の、最も空想的なもの、浪漫的なるものの中の、最も浪漫的なもの、情緒的(勿論日本的な)ものの中で、最も情緒的なもの、――それらが相寄り相集って、ここに幽艶・怪奇を極めた鏡花世界なるものを造り出す。其処では醜悪な現実はすべて、氏の奔放な空想の前に姿をひそめて、ただ、氏一箇の審美眼、もしくは正義観に照らされて、「美」あるいは「正」と思われるもののみが縦横に活躍する。そこに登場する女は、下女の末といえども、悉く、色が抜けるように白くなければならぬ。それは、全く、今の私達の眼から見て、時代錯誤に近い世界――髭の生えた官員様がえらかったり、色々な肩書が法外にものをいったりする世界――なのであるが、そういう時代錯誤的な観念さえもが(更に、氏の作品の構想の幼稚な不自然ささえも)ここでは「鏡花的な美」の不可欠の要素となっているのは不思議なことである。蝙蝠(湯女の魂)・蝦蟇・河童(飛剣幻なり)・蛭・猿(高野聖)等のかもし出す怪奇と、狭斜の巷に意気と張りとで生きて行く女性(婦系図のお蔦等・通夜物語の丁山・その他)純情の少女(婦系図のお妙・三枚続のお夏以下)勇み肌の兄哥(三枚続の愛吉)等のつくり出す情調と――この二つが、まぜあわされて、ここに、鏡花好みに統一された極楽浄土ともいうべき別乾坤ができ上るのである。読者は、それが、つくりもの――つくりものもつくりもの、大変なつくりものなのだが――であることを、はじめは知っていながら、つい、うかうかと引ずりこまれて、いつの間にか、作者の夢と現実との境が分らなくなって了う。ここに氏の作品と、漱石の初期の作品――倫敦塔・幻影の盾・虞美人草等――との相違がある。これらの漱石の作品を読みながら読者は最後まで、それがつくりものであることを忘れないでいることができる。それが、鏡花氏の作品だと、読者は何時の間にか作者の夢の中にまきこまれていて、巻を終って、はじめてほっと息をついて、それが現実ではなかったことに気付くのである。思うにこれは、この二人の作家の才能の差ではなくして、その自らの夢に対する情熱の相違のしからしむるところであろう。
所で、一体、阿片の快楽に慣れるためには、はじめ一方ならぬ不快と苦痛とを忍ばねばならぬという。しかも、一度それに慣れて了うと、今度は瞬時も離れられないほど、その愉楽にしばられて了うのであるという。丁度これと同様なことが鏡花氏の芸術についてもいえると私は考える。鏡花世界なる秘境に到達するためには先ず、その「表現の晦渋」という難関を突破しなければならない。これを通過しなければ、鏡花世界なる別乾坤は、ついに、覗くことができないのである。実際、氏の表現は奇峭であり、晦渋である。『凧刻んで夜の壁に描き得た我が霊妙なる壁画を瞬く間に擾して、越後獅子の譜の影は蠅になって舞踏する。蚯蚓も輪に刎ね蚰蜒は反って踊る。』(隣の糸)なぞという文章にあっては、全くはじめての人は面喰うであろう。この表現の奇矯という点に於て、氏はまた後の大正時代になって現われた新感覚派なるものと一脈相通ずる所がある。大体、新感覚派といっても、その狙う所は「外界の刺戟を感受する方法の新しさ」というよりは、むしろ、「その感覚の表現法の新しさ」にあるように思われる。単に感覚の清新という点から見れば、文学史を遥かに遡って、「削り氷にあまづら入れて、新しき鋺に入れたる。水晶の数珠・藤の花・梅の花に雪の降りかゝりたる。いみじう美しき稚児の覆盆子など喰ひたる。」を「あてなる物」と見た枕草子の作者なぞも、立派な新感覚派だと思う。雑誌「文芸時代」に拠った新感覚派は、むしろ奇矯なる表現のみを重視していた。事実的には、表現法に努力することによって、逆に、そのもととなるべき感覚の尖鋭化への修練が積まれて行ったようである。
「雄蘂の弓が新月のように青空へ矢を放った。」……「春景色」(川端康成)
「栗毛の馬の平原は狂人をのせてうねりながら、黒い地平線をつくって、潮のように没落へと溢れて行った。」……「ナポレオンと田虫」(横光利一)
鏡花氏も、単に、その感覚の新鮮と表現の斬新とから見るならば、決して、之等の新感覚派の人々に劣らないのである。
『時雨に真蒼なのは蒼鬣魚の鰭である。形は小さいが、三十枚ばかりずつ幾山にも並べた、あの暗灰色の菱形の魚を三角形に積んで、下積になったのは軒下の石に藍を流して、上の方は浜の砂をざらざらとそのままだから、海の底のピラミッドを影で覗く鮮しさがある。』(卵塔場の天女)
『汽車はもう遠くの方で、名物焼蛤の白い煙を夢のように月下に吐いて、真蒼な野路を光って通る。』(歌行燈)なぞ、以下例を挙げれば限りもないが、決して新感覚派の人達に比して遜色ないと思われる。但し、横光氏等の当時の作品には、鏡花氏には見られない、作品全体の(もしくは、その中の一つの情景の)構成それ自らの中の新しさというものがあった。
『父が突然死んで了った。私は海峡を渡るとバナナを四日間たべつづけて、まだ知らぬ街まで出かけて行った。母は、とある街角の三角形の奇怪な硝子張りの家の中で、ひとり、机のようにぼんやりと坐っていた。』「青い大尉」(横光利一)
これは作者の現実を見る眼の相違からくるものであって、文学史的に考えて見て、表現派の洗礼を受けた新感覚派に之が見られ、表現派以前である鏡花氏に之が見られないのは当然のことである。
併しながら、その新感覚派の作家達がわずか数年にして、その奇矯なる表現法を捨てて了った(あるいは、それを使いこなす力がなくなって了った。)に対して、鏡花氏は実に三十年一日の如く、その独自の表現法を固守して益々その精彩を加えてきているのである。これは、新感覚派の諸作家の表現法が、単なる一時の雷同ひょっとした思いつき、に止っていたのに反して(横光氏などの場合は、そうとばかりも言いきれないが)鏡花氏のそれが、何よりも、氏自身の中から生れた、身についた表現法であることの証拠であろう、と私は思う。実にかくの如く突兀・奇峭にして、又絢爛を極めた言葉の豪奢な織物でなくては、とても、氏の内なる美しい幻想を――奇怪な心象風景を――写し出すことは出来ないのである。氏の文章は、だから、他人の眼には如何に奇怪にうつろうとも、氏自らにとっては、他の何物をもっても之にかえることのできない、唯一無二の表現術なのである。かかる作者自身の感情や感覚の裏打ちがあればこそ、氏の文章は、かくも人をひきつけるのである。単なる、きまぐれや思いつきだけであったなら、三十年の長い年月の間に必ずや、化の皮を現わしたことに違いないと、私は考えるのである。 -
中島敦「十年」西村俊彦朗読
5.22 Jul 14, 2017
十年前、十六歳の少年の僕は学校の裏山に寝ころがって空を流れる雲を見上げながら、「さて将来何になったものだろう。」などと考えたものです。大文豪、結構。大金持、それもいい。総理大臣、一寸わるくないな。全くこの中のどれにでも直ぐになれそうな気でいたんだから大したものです。所でこれらの予想の外に、その頃の僕にはもう一つ、極めて楽しい心秘かなのぞみがありました。それは「仏蘭西へ行きたい。」ということなのです。別に何をしに、というんでもない、ただ遊びに行きたかったのです。何故特別に仏蘭西を択んだかといえば、恐らくそれはこの仏蘭西という言葉の響きが、今でもこの国の若い人々の上にもっている魅力のせいでもあったでしょうが、又同時に、その頃、私の読んでいた永井荷風の「ふらんす物語」と、これは生田春月だか上田敏だかの訳の「ヴェルレエヌ」の影響でもあったようです。顔中到る所に吹出した面皰をつぶしながら、分ったような顔をして、ヴェルレエヌの邦訳などを読んでいたんですから、全く今から考えてもさぞ鼻持のならない、「いやみ」な少年だったでしょうが、でもその頃は大真面目で「巷に雨の降る如く我の心に涙」を降らせていたわけです。そういうわけで、僕は仏蘭西へ――わけても、この「よひどれ」の詩人が、そこの酒場でアプサンを呷り、そこのマロニエの並木の下を蹣跚とよろめいて行った、あのパリへ行きたいと思ったのです。シャンゼリゼエ、ボア・ド・ブウロンニュ、モンマルトル、カルチェ・ラタン、……学校の裏山に寝ころんで空を流れる雲を見上げながら幾度僕はそれらの上に思いを馳せたことでしょう。
さて、それから春風秋雨、ここに十年の月日が流れました。かつて抱いた希望の数々は顔の面皰と共に消え、昔は遠く名のみ聞いていたムウラン・ルウジュと同名の劇団が東京に出現した今日、横浜は南京町のアパアトでひとり佗しく、くすぶっている僕ですが、それでも、たまに港の方から流れてくる出帆の汽笛の音を聞く時などは、さすがに、その昔の、夢のような空想を思出して、懐旧の情に堪えないようなこともあるのです。そういう時、机の上に拡げてある書物には意地悪くも、こんな文句が出ていたりする。ふらんすへ行きたしと思へど
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広を着て
気ままなる旅にいでてみん……「ははあ、この詩人も御多分に洩れず、あまり金持でないと見えるな。」と、そう思いながら僕も滅入った気持を引立てようとこの詩人に倣って、(仏蘭西へ行けない腹癒せに、)せめては新しき背広なりと着て、――いや冗談じゃない、そんな贅沢ができるものか。せめては新しき帽子――いや、それでもまだ贅沢すぎる。ええ、せめては新しきネクタイ位で我慢しておいて、さて、財布の底を一度ほじくりかえして見てから、散歩にと出掛けて行くのです。丁度、十年前憶えたヴェルレエヌの句そのまま、「秋の日のヴィヲロンの、溜息の身にしみて、ひたぶるにうらがなしい」気持に充されながら。
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中島敦「悟浄出世」西村俊彦朗読
73.30 Jul 03, 2017
寒蝉敗柳に鳴き大火西に向かいて流るる秋のはじめになりければ心細くも三蔵は二人の弟子にいざなわれ嶮難を凌ぎ道を急ぎたもうに、たちまち前面に一条の大河あり。大波湧返りて河の広さそのいくばくという限りを知らず。岸に上りて望み見るときかたわらに一つの石碑あり。上に流沙河の三字を篆字にて彫付け、表に四行の小楷字あり。
八百流沙界
三千弱水深
鵞毛飄不起
蘆花定底沈――西遊記――そのころ流沙河の河底に栖んでおった妖怪の総数およそ一万三千、なかで、渠ばかり心弱きはなかった。渠に言わせると、自分は今までに九人の僧侶を啖った罰で、それら九人の骸顱が自分の頸の周囲について離れないのだそうだが、他の妖怪らには誰にもそんな骸顱は見えなかった。「見えない。それは
の気の迷いだ」と言うと、渠は信じがたげな眼で、一同を見返し、さて、それから、なぜ自分はこうみんなと違うんだろうといったふうな悲しげな表情に沈むのである。他の妖怪らは互いに言合うた。「渠は、僧侶どころか、ろくに人間さえ咋ったことはないだろう。誰もそれを見た者がないのだから。鮒やざこを取って喰っているのなら見たこともあるが」と。また彼らは渠に綽名して、独言悟浄と呼んだ。渠が常に、自己に不安を感じ、身を切刻む後悔に苛まれ、心の中で反芻されるその哀しい自己苛責が、つい独り言となって洩れるがゆえである。遠方から見ると小さな泡が渠の口から出ているにすぎないようなときでも、実は彼が微かな声で呟いているのである。「俺はばかだ」とか、「どうして俺はこうなんだろう」とか、「もうだめだ。俺は」とか、ときとして「俺は堕天使だ」とか。
当時は、妖怪に限らず、あらゆる生きものはすべて何かの生まれかわりと信じられておった。悟浄がかつて天上界で霊霄殿の捲簾大将を勤めておったとは、この河底で誰言わぬ者もない。それゆえすこぶる懐疑的な悟浄自身も、ついにはそれを信じておるふりをせねばならなんだ。が、実をいえば、すべての妖怪の中で渠一人はひそかに、生まれかわりの説に疑いをもっておった。天上界で五百年前に捲簾大将をしておった者が今の俺になったのだとして、さて、その昔の捲簾大将と今のこの俺とが同じものだといっていいのだろうか? 第一、俺は昔の天上界のことを何一つ記憶してはおらぬ。その記憶以前の捲簾大将と俺と、どこが同じなのだ。身体が同じなのだろうか? それとも魂が、だろうか? ところで、いったい、魂とはなんだ? こうした疑問を渠が洩らすと、妖怪どもは「また、始まった」といって嗤うのである。あるものは嘲弄するように、あるものは憐愍の面持ちをもって「病気なんだよ。悪い病気のせいなんだよ」と言うた。 -
中島敦「盈虚」西村俊彦朗読
盈虚
中島敦
衛の霊公の三十九年と云う年の秋に、太子が父の命を受けて斉に使したことがある。途に宋の国を過ぎた時、畑に耕す農夫共が妙な唄を歌うのを聞いた。
既定爾婁豬
盍帰吾艾牝豚はたしかに遣った故
早く牡豚を返すべし衛の太子は之を聞くと顔色を変えた。思い当ることがあったのである。
父・霊公の夫人(といっても太子の母ではない)南子は宋の国から来ている。容色よりも寧ろ其の才気で以てすっかり霊公をまるめ込んでいるのだが、此の夫人が最近霊公に勧め、宋から公子朝という者を呼んで衛の大夫に任じさせた。宋朝は有名な美男である。衛に嫁ぐ以前の南子と醜関係があったことは、霊公以外の誰一人として知らぬ者は無い。二人の関係は今衛の公宮で再び殆どおおっぴらに続けられている。宋の野人の歌うた牝豚牡豚とは、疑いもなく、南子と宋朝とを指しているのである。
太子は斉から帰ると、側臣の戯陽速を呼んで事を謀った。翌日、太子が南子夫人に挨拶に出た時、戯陽速は既に匕首を呑んで室の一隅の幕の陰に隠れていた。さりげなく話をしながら太子は幕の陰に目くばせをする。急に臆したものか、刺客は出て来ない。三度合図をしても、ただ黒い幕がごそごそ揺れるばかりである。太子の妙なそぶりに夫人は気が付いた。太子の視線を辿り、室の一隅に怪しい者の潜んでいるを知ると、夫人は悲鳴を挙げて奥へ跳び込んだ。其の声に驚いて霊公が出て来る。夫人の手を執って落着けようとするが、夫人は唯狂気のように「太子が妾を殺します。太子が妾を殺します」と繰返すばかりである。霊公は兵を召して太子を討たせようとする。其の時分には太子も刺客も疾うに都を遠く逃げ出していた。
宋に奔り、続いて晋に逃れた太子は、人毎に語って言った。淫婦刺殺という折角の義挙も臆病な莫迦者の裏切によって失敗したと。之も矢張衛から出奔した戯陽速が此の言葉を伝え聞いて、斯う酬いた。とんでもない。こちらの方こそ、すんでの事に太子に裏切られる所だったのだ。太子は私を脅して、自分の義母を殺させようとした。承知しなければ屹度私が殺されたに違いないし、もし夫人を巧く殺せたら、今度は必ず其の罪をなすりつけられるに決っている。私が太子の言を承諾して、しかも実行しなかったのは、深謀遠慮の結果なのだと。
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西村俊彦朗読「名人伝」中島敦
名人伝
中島敦
趙の邯鄲の都に住む紀昌という男が、天下第一の弓の名人になろうと志を立てた。己の師と頼むべき人物を物色するに、当今弓矢をとっては、名手・飛衛に及ぶ者があろうとは思われぬ。百歩を隔てて柳葉を射るに百発百中するという達人だそうである。紀昌は遥々飛衛をたずねてその門に入った。
飛衛は新入の門人に、まず瞬きせざることを学べと命じた。紀昌は家に帰り、妻の機織台の下に潜り込んで、そこに仰向けにひっくり返った。眼とすれすれに機躡が忙しく上下往来するのをじっと瞬かずに見詰めていようという工夫である。理由を知らない妻は大いに驚いた。第一、妙な姿勢を妙な角度から良人に覗かれては困るという。厭がる妻を紀昌は叱りつけて、無理に機を織り続けさせた。来る日も来る日も彼はこの可笑しな恰好で、瞬きせざる修練を重ねる。二年の後には、遽だしく往返する牽挺が睫毛を掠めても、絶えて瞬くことがなくなった。彼はようやく機の下から匍出す。もはや、鋭利な錐の先をもって瞼を突かれても、まばたきをせぬまでになっていた。不意に火の粉が目に飛入ろうとも、目の前に突然灰神楽が立とうとも、彼は決して目をパチつかせない。彼の瞼はもはやそれを閉じるべき筋肉の使用法を忘れ果て、夜、熟睡している時でも、紀昌の目はカッと大きく見開かれたままである。ついに、彼の目の睫毛と睫毛との間に小さな一匹の蜘蛛が巣をかけるに及んで、彼はようやく自信を得て、師の飛衛にこれを告げた。
それを聞いて飛衛がいう。瞬かざるのみではまだ射を授けるに足りぬ。次には、視ることを学べ。視ることに熟して、さて、小を視ること大のごとく、微を見ること著のごとくなったならば、来って我に告げるがよいと。
紀昌は再び家に戻り、肌着の縫目から虱を一匹探し出して、これを己が髪の毛をもって繋いだ。そうして、それを南向きの窓に懸け、終日睨み暮らすことにした。毎日毎日彼は窓にぶら下った虱を見詰める。初め、もちろんそれは一匹の虱に過ぎない。二三日たっても、依然として虱である。ところが、十日余り過ぎると、気のせいか、どうやらそれがほんの少しながら大きく見えて来たように思われる。三月目の終りには、明らかに蚕ほどの大きさに見えて来た。虱を吊るした窓の外の風物は、次第に移り変る。煕々として照っていた春の陽はいつか烈しい夏の光に変り、澄んだ秋空を高く雁が渡って行ったかと思うと、はや、寒々とした灰色の空から霙が落ちかかる。紀昌は根気よく、毛髪の先にぶら下った有吻類・催痒性の小節足動物を見続けた。その虱も何十匹となく取換えられて行く中に、早くも三年の月日が流れた。ある日ふと気が付くと、窓の虱が馬のような大きさに見えていた。占めたと、紀昌は膝を打ち、表へ出る。彼は我が目を疑った。人は高塔であった。馬は山であった。豚は丘のごとく、は城楼と見える。雀躍して家にとって返した紀昌は、再び窓際の虱に立向い、燕角の弧に朔蓬の
をつがえてこれを射れば、矢は見事に虱の心の臓を貫いて、しかも虱を繋いだ毛さえ断れぬ。
紀昌は早速師の許に赴いてこれを報ずる。飛衛は高蹈して胸を打ち、初めて「出かしたぞ」と褒めた。そうして、直ちに射術の奥儀秘伝を剰すところなく紀昌に授け始めた。
目の基礎訓練に五年もかけた甲斐があって紀昌の腕前の上達は、驚くほど速い。
奥儀伝授が始まってから十日の後、試みに紀昌が百歩を隔てて柳葉を射るに、既に百発百中である。二十日の後、いっぱいに水を湛えた盃を右肱の上に載せて剛弓を引くに、狙いに狂いの無いのはもとより、杯中の水も微動だにしない。一月の後、百本の矢をもって速射を試みたところ、第一矢が的に中れば、続いて飛来った第二矢は誤たず第一矢の括に中って突き刺さり、更に間髪を入れず第三矢の鏃が第二矢の括にガッシと喰い込む。矢矢相属し、発発相及んで、後矢の鏃は必ず前矢の括に喰入るが故に、絶えて地に墜ちることがない。瞬く中に、百本の矢は一本のごとくに相連なり、的から一直線に続いたその最後の括はなお弦を銜むがごとくに見える。傍で見ていた師の飛衛も思わず「善し!」と言った。
二月の後、たまたま家に帰って妻といさかいをした紀昌がこれを威そうとて烏号の弓に衛の矢をつがえきりりと引絞って妻の目を射た。矢は妻の睫毛三本を射切ってかなたへ飛び去ったが、射られた本人は一向に気づかず、まばたきもしないで亭主を罵り続けた。けだし、彼の至芸による矢の速度と狙いの精妙さとは、実にこの域にまで達していたのである。
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西村俊彦朗読悟浄歎異―沙門悟浄の手記―中島敦
昼餉ののち、師父が道ばたの松の樹の下でしばらく憩うておられる間、悟空は八戒を近くの原っぱに連出して、変身の術の練習をさせていた。
「やってみろ!」と悟空が言う。「竜になりたいとほんとうに思うんだ。いいか。ほんとうにだぜ。この上なしの、突きつめた気持で、そう思うんだ。ほかの雑念はみんな棄ててだよ。いいか。本気にだぜ。この上なしの・とことんの・本気にだぜ。」
「よし!」と八戒は眼を閉じ、印を結んだ。八戒の姿が消え、五尺ばかりの青大将が現われた。そばで見ていた俺は思わず吹出してしまった。
「ばか! 青大将にしかなれないのか!」と悟空が叱った。青大将が消えて八戒が現われた。「だめだよ、俺は。まったくどうしてかな?」と八戒は面目なげに鼻を鳴らした。
「だめだめ。てんで気持が凝らないんじゃないか、お前は。もう一度やってみろ。いいか。真剣に、かけ値なしの真剣になって、竜になりたい竜になりたいと思うんだ。竜になりたいという気持だけになって、お前というものが消えてしまえばいいんだ。」
よし、もう一度と八戒は印を結ぶ。今度は前と違って奇怪なものが現われた。錦蛇には違いないが、小さな前肢が生えていて、大蜥蜴のようでもある。しかし、腹部は八戒自身に似てブヨブヨ膨れており、短い前肢で二、三歩匍うと、なんとも言えない無恰好さであった。俺はまたゲラゲラ笑えてきた。
「もういい。もういい。止めろ!」と悟空が怒鳴る。頭を掻き掻き八戒が現われる。悟空。お前の竜になりたいという気持が、まだまだ突きつめていないからだ。だからだめなんだ。八戒。そんなことはない。これほど一生懸命に、竜になりたい竜になりたいと思いつめているんだぜ。こんなに強く、こんなにひたむきに。悟空。お前にそれができないということが、つまり、お前の気持の統一がまだ成っていないということになるんだ。八戒。そりゃひどいよ。それは結果論じゃないか。悟空。なるほどね。結果からだけ見て原因を批判することは、けっして最上のやり方じゃないさ。しかし、この世では、どうやらそれがいちばん実際的に確かな方法のようだぜ。今のお前の場合なんか、明らかにそうだからな。西村俊彦朗読「山月記」中島敦
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夾竹桃の家の女
中島敦
午後。風がすつかり呼吸を停めた。
薄く空一面を蔽うた雲の下で、空気は水分に飽和して重く淀んでゐる。暑い。全く、どう逃れようもなく暑い。
蒸風呂にはひり過ぎた様なけだるさに、一歩一歩重い足を引摺るやうにして、私は歩いて行く。足が重いのは、一週間ばかり寝付いたデング熱がまだ治り切らないせゐでもある。疲れる。呼吸が詰まるやうだ。
眩暈を感じて足をとゞめる。道傍のウカル樹の幹に手を突いて身体を支へ、目を閉ぢた。デングの四十度の熱に浮かされた時の・数日前の幻覚が、再び瞼の裏に現れさうな気がする。其の時と同じ様に、目を閉ぢた闇の中を眩い光を放つ灼熱の白金の渦巻がぐるぐると廻り出す。いけない! と思つて直ぐに目を開く。
ウカル樹の細かい葉一つそよがない。肩甲骨の下の所に汗が湧き、それが一つの玉となつて背中をツーツと伝はつて行くのがはつきり判る。何といふ静けさだらう! 村中眠つてゐるのだらうか。人も豚も鶏も蜥蜴も、海も樹々も、咳き一つしない。
少し疲れが休まると、又歩き出す。パラオ特有の滑らかな敷石路である。今日のやうな日では、島民達のやうに跣足で此の石の上を歩いて見ても、大して冷たくはなささうだ。五六十歩下りて、巨人の頬髯のやうに攀援類の纏ひついた鬱蒼たる大榕樹の下迄来た時、始めて私は物音を聞いた。ピチヤ/\と水を撥ね返す音である。洗身場だなと思つて傍を見ると、敷石路から少し下へ外れる小径がついてゐる。巨大な芋葉と羊歯とを透かしてチラと裸体の影を見たやうに思つた時、鋭い嬌声が響いた。つづいて、水を撥ね返して逃出す音が、忍び笑ひの声と交つて聞え、それが静まると、又元の静寂に返つた。疲れてゐるので、午後の水浴をしてゐる娘共にからかふ気も起らない。又、緩やかな石の坂道を下り続ける。
夾竹桃が紅い花を簇らせてゐる家の前まで来た時、私の疲れ(といふか、だるさといふか)は堪へ難いものになつて来た。私は其の島民の家に休ませて貰はうと思つた。家の前に一尺余りの高さに築いた六畳敷ほどの大石畳がある。それが此の家の先祖代々の墓なのだが、其の横を通つて、薄暗い家の中を覗き込むと、誰もゐない。太い丸竹を並べた床の上に、白い猫が一匹ねそべつてゐるだけである。猫は眼をさまして此方を見たが、一寸咎めるやうに鼻の上を顰めたきりで、又目を細くして寝て了つた。島民の家故、別に遠慮することもないので、勝手に上り端に腰掛けて休むことにした。
煙草に火をつけながら、家の前の大きな平たい墓と、その周囲に立つ六七本の檳榔の細い高い幹を眺める。パラオ人は――パラオ人ばかりではない。ポナペ人を除いた凡てのカロリン群島人は――檳榔の実を石灰に和して常に噛み嗜むので、家の前には必ず数本の此の樹を植ゑることにしてゐる。椰子よりも遥かに細くすらりとした檳榔の木立が矗として立つてゐる姿は仲々に風情がある。檳榔と並んで、ずつと丈の低い夾竹桃が三四本、一杯に花をつけてゐる。墓の石畳の上にも点々と桃色の花が落ちてゐた。何処からか強い甘い匂の漂つて来るのは、多分この裏にでも印度素馨が植わつてゐるのだらう。其の匂は今日のやうな日には却つて頭を痛くさせる位に強烈である。
風は依然として無い。空気が濃く重くドロリと液体化して、生温い糊のやうにねば/\と皮膚にまとひつく。生温い糊のやうなものは頭にも浸透して来て、そこに灰色の靄をかける。関節の一つ一つがほごれた様にだるい。青空文庫より