新美南吉
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新美南吉「飴だま」朗読カフェ 小宮千明朗読
飴だま
新美南吉
春のあたたかい日のこと、わたし舟にふたりの小さな子どもをつれた女の旅人がのりました。
舟が出ようとすると、
「おオい、ちょっとまってくれ。」
と、どての向こうから手をふりながら、さむらいがひとり走ってきて、舟にとびこみました。
舟は出ました。
さむらいは舟のまん中にどっかりすわっていました。ぽかぽかあたたかいので、そのうちにいねむりをはじめました。
黒いひげをはやして、つよそうなさむらいが、こっくりこっくりするので、子どもたちはおかしくて、ふふふと笑いました。
お母さんは口に指をあてて、
「だまっておいで。」
といいました。さむらいがおこってはたいへんだからです。
子どもたちはだまりました。
しばらくするとひとりの子どもが、
「かあちゃん、飴だまちょうだい。」
と手をさしだしました。
すると、もうひとりの子どもも、
「かあちゃん、あたしにも。」
といいました。
お母さんはふところから、紙のふくろをとりだしました。ところが、飴だまはもう一つしかありませんでした。
「あたしにちょうだい。」
「あたしにちょうだい。」
ふたりの子どもは、りょうほうからせがみました。飴だまは一つしかないので、お母さんはこまってしまいました。
「いい子たちだから待っておいで、向こうへついたら買ってあげるからね。」
といってきかせても、子どもたちは、ちょうだいよオ、ちょうだいよオ、とだだをこねました。
いねむりをしていたはずのさむらいは、ぱっちり眼をあけて、子どもたちがせがむのをみていました。
お母さんはおどろきました。いねむりをじゃまされたので、このおさむらいはおこっているのにちがいない、と思いました。
「おとなしくしておいで。」
と、お母さんは子どもたちをなだめました。
けれど子どもたちはききませんでした。
するとさむらいが、すらりと刀をぬいて、お母さんと子どもたちのまえにやってきました。
お母さんはまっさおになって、子どもたちをかばいました。いねむりのじゃまをした子どもたちを、さむらいがきりころすと思ったのです。
「飴だまを出せ。」
とさむらいはいいました。
お母さんはおそるおそる飴だまをさしだしました。
さむらいはそれを舟のへりにのせ、刀でぱちんと二つにわりました。
そして、
「そオれ。」
とふたりの子どもにわけてやりました。
それから、またもとのところにかえって、こっくりこっくりねむりはじめました。 -
新美南吉「花のき村と盗人たち」福山美奈子朗読
36.65
May 02, 2018むかし、花のき村に、五人組の盗人がやって来ました。
それは、若竹が、あちこちの空に、かぼそく、ういういしい緑色の芽をのばしている初夏のひるで、松林では松蝉が、ジイジイジイイと鳴いていました。
盗人たちは、北から川に沿ってやって来ました。花のき村の入り口のあたりは、すかんぽやうまごやしの生えた緑の野原で、子供や牛が遊んでおりました。これだけを見ても、この村が平和な村であることが、盗人たちにはわかりました。そして、こんな村には、お金やいい着物を持った家があるに違いないと、もう喜んだのでありました。
川は藪の下を流れ、そこにかかっている一つの水車をゴトンゴトンとまわして、村の奥深くはいっていきました。
藪のところまで来ると、盗人のうちのかしらが、いいました。
「それでは、わしはこの藪のかげで待っているから、おまえらは、村のなかへはいっていって様子を見て来い。なにぶん、おまえらは盗人になったばかりだから、へまをしないように気をつけるんだぞ。金のありそうな家を見たら、そこの家のどの窓がやぶれそうか、そこの家に犬がいるかどうか、よっくしらべるのだぞ。いいか釜右ヱ門。」
「へえ。」
と釜右ヱ門が答えました。これは昨日まで旅あるきの釜師で、釜や茶釜をつくっていたのでありました。
「いいか、海老之丞。」
「へえ。」
と海老之丞が答えました。これは昨日まで錠前屋で、家々の倉や長持などの錠をつくっていたのでありました。
「いいか角兵ヱ。」
「へえ。」
とまだ少年の角兵ヱが答えました。これは越後から来た角兵ヱ獅子で、昨日までは、家々の閾の外で、逆立ちしたり、とんぼがえりをうったりして、一文二文の銭を貰っていたのでありました。
「いいか鉋太郎。」
「へえ。」
と鉋太郎が答えました。これは、江戸から来た大工の息子で、昨日までは諸国のお寺や神社の門などのつくりを見て廻り、大工の修業していたのでありました。
「さあ、みんな、いけ。わしは親方だから、ここで一服すいながらまっている。」
そこで盗人の弟子たちが、釜右ヱ門は釜師のふりをし、海老之丞は錠前屋のふりをし、角兵ヱは獅子まいのように笛をヒャラヒャラ鳴らし、鉋太郎は大工のふりをして、花のき村にはいりこんでいきました。
かしらは弟子どもがいってしまうと、どっかと川ばたの草の上に腰をおろし、弟子どもに話したとおり、たばこをスッパ、スッパとすいながら、盗人のような顔つきをしていました。これは、ずっとまえから火つけや盗人をして来たほんとうの盗人でありました。
「わしも昨日までは、ひとりぼっちの盗人であったが、今日は、はじめて盗人の親方というものになってしまった。だが、親方になって見ると、これはなかなかいいもんだわい。仕事は弟子どもがして来てくれるから、こうして寝ころんで待っておればいいわけである。」
とかしらは、することがないので、そんなつまらないひとりごとをいってみたりしていました。
やがて弟子の釜右ヱ門が戻って来ました。
「おかしら、おかしら。」
かしらは、ぴょこんとあざみの花のそばから体を起こしました。
「えいくそッ、びっくりした。おかしらなどと呼ぶんじゃねえ、魚の頭のように聞こえるじゃねえか。ただかしらといえ。」
盗人になりたての弟子は、
「まことに相すみません。」
とあやまりました。
「どうだ、村の中の様子は。」
とかしらがききました。
「へえ、すばらしいですよ、かしら。ありました、ありました。」
「何が。」
「大きい家がありましてね、そこの飯炊き釜は、まず三斗ぐらいは炊ける大釜でした。あれはえらい銭になります。それから、お寺に吊ってあった鐘も、なかなか大きなもので、あれをつぶせば、まず茶釜が五十はできます。なあに、あっしの眼に狂いはありません。嘘だと思うなら、あっしが造って見せましょう。」
「馬鹿馬鹿しいことに威張るのはやめろ。」
とかしらは弟子を叱りつけました。
「きさまは、まだ釜師根性がぬけんからだめだ。そんな飯炊き釜や吊り鐘などばかり見てくるやつがあるか。それに何だ、その手に持っている、穴のあいた鍋は。」
「へえ、これは、その、或る家の前を通りますと、槙の木の生け垣にこれがかけて干してありました。見るとこの、尻に穴があいていたのです。それを見たら、じぶんが盗人であることをつい忘れてしまって、この鍋、二十文でなおしましょう、とそこのおかみさんにいってしまったのです。」
「何というまぬけだ。じぶんのしょうばいは盗人だということをしっかり肚にいれておらんから、そんなことだ。」
と、かしらはかしららしく、弟子に教えました。そして、
「もういっぺん、村にもぐりこんで、しっかり見なおして来い。」
と命じました。釜右ヱ門は、穴のあいた鍋をぶらんぶらんとふりながら、また村にはいっていきました。
こんどは海老之丞がもどって来ました。
「かしら、ここの村はこりゃだめですね。」
と海老之丞は力なくいいました。
「どうして。」
「どの倉にも、錠らしい錠は、ついておりません。子供でもねじきれそうな錠が、ついておるだけです。あれじゃ、こっちのしょうばいにゃなりません。」
「こっちのしょうばいというのは何だ。」
「へえ、……錠前……屋。」
「きさまもまだ根性がかわっておらんッ。」
とかしらはどなりつけました。
「へえ、相すみません。」
「そういう村こそ、こっちのしょうばいになるじゃないかッ。倉があって、子供でもねじきれそうな錠しかついておらんというほど、こっちのしょうばいに都合のよいことがあるか。まぬけめが。もういっぺん、見なおして来い。」
「なるほどね。こういう村こそしょうばいになるのですね。」
と海老之丞は、感心しながら、また村にはいっていきました。
次にかえって来たのは、少年の角兵ヱでありました。角兵ヱは、笛を吹きながら来たので、まだ藪の向こうで姿の見えないうちから、わかりました。
「いつまで、ヒャラヒャラと鳴らしておるのか。盗人はなるべく音をたてぬようにしておるものだ。」
とかしらは叱りました。角兵ヱは吹くのをやめました。
「それで、きさまは何を見て来たのか。」
「川についてどんどん行きましたら、花菖蒲を庭いちめんに咲かせた小さい家がありました。」
「うん、それから?」
「その家の軒下に、頭の毛も眉毛もあごひげもまっしろな爺さんがいました。」
「うん、その爺さんが、小判のはいった壺でも縁の下に隠していそうな様子だったか。」
「そのお爺さんが竹笛を吹いておりました。ちょっとした、つまらない竹笛だが、とてもええ音がしておりました。あんな、不思議に美しい音ははじめてききました。おれがききとれていたら、爺さんはにこにこしながら、三つ長い曲をきかしてくれました。おれは、お礼に、とんぼがえりを七へん、つづけざまにやって見せました。」
「やれやれだ。それから?」
「おれが、その笛はいい笛だといったら、笛竹の生えている竹藪を教えてくれました。そこの竹で作った笛だそうです。それで、お爺さんの教えてくれた竹藪へいって見ました。ほんとうにええ笛竹が、何百すじも、すいすいと生えておりました。」
「昔、竹の中から、金の光がさしたという話があるが、どうだ、小判でも落ちていたか。」
「それから、また川をどんどんくだっていくと小さい尼寺がありました。そこで花の撓がありました。お庭にいっぱい人がいて、おれの笛くらいの大きさのお釈迦さまに、あま茶の湯をかけておりました。おれもいっぱいかけて、それからいっぱい飲ましてもらって来ました。茶わんがあるならかしらにも持って来てあげましたのに。」
「やれやれ、何という罪のねえ盗人だ。そういう人ごみの中では、人のふところや袂に気をつけるものだ。とんまめが、もういっぺんきさまもやりなおして来い。その笛はここへ置いていけ。」
角兵ヱは叱られて、笛を草の中へおき、また村にはいっていきました。
おしまいに帰って来たのは鉋太郎でした。
「きさまも、ろくなものは見て来なかったろう。」
と、きかないさきから、かしらがいいました。
「いや、金持ちがありました、金持ちが。」
と鉋太郎は声をはずませていいました。金持ちときいて、かしらはにこにことしました。
「おお、金持ちか。」
「金持ちです、金持ちです。すばらしいりっぱな家でした。」
「うむ。」
「その座敷の天井と来たら、さつま杉の一枚板なんで、こんなのを見たら、うちの親父はどんなに喜ぶかも知れない、と思って、あっしは見とれていました。」
「へっ、面白くもねえ。それで、その天井をはずしてでも来る気かい。」
鉋太郎は、じぶんが盗人の弟子であったことを思い出しました。盗人の弟子としては、あまり気が利かなかったことがわかり、鉋太郎はバツのわるい顔をしてうつむいてしまいました。
そこで鉋太郎も、もういちどやりなおしに村にはいっていきました。
「やれやれだ。」
と、ひとりになったかしらは、草の中へ仰向けにひっくりかえっていいました。
「盗人のかしらというのもあんがい楽なしょうばいではないて。」 -
新美南吉「一年生たちとひよめ」飯田桃子朗読
3.70
Dec 12, 2017一年生たちとひよめ
新美南吉
学校へいくとちゅうに、大きな池がありました。
一年生たちが、朝そこを通りかかりました。
池の中にはひよめが五六っぱ、黒くうかんでおりました。
それをみると一年生たちは、いつものように声をそろえて、ひイよめ、
ひよめ、
だんごやアるに
くウぐウれッ、とうたいました。
するとひよめは頭からぷくりと水のなかにもぐりました。だんごがもらえるのをよろこんでいるようにみえました。
けれど一年生たちは、ひよめにだんごをやりませんでした。学校へゆくのにだんごなどもっている子はありません。
一年生たちは、それから学校にきました。
学校では先生が教えました。
「みなさん、うそをついてはなりません。うそをつくのはたいへんわるいことです。むかしの人は、うそをつくと死んでから赤鬼に、舌べろを釘ぬきでひっこぬかれるといったものです。うそをついてはなりません。さあ、わかった人は手をあげて。」
みんなが手をあげました。みんなよくわかったからであります。
さて学校がおわると、一年生たちはまた池のふちを通りかかったのでありました。
ひよめはやはりおりました。一年生たちのかえりを待っていたかのように、水の上からこちらをみていました。ひイよめ、
ひよめ、と一年生たちは、いつものくせでうたいはじめました。
しかし、そのあとをつづけてうたうものはありませんでした。「だんごやるに、くぐれ」とうたったら、それはうそをいったことになります。うそをいってはならない、と今日学校でおそわったばかりではありませんか。
さて、どうしたものでしょう。
このままいってしまうのもざんねんです。そしたらひよめのほうでも、さみしいと思うにちがいありません -
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新美南吉「張紅倫」駒形恵美 朗読
16.23
Oct 03, 2017張紅倫
一
奉天(ほうてん)大戦争(一九〇五年)の数日まえの、ある夜中のことでした。わがある部隊の大隊長青木少佐は、畑の中に立っている歩哨(ほしょう)を見まわって歩きました。歩哨は、めいぜられた地点に石のようにつっ立って、きびしい寒さと、ねむさをがまんしながら、警備についているのでした。
「第三歩哨、異状はないか」
少佐は小さく声をかけました。
「はっ、異状ありません」
歩哨のへんじが、あたりの空気に、ひくく、こだましました。少佐は、また、歩きだしました。
頭の上で、小さな星が一つ、かすかにまたたいています。少佐はその光をあおぎながら、足音をぬすんで歩きつづけました。
もうすこしいくと、つぎの歩哨のかげが見えようと思われるところで、少佐はどかりと足をふみはずして、こおった土くれをかぶりながら、がたがたがた、どすんと、深いあなの中に落ちこみました。
ふいをくった少佐は、しばらくあなのそこでぼんやりしていましたが、あたりのやみに目もなれ、気もおちついてくると、あなの中のようすがうすうすわかってきました。それは四メートル以上の深さで、そこのほうがひろがっている、水のかれた古井戸だったのです。
少佐は、声を出して歩哨(ほしょう)をよぼうとしましたが、まてまて、深い井戸の中のことだから、歩哨のいるところまで、声がとおるかどうかわからない、それに、もし、ロシアの斥候(せっこう)にききつけられたら、むざむざところされるにきまっている、と思いかえし、そのまま、だまってこしをおろしました。
あすの朝になったら、だれかがさがしあてて、ひきあげてくれるだろうと考えながら、まるい井戸の口でしきられた星空を見つめていました。そのうちに、井戸の中があんがいあたたかなので、うとうととねむりだしました。
ふとめざめたときは、もう夜があけていました。少佐はううんとあくびをしながら、赤くかがやいた空を見あげたのち、
「ちょっ、どうしたらいいかな」
と、心の中でつぶやきました。
まもなく、朝やけで赤かった空は、コバルト色になり、やがて、こい水色にかわっていきました。少佐は、だれかさがし出してくれないものかと、待ちあぐんでいましたが、だれもここに井戸があることさえ、気がつかないらしいけはいです。上を見ると、長いのや、みじかいのや、いろいろの形をしたきれぎれの雲が、あとから、あとからと、白く通っていくきりです。
とうとうお昼近くになりました。青木少佐ははらもへり、のどがかわいてきました。とてもじれったくなって、大声で、オーイ、オーイと、いくどもどなってみました。しかし、じぶんの声がかべにひびくだけで、だれもへんじをしてくれるものはありません。
少佐は、しかたなく、むだだとは知りながら、なんどもなんども、井戸の口からさがったつる草のはしにとびつこうとしました。やがて、「あああ」と、つかれはてて、べったりと井戸のそこにすわりこんでしまいました。
そのうちに、とうとう日がくれて、寒いよいやみがせまってきました。ゆうべの小さな星が、おなじところでさびしく光っています。
「おれは、このまま死んでしまうかもしれないぞ」
と、少佐は、ふと、こんなことを考えました。
「じぶんは、いまさら死をおそれはしない。しかし、戦争に加わっていながら、こんな古井戸の中でのたれ死にをするのは、いかにもいまいましい。死ぬなら、敵のたまにあたって、はなばなしく死にたいなあ」
と、こうも思いました。
まもなく少佐は、つかれと空腹のために、ねむりにおちいりました。それは、ねむりといえばねむりでしたが、ほとんど気絶したもおなじようなものでした。
それからいく時間たったでしょう。少佐の耳に、ふと、人の声がきこえてきました。しかし、少佐はまだ半分うとうとして、はっきりめざめることができませんでした。
「ははあ、地獄から、おにがむかえにきたのかな」
少佐は、そんなことを、ゆめのように考えていました。すると、耳もとの人声がだんだんはっきりしてきました。
「しっかりなさい」
と、中国語でいいます。
少佐は、中国語をすこし知っていました。そのことばで、びっくりして目をひらきました。
「気がつきましたか。たすけてあげます」
と、そばに立っていた男が、こういってだきおこしてくれました。
「ありがとう、ありがとう」
と、少佐はこたえようとしましたが、のどがこわばって、声が出ません。
男は、井戸の口からつりさげたなわのはしで、少佐の胴体(どうたい)をしばっておいて、じぶんがさきにそのなわにつかまってのぼり、それから、なわをたぐって、少佐を井戸の外へひきあげました。少佐は、ぎらぎらした昼の天地が目にはいるといっしょに、ああ、たすかったと思いましたが、そのまま、また、気をうしなってしまいました。二
少佐がかつぎこまれたのは、ほったて小屋のようにみすぼらしい、中国人の百しょうの家で、張魚凱(ちょうぎょがい)というおやじさんと、張紅倫(ちょうこうりん)というむすことふたりきりの、まずしいくらしでした。
あい色の中国服をきた十三、四の少年の紅倫は、少佐のまくらもとにすわって、看護してくれました。紅倫は、大きなどんぶりに、きれいな水をいっぱいくんでもってきて、いいました。
「わたしが、あの畑の道を通りかかると、人のうめき声がきこえました。おかしいなと思ってあたりをさがしまわっていたら、井戸のそこにあなたがたおれていたので、走ってかえって、おとうさんにいったんです。それから、おとうさんとわたしとで、なわをもっていって、ひきあげたのです」
紅倫(こうりん)はうれしそうに目をかがやかしながら話しました。少佐はどんぶりの水をごくごくのんでは、うむうむと、いちいち感謝をこめてうなずきました。
それから、紅倫は、日本のことをいろいろたずねました。少佐が、内地に待っている、紅倫とおない年くらいのじぶんの子どものことを話してやると、紅倫はたいへんよろこびました。わたしも日本へいってみたい、そして、あなたのお子さんとお友だちになりたいと、いいました。少佐はこんな話をするたびに、日本のことを思いうかべては、小さなまどから、うらの畑のむこうを見つめました。外では、遠くで、ドドン、ドドンと、砲声がひっきりなしにきこえました。
そのまま四、五日たった、ある夕がたのことでした。もう戦いもすんだのか、砲声もぱったりやみました。まどから見える空がまっかにやけて、へんにさびしいながめでした。いちんち畑ではたらいていた張魚凱(ちょうぎょがい)が、かえってきました。そして少佐のまくらもとにそそくさとすわりこんで、
「こまったことになりました。村のやつらが、あなたをロシア兵に売ろうといいます。こんばん、みんなで、あなたをつかまえにくるらしいです。早くここをにげてください。まだ動くにはごむりでしょうが、一刻もぐずぐずしてはいられません。早くしてください。早く」
と、せきたてます。
少佐は、もうどうやら歩けそうなので、これまでの礼をあつくのべ、てばやく服装をととのえて、紅倫(こうりん)の家を出ました。畑道に出て、ふりかえってみると、紅倫がせど[#「せど」に傍点]口から顔を出して、さびしそうに少佐のほうを見つめていました。少佐はまた、ひきかえしていって、大きな懐中時計(かいちゅうどけい)をはずして、紅倫の手ににぎらせました。
だんだん暗くなっていく畑の上を、少佐は、身をかがめて、奉天をめあてに、野ねずみのようにかけていきました。三
戦争がおわって、少佐も内地へかえりました。その後、少佐は退役して、ある都会の会社につとめました。少佐は、たびたび張(ちょう)親子を思い出して、人びとにその話をしました。張親子へはなんべんも手紙を送りました。けれども、先方ではそれが読めなかったのか、一どもへんじをくれませんでした。
戦争がすんでから、十年もたちました。少佐は、その会社の、かなり上役(うわやく)になり、むすこさんもりっぱな青年になりました。紅倫(こうりん)もきっと、たくましいわかものになったことだろうと、少佐はよくいいいいしました。
ある日の午後、会社の事務室へ、年わかい中国人がやってきました。青い服に、麻(あさ)のあみぐつをはいて、うでにバスケットをさげていました。
「こんにちは。万年筆いかが」
と、バスケットをあけて、受付の男の前につきだしました。
「いらんよ」
と受付の男は、うるさそうにはねつけました。
「墨(すみ)いかが」
「墨も筆もいらん。たくさんあるんだ」
と、そのとき、おくのほうから青木少佐が出てきました。
「おい、万年筆を買ってやろう」
と、少佐はいいました。
「万年筆やすい」
あたりで仕事をしていた人も、少佐が万年筆を買うといいだしたので、ふたりのまわりによりたかってきました。いろんな万年筆を少佐が手にとって見ているあいだ、中国人は、少佐の顔をじっと見まもっていました。
「これを一本もらうよ。いくらだい」
「一円と二十銭」
少佐は金入れから、銀貨を出してわたしました。中国人はバスケットの始末をして、ていねいにおじぎをして、出ていこうとしました。そのとき、中国人は、ポケットから懐中時計(どけい)をつまみ出して、時間を見ました。少佐は、ふとそれに目をとめて、
「あ、ちょっと待ちたまえ。その時計を見せてくれないか」
「とけい?」
中国人は、なぜそんなことをいうのか、ふ[#「ふ」に傍点]におちないようすで、おずおずさし出しました。少佐が手にとってみますと、それは、たしかに、十年まえ、じぶんが張紅倫(ちょうこうりん)にやった時計です。
「きみ、張紅倫というんじゃないかい」
「えっ!」と、中国人のわかものは、びっくりしたようにいいましたが、すぐ、「わたし、張紅倫ない」
と、くびをふりました。
「いや、きみは紅倫君だろう。わしが古井戸の中に落ちたのを、すくってくれたことを、おぼえているだろう? わしは、わかれるとき、この時計をきみにやったんだ」
「わたし、紅倫ない。あなたのようなえらい人、あなに落ちることない」
といってききません。
「じゃあ、この時計はどうして手に入れたんだ」
「買った」
「買った? 買ったのか。そうか。それにしてもよくにた時計があるもんだな。ともかくきみは紅倫にそっくりだよ。へんだね。いや、失礼、よびとめちゃって」
「さよなら」
中国人はもう一ぺん、ぺこんとおじぎをして、出ていきました。
そのよく日、会社へ、少佐にあてて無名の手紙がきました。あけてみますと、読みにくい中国語で、
『わたくしは紅倫です。あの古井戸からおすくいしてから、もう十年もすぎましたこんにち、あなたにおあいするなんて、ゆめのような気がしました。よく、わたくしをおわすれにならないでいてくださいました。わたくしの父はさく年死にました。わたくしはあなたとお話がしたい。けれど、お話したら、中国人のわたくしに、軍人だったあなたが古井戸の中からすくわれたことがわかると、今の日本では、あなたのお名まえにかかわるでしょう。だから、わたくしはあなたにうそをつきました。わたくしは、あすは、中国へかえることにしていたところです。さよなら、おだいじに。さよなら』
と、だいたい、そういう意味のことが書いてありました。 -
新美南吉 「赤とんぼ」福山美奈子朗読
11.22
Sep 11, 2017赤とんぼ
新美南吉
赤とんぼは、三回ほど空をまわって、いつも休む一本の垣根の竹の上に、チョイととまりました。
山里の昼は静かです。
そして、初夏の山里は、真実に緑につつまれています。
赤とんぼは、クルリと眼玉を転じました。
赤とんぼの休んでいる竹には、朝顔のつるがまきついています。昨年の夏、この別荘の主人が植えていった朝顔の結んだ実が、また生えたんだろう――と赤とんぼは思いました。
今はこの家には誰もいないので、雨戸が淋しくしまっています。
赤とんぼは、ツイと竹の先からからだを離して、高い空に舞い上がりました。三四人の人が、こっちへやって来ます。
赤とんぼは、さっきの竹にまたとまって、じっと近づいて来る人々を見ていました。
一番最初にかけて来たのは、赤いリボンの帽子をかぶったかあいいおじょうちゃんでした。それから、おじょうちゃんのお母さん、荷物をドッサリ持った書生さん――と、こう三人です。
赤とんぼは、かあいいおじょうちゃんの赤いリボンにとまってみたくなりました。
でも、おじょうちゃんが怒るとこわいな――と、赤とんぼは頭をかたげました。
けど、とうとう、おじょうちゃんが前へ来たとき、赤とんぼは、おじょうちゃんの赤いリボンに飛びうつりました。
「あッ、おじょうさん、帽子に赤とんぼがとまりましたよ。」と、書生さんがさけびました。
赤とんぼは、今におじょうちゃんの手が、自分をつかまえに来やしないかと思って、すぐ飛ぶ用意をしました。
しかし、おじょうちゃんは、赤とんぼをつかまえようともせず、
「まア、あたしの帽子に! うれしいわ!」といって、うれしさに跳び上がりました。
つばくらが、風のようにかけて行きます。かあいいおじょうちゃんは、今まで空家だったその家に住みこみました。もちろん、お母さんや書生さんもいっしょです。
赤とんぼは、今日も空をまわっています。
夕陽が、その羽をいっそう赤くしています。「とんぼとんぼ
赤とんぼ
すすきの中は
あぶないよ」あどけない声で、こんな歌をうたっているのが、聞こえて来ました。
赤とんぼは、あのおじょうちゃんだろうと思って、そのまま、声のする方へ飛んで行きました。
思った通り、うたってるのは、あのおじょうちゃんでした。
おじょうちゃんは、庭で行水をしながら、一人うたってたのです。
赤とんぼが、頭の上へ来ると、おじょうちゃんは、持ってたおもちゃの金魚をにぎったまま、
「あたしの赤とんぼ!」とさけんで、両手を高くさし上げました。
赤とんぼは、とても愉快です。
書生さんが、シャボンを持ってやって来ました。
「おじょうさん、背中を洗いましょうか?」
「いや――」
「だって――」
「いや! いや! お母さんでなくっちゃ――」
「困ったおじょうさん。」
書生さんは、頭をかきながら歩き出しましたが、朝顔の葉にとまって、ふたりの話をきいてる赤とんぼを見つけると、右手を大きくグルーッと一回まわしました。
妙な事をするな――と思って、赤とんぼはその指先を見ていました。
つづけて、グルグルと書生さんは右手をまわします。そして、だんだん、その円を小さくして赤とんぼに近づいて来ます。
赤とんぼは、大きな眼をギョロギョロ動かして、書生さんの指先をみつめています。
だんだん、円は小さく近く、そして早くまわって来ます。
赤とんぼは、眼まいをしてしまいました。
つぎの瞬間、赤とんぼは、書生さんの大きな指にはさまれていました。
「おじょうさん、赤とんぼをつかまえましたよ。あげましょうか?」
「ばか! あたしの赤とんぼをつかまえたりなんかして――山田のばか!」
おじょうちゃんは、口をとがらして、湯を書生さんにぶっかけました。
書生さんは、赤とんぼをはなして逃げて行きました。
赤とんぼは、ホッとして空へ飛び上がりました。良いおじょうちゃんだな、と思いながら――空は真青に晴れています。どこまでも澄んでいます。
赤とんぼは、窓に羽を休めて、書生さんのお話に耳をかたむけています、かあいいおじょうちゃんと同じように。
「それからね、そのとんぼは、怒って大蜘蛛のやつにくいかかりました。くいつかれた大蜘蛛は、痛い! 痛い! 助けてくれってね、大声にさけんだのですよ。すると、出て来たわ、出て来たわ、小さな蜘蛛が、雲のように出て来ました。けれども、とんぼは、もともと強いんですから、片端から蜘蛛にくいついて、とうとう一匹残らず殺してしまいました。ホッとしてそのとんぼが、自分の姿を見ると、これはまあどうでしょう、蜘蛛の血が、まっかについてるじゃありませんか。さあ大変だって、とんぼは、泉へ飛んで行って、からだを洗いました。が、赤い血はちっともとれません。で、神様にお願いしてみると、お前は、罪の無い蜘蛛をたくさん殺したから、そのたたりでそんなになったんだと、叱られてしまいました。そのとんぼが今の赤とんぼなんですよ。だから、赤とんぼは良くないとんぼです。」
書生さんのお話は終わりました。
私は、そんな酷い事をしたおぼえはないがと、赤とんぼが、首をひねって考えましたとき、おじょうちゃんが大声でさけびました。
「嘘だ嘘だ! 山田のお話は、みんな嘘だよ。あんなかあいらしい赤とんぼが、そんな酷い事をするなんて、蜘蛛の赤血だなんて――みんな嘘だよ。」
赤とんぼは、真実にうれしく思いました。
例の書生さんは、顔をあかくして行ってしまいました。
窓から離れて、赤とんぼは、おじょうちゃんの肩につかまりました。
「まア! あたしの赤とんぼ! かあいい赤とんぼ!」
おじょうちゃんの瞳は、黒く澄んでいました。
暑かった夏は、いつの間にかすぎさってしまいました。
朝顔は、垣根にまきついたまま、しおれました。
鈴虫が、涼しい声でなくようになりました。
今日も、赤とんぼは、おじょうちゃんに会いにやって来ました。
赤とんぼは、ちょっとびっくりしました。それは、いつも開いている窓が、皆しまっているからです。
どうしたのかしら? と、赤とんぼが考えたとき、玄関から誰か跳び出して来ました。
おじょうちゃんです。あのかあいいおじょうちゃんです。
けれども、今日のおじょうちゃんは、悲しい顔つきでした。そして、この別荘へはじめて来たときかぶってた、赤いリボンの帽子を着け、きれいな服を着ていました。
赤とんぼはいつものように飛んで行って、おじょうちゃんの肩にとまりました。
「あたしの赤とんぼ……かあいい赤とんぼ……あたし、東京へ帰るのよ、もうお別れよ。」
おじょうちゃんは、小さい細い声で泣くように言いました。
赤とんぼは悲しくなりました。自分もおじょうちゃんといっしょに東京へ行きたいなと思いました。
そのとき、おじょうちゃんのお母さんと、赤とんぼにいたずらをした書生さんが、出てまいりました。
「ではまいりましょう。」
皆、歩き出しました。
赤とんぼは、やがておじょうちゃんの肩を離れて、垣根の竹の先にうつりました。
「あたしの赤とんぼよ、さようなら――」
かあいいおじょうちゃんは、なんべんもふりかえっていいました。
けど、とうとう、皆の姿は見えなくなってしまったのです。
もう、これからは、この家は空家になるのかな――赤とんぼは、しずかに首をかたむけました。淋しい秋の夕方など、赤とんぼは、尾花の穂先にとまって、あのかあいいおじょうちゃんを思い出しています。
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新美南吉「鍛冶屋の子」駒形恵美朗読
11.70
Sep 05, 2017何時まで経つてもちつとも開けて行かない、海岸から遠い傾いた町なんだ。
――街路はせまい、いつでも黒くきたない、両側にぎつしり家が並んでゐる、ひさしに白いほこりが、にぶい太陽の光にさらされてゐる、通る人は太陽を知らない人が多い、そしてみんな麻ひしてゐる様だ――
新次は鍛冶屋にのんだくれの男を父として育つた少年であつた。母は彼の幼い時に逝つた。兄があつたが、馬鹿で、もういゝ年をしてゐたが、ほんの子供の様な着物をつけて、附近の子供と遊んでばかしゐた。兄の名は馬右エ門と云つた。併し誰も馬右エ門と云はず、「馬」と呼んだ。
「馬、お前は利口かい」
「利口だ」
「何になるんだ」
「大将」
小い少年が、訊ねるのに対して、笑はれるとも知らないでまじめに答へてゐる兄を見る時、新次は情なくなつた。兄はよく着物をよごして来た。小い少年にだまされて、溝なんかに落ちたのであつた。その度に新次は着物を洗濯せなければならなかつた。
「兄さん」新次がかう呼びかけても馬右エ門は答へないのを知つてゐたけれど(馬右エ門は誰からでも「馬」と呼ばれない限り返事をしなかつた)度々かう呼びかけた。がやはりきよろんとしてゐて答へない兄を見ると、「兄さん」と云ふと「おい」と答へる兄をどんなに羨しく思つた事か。
新次は去年小学校を卒業して、今は、父の仕事をたすけ、一方、主婦の仕事を一切しなければならなかつたのである。何時でも彼は、彼の家庭の溝の中の様に暗く、そしてすつぱい事を考へた。
炊事を終へて、黒くひかつてゐる冷たいふとんにもぐつてから、こんな事をよく思つた――
せめておつ母が生きてゐて呉れたらナ。せめて馬右エ門がも少ししつかりしてゐてお父つあんの鎚を握つてくれたらナ、
せめてお父つあんが酒をよしてくれたらナ――
けれど、直、「そんな事が叶つたら世の中の人は皆幸福になつて了ふではないか」とすてた様にひとり笑つた。
まつたくのんだくれの父だつた。仕事をしてゐる最中でもふらふらと出て行つては、やがて青い顔をして眼を据へて帰つて来た。酒をのめばのむ程、彼は青くなり、眼はどろーんと沈澱して了ふ彼の性癖であつた。葬式なんかに招かれた時でも、彼は、がぶがぶと呑んでは、愁に沈んでゐる人々に、とんでもない事をぶつかける為、町の人々は、彼をもてあましてゐた。彼は六十に近い老人で、丈はずばぬけて高かつた。そして、酒を呑んだ時は必つとふとんをかぶつて眠つた。併し、大きないびきなんか決して出さなかつた。死んだ様に眠つてゐては、時々眼ざめてしくしく泣いた。そんな時など、新次はことにくらくされた。
学校の先生が、一度新次の家に来た時、若い先生は、酒の身躯によくない事を説いた。新次の父は、
「酒は毒です、大変毒です、私はやめ様と思ひます、まつたくうまくないです、苦いです、私はやめ様と思ひます、それでもやつぱりあかんです」と云つて、空虚な声で「ハッハッハッ」と笑つた。
馬右エ門がふいと帰つて来て、鉄柵にする太い手頃の鉄棒を一本ひつぱり出して、黙つて火の中にさし込んだ。一人で仕事をしてゐた新次は不思議に思つてするがまゝにして置いた。真赤になつた棒を、馬右エ門は叩き始めた。鎚をふり下さうとする瞬間瞬間に、赤くやけたくびの筋肉がぐつとしまるのを、新次はうれしく思つて見つめてゐた。手拭を力一ぱいしぼる様な快さが新次の体の中を流れた。馬右エ門にだつて力があるんだ! 力が!――
「何を造るんけ?」
「がだな」よだれの中から馬右エ門は云つた。
「かたな? かたなみたいなものを」
木の実だと思つて拾つたのがやつぱりからにすぎなかつた時の様に新次は感じた。ふと、思切りなぐりつけてやらうかと思つたが、ぼんやりして、馬右エ門のむくれ上るくびを見てゐた。
町の横を通る電車道の工事に多くの朝鮮人がこの町にやつて来て、鍛冶の仕事が増して来ると、新次の家も幾分活気づいた。
父も新次もよく働いた。けれど、父は依然として酒にひたつた。
「お父つあん、ちつと酒をひかへてくれよ、酒は毒だで、そして仕事もはかどらんで」
新次は、父に云つた。
「まつたく酒は毒だ、酒は苦い、けれど俺はやめられん、きさまは酒のむ様になるなよ」父は云つた。
ふつと眼を開いて見ると、すゝけた神棚の下で、酒を飲んでゐる馬右エ門の姿が、五燭の赤い電燈の光に見えた。新次は、泥棒を見つけた以上にはつとして、頭が白くなる様な悪寒に近い或物におそはれた。馬鹿に静かな赤い光の中に、馬右エ門ののどがごくごく動いた。少し今夜は具合が悪いと云つて、父が残して置いた酒の徳利を馬右エ門の左手はしつかり掴んでゐた。
「馬エ!」
新次のすぐ隣に今まで寝てゐた父が、むつくり頭を拾げた。
馬右エ門は、
「うッ」と赤い顔をこちらへ向けて、しまりのない口を見せた。
父のせーせーと肩を上下して呼吸してゐるのが新次には恐ろしかつた。父の眼は、ぢつと白痴の馬右エ門を見つめ、静脈のはつきり現はれてゐる手はわなゝいてゐた。
「馬エ、おぬしは酒を飲むか――」父はふらふらと立上つて馬右エ門に近づいた。
「この野郎!」父は叫んで、ニヤニヤしてゐる馬右エ門の横面にガンとくらはせた。馬右エ門は笑ふのをハタと止めた。父の苦しげな呼吸はますます烈しくなつた。
そして又、殴らうとした。新次は我知らず跳出して行つて、父を止めた。
「お父つあん、馬は阿呆ぢやねえか、打つたつてあかんだ」
父は眼を落して、
「ん、馬エは阿呆だつたナ」とふるへ声で云つて、元の寝床へ帰つて、ふとんをかむつて了つた。その騒ぎで酒はこぼれて了つたので、馬右エ門も床に這入つた。新次は一寸片付けて、ふとんにむぐり込んだけれど、どうしても眠られなかつた。
「新」父が小い声で呼んだ。
「ん」
「俺あ酒を止めるぞ」ふとんの中から云つた。
父は酒を飲まなくなつて了つた。併し、それからは何処か加減が悪くて床を出られなくなつた。
新次は、一人で鎚をふりあげた。父は眼立つて面やつれがして行つた。それでも、日ごろ酒の為没交渉の父には、見舞に来て呉れる人とては一人となかつた。
鎚をふりあげ乍ら、新次は、父はこのまゝ死んで了ふのではないかしらと思つた。――父が死んだらどうするのだ、馬右エ門は白痴だし――
酒を買つて来た新次が、父の枕元に坐つて、
「お父つあん」と呼んだ。父は重たげに首をうごかして、
「ん」と答へた。
「酒買つて来たで飲んでくれよ」
「酒を買つて来た? 新、何故酒なんか買つて来たんだ」
力のない声で、新次を叱つたけれど、父は、きらりと涙を光らした。
「お父つあん飲んでくれよ」
新次は、そつと父の枕元を去つて、仕事場へ来ると、黒い柱に顔をすりつけて泣いた。泣いた。
何時まで経つてもちつとも開けて行かない海岸から遠い傾いた町なんだ。