野村胡堂
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野村胡堂 「銭形平次捕物控 平次屠蘇機嫌」全編 萩柚月朗読
元日の晝下り、八丁堀町御組屋敷の年始廻りをした錢形平次と子分の八五郎は、海賊橋を渡つて、青物町へ入らうと言ふところでヒヨイと立止りました。
「八、目出度いな」
「へエ――」
ガラツ八は眼をパチ/\させます。正月の元日が今始めて解つた筈もなく、天氣は朝つからの日本晴れだし、今更親分に目出度がられるわけは無いやうな氣がしたのです。
「旦那方の前ぢや、呑んだ酒も身につかねえ。丁度腹具合も北山だらう、一杯身につけようぢやないか」
平次は斯んな事を言つて、ヒヨイと顎をしやくりました。成程、その顎の向つた方角、活鯛屋敷の前に、何時の間に出來たか、洒落た料理屋が一軒、大門松を押つ立てゝ、年始廻りの中食で賑はつてゐたのです。
「へエ――、本當ですか、親分」
ガラツ八の八五郎は、存分に鼻の下を長くしました。ツヒぞ斯んな事を言つたことの無い親分の平次が、與力笹野新三郎の役宅で、屠蘇を祝つたばかりの歸り途に、一杯呑み直さうといふ量見が解りません。
「本當ですかは御挨拶だね。後で割前を出せなんてケチな事を言ふ氣遣ひはねえ。サア、眞つ直ぐに乘り込みな」
さう言ふ平次、料理屋の前へ來ると、フラリとよろけました。組屋敷で軒並甞めた屠蘇が、今になつて一時に發したのでせう。
「親分、あぶないぢやありませんか」
「何を言やがる。危ねえのは手前の顎だ、片附けて置かねえと、俺の髷節に引つ掛るぢやないか」
「冗談でせう、親分」
二人は黒板塀を繞らした、相當の構の門へ繋がつて入つて行きました。
眞新しい看板に「さざなみ」と書き、淺黄の暖簾に鎌輪奴と染め出した入口、ヒヨイと見ると、頭の上の大輪飾が、どう間違へたか裏返しに掛けてあるではありませんか。
「こいつは洒落て居るぜ、――正月が裏を返しや盆になるとよ。ハツハツ、ハツハツ、だが、世間附き合ひが惡いやうだから、ちよいと直してやらう」
平次は店の中から空樽を一梃持出して、それを踏臺に、輪飾りを直してやりました。
「入らつしやい、毎度有難う存じます」
「これは親分さん方、明けましてお目出度うございます。大層御機嫌で、へツ、へツ」
帳場に居た番頭と若い衆、掛け合ひで滑らかなお世辭を浴びせます。
「何を言やがる、身錢を切つた酒ぢやねえ、お役所のお屠蘇で御機嫌になれるかツてんだ」
「へツ、御冗談」
平次は無駄を言ひ乍ら、フラリフラリと二階へ――
「お座敷は此方でございます。二階は混み合ひますから」
小女が座布團を温め乍ら言ふのです。
「混み合つた方が正月らしくて宜いよ。大丈夫だ、人見知りをするやうな育ちぢやねえ。――尤もこの野郎は醉が廻ると噛み付くかも知れないよ」
平次は後から登つて來るガラツ八の鼻のあたりを指すのでした。
小女は苦んがりともせずに跟いて來ました。二階の客は四組十人ばかり、二た間の隅々に陣取つて正月氣分もなく靜かに呑んで居ります。
「其處ぢや曝し物見たいだ。通りの見える所にしてくれ」
部屋の眞ん中に拵へた席を、平次は自分で表の障子の側に移し、ガラツ八と差し向ひで、威勢よく盃を擧げたものです。
「大層な景氣ですね、親分」
面喰つたのはガラツ八でした。平次のはしやぎ樣も尋常ではありませんが、それより膽を冷したのは、日頃堅いで通つた平次の、この日の鮮やかな呑みつ振りです。
「心配するなよ。金は小判といふものをフンダンに持つて居るんだ。――なア八、俺もこの稼業には飽々してしまつたから、今年は一つ商賣替をしようと思ふがどうだ」
「冗談で――親分」
「冗談や洒落で、元日早々こんな事が言へるものか。大眞面目の涙の出るほど眞劍な話さね。八、江戸中で一番儲かる仕事は一體何んだらう。――相談に乘つてくれ」
さう言ふうちにも、平次は引つ切りなしに盃をあけました。見る/\膳の上に林立する徳利の數、ガラツ八の八五郎は薄寒い心持でそれを眺めて居ります。
「儲かる事なんか、あつしがそんな事を知つてゐるわけが無いぢやありませんか」
「成程ね。知つて居りや、自分で儲けて、この俺に達引いてくれるか。――有難いね、八、手前の氣つぷに惚れたよ」
「――」
ガラツ八は閉口してぼんのくぼを撫でました。
「――尤も、手前の氣つぷに惚れたのは俺ばかりぢやねえ。横町の煮賣屋のお勘ん子がさう言つたぜ。――お願ひだから親分さん、八さんに添はして下さいつ――てよ」
「親分」
「惡くない娘だぜ。少し、唐臼を踏むが、大したきりやうさ。何方を見て居るか、ちよつと見當の付かない眼玉の配りが氣に入つたよ。それに、あの娘は時々垂れ流すんだつてね、飛んだ洒落た隱し藝ぢやないか」
「止して下さいよ、親分」
「首でも縊ると氣の毒だから、何んとか恰好をつけておやりよ、畜生奴」
「親分」
ガラツ八はこんなに驚いたことはありません。錢形平次は際限もなく浴びせ乍ら、滅茶々々に饒舌り捲つて二階中の客を沈默させてしまひました。
四組のお客は、それにしても何と言ふおとなしいことでせう。そのころ流行つた、客同士の盃のやりとりもなく、地味に呑んで、地味に食ふ人ばかり。そのくせ、勘定が濟んでも容易に立たうとする者はなく、後から/\と來る客が立て込んで、何時の間にやら、四組が六組になり、八組になり、八疊と四疊半の二た間は、小女が食物を運ぶ道を開けるのが精一杯です。
「なア、八、本當のところ江戸中で一番儲かる仕事を教へてくれ、頼むぜ」
平次は尚も執拗にガラツ八を追及します。
「泥棒でもするんですね、親分」
ガラツ八は少し捨鉢になりました。
「何んだと此野郎ツ」
平次は何に腹を立てたか、いきなり起上つてガラツ八に掴みかゝりましたが、散々呑んだ足許が狂つて、見事膳を蹴上げると、障子を一枚背負つたまゝ、縁側へ轉げ出したのです。
「親分、危いぢやありませんか」
飛びつくやうに抱き起したガラツ八、これはあまり醉つてゐない上、どんなに罵倒されても、親分の平次に向つて腹を立てるやうな男ではありません。
「あゝ醉つた。――俺は眠いよ、此處で一と寢入りして歸るから、そつとして置いてくれ」
障子の上に半分のしかゝつたまゝ、平次は本當に眼をつぶるのです。
「親分、――さア、歸りませう。寢たきや、家に歸つてからにしようぢやありませんか」
「何を。女房の面を見ると、とたんに眼がさめる俺だ。お願ひだから、此處で――」
「親分、お願ひだから歸りませう、さア」
ガラツ八は手を取つて引き起します。
「よし、それぢや素直に歸る。手前これで、勘定を拂つてくれ。言ふまでもねえが、今日は元日だよ、八、勘定こつきりなんて見つともねえことをするな」
「心得てますよ、親分。――小判を一枚づつもやりや宜いんでせう」
「大きな事を言やがる」
ガラツ八は平次を宥め乍ら、財布から小粒を出して勘定をすませ、板前と小女に、機み過ぎない程度のお年玉をやりました。
「あ、親分、そんな事は、婢にやらせて置けば宜いのに――危いなアどうも」
八五郎もハツとしました。平次は覺束ない足を蹈締めて、自分の外した障子を一生懸命元の敷居へはめ込んで居るのです。
「放つて置け。俺が外した障子だ、俺が直すに何が危ないものか。おや、裏返しだぜ。骨が外へ向いてけつかる、どつこいしよ」
平次はまだ障子と角力を取つて居ります。 -
野村胡堂 「銭形平次捕物控 南蛮秘法箋」全編萩柚月朗読
小石川水道端に、質屋渡世で二萬兩の大身代を築き上げた田代屋又左衞門、年は取つて居るが、昔は二本差だつたさうで恐ろしいきかん氣。
「やい/\こんな湯へ入られると思ふか。風邪を引くぢやないか、馬鹿々々しい」
風呂場から町内中響き渡るやうに怒鳴つて居ります。
「ハイ、唯今、直ぐ參ります」
女中も庭男も居なかつたと見えて、奧から飛出したのは伜の嫁のお冬、外から油障子を開けて、手頃の薪を二三本投げ込みましたが、頑固な鐵砲風呂で、急にはうまく燃えつかない上、煙突などといふ器用なものがありませんから、忽ち風呂場一杯に漲る煙です。
「あツ、これはたまらぬ。エヘン/\/\、其處を開けて貰はう。エヘン/\/\、寒いのは我慢するが、年寄に煙は大禁物だ」
「何うしませう、ちよつと、お持ち下さい。燃え草を持つて參りますから」
若い嫁は、風呂場の障子を一パイに開けたまゝ、面喰らつて物置の方へ飛んで行つて了ひました。
底冷のする梅二月、宵と言つても身を切られるやうな風が又左衞門の裸身を吹きますが、すつかり煙に咽せ入つた又左衞門は、流しに踞まつたまゝ、大汗を掻いて咳入つて居ります。
その時でした。
何處からともなく飛んで來た一本の吹矢、咳き込むはずみに、少し前屈みになつた又左衞門の二の腕へ深々と突つ立つたのです。
「あツ」
心得のない人ではありませんが、全く闇の礫です。思はず悲鳴をあげると、
「何うした何うした、大旦那の聲のやうだが」
店からも奧からも、一ぺんに風呂場に雪崩込みます。
見ると、裸體のまゝ、流しに突つ起つた主人又左衞門の左の腕に、白々と立つたのは、羽ごと六寸もあらうと思ふ一本の吹矢、引拔くと油で痛めた竹の根は、鋼鐵の如く光つて、美濃紙を卷いた羽を染めたのは、斑々たる血潮です。
「俺は構はねえ、外を見ろ、誰が一體こんな事をしあがつた」
豪氣な又左衞門に勵まされるともなく、二三人バラバラと外へ飛出すと、庭先に呆然立つて居るのは、埃除けの手拭を吹流しに冠つて、燃え草の木片を抱へた嫁のお冬、美しい顏を硬張らせて、宵闇の中に何處ともなく見詰めて居ります。
「御新造樣、何うなさいました」
「あ、誰か彼方へ逃げて行つたよ。追つ驅けて御覽」
と言ひますが、庭にも、木戸にも、往來にも人影らしいものは見當りません。
「こんな物が落ちて居ます」
丁稚の三吉がお冬の足元から拾ひ上げたのは、四尺あまりの本式の吹矢筒、竹の節を拔いて狂ひを止めた上に、磨きをかけたものですが、鐵砲の不自由な時代には、これでも立派な飛道具で、江戸の初期には武士もたしなんだと言はれる位、後には子供の玩具や町人の遊び道具になりましたが、この時分はまだ/\、吹矢も相當に幅を利かせた頃です。
餘事はさておき――、
引拔いたあとは、つまらない瘡藥か何かを塗つて、其儘にして置きましたが、其晩から大熱を發して、枕も上がらぬ騷ぎ、曉方かけて又左衞門の腕は樽のやうに腫れ上がつて了ひました。
麹町から名高い外科を呼んで診て貰ふと、
「これは大變だ。併し破傷風にしてもこんなに早く毒が廻る筈はない――吹矢を拜見」
仔細らしく坊主頭を振ります。
昨夜の吹矢を、後で詮索をする積りで、ほんの暫らく風呂場の棚の上へ置いたのを、誰の仕業か知りませんが、瞬くうちになくなつて了つたのです。
「誰だ、吹矢を捨てたのは」
と言つたところで、もう後の祭り、故意か過ちか、兎に角、又左衞門に大怪我をさした當人が、後の祟りを恐れて、隱して了つたことだけは確かです。
「それは惜しいことをした。ことによると、その吹矢の根に、毒が塗つてあつたかも知れぬて」
「え、そんな事があるでせうか」
又左衞門の伜又次郎、これは次男に生れて家督を相續した手堅い一方の若者、今では田代屋の用心棒と言つていゝ程の男です。
「さうでもなければ、こんなに膨れるわけがない。この毒が胴に廻つては、お氣の毒だが命が六づかしい。今のうちに、腕を切り落す外はあるまいと思ふが、如何でせうな」
斯う言はれると、又次郎はすつかり蒼くなりましたが、父の又左衞門は、武士の出といふだけあつて思ひの外驚きません。
「それは何でもないことだ。右の腕一本あれば不自由はしない、サア」
千貫目の錘を掛けられたやうな腕を差出して、苦痛に歪む頬に、我慢の微笑を浮べます。青空文庫より
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萩柚朗読銭形平次捕り物控「花見の仇討」野村胡堂一 二
萩柚月朗読 野村胡堂「銭形平次捕り物控」花見の仇討ち三四
萩柚月朗読 銭形平次捕り物控花見の仇討五六野村胡堂
萩柚月朗読 野村胡堂 銭形平次捕り物控,花見の仇討ち七、八「親分」
ガラツ八の八五郎は息せき切つて居りました。續く――大變――といふ言葉も、容易には唇に上りません。
「何だ、八」
飛鳥山の花見歸り、谷中へ拔けようとする道で、錢形平次は後から呼止められたのです。飛鳥山の花見の行樂に、埃と酒にすつかり醉つて、これから夕陽を浴びて家路を急がうといふ時、跡片付けで少し後れたガラツ八が、毛氈を肩に引つ擔いだまゝ、泳ぐやうに飛んで來たのでした。
「親分、――引つ返して下さい。山で敵討がありましたよ」
「何?」
「巡禮姿の若い男が、虚無僧に斬られて、山はえくり返るやうな騷ぎで」
「よし、行つて見よう」
平次は少しばかりの荷物を町内の人達に預けると、獲物を見付けた獵犬のやうに、飛鳥山へ取つて返します。
柔かな夕風につれて、何處からともなく飛んで來る櫻の花片、北の空は紫にたそがれて、妙に感傷をそゝる夕です。
二人が山へ引つ返した時は、全く文字通りの大混亂でした。異常な沈默の裡に、掛り合ひを恐れて逃げ散るもの、好奇心に引ずられて現場を覗くもの、右往左往する人波が、不氣味な動きを、際限もなく續けて居るのです。
「退いた/\」
ガラツ八の聲につれて、人波はサツと割れました。その中には早くも驅け付けた見廻り同心が、配下の手先に指圖をして、斬られた巡禮の死骸を調べて居ります。
「お、平次ぢやないか。丁度宜い、手傳つてくれ」
「樫谷樣、――敵討ださうぢやございませんか」
平次は同心樫谷三七郎の側に差寄つて、踏み荒した櫻の根方に、紅に染んで崩折れた巡禮姿を見やりました。
「それが不思議なんだ、――敵討と言つたところで、花見茶番の敵討だ。竹光を拔き合せたところへ、筋書通り留め女が入つて、用意の酒肴を開かうと言ふ手順だつたといふが、敵の虚無僧になつた男が、巡禮の方を眞刀で斬り殺してしまつたのだよ」
「へエ――」
平次は同心の説明を聽き乍らも、巡禮の死體を丁寧に調べて見ました。笠ははね飛ばされて、月代の青い地頭が出て居りますが、白粉を塗つて、引眉毛、眼張りまで入れ、手甲、脚絆から、笈摺まで、芝居の巡禮をそのまゝ、此上もない念入りの扮裝です。
右手に持つたのは、銀紙貼りの竹光、それは斜つかひに切られて、肩先に薄傷を負はされた上、左の胸のあたりを、したゝかに刺され、蘇芳を浴びたやうになつて、こと切れて居るのでした。
「身元は? 旦那」
平次は樫谷三七郎を見上げました。
「直ぐ解つたよ、馬道の絲屋、出雲屋の若主人宗次郎だ」
「へエ――」
「茶番の仲間が、宗次郎が斬られると直ぐ驅け付けた。これがさうだ」
樫谷三七郎が顎で指すと、少し離れて、虚無僧が一人、留め女が一人、薄寒さうに立つて居るのでした。
そのうちの虚無僧は、巡禮姿の宗次郎を斬つた疑ひを被つたのでせう。特に一人の手先が引き添つて、スワと言はゞ、繩も打ち兼ねまじき氣色を見せて居ります。
次第に銀鼠色に暮れ行く空、散りかけた櫻は妙に白茶けて、興も春色も褪めると見たのも暫し、間もなく山中に灯が入つて、大きな月が靄の中に芝居の拵へ物のやうに昇りました。
陰慘な、そのくせ妙に陽氣な、言ひやうもない不思議な花の山です。
「旦那、少し訊いて見たいと思ひますが――」
平次は樫谷三七郎を顧みました。
「何なりと訊くが宜い」
「では」
平次は茶番の仲間を一とわたり眺めやります。 -
江戸川乱歩「少年探偵団」10 別役みか朗読 消えるインド人
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別役みか朗読「少年探偵団」のろいの宝石江戸川乱歩のろいの宝石
さて、門の前に遊んでいた女の子がさらわれた、その夜のことです。篠崎始君のおとうさまは、ひじょうに心配そうなごようすで、顔色も青ざめて、おかあさまと始君とを、ソッと、奥の座敷へお呼びになりました。
始君は、おとうさまの、こんなうちしずまれたごようすを、あとにも先にも見たことがありませんでした。
「いったい、どうなすったのだろう。なにごとがおこったのだろう。」
と、おかあさまも始君も、気がかりで胸がドキドキするほどでした。
おとうさまは座敷の床の間の前に、腕組みをしてすわっておいでになります。その床の間には、いつも花びんのおいてある紫檀の台の上に、今夜はみょうなものがおいてあるのです。
内がわを紫色のビロードではりつめた四角な箱の中に、おそろしいほどピカピカ光る、直径一センチほどの玉がはいっています。
始君は、こんな美しい宝石が、おうちにあることを、今まで少しも知りませんでした。
「わたしはまだ、おまえたちに、この宝石にまつわる、おそろしいのろいの話をしたことがなかったね。わたしは、そんな話を信じていなかった。つまらない話を聞かせて、おまえたちを心配させることはないと思って、きょうまでだまっていたのだ。
けれども、もう、おまえたちにかくしておくことができなくなった。ゆうべからの少女誘かいさわぎは、どうもただごとではないように思う。わたしたちは、用心しなければならぬのだ。」
おとうさまは、うちしずんだ声で、何かひじょうに重大なことを、お話になろうとするようすでした。 -
萩柚月朗読 銭形平次捕り物控 「迷子札5,6 」野村胡堂
「御免下さいまし」
「誰ぢや」
御徒町の吉田一學、御徒士頭で一千石を食む大身ですが、平次はその御勝手口へ、遠慮もなく入つて行つたのです。
「御用人樣に御目に掛りたう御座いますが」
「お前は何だ」
「左官の伊之助の弟――え、その、平次と申す者で」
「もう遲いぞ、明日出直して參れ」
お勝手に居る爺父は、恐ろしく威猛高です。
「さう仰しやらずに、ちよいとお取次を願ひます。御用人樣は、屹度御逢ひ下さいます」
「いやな奴だな、此處を何と心得る」
「へエ、吉田樣のお勝手口で」
どうもこの押し問答は平次の勝です。
やがて通されたのは、内玄關の突當りの小部屋。
「私は用人の後閑武兵衞ぢやが――平次といふのはお前か」
六十年配の穩やかな仁體です。
「へエ、私は左官の伊之助の弟で御座いますが、兄の遺言で、今晩お伺ひいたしました」
「遺言?」
老用人は一寸眼を見張りました。
「兄の伊之助が心掛けて果し兼ねましたが、一つ見て頂きたいものが御座います。――なアに、つまらない迷子札で、へエ」
平次がさう言ひ乍ら、懷から取出したのは、眞鍮の迷子札が一枚、後閑武兵衞の手の屆きさうもないところへ置いて、上眼使ひに、そつと見上げるのでした。
色の淺黒い、苦み走つた男振りも、わざと狹く着た單衣もすつかり板に付いて、名優の強請場に見るやうな、一種拔き差しのならぬ凄味さへ加はります。
「それを何うしようと言ふのだ」
「へ、へ、へ、この迷子札に書いてある、甲寅四月生れの乙松といふ伜を引渡して頂きたいんで、たゞそれ丈けの事で御座いますよ、御用人樣」
「――」
「何んなもんで御座いませう」
「暫らく待つてくれ」
拱いた腕をほどくと、後閑武兵衞、深沈たる顏をして奧に引込みました。
待つこと暫時。
何處から槍が來るか、何處から鐵砲が來るか、それは全く不安極まる四半刻でしたが、平次は小判形の迷子札と睨めつこをしたまゝ、大した用心をするでもなく控へて居ります。
「大層待たせたな」
二度目に出て來た時の用人は、何となくニコニコして居りました。
「どういたしまして、どうせ夜が明けるか、斬られて死骸だけ歸るか――それ位の覺悟はいたして參りました」
と平次。
「大層いさぎよい事だが、左樣な心配はあるまい――ところで、その迷子札ぢや。私の一存で、此場で買ひ取らうと思ふ、どうぢや、これ位では」
出したのは、二十五兩包の小判が四つ。
「――」
「不足かな」
「――」
「これつ切り忘れてくれるなら、此倍出してもよいが」
武兵衞は此取引の成功を疑つても居ない樣子です。
「御用人樣、私は金が欲しくて參つたのぢや御座いません」
「何だと」
平次の言葉の豫想外さ。
「百兩二百兩はおろか、千兩箱を積んでもこの迷子札は賣りやしません――乙松といふ伜を頂戴して、兄伊之助の後を立てさへすれば、それでよいので」
「それは言ひ掛りと言ふものだらう、平次とやら」
「――」
「私に免じて、我慢をしてくれぬか、この通り」
後閑武兵衞は疊へ手を落すのでした。
「それぢや、一日考へさして下さいまし。姪のお北とも相談をして、明日の晩又參りませう」
平次は目的が達した樣子でした。迷子札を懷へ入れると、丁寧に暇を告げて、用心深く屋敷の外へ出ました。 -
青空文庫より萩柚月朗読 銭形平次捕り物控 迷子札1.2 野村胡堂
萩柚月朗読 銭形平次捕り物控 迷子札 7.8 野村胡堂
萩柚月朗読 銭形平次捕り物控 迷子札3,4 野村胡堂
錢形平次捕物控+目次「親分、お願ひがあるんだが」
ガラツ八の八五郎は言ひ憎さうに、長い顎を撫でて居ります。
「又お小遣ひだらう、お安い御用みたいだが、たんとはねえよ」
錢形の平次はさう言ひ乍ら、立ち上がりました。
「親分、冗談ぢやない。又お靜さんの着物なんか剥いぢや殺生だ。――あわてちやいけねえ、今日は金が欲しくて來たんぢやありませんよ。金なら小判というものを、うんと持つて居ますぜ」
八五郎はこんな事を言ひ乍ら、泳ぐやうな手付きをしました。うつかり金の話をすると、お靜の髮の物までも曲げ兼ねない、錢形平次の氣性が、八五郎に取つては、嬉しいやうな悲しいやうな、まことに變てこなものだつたのです。
「馬鹿野郎、お前が膝つ小僧を隱してお辭儀をすると、何時もの事だから、又金の無心と早合點するぢやないか」
「へツ、勘辨しておくんなさい――今日は金ぢやねえ、ほんの少しばかり、智慧の方を貸して貰ひてえんで」
ガラツ八は掌の窪みで、額をピタリピタリと叩きます。
「何だ。智慧なら改まるに及ぶものか、小出しの口で間に合ふなら、うんと用意してあるよ」
「大きく出たね、親分」
「金ぢや大きな事が言へねえから、ホツとしたところさ。少しは附合つていゝ心持にさしてくれ」
「親分子分の間柄だ」
「馬鹿ツ、まるで掛合噺見たいな事を言やがる、手つ取り早く筋を申し上げな」
「親分の智慧を借りてえといふのが、外に待つて居るんで」
「誰方だい」
「大根畑の左官の伊之助親方を御存じでせう」
「うん――知つてるよ、あの酒の好きな、六十年配の」
「その伊之助親方の娘のお北さんなんで」
ガラツ八はさう言ひ乍ら、入口に待たして置いた、十八九の娘を招じ入れました。
「親分さん、お邪魔をいたします。――實は大變なことが出來ましたので、お力を拜借に參りましたが――」
お北はさう言ひ乍ら、淺黒いキリヽとした顏を擧げました。決して綺麗ではありませんが、氣性者らしいうちに愛嬌があつて地味な木綿の單衣も、こればかりは娘らしい赤い帶も、言ふに言はれぬ一種の魅力でした。
「大した手傳ひは出來ないが、一體どんな事があつたんだ、お北さん」
「他ぢや御座いませんが、私の弟の乙松といふのが、七日ばかり前から行方不明になりました」
「幾つなんで」
「五つになつたばかりですが、智慧の遲い方で何にも解りません」
「心當りは搜したんだらうな」
「それはもう、親類から遊び仲間の家まで、私一人で何遍も/\搜しましたが、此方から搜す時は何處へ隱れて居るのか、少しも解りません」
お北の言葉には、妙に絡んだところがあります。
「搜さない時は出て來るとでも言ふのかい」
「幽靈ぢやないかと思ひますが」
賢さうなお北も、そつと後を振り向きました。眞晝の明るい家の中には、もとより何の變つたこともあるわけはありません。
「幽靈?」
「昨夜、お勝手口の暗がりから、――そつと覗いて居りました」
「その弟さんが?」
「え」
「をかしな話だな、本物の弟さんぢやないのか」
「いえ、乙松はあんな樣子をして居る筈はありません。芝居へ出て來る先代萩の千松のやうに、袂の長い絹物の紋附を着て、頭も顏もお稚兒さんのやうに綺麗になつて居ましたが、不思議なことに、袴の裾はぼけて、足は見えませんでした」
お北は氣性者でも、迷信でこり固まつた江戸娘でした。かう言ふうちにも、何やら脅やかされるやうに襟をかき合せて、ぞつと肩を竦めます。
「そいつは氣の迷ひだらう――物は言はなかつたかい」
「言ひ度さうでしたが、何にも言はずに見えなくなつてしまひました」
「フーム」
平次もこれだけでは、智慧の小出しを使ひやうもありません。
「私はもう悲しくなつて、いきなり飛出さうとすると、父親が――あれは狐か狸だらう、乙松はあんな樣子をして居る筈はないから――つて無理に引止めました。一體これはどうしたことでせう、親分さん」
弟思ひらしいお北の顏は、言ひやうもない悲みと不安がありました。七日の間、相談する相手もなく、何彼と思ひ惱んだことでせう。青空文庫より