萩柚月








  • 錢形平次捕物控
    朱塗りの筐
    野村胡堂

    「親分、美い新造が是非逢はしてくれつて、來ましたぜ」
     とガラツ八の八五郎、薄寒い縁にしやがんで、柄にもなく、お月樣の出などを眺めてゐる錢形の平次に聲を掛けました。
     平次はこの時三十になつたばかり。江戸中に響いた捕物の名人ですが、女の一人客が訪ねて來るのは、少し擽ぐつたく見えるやうな好い男でもあつたのです。
    「何て顏をするんだ。――何方だか、名前を訊いたか」
    「それが言はねえ」
    「何?」
    「親分にお目にかゝつて申上げますつて、――滅法美い女だぜ、親分」
    「女が美くつたつて、名前も仰しやらない方にお目にかゝるわけには參りません。と言つて斷つて來い」
     平次は少し中ツ腹だつたでせう。名前も言はない美い女と聞くと、妙に頑固なことを言つて、ガラツ八を追つ拂はうとしました。
    「惡者に追つ驅けられたとか言つて、蒼い顏をして居ますよ、親分――」
    「馬鹿ツ、何だつて冒頭つからさう言はないんだ」
     平次はガラツ八を掻き退けるやうに、入口へ飛出して見ました。格子戸の中、灯から遠い土間に立つたのは、二十三――四の年増、ガラツ八が言ふほどの美い縹緻ではありませんが、身形も顏もよく整つた、確り者らしい奉公人風の女です。
    「お前さんか、あつしに逢ひたいといふのは?」
    「あ、親分さん、私は惡者に跟けられてゐます。どうしませう」
    「此處へ來さへすれば、心配することはない。後ろを締めて入んなさるがいゝ」
     唯ならぬ樣子を見て、平次は女を導き入れました。奧の一間――といつても狹い家、行燈を一つ點けると、家中の用が足りさうです。
    「親分さん、聞いて居る者はありませんか」
    「大丈夫、かう見えても、御用聞の家は、いろ/\細工がしてある。小さい聲で話す分には、決して外へ洩れる心配はない。――尤も外に人間は二人居るが、お勝手で働いてゐるのは女房で、今取次に出たのは、子分の八五郎と言ふものだ。少し調子ツ外れだが、その代り内證の話を外へ漏らすやうな氣のきいた人間ぢやねえ」
     平次は碎けた調子でさう言つて、ひどく硬張つて居る相手の女の表情をほぐしてやらうとするのでした。
    「では申上げますが、實は親分さん、私は銀町の石井三右衞門の奉公人、町と申す者で御座いますが」
    「えツ」
     石井三右衞門といへば、諸大名方に出入りするお金御用達、何萬兩といふ大身代を擁して、町人ながら苗字帶刀を許されて居る大商人です。
    「主人の用事で、身にも命にも替へ難い大事の品を預かり、仔細あつて本郷妻戀坂に別居していらつしやる若旦那のところへ屆けるつもりで、其處まで參りますと、豫てこの品を狙つて居る者の姿を見かけました。――いえ、逢つたに仔細は御座いませんが、――私の後を跟けて來たところを見ると、どんなことをしてもこの品を奪ひ取るつもりに相違御座いません」
     お町は、かう言ひながら、抱へて來た風呂敷包を解きました。中から出て來たのは、少し古くなつた桐柾の箱で、その蓋を取ると、中に納めてあるのは、その頃明人の飛來一閑といふ者が作り始めて、大變な流行になつて來た一閑張の手筐。もとより高價なものですが、取出したのを見ると、虞美人草のやうな見事な朱塗り、紫の高紐を結んで、その上に、一々封印をした物々しい品です。
    「フーム」
     錢形の平次も、妙な壓迫感に唸るばかりでした。石井三右衞門の使といふのが一通りでない上、朱塗の一閑張の手筐で、すつかり毒氣を拔かれて了つたのでせう。このお町とかいふ確り者らしい年増の顏を、次の言葉を待つともなく眺めやるのでした。
    「丁度通り掛つたのは、お宅の前で御座います。捕物の名人と言はれながら、滅多に人を縛らないといふ義に勇む親分にお願ひして、この急場を凌がうとしたので御座います。後先も見ずに飛び込んで、何とも申譯御座いません」
     お町は改めて、嗜みの良い辭儀を一つしました。
    「で、何うしようと言ふのだえ、お町さんとやら」
    「この樣子では、とてもこの手筐を妻戀坂までは持つて參れません。さうかと言つて、この儘引返すと、一晩經たないうちに、盜まれることは判り切つて居ります。御迷惑でも親分さん、ほんの暫く、これを預つて置いて下さいませんでせうか」
    「それは困るな、お町さん。そんな大事なものを預つて萬一のことがあつては――」
     平次も驚きました。命がけで持つて來たらしいこの手筐を、そんなに輕々しく預つていゝものかどうか、全く見當も付かなかつたのです。
    「親分のところへ預つて置いて危ないものなら、何處へ置いても安心な處は御座いません。どうぞ、お願ひで御座います」
     折入つての頼み、平次もこの上は沒義道に突つ放されさうもありません。
    「それは預らないものでもないが、少しわけを話して貰はうか。中に何が入つてるか見當も付かず、後でどんなことになるかもわからないやうなことでは、どんなに暢氣な私でも心細い」
    「それでは、何も彼も申上げませう。親分さん、聞いて下さい、かういふわけで御座います」
    青空文庫より


  • 全編通し

    その3

    その2

    その1
    朗読カフェSTUDIO 萩柚月 朗読、岡本綺堂「指輪一つ」
    指輪一つ

    岡本綺堂

        一

    「あのときは実に驚きました。もちろん、僕ばかりではない、誰だって驚いたに相違ありませんけれど、僕などはその中でもいっそう強いショックを受けた一人で、一時はまったくぼうとしてしまいました。」と、K君は言った。座中では最も年の若い私立大学生で、大正十二年の震災当時は飛騨ひだの高山たかやまにいたというのである。

     あの年の夏は友人ふたりと三人づれで京都へ遊びに行って、それから大津のあたりにぶらぶらしていて、八月の二十日はつか過ぎに東京へ帰ることになったのです。それから真っ直ぐに帰ってくればよかったのですが、僕は大津にいるあいだに飛騨へ行った人の話を聞かされて、なんだか一種の仙境のような飛騨というところへ一度は踏み込んでみたいような気になって、帰りの途中でそのことを言い出したのですが、ふたりの友人は同意しない。自分ひとりで出かけて行くのも何だか寂しいようにも思われたので、僕も一旦は躊躇したのですが、やっぱり行ってみたいという料簡りょうけんが勝を占めたので、とうとう岐阜で道連れに別れて、一騎駈けて飛騨の高山まで踏み込みました。その道中にも多少のお話がありますが、そんなことを言っていると長くなりますから、途中の話はいっさい抜きにして、手っ取り早く本題に入ることにしましょう。
     僕が震災の報知を初めて聞いたのは、高山に着いてからちょうど一週間目だとおぼえています。僕の宿屋に泊まっていた客は、ほかに四組ありまして、どれも関東方面の人ではないのですが、それでも東京の大震災だというと、みな顔の色を変えておどろきました。町じゅうも引っくり返るような騒ぎです。飛騨の高山――ここらは東京とそれほど密接の関係もなさそうに思っていましたが、実地を踏んでみるとなかなかそうでない。ここらからも関東方面に出ている人がたくさんあるそうで、甲の家からは息子が出ている、乙の家からは娘が嫁に行っている。やれ、叔父がいる、叔母がいる、兄弟がいるというようなわけで、役場へ聞き合せに行く。警察へ駈け付ける。新聞社の前にあつまる。その周章と混乱はまったく予想以上でした。おそらく何処の土地でもそうであったでしょう。
     なにぶんにも交通不便の土地ですから、詳細のことが早く判らないので、町の青年団は岐阜まで出張して、刻々に新しい報告をもたらしてくる。こうして五、六日を過ぎるうちにまず大体の事情も判りました。それを待ちかねて町から続々上京する者がある。僕もどうしようかと考えたのですが、御承知の通り僕の郷里は中国で今度の震災にはほとんど無関係です。東京に親戚が二軒ありますが、いずれも山の手の郊外に住んでいるので、さしたる被害もないようです。してみると、何もそう急ぐにも及ばない。その上に自分はひどく疲労している。なにしろ震災の報知をきいて以来六日ばかりのあいだはほとんど一睡もしない、食い物も旨くない。東京の大部分が一朝にして灰燼に帰したかと思うと、ただむやみに神経が興奮して、まったく居ても立ってもいられないので、町の人たちと一緒になって毎日そこらを駈け廻っていた。その疲労が一度に打って出たとみえて、急にがっかりしてしまったのです。大体の模様もわかって、まず少しはおちついた訳ですけれども、夜はやっぱり眠られない。食慾も進まない。要するに一種の神経衰弱にかかったらしいのです。ついては、この矢さきに早々帰京して、震災直後の惨状を目撃するのは、いよいよ神経を傷つけるおそれがあるので、もう少しここに踏みとどまって、世間もやや静まり、自分の気も静まった頃に帰京する方が無事であろうと思ったので、無理におちついて九月のなかば頃まで飛騨の秋風に吹かれていたのでした。
    青空文庫より

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