駒形美英

  • 『西行双面』文・倉沢はすみ 朗読駒形美英

    29.85
    May 24, 2018

    コンペイトウ文庫☆https://konpeito12.exblog.jp/

  • 宮沢賢治「めくらぶどうと虹」駒形美英朗読

    9.08
    Apr 25, 2018

    めくらぶどうと虹(にじ)

    宮沢賢治

    城(しろ)あとのおおばこの実(み)は結(むす)び、赤つめ草の花は枯(か)れて焦茶色(こげちゃいろ)になり、畑(はたけ)の粟(あわ)は刈(か)られました。
    「刈(か)られたぞ」と言(い)いながら一ぺんちょっと顔(かお)を出した野鼠(のねずみ)がまた急(いそ)いで穴(あな)へひっこみました。
    崖(がけ)やほりには、まばゆい銀(ぎん)のすすきの穂(ほ)が、いちめん風に波立(なみだ)っています。
    その城(しろ)あとのまん中に、小さな四(し)っ角山(かくやま)があって、上のやぶには、めくらぶどうの実(み)が虹(にじ)のように熟(う)れていました。
    さて、かすかなかすかな日照(ひで)り雨が降(ふ)りましたので、草はきらきら光り、向(む)こうの山は暗(くら)くなりました。
    そのかすかなかすかな日照(ひで)り雨が霽(は)れましたので、草はきらきら光り、向(む)こうの山は明るくなって、たいへんまぶしそうに笑(わら)っています。
    そっちの方から、もずが、まるで音譜(おんぷ)をばらばらにしてふりまいたように飛(と)んで来て、みんな一度(いちど)に、銀(ぎん)のすすきの穂(ほ)にとまりました。
    めくらぶどうは感激(かんげき)して、すきとおった深(ふか)い息(いき)をつき、葉(は)から雫(しずく)をぽたぽたこぼしました。
    東の灰色(はいいろ)の山脈(さんみゃく)の上を、つめたい風がふっと通って、大きな虹(にじ)が、明るい夢(ゆめ)の橋(はし)のようにやさしく空にあらわれました。
    そこでめくらぶどうの青じろい樹液(じゅえき)は、はげしくはげしく波(なみ)うちました。
    そうです。今日(きょう)こそただの一言(ひとこと)でも、虹(にじ)とことばをかわしたい、丘(おか)の上の小さなめくらぶどうの木が、よるのそらに燃(も)える青いほのおよりも、もっと強い、もっとかなしいおもいを、はるかの美(うつく)しい虹(にじ)にささげると、ただこれだけを伝(つた)えたい、ああ、それからならば、それからならば、実(み)や葉(は)が風にちぎられて、あの明るいつめたいまっ白の冬の眠(ねむ)りにはいっても、あるいはそのまま枯(か)れてしまってもいいのでした。
    「虹(にじ)さん。どうか、ちょっとこっちを見てください」めくらぶどうは、ふだんの透(す)きとおる声もどこかへ行って、しわがれた声を風に半分(はんぶん)とられながら叫(さけ)びました。
    やさしい虹(にじ)は、うっとり西の碧(あお)いそらをながめていた大きな碧(あお)い瞳(ひとみ)を、めくらぶどうに向(む)けました。
    「何かご用でいらっしゃいますか。あなたはめくらぶどうさんでしょう」
    めくらぶどうは、まるでぶなの木の葉(は)のようにプリプリふるえて輝(かがや)いて、いきがせわしくて思うように物(もの)が言(い)えませんでした。
    「どうか私のうやまいを受(う)けとってください」
    虹(にじ)は大きくといきをつきましたので、黄や菫(すみれ)は一つずつ声をあげるように輝(かがや)きました。そして言(い)いました。
    「うやまいを受(う)けることは、あなたもおなじです。なぜそんなに陰気(いんき)な顔をなさるのですか」
    「私はもう死(し)んでもいいのです」
    「どうしてそんなことを、おっしゃるのです。あなたはまだお若(わか)いではありませんか。それに雪が降(ふ)るまでには、まだ二か月あるではありませんか」
    「いいえ。私の命(いのち)なんか、なんでもないんです。あなたが、もし、もっと立派(りっぱ)におなりになるためなら、私なんか、百ぺんでも死(し)にます」
    「あら、あなたこそそんなにお立派(りっぱ)ではありませんか。あなたは、たとえば、消(き)えることのない虹(にじ)です。変(か)わらない私です。私などはそれはまことにたよりないのです。ほんの十分か十五分のいのちです。ただ三秒(びょう)のときさえあります。ところがあなたにかがやく七色はいつまでも変(か)わりません」
    「いいえ、変(か)わります。変(か)わります。私の実(み)の光なんか、もうすぐ風に持(も)って行かれます。雪(ゆき)にうずまって白くなってしまいます。枯(か)れ草(くさ)の中で腐(くさ)ってしまいます」
    虹(にじ)は思わず微笑(わら)いました。
    「ええ、そうです。本とうはどんなものでも変(か)わらないものはないのです。ごらんなさい。向(む)こうのそらはまっさおでしょう。まるでいい孔雀石(くじゃくせき)のようです。けれどもまもなくお日さまがあすこをお通りになって、山へおはいりになりますと、あすこは月見草(つきみそう)の花びらのようになります。それもまもなくしぼんで、やがてたそがれ前の銀色(ぎんいろ)と、それから星をちりばめた夜とが来ます。
    そのころ、私は、どこへ行き、どこに生まれているでしょう。また、この眼(め)の前の、美(うつく)しい丘(おか)や野原(のはら)も、みな一秒(びょう)ずつけずられたりくずれたりしています。けれども、もしも、まことのちからが、これらの中にあらわれるときは、すべてのおとろえるもの、しわむもの、さだめないもの、はかないもの、みなかぎりないいのちです。わたくしでさえ、ただ三秒(びょう)ひらめくときも、半時(はんとき)空にかかるときもいつもおんなじよろこびです」
    「けれども、あなたは、高く光のそらにかかります。すべて草や花や鳥は、みなあなたをほめて歌います」
    「それはあなたも同じです。すべて私に来て、私をかがやかすものは、あなたをもきらめかします。私に与えられたすべてのほめことばは、そのままあなたに贈(おく)られます。ごらんなさい。まことの瞳(ひとみ)でものを見る人は、人の王のさかえの極(きわ)みをも、野の百合(ゆり)の一つにくらべようとはしませんでした。それは、人のさかえをば、人のたくらむように、しばらくまことのちから、かぎりないいのちからはなしてみたのです。もしそのひかりの中でならば、人のおごりからあやしい雲と湧(わ)きのぼる、塵(ちり)の中のただ一抹(いちまつ)も、神(かみ)の子のほめたもうた、聖(せい)なる百合(ゆり)に劣(おと)るものではありません」
    「私を教えてください。私を連(つ)れて行ってください。私はどんなことでもいたします」
    「いいえ私はどこへも行きません。いつでもあなたのことを考えています。すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行くのです。いつまでもほろびるということはありません。けれども、あなたは、もう私を見ないでしょう。お日様(ひさま)があまり遠くなりました。もずが飛(と)び立ちます。私はあなたにお別(わか)れしなければなりません」
    停車場(ていしゃじょう)の方で、鋭(するど)い笛(ふえ)がピーと鳴りました。
    もずはみな、一ぺんに飛(と)び立って、気違(きちが)いになったばらばらの楽譜(がくふ)のように、やかましく鳴きながら、東の方へ飛(と)んで行きました。
    めくらぶどうは高く叫(さけ)びました。
    「虹(にじ)さん。私をつれて行ってください。どこへも行かないでください」
    虹(にじ)はかすかにわらったようでしたが、もうよほどうすくなって、はっきりわかりませんでした。
    そして、今はもう、すっかり消(き)えました。
    空は銀色(ぎんいろ)の光を増(ま)し、あまり、もずがやかましいので、ひばりもしかたなく、その空へのぼって、少しばかり調子(ちょうし)はずれの歌をうたいました。

    青空文庫より

  • 伊藤左千夫「奈々子」駒形美英朗読

    36.77
    Apr 19, 2018

    奈々子

    伊藤左千夫

    その日の朝であった、自分は少し常より寝過ごして目を覚ますと、子供たちの寝床は皆からになっていた。自分がうがいに立って台所へ出た時、奈々子ななこは姉なるものの大人下駄おとなげたをはいて、外へ出ようとするところであった。焜炉こんろの火に煙草をすっていて、自分と等しく奈々子の後ろ姿を見送った妻は、
    「奈々ちゃんはね、あなた、きのうから覚えてわたい、わたいっていいますよ」
    「そうか、うむ」
    答えた自分も妻も同じように、愛の笑いがおのずから顔に動いた。
    出口の腰障子こししょうじにつかまって、敷居しきい足越あごそうとした奈々子も、ふり返りさまに両親を見てにっこり笑った。自分はそのまま外へ出る。物置の前では十五になる梅子うめこが、今鶏箱とりばこからひなを出して追い込みに入れている。雪子ゆきこもおもいかにもおもしろそうに笑いながら雛を見ている。
    奈々子もそれを見に降りてきたのだ。さっちゃん
    井戸ばたの流し場に手水ちょうずをすました自分も、鶏にきょうがる子どもたちの声に引かされて、覚えず彼らの後ろに立った。先に父を見つけたお児は、
    「おんちゃんにおんぼしんだ、おんちゃんにおんぼしんだ」さっちゃん
    と叫んで父の膝に取りついた。奈々子もあとから、
    「わたえもおんも、わたえもおんも」
    と同じく父に取りつくのであった。自分はいつものごとくに、おんぼという姉とおんもという妹とをいっしょに背負うて、しばらく彼らを笑わせた。梅子が餌を持ち出してきて鶏にやるので再び四人の子どもは追い込みの前に立った。お児が、
    「おんちゃんおやとり、おんちゃんおやとり」
    というから、お児ちゃん、おやとりがどうしたかと聞くと、お児ちゃんはおやとりっち言葉をこのごろ覚えたからそういうのだと梅子が答える。奈々子は大きい下駄に疲れたらしく、
    「お児ちゃんのかんこ、お児ちゃんのかんこ」
    といい出した。お児の下駄を借りたいというのである。父は幼き姉をすかしてその下駄を貸さした。お児は一つ上の姉でも姉は姉らしいところがある。小さな姉妹は下駄を取り替える。奈々子は満足の色を笑いにたたわして、雪子とお児の間にはさまりつつひなを見る。つぶつぶかすり単物ひとえものに桃色のへこ帯を後ろにたれ、小さな膝を折ってその両膝に罪のない手を乗せてしゃがんでいる。雪子もお児もながら、いちばん小さい奈々子のふうがことに親の目を引くのである。しらみがわいたとかで、つむりをくりくりとバリカンで刈ってしもうた頭つきが、いたずらそうに見えていっそう親の目にかわゆい。妻も台所から顔を出して、
    「三人がよくならんでしゃがんでること、奈々ちゃんや、鶏がおもしろいかい、奈々ちゃんや」
    三児さんじはいちように振り返って母と笑いあうのである。自分は胸に動悸どうきするまで、この光景に深く感を引いた。
    この日は自分は一日家におった。三児は遊びに飽きると時々自分の書見しょけんの室に襲うてくる。
    三人が菓子をもらいに来る、お児がいちばん無遠慮にやってくる。
    「おんちゃん、おんちゃん、かちあるかい、かち、奈子なこちゃんがかちだって」
    続いて奈々子が走り込む。
    「おっちゃんあっこ、おっちゃんあっこ、はんぶんはんぶん」
    といいつついきなり父に取りつく。奈々子が菓子ほしい時に、父は必ずだっこしろ、だっこすれば菓子やるというために、菓子のほしい時彼はあっこあっこと叫んで父の膝に乗るのである。一つではあまり大きいというので、半分ずつだよといい聞かせられるために、自分からはんぶんはんぶんというのである。四歳のお児はがっこといい、三歳の奈々子はあっこという。年の違いもあれど、いくらか性質の差もわかるのである。六歳の雪子はふたりのあとからはいってきて、ただしれしれと笑っている。菓子が三人に分配される、とすぐに去ってしまう、風のいだようにあとは静かになる。静かさが少しく長くなると、どうして遊んでるかなと思う。そう思って庭を見ると、いつの間にか三人は庭の空地に来ておった。くりくり頭に桃色のへこ帯がひとり、角子頭みずらに卵色のへこ帯がふたり、何がおもしろいか笑いもせず声も立てず、何かを摘んでるようすだ。自分はただかぶりの動くのとへこ帯のふらふらするのをしばらく見つめておった。自分も声を掛けなかった、三人も菓子とも思わなかったか、やがてばたばた足音がするから顔を出してみると、奈々子があとになって三人が手を振ってかける後ろ姿が目にとまった。
    ご飯ができたからおんちゃんを呼んでおいでと彼らの母がいうらしかった。奈々ちゃんお先においでよ奈々ちゃんと雪子が叫ぶ。幼きふたりの伝令使は見る間に飛び込んできた。ふたりは同体に父の背に取りつく。
    「おんちゃんごはんおあがんなさいって」
    「おはんなさいははははは」
    父は両手を回し、大きな背にまたふたりをおんぶして立った。出口がせまいので少しからだを横にようやく通る窮屈さをいっそう興がって、ふたりは笑い叫ぶ。父の背を降りないうちから、ふたりでおんちゃんを呼んできたと母にいう騒ぎ、母はなお立ち働いてる。父と三児は向かい合わせに食卓についた。お児は四つでもはし持つことは、まだほんとうでない。少し見ないと左手に箸を持つ。またお箸の手が違ったよといえば、すぐ右に直すけれど、少しするとまた左に持つ。しばしば注意して右に持たせるくらいであるから、飯も盛んにこぼす。奈々子は一年十か月なれど、箸持つ手は始めから正しい。食べ物に着物をよごすことも少ないのである。姉たちがすわるにせまいといえば、身を片寄せてゆずる、彼の母は彼を熟視して、奈々ちゃんはつら構えからしっかりしていますねいという。
    末子であるかららちもなくかわいいというわけではないのだ。この子はと思うのは彼の母ばかりではなく、父の目にもそう見えた。
    午後は奈々子が一昼寝してからであった、雪子もお児もぶらんこに飽き、寝覚ねざめた奈々子を連れて、表のほうにいるようすであったが、格子戸をからりあけてかけ上がりざまに三児はわれ勝ちと父に何か告げんとするのである。
    「お父さん金魚が死んだよ、水鉢の金魚が」
    「おんちゃん金魚がへんだ。金魚がへんだよおんちゃん」
    「へんだ、おっちゃんへんだ」
    奈々子は父の手を取ってしきりに来て見よとの意を示すのである。父はただ気が弱い。口で求めず手で引き立てる奈々子の要求に少しもさからうことはできない。父は引かるるままに三児のあとから表にある水鉢の金魚を見にいった。五、六匹死んだ金魚は外に取り捨てられ、残った金魚はなまこの水鉢の中にくるくる輪をかいてまわっていた。水は青黒くにごってる。自分はさっそく新しい水をバケツに二はいくみ入れてやった。奈々子は水鉢の縁に小さな手を掛け、
    「きんご、おっちゃんきんご、おっちゃんきんご」
    「もう金魚へにゃしないねい。ねいおんちゃん、へにゃしないねい」
    三児は一時金魚の死んだのに驚いたらしかった。父はさらに金魚を買い足してやることを約束して座に返った。三人はなおしきりに金魚をながめて年相当な会話をやってるらしい。

     

  • 野村胡堂「猟色の果」別役みか朗読

    11.00
    Apr 15, 2018

  • 平山千代子「汽車」駒形美英朗読

    9.82
    Mar 15, 2018

    汽車

    平山千代子

    小学校を卒業した春休み、おばあ様とお母様と節ちやんと洋ちやんと、湯ヶ原の門川温泉へ行つたことがある。三、四日を面白く暮して、いよいよ帰る日だつた。
    随分混んでるので、――夕方六時ごろかしら、――もう、うす暗いころ、熱海発の汽車で帰ることにして、いつもの様に早めに驛へ行つた。蜜柑やら、キビ餅やらのおみやげがあつて荷物は小さいのが大分あつた様に思ふ。番頭さんが驛まで荷物をもつて来てくれた。しばらくして、遠くの方にポツチリと赤く光がみえたと思つたら、その光がみる/\大きくなつてとんで来る。
    「先の方がすいてゐます」といふ番頭さんの言葉と、「二等車は先の方です」といふ助役さんの言葉でホームも、ずつと出外れの方まで行つて待つた。
    誰はこれとこれ、と荷物の分担をきめて待ちかまへる中に、汽車が這入つて来た。先の二輛は二等車だ。先頭のにあかりが入つてゐないのを変だと思つたが、中を通つて次の車に行けるだらうと早呑込して、それ! とばかり六つになる洋ちやんと二人で、馳け出して、一番先の入口からのつた。番頭さんが荷物を入れてくれる。お母様やおばあ様や節ちやんは如何したかと思つたら、次の車にお乗りになつたやうだ。それで次の車に行かうとドアをあけようとしたら、これは又何としたことぞ、ドアがあかない。
    「番頭さん! ドアがあかない!」と助けを求めたが、時すでにおそし、汽車は動き出してしまつた。「こゝへ荷物をおきますよツ」と叫ぶ番頭さんの声を残して……。

    先の一輛は廻送車だつたのだ。入口が開いてるので乗り込んだのだが、中に這入らうとしたらドアがあかない。私達はデツキに立つた儘、皆と分れてしまつた。困つて大声で向ふ側のお母様や車掌さんを呼んでみた。……きこえる様子もない。ぢやあ、機関車の運転手さんに聞こえるかもしれないと二人で一しよに、
    「う、ん、て、ん、しゆ、さ――ん!」と呼んだが、汽車のひびきにかき消されて、これも駄目。機関車と廻送車の間にはさまれて、私たちは呆然としてデツキに立ちすくんだ。
    叫んでもわめいてもきこへないと知つたときは、私さへ泣き出したくなつてしまつた。だけど私はお姉さんだ、私まで泣いたりしたらどんなに洋ちやんが心細いだらう、さう思つて
    「大丈夫よ、だいぢよぶよ」とひきつる顔で無理に笑顔をしてみせた。
    しかし、その大丈夫といふのは、洋ちやんに対してといふよりは、むしろ自分自身へ言つてゐる様な声だつた。
    「仕様がないから汽車がとまつたら降りませうね」と荷物をしらべて小さい軽いのを一つ洋ちやんにもつてもらひ、後の三つか四つを一まとめにして私がもつことにした。汽車はゴウ/\とすごい音をたてゝ走つてゐる。
    あかりがついてゐないから、真暗やみ、わづかに機関車がつけてゐるあかりが洩れて来るのと、後は沿線の電燈がパアーツ、パアーツと行きすぎにてらす位のものだ。
    洋ちやんは案外おちついてゐた。泣き出されでもしたらどうしようと内心ビク/\しながら、御機嫌をとつてゐたのだが、思ひの外落着いて黙つてゐる。二人は片手に荷物をおさへ、片手にお互ひの手をしつかり握つた。とまつたら、と全神経を一つにして待機してゐた。もう、そろ/\着きさうな時分だが、と思つてゐたら、あかりのあか/\とついた停車場を汽車は矢のやうにふつとばして、みる/\うちに後にしてしまつた。
    さうだ! これは急行だつたんだ。私はがつかりして荷物から手を放す。
    「これ急行だから中々とまらないわ、少し、しやがんでませう」と手をつないだまゝしやがみこんだ。外はもう、まつくら……遠くに海が光つてみえる。海岸に点々と赤い燈がつゞいてる。
    「あら! きれいね」
    と云つてみたりするが、心はそれどこぢやない。ボーツと汽笛がすごく大きくきこゑて思はずつないだ手に力がはいる。汽車はトンネルへ這入つた。ゴウ/\とひゞきが壁にこだましてうるさい。中頃まで行つたらパラ/\と水玉がおちて来て、のぼせた顔にふりかかつた。後で考へたのだけれど、トンネル内の湧き水が汽車の進行でおちて来るものらしい。それにしても雨みたいだ。
    こりやたまらない、と車内に逃げ込まうと思つたが、戸は始めから開かなかつたのだ。つい二人とも口が重くなる、黙りこくつてゐると又こわい。ムリに云ひかけてみる。
    「さむくない?」
    「うん、大丈夫……」
    「こわい?」
    「うゝうん」
    これでおしまひだ。つぎ穂がなくて又もとの沈黙へ返つてしまふ。
    「お母様たち心配してらつしやるわよ。ちつとも、こわくなんかないのにね」
    うすあかりの中でかすかに洋ちやんの顔が笑つた。私もそれでほつとしてにつこりする。今度こそ! 今度こそ! と思ふ驛を汽車はおかまひなくすつとばしてしまふ。どの位たつたらうか。十分も一時間に思へる。今の私たちにはあまり長すぎる様な気がした。
    今か! 今か! と待つてゐるのに、あんまりすつとばすので心配になつて来た。
    が、それを云へば洋ちやんが可哀想だし、
    「ねえ、もうじきねえ、きつと、もうすぐよ」
    と念を押す様な、たのむ様な声で云つてみる。
    「うん……」
    しかし、洋ちやんは何を云つても、うん[#底本では「云つても、うん」は「云つても、うん」]ばかりしか応へてくれない。長い/\時間がたつて汽車はやつと小田原へとまつた。町の燈で両側が明るくなつたときの私たちの嬉しさ。
    「今度こそはきつと停つてよ。きつと……」と声をはづませて待つた。
    ホームへすべり込んだ時は、うれしくて胸がワク/\した。やつと汽車はとまつたが、機関車はホームを出外れてしまつたので、デツキから地面迄少したかい。しかし、もう、うれしくてたまらない私たちは、そんなことに気がつかなかつた。
    まづ洋ちやんが飛び下りる。私が洋ちやんの荷物をわたす。そして私も荷物をもつたまゝ夢中で飛び下りた。ホームの方へかけ出しながらみたら、向ふからお母様も走つていらつしやつた。
    お母様をみたら急に体中の力が抜けてしまひ、はりつめた気持がゆるんで泣きさうになつてしまつた。
    「まあよかつた/\! おばあさんも、お母さんもとても心配したのよ」
    とおばあ様は繰り返し/\おつしやつた。
    「洋ちやんが泣いてるだらう。おまへが困つてるだらう、と、とつても気をもんでたのよ。よかつたね」と頭をなでんばかりにおつしやる。
    私は一部始終をかたり、
    「それどころぢやないの。洋ちやんとつても落着いてゝね、何を云つても、ウン/\しか云つてくれないもんで、私の方が泣きたくなつちやつたんですよ」
    「ねー洋ちやん、トンネルん中、雨がふつて面白かつたわね」と私が笑ひかけたら、洋ちやんはみかんを食べながら、又、「うん」と云つた。

  • 北條民雄「すみれ」駒形美英朗読

    8.57
    Mar 07, 2018

    すみれ

    北條民雄

    昼でも暗いような深い山奥で、音吉じいさんは暮して居りました。三年ばかり前に、おばあさんが亡くなったので、じいさんはたった一人ぼっちでした。じいさんには今年二十になる息子が、一人ありますけれども、遠く離れた町へ働きに出て居りますので、時々手紙の便りがあるくらいなもので、顔を見ることも出来ません。じいさんはほんとうに侘しいその日その日を送って居りました。
    こんな人里はなれた山の中ですから、通る人もなく、昼間でも時々ふくろうの声が聞えたりする程でした。取り分け淋しいのは、お日様がとっぷりと西のお山に沈んでしまって、真っ黒い風が木の葉を鳴かせる暗い夜です。じいさんがじっと囲炉裏いろりの横に坐っていると、遠くの峠のあたりから、ぞうっと肌が寒くなるような狼の声が聞えて来たりするのでした。
    そんな時じいさんは、静かに、囲炉裏に掌をかざしながら、亡くなったおばあさんのことや、遠い町にいる息子のことを考えては、たった一人の自分が、悲しくなるのでした。
    おばあさんが生きていた時分は、二人で息子のことを語り合って、お互に慰め合うことも出来ましたけれど、今ではそれも出来ませんでした。
    来る日も来る日も何の楽しみもない淋しい日ばかりで、じいさんはだんだん山の中に住むのが嫌になって来ました。
    「ああ嫌だ嫌だ。もうこんな一人ぼっちの暮しは嫌になった。」
    そう言っては今まで何よりも好きであった仕事にも手がつかないのでした。
    そして、或日のこと、じいさんは膝をたたきながら
    「そうだ! そうだ! わしは町へ行こう。町には電車だって汽車だって、まだ見たこともない自動車だってあるんだ。それから舌のとろけるような、おいしいお菓子だってあるに違いない。そうだそうだ! 町の息子の所へ行こう。」
    じいさんはそう決心しました。
    「こんなすてきなことに、わしはどうして、今まで気がつかなかったのだろう。」
    そう言いながら、じいさんは早速町へ行く支度に取りかかりました。ところが、その時庭の片すみで、しょんぼりと咲いている、小さなすみれの花がじいさんの眼に映りました。
    「おや。」
    と言ってすみれの側へ近よって見ると、それは、ほんとうに小さくて、淋しそうでしたが、その可愛い花びらは、澄み切った空のように青くて、宝石のような美しさです。
    「ふうむ。わしはこの年になるまで、こんな綺麗なすみれは見たことはない。」
    と思わず感嘆しました。けれど、それが余り淋しそうなので、
    「すみれ、すみれ、お前はどうしてそんなに淋しそうにしているのかね。」
    と尋ねました。
    すみれは、黙ってなんにも答えませんでした。
    その翌日、じいさんは、いよいよ町へ出発しようと思って、わらじを履いている時、ふと昨日のすみれを思い出しました。
    すみれは、やっぱり昨日のように、淋し気に咲いて居ります。じいさんは考えました。
    「わしが町へ行ってしまったら、このすみれはどんなに淋しがるだろう。こんな小さな体で、一生懸命に咲いているのに。」
    そう思うと、じいさんはどうしても町へ出かけることが出来ませんでした。
    そしてその翌日もその次の日も、じいさんはすみれのことを思い出してどうしても出発することが出来ませんでした。
    「わしが町へ出てしまったら、すみれは一晩で枯れてしまうに違いない。」
    じいさんはそういうことを考えては、町へ行く日を一日一日伸ばして居りました。
    そして、毎日すみれの所へ行っては、水をかけてやったり、こやしをやったりしました。その度にすみれは、うれしそうにほほ笑んで
    「ありがとう、ありがとう。」
    とじいさんにお礼を言うのでした。
    すみれはますます美しく、清く咲き続けました。じいさんも、すみれを見ている間は、町へ行くことも忘れてしまうようになりました。
    或日のこと、じいさんは
    「お前は、そんなに美しいのに、誰も見てくれないこんな山の中に生れて、さぞ悲しいことだろう。」
    と言うと
    「いいえ。」
    とすみれは答えました。
    「お前は、歩くことも動くことも出来なくて、なんにも面白いことはないだろう。」
    と尋ねると
    「いいえ。」
    と又答えるのでした。
    「どうしてだろう。」
    と、じいさんが不思議そうに首をひねって考えこむと
    「わたしはほんとうに、毎日、楽しい日ばかりですの。」
    「体はこんなに小さいし、歩くことも動くことも出来ません。けれど体がどんなに小さくても、あの広い広い青空も、そこを流れて行く白い雲も、それから毎晩砂金のように光る美しいお星様も、みんな見えます。こんな小さな体で、あんな大きなお空が、どうして見えるのでしょう。わたしは、もうそのことだけでも、誰よりも幸福なのです。」
    「ふうむ。」
    とじいさんは、すみれの言菓を聞いて考え込みました。
    「それから、誰も見てくれる人がなくても、わたしは一生懸命に、出来る限り美しく咲きたいの。どんな山の中でも、谷間でも、力一パイに咲き続けて、それからわたし枯れたいの。それだけがわたしの生きている務めです。」
    すみれは静かにそう語りました。だまって聞いていた音吉じいさんは
    「ああ、なんというお前は利口な花なんだろう。そうだ、わしも、町へ行くのはやめにしよう。」
    じいさんは町へ行くのをやめて了いました。そしてすみれと一所に、すみ切った空を流れて行く綿のような雲を眺めました。

  • 芥川龍之介「虎の話」駒形美英朗読

    6.43
    Mar 06, 2018

    虎の話

    芥川龍之介

    師走しはすの或、父は五歳になる男の子をき、一しよに炬燵こたつへはひつてゐる。
    子 お父さんなにかお話しをして!
    父 なんの話?
    子 なんでも。……うん、虎のお話がいや。
    父 虎の話? 虎の話は困つたな。
    子 よう、虎の話をさあ。
    父 虎の話と。……ぢや虎の話をして上げよう。昔、朝鮮のらつぱそつがね、すつかりお酒に酔つ払らつて、山路やまみちにぐうぐう寝てゐたとさ。すると顔が濡れるもんだから、何かと思つて目をさますと、いつのにか大きい虎が一匹、の先に水をつけてはらつぱ卒の顔を撫でてゐたとさ。
    子 どうして?
    父 そりやらつぱ卒が酔つぱらつてゐたから、お酒つ臭いにほひをなくした上、食べることにしようと思つたのさ。
    子 それから?
    父 それかららつぱ卒は覚悟をきめて、力一ぱい持つてゐたらつぱを虎のお尻へ突き立てたとさ。虎は痛いのにびつくりして、どんどん町の方へ逃げ出したとさ。
    子 死ななかつたの?
    父 そのうちに町のまん中へ来ると、とうとうお尻の傷の為に倒れて死んでしまつたとさ。けれどもお尻に立つてゐたらつぱは虎の死んでしまふまで、ぶうぶう鳴りつづけに鳴つてゐたとさ。
    子 (笑ふ)らつぱ卒は?
    父 らつぱ卒は大へん褒められて虎退治の御褒美ごはうびを貰つたつて……さあ、それでおしまひだよ。
    子 いやだ。何かもう一つ。
    父 今度は虎の話ぢやないよ。
    子 ううん、今度も虎のお話をして。
    父 そんなに虎の話ばかりありやしない。ええと、何かなかつたかな?……ああ、ぢやもう一つして上げよう。これも朝鮮の猟師がね、或山奥へ狩をしに行つたら、丁度ちやうど目の下の谷底に虎が一匹歩いてゐたとさ。
    子 大きい虎?
    父 うん、大きい虎がね。猟師はい獲物だと思つて早速さつそく鉄砲へ玉をこめたとさ。
    子 打つたの?
    父 ところが打たうとした時にね、虎はいきなり身をちぢめたと思ふと、向うの大岩に飛びあがつたとさ。けれども宙へ躍り上つたぎり、生憎あいにく大岩へとどかないうちに地びたへ落ちてしまつたとさ。
    子 それから?
    父 それから虎はもう一度もとの処へ帰つて来た上、又大岩へ飛びかかつたとさ。
    子 今度はうまく飛びついた?
    父 今度もまた落ちてしまつたとさ。すると如何いかにもはづかしさうに長いを垂らしたなり、何処どこかへ行つてしまつたとさ。
    子 ぢや虎は打たなかつたの?
    父 うん、あんまりその容子ようすが人間のやうに見えたもんだから、可哀かはいさうになつてよしてしまつたつて。
    子 つまらないなあ、そんなお話。何かもう一つ虎のお話をして。
    父 もう一つ? 今度は猫の話をしよう。長靴をはいた猫の話を。
    子 ううん、もう一つ虎のお話をして。
    父 仕かたがないな。……ぢや昔大きい虎がね。子虎を三匹持つてゐたとさ。虎はいつも日暮になると三匹の子虎と遊んでゐたとさ。それからよる洞穴ほらあなへはひつて三匹の子虎と一しよに寝たとさ。……おい、寝ちまつちやいけないよ。
    子 (眠むさうに)うん。
    父 ところが或秋の日の暮、虎は猟師の矢を受けて、死なないばかりになつて帰つて来たとさ。なんにも知らない三匹の子虎はすぐに虎にじやれついたとさ。すると虎はいつものやうに躍つたりはねたりして遊んだとさ。それから又夜もいつものやうに洞穴へはひつて一しよに寝たとさ。けれども夜明けになつて見ると、虎は、いつか三匹の子虎のまん中へはひつて死んでゐたとさ。子虎は皆驚いて、……おい、おきてゐるかい?
    子 (寝入つて答へをしない)……
    父 おい、誰かゐないか? こいつはもう寝てしまつたよ。
    遠くで「はい、唯今」といふ返事が聞える。

    (大正十四年十二月)

  • 片山廣子「古い伝説」駒形美英朗読

    Feb 13, 2018

    古い伝説

    片山廣子

    いつ、どんな本で読んだ伝説かはつきり覚えてゐない、夢のなかでどこかの景色を見て、蒼ぐらい波の上に白い船が一つみえてゐたやうに、伝説の中の女の姿を思ひ出す、美しい女である。世界最初の女、イヴよりもずつと前にこの世界にゐた美しいリリスである。
    神は七日のあひだに、つまり七千年か七万年か計算することはむづかしいが、天地とその中の万物をお造りなされて、その創作のすべてをよしと御らんになつた。何もかも御心にかなつて美しくいさぎよい物ばかりであつたが、まだ何か足りないやうだつた。わが創作のすべての物よりもつと美しい、もつとわが姿に似たものを一つだけ造つてみよう。それはわが友だちと思つてもよいほどの高貴なものであれと、すべての花より鳥より、木草より、星より月より太陽より、海の波より、山々の霧よりもつとうつくしい優しいもの、もつと華奢なもの、つまり女をお造りなされて、これに神の息を吹きこまれた。だが天地万物と同じやうにこの女には魂を与へられなかつた。女はリリスと呼ばれた。
    魂をもたないリリスは凡ての歓びにみち足りてただ一人イデンの園に生きてゐた。四季の花は咲き、果実も草の実も欲しい物は何でもあつた。鳥たちもけものたちもかれらの声と言葉を以てリリスに仕へ、星のきらめく夕方は神の子たち(天使といはれる種族)が天から地上に遊びに来た。かれらには彼らの声と言葉があつて、天上の友だちや地上の友だちでリリスは寂しいことを知らないでゐた。さうやつて何時を限りとなくリリスは楽園の花のやうに生きてゐたが、満ち足りた彼女には希望がなかつた、だから失望も知らなかつた。しぜん、悲しみを持たないのだつた。リリスは何年か何千年かかうして暮してゐるうちに、ほのかに一つの感情を味つた。それはくたびれたのである。不足のない悲しみのない幸福にくたびれて、ある時彼女ははじめて溜息をついたのであつた。夕風のやうに静かな音もしないものであつたけれど、神のお耳にリリスの溜息がそうつと届いた。あきらかにこの創作が失敗の作であることを神はお悟りになつて
    「リリスよ、あはれな物よ、草臥れたのか? 消えてよろしい、消えよ」とおつしやつた。リリスはそのとき白い波の立つ海辺を歩いてゐたが、たそがれる海の色がリリスの眼に映つた。その翌朝、砂の上に白い水泡が残つてゐるだけで、リリスはこの世界から消えてゐた。
    そのあとで神はアダムといふ男をお造りなされ、イヴといふ女もお作りなされたが、この二人には魂を分け与へられた。ケルトの伝説の中に「アダムの先妻みたいな女」といふやうな言葉が時どき見えて、リリスがアダムの先妻であつたやうにも伝へられてゐるらしいが、まづ聖書の伝説だけにしておく。アダムとイヴは、ことにイヴはその後たびたび溜息をつくことがあつたが、これは憂うつな時に限つてであり、神もその溜息はききのがされたらしい。いそがしい私たちの生活とかけはなれて、こんな古くさい伝説を思ひ出したのは、先日私が渋谷駅でひとりの美しい人を見かけたためである。
    渋谷駅のまだあまり混雑しない午後のホームをいま降りた人たちの中に一人の背高い女がゐた。階段を上がつて来た私はすれ違つておもはず立ち止つたほど美しい人だつた。二十三四であらうか、並はずれて色がしろく、眼は日本人とも外国人ともいへない奇妙な表情をもつてゐた。静かな洋装で、すらりとした脚をさつそうとはこんで行くやうであつたが、私は振り返つて見てゐると、後姿は右に行つても左に行つてもよいやうな、すこし寂しい歩きぶりだつた。現代人は、モダアンな人たちは、みんなその日暮しの気分かしらと思つて私はしばらく見送つてゐた。
    その夜眠る前にまたその美人を考へて、誰かあれに似てゐる人があつたやうだと思つてみたが、誰だか思ひつかないで寝てしまつた。日本人でないやうな眼つきをして、独立独歩といふやうな姿でゐて、どこかたよりない気持を撤きちらしてゆく美しい人、それきり思ひ出せないでゐたが、今日何のはずみか古いリリスの伝説を考へたのである。たぶんあの先日のむすめはリリスに似てゐるのだらうとふいと思つた。現代人の半分はその日ぐらしの気分で生きてゐると聞いてゐたが、渋谷で見たあの人はその尖端を行く人だらう、むかしのリリスもその日暮しであつたから、たぶん彼女のやうな容姿すがたであつたのだらう。
    そんな事が頭にうごいた拍子に、私は今日の貧乏生活が非常にありがたく新しいものに思はれ出した。裸かのまづしい日々に、何か希望をもち、そして失望し、また希望し工夫をし、溜息をし、それを繰り返しくり返して生きることは愉しいと私は急に元気が出た。

    青空文庫 名作文学の朗読

  • 和辻哲郎「停車場で感じたこと」駒形美英朗読

    Jan 31, 2018

    ある雨の降る日、私は友人を郊外の家に訪ねて昼前から夜まで話し込んだ。遅くなったのでもう帰ろうと思いながら、新しく出た話に引っ張られてつい立つことを忘れていた。ふと気づいて時計を見ると、自分が乗ることにきめていた新橋発の汽車の時間がだいぶ迫っている。で、いよいよ別れることにして立ち上がろうとした。その時またちょっとした話の行きがかりでなお十分ほど尻を落ち付けて話し込むような事になった。それでも玄関へ降りた時には、さほど急がずに汽車に間に合うつもりであった。で、玄関に立ったまま、それまで忘れていた用事の話を思い出して、しばらく話し合った。
    電車の停車場の近くへ来ると、ちょうど自分の乗るはずの上り電車が出て行くのが見えた。「運が悪いな、もう二三分早く出て来たら。」と思った。待合へはいってから何げなしに正面の大時計を見ると、いつのまにかたいへん時間がたっている。変だなと思って自分の時計を出して見る。自分のは十分ほど遅れている。午前には確かに合っていたのだが二時ごろ止まっていたのを友人の家のと合わせた時に、遅れた時間と合わせたわけなのだろう。これでは汽車の時間にカツカツだ、まずくすると乗り遅れるかも知れない、あの時時計が止まってくれなければよかった、などと思う。しかし電車はすぐ来た。それがまた思ったよりも調子よく走る。人の乗り降りがあまりないので停車場などは止まったかと思うとすぐ出る。時計を出して見ると三分くらいで一丁場走っている。このぶんならたいてい大丈夫だと安心した気持ちになる。
    しかし時間はいっぱいだった。市街電車へ乗り換える所へ来て、改札口で乗越賃を払おうとすると、釣銭がないと言って駅夫が向こうへ取りに行く。釣銭などでグズグズしてはいられないのでそのまますぐ駈け出したくなる。しかしあとから駅夫が大声を出して追い駈けて来たりすると気の毒だと思ってちょっと躊躇する。その間に駅夫が釣銭を持って来る。わずか一分ほどの間だったが、そのためイライラさせられたので、急いで泥道を駈け出した。見ると停留場に電車がとまっている。よい具合だと思って速力を増して駈ける。五六間手前まで行くと電車は動き初めた。しまッたと思いながらなお懸命に追い駈けて行く。電車はだんだん早くなる。それを見てとても乗れまいという気がしたので、私はふと立ち留まった。その瞬間にあれに乗らなければ遅れるかも知れないと思った。それですぐまた全速力で飛び出せば無理にのれない事もなかった。しかしその時ほんの一秒か二秒の間躊躇した。そうしてアアア電車が遠ざかって行くと思いながら、その後ろ姿をながめた。そのわずかな間に電車がまた四五間も走ったので、追いつける望みはすっかり消えてしまった。
    振り向いて見ると、あとの電車は影も見えない。また時計を出して見る。やはりあれに乗らなければだめだったと思う。電車はまだついそこに見えているので、もう一度飛び出したくなる。くやしくなって足を踏みならす。歯ガミをする。拳に力がはいって来るが、それのやり場がない。後ろを見るとまだ次の電車は見えない。また先の電車を見る。見まもっている内に次の停留場で止まってまた動き出す。やがて坂をおりてだんだん見えなくなる。あれに乗っていればもうあんなに遠く行っているのだ。これだけ距離の差があれば汽車に二つくらい乗り遅れるには充分だなどと思う。
    次の電車がはるか向こうに見えた。時計を見ると三分たっている。早く来ればいいと思うがなかなかやって来ない。やっと前まで来る。乗る。時計を見る。もう五分たっている。時計とにらめくらしていると電車が走るわりに時のたつのが遅いのでいくらか気丈夫にもなるが、しかし窓から外を見るごとにまだこんな所かと思う。それでもまだ全然間に合わないとは思えないので、熱心に時計に注意している。平生は十分も二十分もかかると思っている所を、電車は五分ぐらいで走ってしまう。
    とてもそう早くは行くまいと思っていた時間で、感心にも電車は土橋の停留場まで来た。時計を見ると汽車がちょうど出る時刻である。しかしプラットフォームには汽車の影が見えない。汽車だって一分ぐらい遅れる事はあるし、自分の時計だって一分ぐらい進んでいないとは限らないなどと思いながら停車場へはいって行くと、そこの大時計はちょうど汽車よりも二分先へ出ていて、駅夫が次の汽車の時間を改札口の上に掲示している所であった。
    「あああと一時間と四十分だ。電車に乗る時のわずか一二秒のために、何というヘマだろう。否、その前に停車場を出る時釣銭を取らなければよかったのだ。否もう一つ前に友人の家から出た時もっと早く歩けばよかった。そういえば友人の所をもう五分早く出れば問題はなかった。しかしこんな事を言ってもキリがない。とにかくすべてがまずかった。『何か』が俺にいたずらをしやがったのだ。」――こんなふうに腹のなかでつぶやきながら私はヤケに土間を靴で踏みつけた。
    やがて私は未練らしく頭の上の時刻表を見上げた。そうして「おや」と思った。そこには次の汽車との間に今までなかったはずの汽車の時間が掲げてあるのである。私はいくらか救われたような感じであたりを見回した。なるほど大きな掲示が出ている。その臨時汽車はすぐ前日から運転し始めたのだった。「こいつは運がいい。」と私は思った。しかし時間を勘定してみてやはり一時間ばかり待たなければならない事がわかると、私の心はまた元へ戻り始めた。「何だ、こんな事で埋め合わせをするのか、畜生め。」私は仕方なく三等待合室へはいって行った。見ると質朴な田舎者らしい老人夫婦や乳飲み児をかかえた母親や四つぐらいの女の子などが、しょんぼり並んで腰を掛けている。朝からそのままの姿でじっとしていたのではないかと思わせるくらい静かに。その眼には確かに大都会の烈しさに対する恐怖がチラついている。私は引きつけられてじっとその一群を見まもった。そうして、遠くへ行くのろい三等の夜汽車のなかの光景を思い浮かべた。それは老人や母親にとって全く一種の拷問である。しかし彼らには貧乏であるという事のほかになんにも白状すべきことがない。彼らは黙って静かにその苦しみに堪える。むしろある遠隔な土地へ行くためにはその苦しみが当然であることを感じている。たとえ眠られぬ真夜中に、堅い腰掛けの上で痛む肩や背や腰を自分でどうにもできないはかなさのため、幽かな力ない嘆息が彼らの口から洩れるにしても。
    私はこんな空想にふけりながら、ぼんやり乳飲み児を見おろしている母親の姿をながめ、甘えるらしく自分により掛かってくる女の子を何か小声で言いなだめているらしい、老婆の姿をながめ、見るともなく正面を見つめている老爺の悲しむ力をさえ失ったような顔をながめた。私の心は急にしみじみとして和らいで来た。何という謙虚な人間の姿だろう。それに比べて私の心持ちは、何という空虚な反撥心にイラ立っているのだ。あたかも自分の上に降りかかった小さな出来事が何か大きい不正ででもあるかのように。――あの人たちを見ろ。静かに運命の前に首を垂れているあの人たちを見ろ。あれが人間だ。
    ある暗示が私の胸に沁み入った。私は何かを呪うような気持ちになった先ほどの自分を恥じた。もしその何かが神だったら! 恐らく神といえども、もっともっと比べものにならないほどの苦しみを私の上に置く事もあるだろう。しかも恐らく私を愛するゆえに。不遜なる者よ。きわめて小さい不運をさえも、首を垂れて受けることのできない心傲れる者よ。そんな浅い心にどうして運命の深いこころが感じ得られよう。
    私は固い腰掛けに身を沈めて、先ほどまでの小さい出来事を思い返した。一々の瞬間にそうならなければならないある者がひそんでいるようにも思えた。すべての条件が最後の瞬間を導き出すように整然たる秩序の内に継起したようにも感じられた。そうして私は自分を鞭打った。私は自分の運命を愛しているつもりでいたが、しかし私はまだほんとうにヨブの心を解していないのだ。運命に対するあの絶対の信仰と感謝の心を。あわせてまた「運命を愛せよ」というあの金言の真の深さと重さをも。

    青空文庫 名作文学の朗読

  • 大倉 燁子 「魔性の女」駒形美英朗読 修正版

    Jan 16, 2018

    会社を退出した時には桃子にも連れがあったので、本庄とは別々の電車に乗ったが、S駅を降りると、彼はもう先に着いて待っていた。
    二人は腕を組んで夕闇の迫った街を二三町も歩くと、焼け残った屋敷街の大きな一つの門の前に立ち止った。
    桃子は眼を丸るくして、門冠りの松の枝を見上げ、
    「あんた、このおやしき?」
    「うん。素晴らしいだろう? 会社への往きかえりに毎日前を通っていてね、いい家だなあと想っていたんだ。今朝、出がけに寄って、部屋を見せてもらった。離室の茶席、とても素的だぜ。没落した華族さんの内職にやっている御旅館兼お休息所さ。ここなら会社の人なんかに絶対知れっこないからね」
    「だって、私――」
    桃子は尻り込みして、
    「あなたのお宅といくらも離れていないんでしょう? そんなお膝もとで――、会社の人よりも奥様に感付かれたらどうするのよ」
    「燈台もと暗しさ。遠征すると反ってばれる。これなら、奥様だって、仏様だって御存じあるまいさ」
    構えが堂々としているので桃子は気おくれして、入りそびれていると、客の気配を聞きつけて、奥から出て来た素人臭い女中に案内され、多摩川砂利を踏んで、右手の朱雀門から庭の茶席へ通された。
    数寄を凝らした部屋を物珍しそうに眺めていると、庭下駄の音をわざと大きくたてながら、先刻の女中がお銚子とビールにちょっとしたつまみものを運んで来た。
    「御用がございましたら、ここのベルをお押し下さいませ」
    本庄の座っている壁際に、ベルが取りつけてあった。女中が出て行くと桃子はお銚子を取り上げて、本庄の盃についでから、自分はビールを呑んだ。
    「まさか、奥様、あなたと私とのこと、御存じないんでしょう?」
    「多分ねえ。君が僕の病気見舞いに来た時、あとでいやに褒めてたから――、どうだかなあ」
    「知れたら困る?」
    と眼で笑った。
    「困るなあ。だが仕方がない。君とはどうしたって別れられないもの」
    「だって、奥様は絶対にやかない人でしょう?」
    「うむ。だが――、嫉妬やかれる方がいいな。黙ってただじいと眺めていられるのは辛い」
    何を思い出したのか、本庄はちょっとべそを掻くような表情をした。酔いが出て、色の白い上品な顔にほんのりと赤味がさして、酒にうるんだ眼が美しく見えた。桃子はコップを唇に持って行きながら、惚れ惚れと彼の顔に見入っていたが、
    「私はあなたが好きなんだから、奥様が怒っても、あなたに捨てられない限り絶対に別れないわよ」
    「僕の奥さんだって、君と僕との関係までは嗅ぎつけちゃいないさ。だが、彼奴は黙っていて常に僕の一挙一動を監視しているんだ。そして、僕の事なら一から十まで知りつくそうとしている。知らなきゃ満足出来ないんだ。いい事でも、悪いことでも。つまり、変態なんだろう」
    「きっと、奥様、あなたをよっぽど愛しているんだわねえ。私なんかかなわないかも知れない。そういう愛情の前には、私、頭が下がるわ」
    「僕はいやだよ。つくづくいやだ。まあ考えてもみたまえ。何んでも、かんでも知っていて、知らん顔していようっていうんだからね。いやだよ」
    煙草を灰皿に押しつぶした。
    「ほんとに愛していれば、相手の全部を知りつくそうとするのは、当然だわ。でも、私には離れている間のあなたが何をしているか分らないわよ。勿論分りたいけれど――」
    「訊けばいいじゃないか」
    「訊いたって、かくされればそれまででしょう? あなたにしたって、私に云いたくない事もあるでしょうからね。それが嫉妬心をそそるもとになるということも知ってるけれど、あなたの奥様のように、何もかも見透せたら、決して、嫉妬は起さないだろうと思うわ」
    「そうかなあ」
    「たとえばさ。あなたとこうしていても私にはあなたの愛情がどれほど深いものかってことは分らない。あなたの言葉や態度で想像するだけのものでしょう。ところが奥様はあなたの心の奥の奥まで見透せるんだから、自分が優越な立ち場にある間は心配はないでしょう。あなたに女が出来たって、平気でいられるかも知れない。つまり、自分の方が勝っているからよ。愛されているという確信があるから――」
    「愛情をわけられるのは不愉快だろう、全部自分のものにしたいと思わないか知ら?」
    「私はあなたの肉体も精神も独占している積りでいるんだけれど、ほんとはどうなのか知ら? 奥様が嫉妬しない処を見ると、怪しいもんだわ」
    「うちの奥さんはね。僕をくさりでつないでおいて、適当に遊ばしてくれるんだよ。飼犬のつもりでいやがる。いやな奴さ」
    と吐き出すように云う。
    「だって、御新婚当時は随分、奥様が役に立ったって云うじゃないの?」
    「それや役に立ったさ。彼奴の持っている第七感の神秘なんだよ。そのおかげで危険も救われたし、上役のお覚えも目出度くどんどん出世もするしさ。重宝だったが、今じゃ、そのかんがうるさくなった。何んでも知ってやがるのは、つまりその第七感が発達しすぎるからだ。そして近頃はますます鋭どくなりやがった。このまま進んだら僕は苦しくって一緒にはいられない。気狂いになってしまうぜ」
    「あなたを気狂いにさせるほどの情熱、私は羨しいわ。あなたの奥様が――」
    「何云ってるんだ。君がいなかったら僕は生きちゃいられない。奥さんぎりだったら僕はとうに自殺してしまってらあ」
    「私には第七感どころか第六感も働かない、平々凡々で何にもわからないから、そこがあなたには肩が凝らないし、気楽でいいんでしょう?」
    「君とこうしている時だけが、僕には天国なんだよ」
    本庄はついとち上って、ちょっと次の間を覗いた。水色の覆いのかかった涼しそうなスタンドが枕許に点いていて、白麻の蚊帳越しに紅入友の蒲団がなまめいて見えた。彼は襖をしめきると、桃子のそばへにじりよって肩へ手をかけて、引きよせ、
    「ねえ、僕の全部は君のものなんだよ」
    桃子のコップを持った手がぶるぶると震えた。
    「駄目よ。ビールがこぼれるわ」
    と、飲みかけのコップを彼の唇へ持って行った。

    青空文庫 名作文学の朗読