林芙美子

  • 林芙美子「あひびき」海渡みなみ朗読

    38.55 Jul 12, 2017

    火の氣がないので、私は鷄介と二人で寢床にはいつてゐた。朝から喋つてゐたので、寢床へはいると喋ることもなく、私は、あをむけになつて、眼の上に兩手をそろへて眺めてゐた。鷄介も兩の手を出した。私は鷄介の大きい掌に自分の手を合はせてみた。「冷い?」鷄介は默つて私の手を大きい掌で包みこむやうに握つた。朝から雨が降つてゐるので、私は落ちついてしまつた。何もする氣がしなかつた。草におく露のやうに、きらきらと光つてゐる男の心が無性に私の心をはずませた。二人はお互ひの指と指をからませあつて、のびのびと體をのばして天井を見てゐた。硝子窓に、横なぐりの雨が吹きつけてゐる。樋をつたふ雨のこぼつ、こぼつと、石穴にでも溢れてゐるやうな音がして、空は黄灰色に薄昏く、水氣がこもつてゐた。晴れた日は、窓の向うに富士山が見えると女中が云つてゐたけれども、昨夜、この宿へ着くなり雨で、富士山は見えなかつた。――戰爭の頃は、此宿は寮にでもなつてゐたらしく、荒れ放題に荒れた部屋の中で、疊も汚れ、蒲團も重い。二人出鱈目に甲府まで來てしまつた。そして、出鱈目に湯の宿を探して泊つた旅館だけれども、結局は二人にとつては、そんな、むさくるしい部屋も氣にはかゝらなかつた。――私は鷄介の子供を宿してゐた。私は珊瑚色の寢卷きを着てゐた。身幅を廣く縫つた寢卷きを着てゐるので、みごもつてゐる女のみにくさは案外めだたないでゐる。鷄介は思ひ出したやうに、時々、私のおなかに耳をあてて、胎内の子の息を聽いた。鷄介にはおくさんがあつた。私にも良人があつた。そして、戰爭は濟んでゐるのに、私たちの重たい環境は、この戰爭とは何のかゝはりもなく崩れてはゐなかつた。ただ何ヶ月か先には、私は、子供を産む支度をしなければならない。

  • 林芙美子「幸福の彼方」海渡みなみ朗読

    幸福の彼方

    林芙美子

     一
    西陽の射してゐる洗濯屋の狭い二階で、絹子ははじめて信一に逢つた。
    十二月にはいつてから、珍らしく火鉢もいらないやうな暖かい日であつた。信一は始終ハンカチで額を拭いてゐた。
    絹子は時々そつと信一の表情を眺めてゐる。
    長らくの病院生活で、色は白かつたけれども少しもくつたくのないやうな顔をしてゐて、耳朶の豊かなひとであつた。顎が四角な感じだつたけれども、西陽を眩しさうにして、時々壁の方へ向ける信一の横顔が、絹子には何だか昔から知つてゐるひとででもあるかのやうに親しみのある表情だつた。
    信一はきちんと背広を着て窓のところへ坐つてゐた。仲人格の吉尾が、禿げた頭を振りながら不器用な手つきで寿司や茶を運んで来た。
    「絹子さん、寿司を一つ、信一さんにつけてあげて下さい」
    さう云つて、吉尾は用事でもあるのか、また階下へ降りて行つてしまつた。寿司の上をにぶい羽音をたてて大きい蝿が一匹飛んでゐる。絹子はそつとその蝿を追ひながら、素直に寿司皿のそばへにじり寄つて行つて小皿へ寿司をつけると、その皿をそつと信一の膝の上へのせた。信一は皿を両手に取つて赧くなつてゐる。絹子はまた割箸を割つてそれを黙つたまま信一の手へ握らせたのだけれども、信一はあわててその箸を押しいただいてゐた。
    ふつと触れあつた指の感触に、絹子は胸に焼けるやうな熱さを感じてゐた。
    信一を好きだと思つた。
    何がどうだと云ふやうな、きちんとした説明のしやうのない、みなぎるやうな強い愛情のこころが湧いて来た。
    信一は皿を膝に置いたまま黙つてゐる。
    硝子戸越しにビール会社の高い煙突が見えた。絹子は黙つてゐるのが苦しかつたので、小皿へ醤油を少しばかりついで、信一の持つてゐる寿司皿の寿司の一つ一つへ丁寧に醤油を塗つた。
    「いや、どうも有難う‥‥」
    醤油の香りで、一寸下を向いた信一はまた赧くなつてもじもじしてゐた。絹子は信一をいいひとだと思つてゐる。何かいい話をしなければならないと思つた。さうして心のなかには色々な事を考へるのだけれども、何を話してよいのか、少しも話題がまとまらない。
    信一は薄い色眼鏡をかけてゐたので、一寸眼の悪いひととは思へないほど元気さうだつた。絹子は一生懸命で、
    「村井さんは何がお好きですか?」
    と訊いてみた。
    「何ですか? 食べるものなら、僕は何でも食べます」
    「さうですか、でも、一番、お好きなものは何ですの?」
    「さア、一番好きなもの‥‥僕はうどんが好きだな‥‥」
    絹子は、
    「まア」
    と云つてくすくす笑つた。自分もうどんは大好きだつたし、二宮の家にゐた頃は、お嬢さまもうどんが好きで、絹子がほとんど毎日のやうにうどんを薄味で煮たものであつた。
    うどんと云はれて、急に御前崎の白い濤の音が耳もとへ近々ときこえてくるやうであつた。絹子と信一は同郷人で、信一は絹子とは七ツ違ひの二十八である。去年戦場から片眼をうしなつて戻つて来たのであつた

  • 海渡みなみ朗読、「或る女」林芙美子

    或る女

    林芙美子

    何時ものやうに歸つて來ると、跫音をしのばせて梯子段へ足さぐりで行つたが、梯子段の下の暗がりで、良人の堂助が矢庭に懷中電燈をとぼした。たか子はぎくつとして小さい叫び聲を擧げた。
    「何さ‥‥まだ、あなた、起きていらつしたの?」
    「寢てればよかつたのかい?」
    「厭アな方ねえ、一寸遲くなるとこれなンですもの‥‥あなたのお時計、いま幾時なンですの?」
    さう云つて、たか子は暗がりの中へつつ立つてゐる堂助の方へ手を泳がせて良人の腕時計のある手首をつかんだ。
    「パパ一寸それ照らして頂戴」
    堂助は素直に懷中電燈をつけた。腕時計の針は丁度十二時に十五分前を差してゐる。
    「あら、本當ねえ、隨分遲いわ‥‥ごめんなさい」
    「‥‥‥‥」
    「でも、吃驚したわ、パパそこへ立つていらつして‥‥」
    「俺が立つてゐたからつて、そんなに驚くこたアないぢやないか‥‥」
    「誰だとおもつたからよ‥‥」
    「ふふん、佐々のおばけとでもおもつたかい?」
    「まア、厭だ! それ皮肉でおつしやるの?」
    「皮肉ぢやないよ‥‥」
    堂助は、ふふんと口のなかで笑つて、懷中電燈を照しながら、さつさと二階へあがつて行つた。(何だつて、あのひとは懷中電燈など持ち出したンだらう‥‥)
    たか子はわざと荒々しく、廊下のスヰイツチをひねつた。四圍が森閑としてゐるので、堂助が書齋の革椅子をきしませて腰をかけてゐるのまで階下へきこえて來る。
    たか子は化粧部屋へ這入つて着物をぬいだ。着物をぬぎながら、たか子は瞼に涙のたまるやうな熱いものを感じた。
    寢卷きに着替へて二階の寢室へあがつて行つたが、堂助は書齋の灯をつけて何時までも起きてゐる樣子だつた。
    「パパ、おやすみにならないの?」
    「ああ」
    「何故? 何を怒つてらつしやるの?」
    たか子は寢床から起きあがると、良人の部屋へはいつて行つた。堂助は窓を明けて、星空を眺めながら煙草を吸つてゐた。
    「あら、綺麗なお星樣だこと‥‥」
    たか子は、太つた躯を堂助の膝の處へ持つて行つたが、堂助は小さい聲で、
    「厭だ」と云つて、窓ぶちへ立つて行つた。
    「何、そんな怖い顏して憤つてらつしやるの、だつて、今日は遠藤さんの出版記念の會ぢやありませんか、遲くなるの仕方ないわ」
    何時までも堂助が默つてゐるので、たか子は、たよりなささうに良人のそばへ行き、
    「怒つてるンだつたら、かんにんして頂戴、そんな怖い顏してるの厭よ‥‥」
    「もういいよ。寢ておしまひ。怒つてなンかゐないよ‥‥」
    「さう、でも‥‥」
    たか子は、良人の机の灯を消すと、久しぶりに堂助とむきあつて窓ぶちに腰をおろした。
    星が飛んでゐる。明日も天氣なのだらう、寺院の天井のやうに、高い星空で、秋の夜風が、たか子の髮を頬にふきよせてゐる。


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