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  • 猫とモミの木

    キャスト キャラクター紹介

  • 岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻吉川英治

    どういう悪日とわるい方位をたどってきたものだろうか。
    黄河のほとりから、ここまでの間というものは、劉備は、幾たび死線を彷徨ほうこうしたことか知れない。これでもかこれでもかと、彼を試さんとする百難が、次々に形を変えて待ちかまえているようだった。
    「もうこれまで」
    劉備もついに観念した。避けようもない賊の包囲だ。斬りじにせんものと覚悟をきめた。
    けれど身には寸鉄も帯びていない。少年時代から片時もはなさず持っていた父の遺物かたみの剣も、先に賊将の馬元義にられてしまった。
    劉備は、しかし、
    「ただは死なぬ」と思い、石ころをつかむが早いか、近づく者の顔へ投げつけた。
    見くびっていた賊の一名は、不意を喰らって、
    「あッ」と、鼻ばしらをおさえた。
    劉備は、飛びついて、その槍を奪った。そして大音に、
    「四民を悩ます害虫ども、もはやゆるしはおかぬ。※(「さんずい+(冢-冖)」、第3水準1-86-80)たくけん劉備玄徳りゅうびげんとくが腕のほどを見よや」
    といって、捨身になった。
    賊の小方、李朱氾りしゅはんは笑って、
    「この百姓めが」と半月槍をふるってきた。
    もとより劉備はさして武術の達人ではない。田舎の楼桑村ろうそうそんで、多少の武技の稽古はしたこともあるが、それとて程の知れたものだ。武技を磨いて身を立てることよりも、むしろを織って母を養うことのほうが常に彼の急務であった。
    でも、必死になって、七人の賊を相手に、ややしばらくは、一命をささえていたが、そのうちに、槍を打落され、よろめいて倒れたところを、李朱氾に馬のりに組み敷かれて、李の大剣は、ついに、彼の胸いたに突きつけられた。

     

    張飛卒ちょうひそつ

    白馬は疎林そりんの細道を西北へ向ってまっしぐらに駆けて行った。秋風に舞う木の葉は、鞍上の劉備りゅうび芙蓉ふようの影を、征箭そやのようにかすめた。
    やがてひろい野に出た。
    野に出ても、二人の身をなお、うなりがかすめた。今度のは木の葉のそれではなく、鋭いやじりをもった鉄弓の矢であった。
    「オ。あれへ行くぞ」
    「女をのせて――」
    「では違うのか」
    「いや、やはり劉備だ」
    「どっちでもいい。逃がすな。女も逃がすな」
    賊兵の声々であった。
    疎林の陰を出たとたんに、黄巾賊の一隊は早くも見つけてしまったのである。
    獣群の声が、ときをつくって、白馬の影を追いつめて来た。
    劉備は、振り向いて、
    「しまった!」
    思わずつぶやいたので、彼と白馬の脚とを唯一の頼みにしがみついていた芙蓉は、
    「ああ、もう……」
    消え入るようにおののいた。
    万が一つも、助からぬものとは観念しながらも、劉備は励まして、
    「大丈夫、大丈夫。ただ、振り落されないように、駒のたてがみと、私の帯に、必死でつかまっておいでなさい」と、いって、むち打った。
    芙蓉はもう返事もしない。ぐったりと鬣に顔をうつ伏せている。その容貌かんばせの白さはおののく白芙蓉びゃくふようの花そのままだった。

     

    劉備りゅうびが、眼をくばると、
    「いや、動かぬがよい。しばらくは、かえってここに、じっとしていたほうが……」
    と、老僧が彼の袖をとらえ、そんな危急の中になお、語りつづけた。
    県の城長の娘は、名を芙蓉ふようといい姓はこうということ。また、今夜近くの河畔にきて宿陣している県軍は、きっと先に四散した城長の家臣が、残兵を集めて、黄巾賊へ報復を計っているに違いないということ。
    だから、芙蓉の身を、そこまで届けてくれさえすれば、後は以前の家来たちが守護してくれる――白馬の背へ二人してのって、抜け道から一気に逃げのびて行くように――と、いのるようにいうのだった。

     

     足の先で、短剣を寄せた。そしてようやく、それを手にして、自身の縄目を断ち切ると、劉備は、窓の下に立った。

    (早く。早く)といわんばかりに、無言の縄は外から意志を伝えて、ゆれうごいている。
    劉備は、それにつかまった。石壁に足をかけて、窓から外を見た。
    「……オオ」
    外にたたずんでいたのは、昼間、ただひとりで※(「碌のつくり」、第3水準1-84-27)きょくろくに腰かけていたあの老僧だ。骨と皮ばかりのような彼の細い影であった。
    「――今だよ」
    その手がさしまねく。
    劉備はすぐ地上へ跳びおりた。待っていた老僧は、彼の身を抱えるようにして、物もいわず馳けだした。
    寺の裏に、疎林そりんがあった。樹の間の細道さえ、銀河の秋はほの明るい。
    「老僧、老僧。いったいどっちへ逃げるんですか」
    「まだ、逃げるのじゃない」
    「では、どうするんです」
    「あのとうまで行ってもらうのじゃよ」
    走りながら、老僧は指さした。
    見るとなるほど、疎林の奥に、疎林のこずえよりも、高くそびえている古い塔がある。老僧は、あわただしく古塔のをひらいて中へ隠れた。そしてあんなに急いだのに、なかなか出てこなかった。
    「どうしたのだろう?」
    劉備は気を揉んでいる。そして賊兵が追ってきはしまいかと、あちこち見まわしているとやがて、
    「青年、青年」
    小声で呼びながら、塔の中から老僧は何かひきながら出てきた。
    「おや?」
    劉備は眼をみはった。老僧が引っぱっているのは駒の手綱だった。銀毛のように美しい白馬がひかれだしたのである。

     

    劉備はいましめられて、斎堂さいどうの丸柱にくくりつけられた。
    そこは床に瓦を敷き詰め、太い丸柱と、小さい窓しかない石室だった。
    「やい劉。貴様は、おれの眼をかすめて、逃げようとしたそうだな。察するところ、てめえは官の密偵だろう。いいや違えねえ。きっと県軍のまわし者だ。――今夜、十里ほど先まで、県軍がきて野陣を張っているそうだから、それへ連絡を取るために、け出そうとしたのだろう」
    馬元義と李朱氾は、かわるがわるに来て、彼を拷問ごうもんした。
    「――道理で、貴様の面がまえは、凡者ただものでないはずだ。県軍のまわし者でなければ、洛陽の直属の隠密か。いずれにしても、官人だろうてめえは。――さ、泥を吐け。いわねば、痛い思いをするだけだぞ」
    しまいには、馬と李と、二人がかりで、劉を蹴ってののしった。
    劉は一口も物をいわなかった。こうなったからには、天命にまかせようと観念しているふうだった。
    「こりゃひと筋縄では口をあかんぞ」
    李は、持てあまし気味に、へ向ってこう提議した。

    青空文庫より

  • 高木弘司朗読「あどけない話」高村光太郎

    智恵子抄

    高村光太郎

    あどけない話

    智恵子は東京に空が無いといふ、
    ほんとの空が見たいといふ。
    私は驚いて空を見る。
    桜若葉の間に在るのは、
    切つても切れない
    むかしなじみのきれいな空だ。
    どんよりけむる地平のぼかしは
    うすもも色の朝のしめりだ。
    智恵子は遠くを見ながら言ふ。
    阿多多羅山あたたらやまの山の上に
    毎日出てゐる青い空が
    智恵子のほんとの空だといふ。
    あどけない空の話である。

    昭和三・五

  • 第二回録音会郷圭子朗読「尾生の信」芥川龍之介

    尾生の信

    芥川龍之介

    尾生びせいは橋の下にたたずんで、さっきから女の来るのを待っている。
    見上げると、高い石の橋欄きょうらんには、蔦蘿つたかずらが半ばいかかって、時々その間を通りすぎる往来の人の白衣はくいの裾が、鮮かな入日に照らされながら、悠々と風に吹かれて行く。が、女は未だに来ない。
    尾生はそっと口笛を鳴しながら、気軽く橋の下のを見渡した。
    橋の下の黄泥こうでいの洲は、二坪ばかりの広さをあまして、すぐに水と続いている。水際みずぎわあしの間には、大方おおかたかに棲家すみかであろう、いくつもまるい穴があって、そこへ波が当る度に、たぶりと云うかすかな音が聞えた。が、女は未だに来ない。
    尾生はやや待遠しそうに水際までを移して、舟一艘いっそう通らない静な川筋を眺めまわした。
    川筋には青いあしが、隙間すきまもなくひしひしと生えている。のみならずその蘆の間には、所々ところどころ川楊かわやなぎが、こんもりと円く茂っている。だからその間を縫う水のおもても、川幅の割には広く見えない。ただ、おびほどの澄んだ水が、雲母きららのような雲の影をたった一つ鍍金めっきしながら、ひっそりと蘆の中にうねっている。が、女は未だに来ない。
    尾生は水際から歩をめぐらせて、今度は広くもないの上を、あちらこちらと歩きながら、おもむろに暮色を加えて行く、あたりの静かさに耳を傾けた。
    橋の上にはしばらくの間、行人こうじんの跡を絶ったのであろう。くつの音も、ひづめの音も、あるいはまた車の音も、そこからはもう聞えて来ない。風の音、蘆の音、水の音、――それからどこかでけたたましく、蒼鷺あおさぎの啼く声がした。と思って立止ると、いつか潮がさし出したと見えて、黄泥こうでいを洗う水の色が、さっきよりは間近に光っている。が、女は未だに来ない。
    尾生は険しくまゆをひそめながら、橋の下のうす暗い洲を、いよいよ足早に歩き始めた。その内に川の水は、一寸ずつ、一尺ずつ、次第に洲の上へ上って来る。同時にまた川から立昇たちのぼ※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)においや水の※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)も、冷たく肌にまつわり出した。見上げると、もう橋の上には鮮かな入日の光が消えて、ただ、石の橋欄きょうらんばかりが、ほのかに青んだ暮方くれがたの空を、黒々と正しく切り抜いている。が、女は未だに来ない。
    尾生はとうとう立ちすくんだ。
    川の水はもう沓を濡しながら、鋼鉄よりも冷やかな光をたたえて、漫々と橋の下に広がっている。すると、ひざも、腹も、胸も、恐らくは頃刻けいこくを出ない内に、この酷薄こくはくな満潮の水に隠されてしまうのに相違あるまい。いや、そう云う内にも水嵩みずかさますます高くなって、今ではとうとう両脛りょうはぎさえも、川波の下に没してしまった。が、女は未だに来ない。
    尾生は水の中に立ったまま、まだ一縷いちるの望を便りに、何度も橋の空へ眼をやった。
    腹をひたした水の上には、とうに蒼茫そうぼうたる暮色が立ちめて、遠近おちこちに茂った蘆や柳も、寂しい葉ずれの音ばかりを、ぼんやりしたもやの中から送って来る。と、尾生の鼻をかすめて、すずきらしい魚が一匹、ひらりと白い腹をひるがえした。その魚の躍った空にも、まばらながらもう星の光が見えて、蔦蘿つたかずらのからんだ橋欄きょうらんの形さえ、いち早い宵暗の中にまぎれている。が、女は未だに来ない。……

    ―――――――――――――――――――――――――

    夜半、月の光が一川いっせんの蘆と柳とにあふれた時、川の水と微風とは静にささやき交しながら、橋の下の尾生の死骸を、やさしく海の方へ運んで行った。が、尾生の魂は、寂しい天心の月の光に、思いこがれたせいかも知れない。ひそかに死骸を抜け出すと、ほのかに明るんだ空の向うへ、まるで水の※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)におい※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)が音もなく川から立ち昇るように、うらうらと高く昇ってしまった。……
    それから幾千年かを隔てたのち、この魂は無数の流転るてんけみして、また生を人間じんかんに託さなければならなくなった。それがこう云う私に宿っている魂なのである。だから私は現代に生れはしたが、何一つ意味のある仕事が出来ない。昼も夜も漫然と夢みがちな生活を送りながら、ただ、何かきたるべき不可思議なものばかりを待っている。ちょうどあの尾生が薄暮はくぼの橋の下で、永久に来ない恋人をいつまでも待ち暮したように。

    (大正八年十二月)