三国志

  • 吉川英治「三国志」 三花一瓶一二 朗読岡田慎平

    吉川英治「三国志」 三花一瓶三四 朗読岡田慎平

    吉川英治「三国志」 三花一瓶五 六 朗読岡田慎平

    ぺい

     

    母と子は、仕事の庭に、きょうも他念なく、蓆機むしろばたに向って、蓆を織っていた。
    がたん……
    ことん
    がたん
    水車のまわるような単調な音がくり返されていた。
    だが、その音にも、きょうはなんとなく活気があり、歓喜のがあった。
    黙々、仕事に精だしてはいるが、母の胸にも、劉備りゅうびの心にも、今日この頃の大地のように、希望の芽が生々と息づいていた。
    ゆうべ。
    劉備は、城内の市から帰ってくると、まっ先に、二つの吉事を告げた。
    一人の良き友に出会った事と、かねて手放した家宝の剣が、計らず再び、自分の手へ返ってきた事と。
    そう二つの歓びを告げると、彼の母は、
    「一陽来復ようらいふく。おまえにも時節が来たらしいね。劉備や……心の支度もよいかえ」
    と、かえって静かに声を低め、劉備の覚悟をただすようにいった。
    時節。……そうだ。
    長い長い冬を経て、桃園の花もようやくつぼみを破っている。土からも草の芽、木々の枝からも緑の芽、生命のあるもので、え出ない物はなに一つない。
    がたん……
    ことん……
    蓆機むしろばたは単調な音をくりかえしているが、劉備の胸は単調でない。こんな春らしい春をおぼえたことはない。
    ――我は青年なり。
    空へ向って言いたいような気持である。いやいや、老いたる母の肩にさえ、どこからか舞ってきた桃花の一片ひとひらが、あかく点じているではないか。
    すると、どこかで、歌う者があった。十二、三歳の少女の声だった。

    ショウガ髪初メテヒタイオオ
    花ヲ折ッテ門前ニタワム
    ロウハ竹馬ニ騎シテキタ
    ショウメグッテ青梅ヲロウ

    劉備は、耳を澄ました。
    少女の美音は、近づいてきた。

    ……十四キミノ婦トッテ
    羞顔シュウガンイマカツテ開カズ
    十五初メテマユ
    願ワクバチリト灰トヲ共ニセン
    常ニ抱柱ホウチュウノ信ヲソン
    アニノボランヤ望夫台ボウフダイ
    十六キミ遠クヘ行ク

    近所に住む少女であった。早熟な彼女はまだ青いなつめみたいに小粒であったが、劉備の家のすぐ墻隣かきどなりの息子に恋しているらしく、星の晩だの、人気ない折の真昼などうかがっては、墻の外へきて、よく歌をうたっていた。
    「…………」
    劉備は、木蓮の花に黄金きん耳環みみわを通したような、少女のかおを眼にえがいて、隣の息子を、なんとなくうらやましく思った。
    そしてふと、自分の心の底からも一人の麗人を思い出していた。それは、三年前の旅行中、古塔の下であの折の老僧にひき合わされた鴻家こうけの息女、鴻芙蓉こうふようのその後の消息であった。
    ――どうしたろう。あれから先。
    張飛に訊けば、知っている筈である。こんど張飛に会ったら――など独り考えていた。
    すると、かきの外で、しきりに歌をうたっていた少女が、犬にでも噛まれたのか、突然、きゃっと悲鳴をあげて、どこかへ逃げて行った。

    青空文庫より

  • 吉川英治 岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻 桑の家一 二

    吉川英治 岡田慎平朗読,「三国志」桃園の巻 桑の家 三 四

    吉川英治 岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻 桑の家五.六

    吉川英治 岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻 桑の家 七 八 九

    桑の家

    ※(「さんずい+(冢-冖)」、第3水準1-86-80)たくけん楼桑村ろうそうそんは、戸数二、三百の小駅であったが、春秋は北から南へ、南から北へと流れる旅人の多くが、この宿場でをつなぐので、酒を売る旗亭きていもあれば、胡弓こきゅうくひなびたおんななどもいて相当に賑わっていた。
    この地はまた、太守たいしゅ劉焉りゅうえんの領内で、校尉こうい鄒靖すうせいという代官が役所をおいて支配していたが、なにぶん、近年の物情騒然たる黄匪こうひ跳梁ちょうりょうおびやかされているので、楼桑村も例にもれず、夕方になると明るいうちから村はずれの城門をかたく閉めて、旅人も居住者も、いっさいの往来は止めてしまった。
    城門の鉄扉てっぴが閉まる時刻は、大陸の西※(「涯のつくり」、第3水準1-14-82)さいがいにまっ赤な太陽が沈みかける頃で、望楼の役人が、六つのを叩くのが合図だった。
    だからこの辺の住民は、そこの門のことを、六鼓門こもんと呼んでいたが、今日もまた、赤い夕陽が鉄のにさしかける頃、望楼の鼓が、もう二つ三つ四つ……と鳴りかけていた。
    「待って下さい。待って下さいっ」
    彼方から驢を飛ばしてきたひとりの旅人は、危うく一足ちがいで、一夜を城門の外に明かさなければならない間ぎわだったので、手をあげながら馳けてきた。
    最後の鼓の一つが鳴ろうとした時、からくも旅人は、城門へ着いて、
    「おねがい致します。通行をおゆるし下さいまし」
    と、驢をそこで降りて、型のごとく関門かんもん調べを受けた。
    役人は、旅人の顔を見ると、「やあ、お前は劉備りゅうびじゃないか」と、いった。
    劉備は、ここ楼桑村の住民なので、誰とも顔見知りだった。
    「そうです。今、旅先から帰って参ったところです」
    「お前なら、顔が手形てがただ、何も調べはいらないが、いったい何処へ行ったのだ。こんどの旅はまた、ばかに長かったじゃないか」
    「はい、いつもの商用ですが、なにぶん、どこへ行っても近頃は、黄匪こうひの横行で、思うようにあきないもできなかったものですから」
    「そうだろう。関門を通る旅人も、毎日へるばかりだ。さあ、早く通れ」
    「ありがとう存じます」
    再び驢にのりかけると、
    「そうそう、お前の母親だろう、よく関門まで来ては、きょうもまだ息子は帰りませぬか、今日も劉備は通りませぬかと、夕方になると訊ねにきたのが、この頃すがたが見えぬと思ったらわずらって寝ているのだぞ。はやく帰って顔を見せてやるがよい」
    「えっ。では母は、留守中に、病気で寝ておりますか」
    劉備はにわかに胸さわぎを覚え、驢を急がせて、関門から城内へ馳けた。
    久しく見ない町の暮色にも、眼もくれないで彼は驢を家路へ向けた。道幅の狭い、そして短い宿場町はすぐとぎれて、道はふたたび悠長な田園へかかる。
    ゆるい小川がある。水田がある。秋なのでもう村の人々は刈入れにかかっていた。そして所々に見える農家のほうへと、田の人影も水牛の影も戻って行く。
    「ああ、わが家が見える」
    劉備は、驢の上から手をかざした。うすずのなかに黒くぽつんと見える一つの屋根と、そして遠方から見ると、まるで大きな車蓋しゃがいのように見える桑の木。劉備の生れた家なのである。
    「どんなに自分をお待ちなされておることやら。……思えば、わしは孝養を励むつもりで、実は不孝ばかり重ねているようなもの。母上、済みません」
    彼の心を知るか、驢も足を早めて、やがてなつかしい桑の大樹の下までたどりついた。

    青空文庫より

  • 岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻吉川英治 張飛卒三


    岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻吉川英治 張飛卒四

    三国志

    桃園の巻

    吉川英治

    卒の張飛が、いきなり李朱氾をつまみ上げて、宙へ投げ飛ばしたので、
    「やっ、こいつが」と、賊の小方たちは、劉備もそっちのけにして、彼へ総掛りになった。
    「やい張卒、なんで貴様は、味方の李小方を投げおったか。また、おれ達のすることを邪魔だてするかっ」
    「ゆるさんぞ。ふざけた真似すると」
    「党の軍律に照らして、成敗してくれる。それへ直れ」
    ひしめき寄ると、張は、
    「わははははは。吠えろ吠えろ。きもをつぶした野良犬めらが」
    「なに、野良犬だと」
    「そうだ。その中に一匹でも、人間らしいのがおるつもりか」
    「うぬ。新米しんまいの卒の分際で」
    おめいた一人が、槍もろとも、躍りかかると、張飛は、団扇うちわのような大きな手で、その横顔をはりつけるや否や、槍を引ッたくって、よろめく尻をしたたかに打ちのめした。
    槍の柄は折れ、打たれた賊は、腰骨がくだけたように、ぎゃっともんどり打った。
    思わぬ裏切者が出て、賊は狼狽したが、日頃から図抜けた巨漢おおおとこの鈍物と、小馬鹿にしていた卒なので、その怪力を眼に見ても、まだ張飛の真価を信じられなかった。
    張飛は、さながら岩壁のような胸いたをそらして、
    「まだ来るか。むだ生命いのちを捨てるより、おとなしく逃げ帰って、鴻家こうけの姫と劉備りゅうびの身は、先頃、県城を焼かれて鴻家の亡びた時、降参といつわって、黄巾賊の卒にはいっていた張飛という者の手に渡しましたと、有態ありていに報告しておけ」
    青空文庫より

  • 岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻吉川英治

    どういう悪日とわるい方位をたどってきたものだろうか。
    黄河のほとりから、ここまでの間というものは、劉備は、幾たび死線を彷徨ほうこうしたことか知れない。これでもかこれでもかと、彼を試さんとする百難が、次々に形を変えて待ちかまえているようだった。
    「もうこれまで」
    劉備もついに観念した。避けようもない賊の包囲だ。斬りじにせんものと覚悟をきめた。
    けれど身には寸鉄も帯びていない。少年時代から片時もはなさず持っていた父の遺物かたみの剣も、先に賊将の馬元義にられてしまった。
    劉備は、しかし、
    「ただは死なぬ」と思い、石ころをつかむが早いか、近づく者の顔へ投げつけた。
    見くびっていた賊の一名は、不意を喰らって、
    「あッ」と、鼻ばしらをおさえた。
    劉備は、飛びついて、その槍を奪った。そして大音に、
    「四民を悩ます害虫ども、もはやゆるしはおかぬ。※(「さんずい+(冢-冖)」、第3水準1-86-80)たくけん劉備玄徳りゅうびげんとくが腕のほどを見よや」
    といって、捨身になった。
    賊の小方、李朱氾りしゅはんは笑って、
    「この百姓めが」と半月槍をふるってきた。
    もとより劉備はさして武術の達人ではない。田舎の楼桑村ろうそうそんで、多少の武技の稽古はしたこともあるが、それとて程の知れたものだ。武技を磨いて身を立てることよりも、むしろを織って母を養うことのほうが常に彼の急務であった。
    でも、必死になって、七人の賊を相手に、ややしばらくは、一命をささえていたが、そのうちに、槍を打落され、よろめいて倒れたところを、李朱氾に馬のりに組み敷かれて、李の大剣は、ついに、彼の胸いたに突きつけられた。

     

    張飛卒ちょうひそつ

    白馬は疎林そりんの細道を西北へ向ってまっしぐらに駆けて行った。秋風に舞う木の葉は、鞍上の劉備りゅうび芙蓉ふようの影を、征箭そやのようにかすめた。
    やがてひろい野に出た。
    野に出ても、二人の身をなお、うなりがかすめた。今度のは木の葉のそれではなく、鋭いやじりをもった鉄弓の矢であった。
    「オ。あれへ行くぞ」
    「女をのせて――」
    「では違うのか」
    「いや、やはり劉備だ」
    「どっちでもいい。逃がすな。女も逃がすな」
    賊兵の声々であった。
    疎林の陰を出たとたんに、黄巾賊の一隊は早くも見つけてしまったのである。
    獣群の声が、ときをつくって、白馬の影を追いつめて来た。
    劉備は、振り向いて、
    「しまった!」
    思わずつぶやいたので、彼と白馬の脚とを唯一の頼みにしがみついていた芙蓉は、
    「ああ、もう……」
    消え入るようにおののいた。
    万が一つも、助からぬものとは観念しながらも、劉備は励まして、
    「大丈夫、大丈夫。ただ、振り落されないように、駒のたてがみと、私の帯に、必死でつかまっておいでなさい」と、いって、むち打った。
    芙蓉はもう返事もしない。ぐったりと鬣に顔をうつ伏せている。その容貌かんばせの白さはおののく白芙蓉びゃくふようの花そのままだった。

     

    劉備りゅうびが、眼をくばると、
    「いや、動かぬがよい。しばらくは、かえってここに、じっとしていたほうが……」
    と、老僧が彼の袖をとらえ、そんな危急の中になお、語りつづけた。
    県の城長の娘は、名を芙蓉ふようといい姓はこうということ。また、今夜近くの河畔にきて宿陣している県軍は、きっと先に四散した城長の家臣が、残兵を集めて、黄巾賊へ報復を計っているに違いないということ。
    だから、芙蓉の身を、そこまで届けてくれさえすれば、後は以前の家来たちが守護してくれる――白馬の背へ二人してのって、抜け道から一気に逃げのびて行くように――と、いのるようにいうのだった。

     

     足の先で、短剣を寄せた。そしてようやく、それを手にして、自身の縄目を断ち切ると、劉備は、窓の下に立った。

    (早く。早く)といわんばかりに、無言の縄は外から意志を伝えて、ゆれうごいている。
    劉備は、それにつかまった。石壁に足をかけて、窓から外を見た。
    「……オオ」
    外にたたずんでいたのは、昼間、ただひとりで※(「碌のつくり」、第3水準1-84-27)きょくろくに腰かけていたあの老僧だ。骨と皮ばかりのような彼の細い影であった。
    「――今だよ」
    その手がさしまねく。
    劉備はすぐ地上へ跳びおりた。待っていた老僧は、彼の身を抱えるようにして、物もいわず馳けだした。
    寺の裏に、疎林そりんがあった。樹の間の細道さえ、銀河の秋はほの明るい。
    「老僧、老僧。いったいどっちへ逃げるんですか」
    「まだ、逃げるのじゃない」
    「では、どうするんです」
    「あのとうまで行ってもらうのじゃよ」
    走りながら、老僧は指さした。
    見るとなるほど、疎林の奥に、疎林のこずえよりも、高くそびえている古い塔がある。老僧は、あわただしく古塔のをひらいて中へ隠れた。そしてあんなに急いだのに、なかなか出てこなかった。
    「どうしたのだろう?」
    劉備は気を揉んでいる。そして賊兵が追ってきはしまいかと、あちこち見まわしているとやがて、
    「青年、青年」
    小声で呼びながら、塔の中から老僧は何かひきながら出てきた。
    「おや?」
    劉備は眼をみはった。老僧が引っぱっているのは駒の手綱だった。銀毛のように美しい白馬がひかれだしたのである。

     

    劉備はいましめられて、斎堂さいどうの丸柱にくくりつけられた。
    そこは床に瓦を敷き詰め、太い丸柱と、小さい窓しかない石室だった。
    「やい劉。貴様は、おれの眼をかすめて、逃げようとしたそうだな。察するところ、てめえは官の密偵だろう。いいや違えねえ。きっと県軍のまわし者だ。――今夜、十里ほど先まで、県軍がきて野陣を張っているそうだから、それへ連絡を取るために、け出そうとしたのだろう」
    馬元義と李朱氾は、かわるがわるに来て、彼を拷問ごうもんした。
    「――道理で、貴様の面がまえは、凡者ただものでないはずだ。県軍のまわし者でなければ、洛陽の直属の隠密か。いずれにしても、官人だろうてめえは。――さ、泥を吐け。いわねば、痛い思いをするだけだぞ」
    しまいには、馬と李と、二人がかりで、劉を蹴ってののしった。
    劉は一口も物をいわなかった。こうなったからには、天命にまかせようと観念しているふうだった。
    「こりゃひと筋縄では口をあかんぞ」
    李は、持てあまし気味に、へ向ってこう提議した。

    青空文庫より

  • 岡田慎平朗読「三国志」桃園の巻 吉川英治 流行る童歌

     

     

     

     

     

    流行童歌

    驢は、北へ向いて歩いた。
    鞍上の馬元義は、ときどき南を振り向いて、
    「奴らはまだ追いついてこないがどうしたのだろう」と、つぶやいた。
    彼の半月槍をかついで、驢の後からついてゆく手下の甘洪かんこうは、
    「どこかで道を取っ違えたのかも知れませんぜ。いずれ冀州きしゅう(河北省保定の南方)へ行けば落ち合いましょうが」と、いった。
    いずれ賊の仲間のことをいっているのであろう――と劉備りゅうびは察した。とすれば、自分がのがれてきた黄河の水村を襲ったあの連中を待っているのかも知れない、と思った。
    (何しろ、従順をよそおっているに如しくはない。そのうちには、逃げる機会があるだろう)
    劉備は、賊の荷物を負って、黙々と、驢と半月槍のあいだに挟まれながら歩いた。丘陵と河と平原ばかりの道を、四日も歩きつづけた。
    幸い雨のない日が続いた。十方碧落へきらく、一朶だの雲もない秋だった。黍きびのひょろ長い穂に、時折、驢も人の背丈せたけもつつまれる。
    「ああ――」
    旅に倦うんで、馬元義は大きなあくびを見せたりした。甘も気けだるそうに居眠り半分、足だけを動かしていた。
    そんな時、劉備はふと、
    ――今だっ。
    という衝動にかられて、幾度か剣に手をやろうとしたが、もし仕損じたらと、母を想い、身の大望を考えて、じっと辛抱していた。
    「おう、甘洪」
    「へえ」
    「飯が食えるぞ。冷たい水にありつけるぞ――見ろ、むこうに寺があら」
    「寺が」
    黍の間から伸び上がって、
    「ありがてえ。大方だいほう、きっと酒もありますぜ。坊主は酒が好きですからね」
    夜は冷え渡るが、昼間は焦げつくばかりな炎熱であった。――水と聞くと、劉備も思わず伸び上がった。
    低い丘陵が彼方に見える。
    丘陵に抱かれている一叢ひとむらの木立と沼があった。沼には紅白の蓮花はちすがいっぱい咲いていた。
    そこの石橋を渡って、荒れはてた寺門の前で、馬元義は驢をおりた。門の扉は、一枚はこわれ、一枚は形だけ残っていた。それに黄色の紙が貼ってあって、次のような文が書いてあった。
    青空文庫

  • 青空文庫名作文学の朗読、朗読カフェSTUDIO、岡田慎平朗読「三国志」

    桃園の巻 吉川英治

    黄巾賊こうきんぞく

    後漢ごかん建寧けんねい元年のころ。
    今から約千七百八十年ほど前のことである。
    一人の旅人があった。
    腰に、一剣をいているほか、身なりはいたって見すぼらしいが、まゆひいで、くちあかく、とりわけ聡明そうめいそうなひとみや、ゆたかな頬をしていて、つねにどこかに微笑をふくみ、総じていやしげな容子ようすがなかった。
    年の頃は二十四、五。
    草むらの中に、ぽつねんと坐って、膝をかかえこんでいた。
    悠久ゆうきゅうと水は行く――
    微風はさわやかにびんをなでる。
    涼秋の八月だ。
    そしてそこは、黄河のほとりの――黄土層の低いぎしであった。
    「おーい」
    誰か河でよんだ。
    「――そこの若い者ウ。なにを見ているんだい。いくら待っていても、そこは渡し舟の着く所じゃないぞ」
    小さな漁船から漁夫りょうしがいうのだった。
    青年はくぼを送って、
    「ありがとう」と、少し頭を下げた。
    漁船は、下流へ流れ去った。けれど青年は、同じ所に、同じ姿をしていた。膝をかかえて坐ったまま遠心的な眼をうごかさなかった。

    青空文庫

     


    青空文庫名作文学の朗読、朗読カフェSTUDIO、岡田慎平朗読「三国志」

    桃園の巻 吉川英治

    劉備は、おどろいて、何者かと振りかえった。
    とがめた者は、
    「どこから来たっ」と、彼の襟がみをもう用捨ようしゃなくつかんでいた。
    「……?」
    見ると、役人であろう、胸に県の吏章りしょうをつけている。近頃は物騒ぶっそうな世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装していた。二人のうち一名は鉄弓てっきゅうを持ち、一名は半月槍はんげつそうをかかえていた。
    ※(「さんずい+(冢-冖)」、第3水準1-86-80)たくけんの者です」
    劉備青年が答えると、
    ※(「さんずい+(冢-冖)」、第3水準1-86-80)県はどこか」と、たたみかけていう。
    「はい、※(「さんずい+(冢-冖)」、第3水準1-86-80)県の楼桑村ろうそうそん(現在・京広線の北京―保定間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでおります」
    「商売は」
    むしろったりすだれをつくって、売っておりますが」
    「なんだ、行商人ぎょうしょうにんか」
    「そんなものです」
    「だが……」
    と、役人は急にむさい物からのくように襟がみを放して、劉備の腰の剣をのぞきこんだ。
    「この剣には、黄金の佩環はいかんに、※(「王+干」、第3水準1-87-83)ろうかん緒珠おだまがさがっているのではないか、蓆売むしろうりには過ぎた刀だ。どこで盗んだ?」
    「これだけは、父の遺物かたみで持っているのです。盗んだ物などではありません」
    素直ではあるが、りんとした答えである。役人は、劉備青年の眼を見ると、急に眼をそらして、
    「しかしだな、こんなところに、半日も坐りこんで、いったい何を見ておるのか。怪しまれても仕方があるまい。――折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群れがせて、掠奪りゃくだつを働いて逃げた所だ。――見るところ大人しそうだし、賊徒とは思われぬが、一応疑ってみねばならん」
    「ごもっともです。……実は私が待っているのは、今日あたりこうを下ってくると聞いている洛陽船らくようぶねでございます」
    「ははあ、誰か身寄りの者でもそれへ便乗して来るのか」
    「いいえ、茶を求めたいと思って。――待っているのです」
    「茶を」
    役人は眼をみはった。

    青空文庫